第9章 同時代諸文書に描かれたユニウス

 ユニウス公の名前が歴史上初めて文字資料の中に現れるのは正教新暦816年のことである。ルロワ王家の家宰シャール・エネ・エン・ラブルの記した日記にその名が残っている。


 第9期当時の”国家”は現代の我々が想像するような国家ではない。意志決定機関が存在し、決定事項を実行する官僚組織を備え、何よりもそれらの構造全てを規定する成文法を持つ現代国家に比して、当時の”王国”は驚くほど属人的な存在であった。

 9期において「国」は「家」とほぼ同一視される。家の主が物事を決め、家の構成員がそれを実行する。各家には明文化されない非常に漠然とした家訓あるいは家風が存在し、当主は原則的にそれに沿った決断を下す。この形態は下は一自由民の家から上は王家に至るまで基本的には変わらない。

 ただし、現代よりも「家」が包含する範囲が著しく大きい。

 ルロワ王家において現代的な意味の「家」に相当するのは王と王妃、さらにその子ども達である。しかし当時の社会においては、数世代前に直系から枝分かれした親族の中で規模が小さいもの(大きいものはデルロワズ家のように独立諸侯化する)、さらに血縁関係にはない家臣もまた家の一員として認識される。現代の感覚で言うならば、資本家兼経営者一族を中心としてその下に多数の子会社を抱える巨大企業に近いものである。ルロワ家とはいわばルロワ会社なのだ。

 この会社の意志決定は資本家兼経営者一人の決断、あるいは一族の合議によってなされる。そして、その定められた意志を実行に移す従業員(子会社を含めた)の代表と呼べるのが「家宰」である。家宰という名前だけを見ると、第19期あたりの貴族家で召使いたちを束ねた執事を想像してしまうが、現代においてその実状と最も近いのは会社の(雇われ)経営陣であろう。

 ルロワが王家であることを考慮すると、ルロワの家宰の地位は現代でいうところの首相に等しい。では王族は何に当たるのか。議会制民主主義を採用する国々において、それは議会である。

 このような基本理解の元で「家宰の日記」を眺めると、それがただの「召使い頭の個人的な手記」などではありえないことが分かる。これはつまり、現代で言うところの官報と政府の公式発表を合わせたような意味を持つ代物なのだ。

 

 第9期初頭、ルロワ家の家宰職を占めたのは前述したシャール・エネ・エン・ラブルである。その姓が示すとおり歴とした領主だ。ラ(湖)・ブル(青い)の名は、彼の封領が中央山塊北部、つまりルロワ家領の南端に位置する湖畔地帯に存在したことを意味する。

 彼の日記の中にある以下の一節がユニウスの公的な出現の始まりである。

 

 ”アブルの月4月の25日、デルロワズ公庶子、王妃様の謁見を賜り家名呼称を許される。名乗りをユニウスとなす”


 この素っ気ない記述である。公式に記されたユニウスはデルロワズ公のである。そこには彼の半人としての生活を表す手がかりは何もない。

 分かることは一つだけだ。デルロワズ公庶子ユニウスという人物が新暦816年時点で実在した、という一点。当たり前のことに思われるかもしれないが、千年以上前に、ある特定の人間が実際に存在したことを証明するのはなかなかに難しいものなのだ。


 では、ユニウスと名乗る前の彼の姿を知るためには他にどのような術があろうか。これまで筆者はユニウス本人の『随想』を手がかりとして提示してきた。ただ、そもそも『随想』は彼の心理や思考に焦点を当てた作品である。彼と彼に「注がれた者達」が具体的に何をしたのかについて触れられた箇所は多くない。彼らの行動はあくまで状況証拠の積み重ねによる推測によって為されるしか道がないのである。

