「私」の春時雨。

 3月16日


 雨が降っていた。

 早起きをしてセットしたはずの髪の毛はあちこちへはねていて、電車の窓に映る私はまるで寝起きのような姿だった。自分の名前が「雨」であることが今は少しだけ嫌になる。


 本当は出直したいくらいだが、この電車を降りてしまうと、先輩の卒業式には到底間に合わないのでそれは避けたい。仕方がないので、コームと手鏡を取り出し最大限の抵抗をしてみたが、手鏡に映る私に変わりはなかった。


 幾つか電車を乗り継ぎ、学校に着いた。教室は妙に静まり返っていて、ここだけが世界から忘れ去られてしまったかのようだ。


 卒業式が終わるころを狙って学校へ来たので、思っていたよりも早く先輩は教室にやってきた。いつも通りの柔らかい笑みを浮かべて…、大好きなその笑顔に不意に心臓が跳ねる。

 

 「先輩。わざわざ時間を作って来てくださって…ありがとうございます」


 緊張のせいか、いつも以上に堅苦しい言葉ばかりを使ってしまう。


 「いえいえ。僕も会いたかったからそんなかしこまらなくていいよ」


 会いたかったってどういう意味ですか…、と問いたくなってしまう自分を抑え、本題に入る。


 「私、、、先輩のことが、、、、、、」


 そう言いかけてやめたのは先輩がどうしようもないくらい切ない表情をしていたからだ。

 今までにない笑顔だった。


 先輩…。大好きです。

 心の中でひとり呟いたが、返答はない。

 

 「先輩…。私、先輩が紡ぐ言葉が好きなんです。物語が大好きなんです。だから…また読ませてください。」


 そう伝えると、少し照れ臭そうにしながら、先輩は、いつも通りの笑顔を浮かべた。


 「ありがとう。ちょうど卒業制作の小説を書き終えたところなんだ。楽しみにしててね」


 そう言って先輩ははにかんだ。それは私の大好きな笑顔そのものだった。

 

 本当は先輩の言葉だけじゃなくて、先輩のことが大好きだと伝えたかった。でも、伝えてしまったら先輩はきっと困ってしまう。だから私は伝えない。


 でも、、、いつか私のことを女の子として見てくださいね。

 口には出さない思いを胸にしまい、笑顔をつくってから、楽しみにしていますと伝えた。


 私の好きな笑顔を見るのもこれが最後だと思うと、どうしようもなく切なかった。けれど、これでいい。


 また、いつか会えたら、今日の話を笑って話せるといいな。


 じゃあねと言って去る先輩の後ろ姿を見ながら泣きそうになる。けれど、先輩の前では笑っていたい。視界が歪んでくるのが自分でもわかる。

 

 「先輩、ありがとうございました!」


 振り絞って声を出す。最後に先輩に伝えたかった。先輩は一度振り返った。

 

 「こちらこそありがとう」


 最後に笑顔でそう言った先輩の瞳が煌めいて見えたのはきっと気のせい。


 

 「先輩に出会えて良かったです。大好きでした」

 

 先輩の背中が見えなくなった廊下に向かって、1人呟いた。


 雨が降っていた。

 

 まるで私を慰めているかのようだった。


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