第8話 歌う気分にはなれない
俺は真っ昼間からカラオケボックスに来ている。
歌を歌おうと思えば歌うことは可能だけど、とても歌を歌う気分にはなれない。
俺の前のソファーには、浮気相手がオドオドとした態度で座ってやがるし、俺の隣には無表情の妻が座っているんだ。
まさかカラオケボックスで、浮気の示談交渉をするとは思わなかった。
確かに密室ではあるけど、ここが相応しい場所と俺にはとうてい思えない。
浮気野郎がカラオケボックスの床に両手をついて、俺に土下座で謝ってきた。
その行動を正面から見せられている妻は、顔を
この位置関係は妻の想定外だったのだろう。
ははっ、浮気した妻がその相手から、土下座で謝られている構図にしか見えない。
浮気したくせに、妻は自分の過ちを少しも
あんたは何様なんだと言われてもしょうがない。
妻も慌てて俺に土下座をしようとするのだが、浮気野郎と並ぶのは
高い場所と横からでは土下座の効果は半減するし、普段は冷静な妻がオロオロとかなり焦った表情をしていたのが、何だかすごく
実際に「ふふっ」と笑い声が、少し出てしまったような気もした。
「もう、顔を上げてください。 それより、パパパッとやってしまいましょう」
俺は浮気野郎に、こんなことに時間をかけたくないって言う感情を伝える。
妻はこの男に何の未練も感じていないみたいだし、フニャパンだけど一発は殴ってやったから、もう怒りはこの男に持っていないんだ。
「こほん」とわざとらしい咳をした後、妻が素案を作り俺が
麗しい夫婦での共同作業とはとても言えないし、体を交わした男へこんなに冷たい声が出せるのかと、一瞬自分の立場を忘れて考えされられてしまう。
浮気相手はどこにでもいそうな、俺と同じくらいに平凡なサラリーマンだ。
殴った俺と、男女の仲になった妻を前にして、コイツの頭の中には今何が
俺と浮気相手が、それぞれ同じ念書に
浮気相手がカラオケボックスは出て行く時に、もう一度「妻には絶対秘密にしてくださいね」と言って足早に出ていった。
浮気相手から聞いた言葉は、「妻には秘密にしてください」しか無かった気もするな。
公正証書ではないこの念書が、どこまで法的な拘束力があるのか知らないけど、どこまでも妻に嘘をつき通すのなら、文書にしない方が良かったのでは無いかと思ってしまう。
この念書、浮気の決定的な証拠だぞ。
「妻に言うなと言っていたけど、会社や親には言っても良いのかな」
「ダメですよ。 理屈をこねて約束を破るのは、〈あなた〉にとっても良くないです」
妻はずっと法律事務所の事務員みたいだったな、まるで浮気に関係していないような感じに見えた。
「君はずっと冷静だったな、まるで当事者じゃないみたいだったよ」
「えっ、当事者ですよ、今頃なんですか」
「相手にえらく冷たくなかった」
「えぇっと、そういう行為はしましたけど、特別な感情は持っていません。 交渉している時に変人だと言われましたけど、〈あなた〉はどう思います」
完璧に変人だよ。
結婚までしているのに、浮気をされるまで俺は見抜けなかったよ、浮気相手の方が短時間で分かったようだな、俺の観察力が
「まだ時間はあるし、何か歌ってみる」
「〈あなた〉に許されるまでは、とてもそんな気分になれませんよ」
月曜日の駅前はもう日が落ちて、家路を急ぐ人やこれから飲もうとする人が、俺の行く
向こう側に見える〈れいか〉さんが手を小さく振っているから、一刻も早く行かなければならないのに、世の中はままならないものだな。
「ごめんなさい。 待たせてしまったね」
「ふふっ、少し前に来たとこよ。 待ち合わせの前に来て、来るか来ないか、もう来るかなと、ドキドキして待つのが好きなんだ」
こんなに人通りが多い場所で、〈れいか〉さんが俺の手を胸に持って行くのかと少し焦ったけど、〈れいか〉さんは俺の腕に自分の腕を絡めただけだった。
〈れいか〉さんの胸は大きいから、心臓の鼓動はもちろん聴こえてはこない。
香水と
今日入ったラブホテルは、少し値段の高いとこだったので、浴室が広くて豪華だった。
そうなると俺と〈れいか〉さんは、一緒にお風呂へ入ることになる。
裸の〈れいか〉さんを後ろから抱きながら、湯船に浸かっていると、〈れいか〉さんが自分を笑うよう声でポツリポツリと話し出した。
「夫と最後にしたのは、温泉旅館だったわ。 家族風呂に一緒に入ったんだ。 一緒に入るのは久しぶりだったのよ」
そんなことを言いながら〈れいか〉さんは、俺の手を自分の胸まで動かして、俺の方へ顔を向けてきた。
胸を揉まれながら、キスして欲しいってことだろう。
俺は〈れいか〉さんの意図に従いながら、どうして別れた夫のことを、
俺に向けて呟いたのか、自分に向かってなのか、両方なんだろうな。
今日は上の方が良いと〈れいか〉さんが言ったから、俺は下から〈れいか〉さんの胸を持ち上げるように揉んでいたと思う。
〈れいか〉さんは
終わった後に浴室で互いの体を洗っていたのだが、まだ
〈れいか〉さんは「この体勢は嫌なの」と抗議をしていたけど、俺は止まることが出来ない。
〈れいか〉さんの
鏡に映った〈れいか〉さんは、涙を流していたかも知れない。
裸で二本目のビールを飲みながら、「最後に夫とした時と同じだから、して欲しくなかったな」と悲しそうに
思い出したくもない嫌な記憶なのか、元夫との良い思い出を
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