四時間目の人魚

翠雪

四時間目の人魚

「ねえ。そこの、壁のお花さん」


 つまらなそうに振り向いた彼女は、胸より上を籠る大気に、下を塩素くさい水に浸けていた。紫外線カット——なんて気は効いていないだろう天窓から注がれる陽光が、二十五メートル幅のプールの水面で揺れている。水中に据えられた排水口の奥では、人工と自然の明かりが交錯して、どれがどちらか分からない。なみなみ張られた透明を蹴る四時間目は、あと十分もしないうちに、非情な終わりを告げられることだろう。


 眼前の少女が身に纏っているのは、セパレートタイプの水着である。脚部は太腿をほとんど覆い、二の腕にもぴったりと布が沿わされている。他の生徒もおおよそ似たような形の紺か黒に染まっており、五、六人のグループで固まっている辺りなどは、小学校低学年の頃に教科書で読んだ、一匹の大魚を装う魚群のようにも見える。やり過ぎなくらいに水をかけあう賑やかな手合いと、ぼくの眼前に佇む美しいひととでは、辺りに漂う空気がまるで違う。ボール遊びや潜水をして遊ぶ趣味もないらしく、授業の終盤に必ず設けられる自由時間には、ひと気の少ない波打ち際に寄りかかっているのが、彼女の常だった。


「なんだよ。暇つぶしか?」


 あらかじめキャップとゴーグルを外してある、素のままで仰がれる下からの視線と、陸上から声をかける己のそれとがかち合った。視界を遮る湿った毛束を、いかにも邪魔そうにかきあげた彼女の素振りに、ぼくの目は釘付けになる。澄んだ瞳の上側には、濡れた睫毛の影が落ちていた。


「テストで十分泳いだし、今日はもういいかなって」


 ぱしゃり。

 隣のレーンで立った波が、彼女の鎖骨に打ち寄せる。


「ふうん」


 クラスメイトという特等席で、稜線すらも拾えるきみを見ている。本人の性質が変わったわけでもないのに、雑談にすら教室では不要な勇気がいるとは、まったく自分でも情けない。今のぼくは、上半身を空気に晒している。好意の印を簡単に聞かれてしまいそうで、密かにみぞおちが緊張した。さばけた彼女への片想いは、二年目の記録を更新中だ。初めての恋をひた隠すのも、段々と上手になってきた。


「きみも、上がっておいでよ」


 プールを見遣った少女の目が、何を捉えようとしていたのかは、知りようがない。数拍の後に了承の応えを賜り、思わず頬が緩む。白いプラスチック、人肌と太陽で温まったタイルに両手をつき、ふくらはぎを揃えて伸び上がるそのさまは、人魚が岩辺に座る時の仕草と、きっと似ている。


 並の男子よりも身長が高いきみは、水が滴る体躯をもってして、いつも以上に人離れをしている。吊りがちな目元、気の強そうな眉、すらりと長い手足に、薄い身体。人間としてより、造形物として美しいと感じるのは、きっと自分だけではないはずだ。彼女のことをよく知らない人が口にする「話しかけにくそう」という感想は、この外見からして分からないでもない。が、なんてもったいないと呆れると同時に、むやみに近づくくらいなら、いっそずっと近づかなければいいとも思う。そうすれば、彼女が目立つ容姿をしていることを大義名分にすり替えた、本人に聞こえるところで囁かれる陰口も今以上には増えないし、ぼくが想い人と接する時間だって邪魔されない。付き合うどころか、気持ちを伝えてすらいないのに、独占欲だけは一丁前に抱く自分自身へ、一番の溜息が出そうになる。本当に吐き出しかけた二酸化炭素を、気管の奥へと飲み下す。


 しぶきを収め、合成樹脂の砂浜に腰を落ち着けた人魚に倣い、爪先から膝までを水中に差し入れる。半径十数センチからでしか視認できない、彼女の全身に刻まれた薄い傷跡については、ついぞ尋ねたことがない。


「腹減った。午後、寝そうだわ」


 軽く俯き、独り言のように呟く肩は、いかにも疲れたと言わんばかりに脱力している。伏せがちになった睫毛でたわむ雫が、深海から掘り出された宝石のように煌めいては、大きな水溜まりへと戻っていく。焦点までの道が交わらない二つの視線が、一方はかんばせへ、一方は水面へと注がれていた。


「ノートの提出があるけど、そっちは大丈夫なの」

「は? なにそれ」


 今にも船を漕がんばかりだった少女は、途端に歯切れのいい瞬きをした。その変わりようがおかしくて、可愛らしくて、堪えきれずにふきだしてしまう。彼女の眉間に、縦の皺が寄った。


「ごめん、ごめん。先週の金曜だったかな。先生はちゃんと予告していたよ」

「……とりあえず出しゃいいんだよ、出しゃ」

「もう、不良だなぁ」


 この場を牛耳る唯一の大人が、壁に固定されている簡素な時計を見た。そろそろ、喉仏のある首から提げたホイッスルへ、節くれだった右手をかけるつもりなのだろう。水槽の魚らは彼に一目もくれず、楽しげに遊び続けている。


 素手で触れた金魚はやけどで死ぬと、どこかで耳にしたことがあった。触れ合わずに並んでいるだけの自分の肌も、勝手に焼け焦げてしまいそうなのは、彼女が恒星めいたひと故か。あと少しで終わってしまう、大勢に紛れた二人の時間が、どうにも惜しくてたまらない。


「なあ」

「うん?」


 彼女に呼ばれるがまま、できるだけ朗らかに形作った顔を向ける。すると、間髪入れずに光の波が襲いかかってきたものだから、ぼくは瞬きすら忘れてしまった。なすすべもなく、それらは顔を中心とした上半身に直撃する。乾きかけていた癖っ毛が、勢いをなくして垂れ下がる。にんまりと両目を三日月にした彼女が、思いっきりプールの水をかけてきたのだと、塩素の匂いで気が付いた。汗と一緒に、生ぬるい透明が流れていく。


 ぼくがものも言えないうちに、ゴム製のブザーが握られた。放流を終えるための号令が、生徒のブーイングと共鳴する。紺と黒、それに薄橙が入り混じるキャンバスから、生物学上の性を基準に、数多の絵の具が分離していく。プールサイドでは、魚から人への進化が相次いだ。


 中途半端な人魚でいられたひとときも、もう終わり。学校では生徒の一員である二人は、大人に言われるがまま、すぐにでも人間へと戻らなければならない。


「また、教室で」


 彼女は、足の先まで水揚げして、ぺたぺたと扁平な音を鳴らしながら去っていく。取り残されたぼくはといえば、クラスメイトの男子に肩をつつかれても、しばらく動くことができなかった。太陽なんか比にならない、無邪気に眩しいあの笑みが、芯まで瞼に焼きついて。どくどくとけたたましい心臓を抑え、叫び出さないようにするだけで精一杯で、周りの音が遠くなる。不意に、光を集めて紙を焼く、理科の資料集に載せられた凸レンズの写真を思い出した。無意識に内側から輝いてみせる彼女のせいで、ぼくは全身丸焦げだ。


 もう一度、先ほどよりも長くブザーが鳴らされて、ようやくのろのろ進化する。重力の圧を気怠く感じながら、緩慢な足音を生む。向こう岸で整列する想われ人は、口元を覆わずに大きなあくびをしていた。

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四時間目の人魚 翠雪 @suisetu

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