 そして、その貴重な状況証拠を提供してくれるのは、デルロワズ公家の家人達が残した様々な記録の断片である。




 <デルロワズ家文書に描かれたユニウスの痕跡>


 前章で示したとおり、ユニウスが最初の「注がれ」体験をしたのは彼が11歳の時であった。前掲ルロワ家宰手記より816年に彼の存在が、そして、より後年の記録から彼がマルグリテ女王と同年齢であることが分かっている。816年マルグリテ女王が20歳を迎えたことはその成人の式の記録から判明している。つまり、816年、20歳の彼を起点として9年遡った807年こそが、彼の「注がれ」、言い方を換えれば「半人から人への再誕」の年であった(この年代特定は1〜2年前後することが考えられる。ユニウスの生月を示す資料が存在しないためである)。


 この807年を起点として半人群における彼の活動を再構成していこう。

 これも前章に触れたと通り、注がれ体験を経た彼は周囲の人々に名付けを始める。それを受け入れた者たちはユニウスを中心とした一つの集団を形成した。その後、809年、ユニウスは大人達の一部を(おそらく)殺害し、半人頭となる。

 実はこの809年、ユニウスが13歳になったこの年、デルロワズ家側にはいくつかの興味深い記述が残っている。半人頭の交代から数ヶ月後、ユニウス達の群の飼育を担当した下級役人が上役に辞職を願い出ているのだ。「気狂いの感」とあることから、現代でいうところの神経症を患ったものと思われる。

 そのさらに数ヶ月後、ユニウス達の群に一人の正教僧が派遣されている。「願いを受けて」と付されているが、誰からのどのような願いなのかは書かれていない。


 そして翌810年、デルロワズ家の家宰の日記の中に驚くべき記述が登場する。


 ”若公、公城付属の「その地アンドル」を視察のこと”


 若公とは当時デルロワズの後継子であったジャン・エネ・エン・デルロワズを指す。810年、彼は成人を間近に控えた19歳である。当時の貴族子弟は16歳辺りから家業に加わり始める。そこで当主から実地で教育を受け、次代当主として必要な知識と人脈の基盤を形成するのが習わしだった。だからデルロワズ若公が領地の視察に赴くことは不自然ではない。ただし、その先が半人群でなければ。

 半人はある種の宗教的な存在である。そこには家畜のような利用価値がない。簡単な使役はあれど牛馬のごとく移動・運搬・耕作の用を為すことはなかったし、豚のように食用ともならなかった。ただ存在することだけが求められていた。

 当時の人々は半人の群を一種の聖域、あるいは禁忌の場のように見做している節がある。彼らの居住地が”その地アンドル”と「場所アンドル」を意味する一般名詞で示されていることからもそれが分かる。その名を呼びたくない「何か」なのだ。

 彼らの心性は我々にもごく自然に理解できる。

 読者諸兄も一つ想像してみて欲しい。

 どこか適当な平原に粗末な木造の長屋を連ね木の柵で囲われた町がある。そこには数百人程度の住民がいる。ちょっとした街だ。しかし、諸君がその街に一歩足を踏み入れたところから強烈な違和感を感じるはずだ。牧場で感じるのと同じ臭気が漂っている。

 鼻をつく刺激に半ば頭痛を覚えながら長屋の小道を歩く。進めど進めど住人と出会うことはない。

 好奇心を持って長屋の中をのぞき込んでみる。すると薄暗闇の中、藁山の上に人がうずくまっている。そこには五人いたとしよう。

 諸君は若干の恐怖を覚えながら、黒い肉塊のごとく身動きもしない彼らの元に歩み寄り、声をかけてみる。すると、闇の中、十個の煌めきが一斉に自分たちの方に向かってくる。しかし返事はない。垢と埃でほとんど黒くなった顔面の中に瞳だけが光るが、その中はがらんどうで焦点が合わない。

 半人群の内実を描いた文章は『随想』を除いてほぼ皆無であるため、考古学的研究と『随想』の一部記述から再構成した姿である。

 半人達は自分たちと姿形が全く変わらぬ存在でありながら、言葉は通じず、ただ獣のように佇んでいる。その様は恐らく地上に顕現した地獄として映ったことだろう。

 さらに古く「諸民族のうねり」の終盤においては人と半人が(人と家畜のごとく)同居していた可能性も指摘されているが、9期にもなると半人は群として隔離され人が接触することがない不浄の地となった。

