第3話 裏切るものだった

 寝室は一緒だけどベッドは別だから、俺はベッドで寝たのだが、妻はリビングで一晩中起きていたようだ。


 朝起きたらいつものように朝食が用意されていたけど、俺は食べる気がしなかったし、これを食べたら負けのようにも思う。


 「食べる気はしないし、夕食は外で済ますよ」


 俺は身支度を整えて、直ぐにマンションを出たんだが、「私は今日会社を休むね」と言っている妻の顔を見ないようにした。

 朝から嫌な気分に、なりたくはない。


 「集中」「集中」と呟きなから仕事をすると、自己暗示が効いたのか思ったよりも仕事に取り組むことが出来て、課長にも「おっ、今日はすごく頑張っているな」と褒められてしまったよ。

 一生連れ添うと決めた人生のパートナーを失ったのだから、仕事まで失う訳にはいかないんだ。

 一生懸命に頑張って、会社の皆に認めてほしい、君がいないと困ると言われたいものだな。


 仕事を終えて牛丼屋で夕食を済ましたが、マンションへ帰るのがとても憂鬱ゆううつで足が動くのを嫌がっている。


 浮気された被害者の方が、どうしてこんな気分を味わなくては、いけないんだ。

 すっぱりと離婚してくれたら、こんなに悩まなくても済むのに。


 妻はまた同じように口先だけのことを言うのだろう、それを俺が屁理屈へりくつみたいな論理でグチグチと返すのか、もう直ぐ頭の中が腐ってくるぞ。


 お風呂に入り、買ってきたペットボトルのお茶をリビングで飲んでいると、風呂上がりの妻がバスタオル一枚の姿で俺に近づいてきた。


 おいおい、夫婦なのに色仕掛けをしようってことか、俺に抱かせて浮気の件を有耶無耶うやむやにしようって魂胆こんたんか。

 俺が呆れたように妻を見ていると、思った通り妻はバスタオルを床に落として、全裸になって俺の正面に立っている。


 だけど妻の口から発せられた言葉は、俺の予想を裏切るものだった。


 「〈あなた〉に具体的と言われましたので、必死に考えたのですが、こんなことしか浮かばなかったのです。 どうか、このマジックで私の体に〈あなた〉専用と大きく書いてください」


 妻は恥ずかしがって顔を赤くするのでは無く、ど真剣な表情で俺に下腹部を突き出してくる。

 あの部分の近くに書けと言う意図なんだろう。


 極太の黒いマジックを渡された俺は、想像の遥か斜め上を行く展開に、マジックを固く握りしめたまま思考が止まり固まってしまう。


 「そのマジックで私のアソコの周りに、毎日名前を書いてほしいのです。 毎日が大変なら、〈あなた〉の名前をってタトゥーしたいと思っています」


 俺は思考停止におちいっていたのか、バカバカしいほどの真剣さに気圧けおされたのか、妻の下腹部に自分の名前を書いてしまった。

 それも書きにくかったので、中途半端な大きさの文字だ。


 「うふふ、これで私はもう浮気が出来なくなりました」


 ここで笑うのかよ、かなり引いてしまうぞ。

 それに完璧なようなことを言っているが、そうでもないと思うな。


 「いや、世の中には人妻好きも多いからな。 うばってやったとかえって燃えるヤツもいるんじゃないかな」


 「えぇー、そうなの」


 「そうだと思うよ」


 「ふぅー、もう浮気をしないと立証りっしょうするのは、すごく難しいね」


 妻はかなり落胆らくたんしたんだろう、肩を落として寝室の方へ歩いていった。

 俺は先制パンチを食らったみたいになり、すでに疲労困憊ひろうこんばいだ。


 パジャマを着た妻が、俺の前に座って昨日の続きを話したいと言ってくる。

 俺は軽くうなづくだけだ、一刻も早くこんな状況から脱したいと強く思う。


  「私は〈あなた〉と付き合う前に、一人だけ付き合った人がいるのですが、その人とは五回しかあの行為は無かったのです。 相手も初めてだったからか、相性が悪かったのか、ただ痛いだけでした」


 「えっ、そんな前のことが今度の浮気と関係あるの」


 「まだ続きがあります。 続けても良いですか」


 俺は力なく頷くことしか出来なかった。


 「〈あなた〉との結婚を決めたのも、あの行為に満足出来たのが大きかったのです。   本当に愛している人とするのは、こんなに違うんだと嬉しかったな。 私達、たぶん二百回以上しているよね。 でも私は本当にバカなことを考えてしまったの」