 そんな場所に大諸侯の後継子がわざわざ出向くなど常識ではありえないことだった。だから、おそらくは常識を無視しても行かなければならない「なんらかの状況」が存在したはずである。


 翌811年にもいくつかの記録が残る。中でも重要なものをいくつか紹介したい。


 ”若公、第二公子とともに「その地アンドル」に向かわれる”


 若公は長子ジャン・エネ、第二公子とはデルロワズ家の次男バルデル・エン・デルロワズである。兄弟そろって半人群に向かったという。


 ”半人頭の登城は例無きこと。しかし、公子殿であれば故あらん”


 これは七月の記述であるが、半人頭がデルロワズ城に登ったという、家宰本人がまさにそう記した「不可思議」な事実が記録されている。半人頭の候補となるものは十歳になるまで主人の館で育成されるが、一度群に放たれたあと戻ることはありえなかった。

 また、この期を境に表記に微妙なぶれが現れ始める。文頭には「半人頭」とあるが、その後は「公子殿」と呼称される。一読するとこの公子殿はジャンあるいはバルデルのどちらかを指すように思われる。そう読み解いた場合「半人頭の登城という前代未聞の出来事があったが、(常識外れで愚かな)公子たちの指示というならば納得だ」という意味になる。しかし、ジャンとバルデルの兄弟は後世の活躍から考えて決して「常識外れ」「愚かな」といった評判が立つ愚鈍な人物ではなかった。少年期の記録にもそのような評は存在しない。

 となると、この「公子殿」と「半人頭」は同一人物を指している可能性が高い。この段階で家臣団の上層において半人頭が公子であるとの認識が生まれ始めたのだろう。


 ”公、半人頭殿と謁見のこと。二時ふたときの間あり”


 これは上述した登城から二週間ほど後の記録である。「公」は言うまでもなく当代のデルロワズ公ジュールを指す。重要なのは「半人頭」のあとに「殿シュー」という敬称が付されている点にある。この記述以後、「半人頭」に触れた文章は増えていくが、いずれも呼び名は「殿シュー」で固定されている。


 810年から811年の記述を整理してみよう。

 810年の初頭に、デルロワズ城近くの半人群で何らかの異変が起こった。

 その報告が下役から上役へとなされ、最終的にジャンが視察に向かった。後継子ジャンが向かったということは、その異変がかなり重大なものであったことを示している。

 その後、ジャンは弟を引き連れて再び半人群を訪れている。

 七月、当該群の頭がデルロワ城に呼び出され「公子」と認められるようになる。そしてついには当主ジュールとの会見を果たす。


 恐らくはこのような出来事があったのだろう。

 809年の段階でユニウスは「注いだもの達」の組織化をある程度達成した。

 組織を強靱なものにするための食料確保を意図して、当時の半人頭を含む複数人の成人を殺害している。その後、半人頭の死による頭の交代を担当の役人に伝えた。

 幾度かの接触の中で役人は精神を病む。例えば牧場で飼われる牛が三十頭ほど、人語を話し、人と同じように振る舞い始めたとしたら。牧場主はどう感じるだろう。おそらくその不条理に気が狂ってしまうはずだ。

 後任の役人にも彼らは同じような振る舞いを見せつけた。通常自我をほとんど持たない半人では決してありえない姿で。川で身体を清め、肉体を鍛錬し、深い思考を学び、互いに会話する児童達の集団である。


 交流の中でユニウスはいくつかの要望を役人に告げているはずだ。

 その一つが「僧の派遣」であったのだろう。

 これは恐らく文字教育を施してもらう意図を秘めていた。当時正教会は地上で唯一、半人を禁忌扱いしない組織であった。そして「諸民族のうねり」の中で消え去りかけた文字と書物を保存し続ける唯一の保管庫でもある。