 ここで妻は喉が渇いたのか、言いにくい箇所に差し掛かるためか、ペットボトルのお茶をゴクリと飲んだ。

 でもそのお茶は俺のだぞ、まだ夫婦とはいえ、勝手に飲むなよと思う。


 「私は他の人とはどうかと、気になりだして、それを実行してしまいました。 好奇心でどうしても試したくなってしまったのです。 バレなければ何ということもないとも思っていました。 浮気は一回だけで止めるつもりだったのですが、背徳感とスリルで脳が痺れるようにゾクゾクとしてしまい、二回、三回と続けてしまったのです。 だけど人間って直ぐに刺激に慣れてしまうのですね。 二回、三回と続けるたびに段々と最初のようにはゾクゾクとしなくなったので、最初に決めたとおり五回で止めるつもりでした。 だから浮気相手のことは、少しも愛してはいません、好奇心を満たしただけで、そこそこの人なら誰でも良かったのです。 愛しているのはあなただけなのは、嘘じゃないです」


 妻が淡々と話す内容を聞いていたが、ようは俺との行為に不満が溜まったのか、飽きたから他の男で試したってことだろう。

 コイツは性欲を持て余しているから、やっぱりまた浮気をしそうだ。


 「聞いていたら、えらく軽い気持ちで浮気をしたんだな。 俺のことは頭に浮かばなかったのか」


 「浮かびました。 浮気している間、ずっと〈あなた〉のことが頭から離れませんでした。 それですごい背徳感とスリルを覚えたのだと思います。 だけど、三回目ではゾクゾクする気持ちは少しだけになり、〈あなた〉への罪悪感がとても強くなっていました」


 「ならどうして、三回目で止めなかったんだ」


 「それは、最初の時に相手の人と、五回と決めていたからです。 向こうは赤ちゃんが生まれたばかりのため奥さんと行為がまだ出来ないから、その間だけの遊びだと言っていました。 私はこれなら後を引かいないで、安心して試せると思ったのです」


 「えぇー、浮気相手との約束が優先なのか」


 「うっ、そう思われても仕方がありませんね。 五回も三回も変わらないと思っていたのは事実です。 一生で一回の機会だからとも思っていました」


 「はぁー、俺と離婚したら、一生で何回も試せるだろう。 他の男としたいのなら、その方が良いじゃないのか。 独身なら自由に出来るだろう。 もっとゾクゾクする相手と出会えることも出来るんじゃないか」


 「私がゾクゾクすることは、もうありません。 一回目ではそうなりましたが、同じことを繰り返しても耐性がついてしまっているので、普通の行為ともうあまり変わりはないと思います。 それに二回目の浮気をすれば、今度こそ離婚になります。 愛している人を裏切っているからこそ、背徳感とスリルが得られるのですから、愛している〈あなた〉と別れたら私には何にも残りません。 だからもう浮気はしないと断言出来ます」


 「何だか聞いていると、君は好奇心を満たして、俺が与えられなかったゾクゾクとした快感を得たが、好奇心はもう満たされて、ゾクゾクとした快感も得られそうにないから、俺で我慢してあげるって言っているようだな」


 「はっ、それは違うよ。 〈あなた〉は私に、じんわりと暖かい気持ち良さを与えてくれているわ。 それはあなたしか、出来ないことなのよ」


 「はっ、じんわりか、それはあんまり気持ちが良くないってことなんだろう」


 「うぅ、ごめんなさい。 言い方が悪かったわ。 気持ちはすごく良いのよ、だけどいつもだから、一時的なものじゃないっていう意味で言ったのよ」


 「ふっ、俺との行為を拒絶したのは、俺じゃ物足りないからだろう」


 「はぁ、拒絶はしなかったじゃない。 しばらく待ってよって言ったわ。 五回浮気する間は、〈あなた〉とするのは、〈あなた〉に悪いと思ったの。 違う人とした直ぐ後じゃ嫌だと思ったのよ。 でも〈あなた〉をすごく傷つけていたのが、今になって良く分かったわ。 〈あなた〉をこんなに愛しているだから、少しくらいのことは許してもらえると思い込んでいたの」


 「ふぅー、君は俺が傷つくことより、自分の欲望を満たすことを優先したんだよ」


 「うぅ、その通りです。 私は〈あなた〉にひどいことをしてしまいました。だけど〈あなた〉と別れたくはありません。これではあまりに不公平だと思いますので、〈あなた〉も浮気をしてください」

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