 第9期、一部の高位貴族縁者や貴族家当主を除いて、読字書字の技能はまだほとんど広まっていなかった。そんな時代にあってユニウスの黒針鼠スール・ノワ部隊を指揮する幹部達は皆文字の読み書きができた。では彼らはいつ文字の読み書きを学んだのか。

 ユニウスも合わせて、この僧に学んだのであろう。


 これら「覚醒した半人」の存在は当然上役にも報告されたことだろう。その度に視察がなされ、僧からの聞き取りがなされ、最終的にデルロワズ公の周囲まで情報が上がった。

 デルロワズ公やその子どもたちにとって、この事件は領内で起こる他の事件とは性質が異なる重要性を秘めている。というのも、半人頭はデルロワズ公が半人の女を孕ませて生ませた存在、つまりデルロワズ公の子であり、兄弟達にとっては弟にあたる存在なのだ。

 当時の常識では半人達は魂を持たない獣である。身体的な差異ではなく「魂」と「魔力」が人と半人を分ける。そう人々は信じていた。では、「魂」と「魔力」を持った半人は半人と呼べるのか? 

 その疑問に直面したのが、最初に面会に赴いた長子ジャンであり、それに続いた次子バルデルであったことだろう。彼らとユニウスは幼時をともに過ごしている。幼時においてユニウスはまさに「魂」と「魔力」を持たぬ半人であったから、ジャン、バルデル兄弟は彼を獣として扱うことになんの抵抗も感じなかった。

 だから、14歳になったユニウスと再開したジャンは驚嘆したはずだ。『随想』の記述をできる限り低く見積もったとしても、当時のユニウスは同時代の一般人を明らかに超える思考力と組織力を有していた。組織力は技能アルテであると同時にその人個人の魅力でもある。

 後年のユニウスと実際に出会い、その印象を評した証言はいくつか残っているが、そのどれもが彼に「惹きつけられた」と異口同音の感想を抱いていることから、彼はある種の強い存在感、あるいは吸引力を有していたであろう。このような吸引力を当時の人々が表現した言葉が「魔力」である。

 そんな「魔力」を持った「人」を半人群に追いやり、汚濁の生活を強いたことに兄弟が強い罪悪感を抱いたであろうことは想像に難くない。彼らは当然「何らかの手違いがあった」と考える。

 最初からオンであったユニウスが、何らかの間違いによって半人デオンと取違われた。そうとしか考えようがなかった。

 半人デオンオンに変わるなど当時の感覚では考えられない。ましてや半人デオンオンの違いなどなどと。

 彼ら兄弟はユニウスを弟として受け入れ、父に報告する。そして父親ジュールもその不可思議な存在を目の当たりにしてユニウスをオンと認めた。何しろ彼の存在自体が証拠なのだから疑問の余地はなかった。


 このようにして、ユニウスは半人頭ユヌからデルロワズ公子ユニウスへとその身分を変えた。しかし、不思議なことにこの変化が正式に為されるのはさらにその後五年を待たなければならない。その間彼は一貫して「半人頭殿」であり続け、半人群に住み続けた。

 デルロワズ家側にその理由を書き示すものは残されていない。ただし、ユニウスの属する群への食料配給は明らかに変わった。従来の雑穀がゆだけではなく肉類も配給に加わったことが食糧台帳の記録から見て取れる。内容だけではなく量も変わっている。他の半人群の食料供給が減り、彼の群に加増されている。確証はないが、ユニウスは恐らく他の群からも彼の「注ぎ」を受け入れられるものたち、つまり少年少女達を集めたのだろう。

 さらに、少量ではあるが槍と弓矢の配給も行われた記録がある。

 つまり、デルロワズ家はユニウスによる「注ぎ」、半人への教育を認めていたのである。


『随想』や歴史上の彼の行動を考え合わせたとき、彼の目的は自分が大貴族の三男として何不自由なく暮らすことでは全くなかった。彼は「血」にも「身分」にもなんの意義も見出していない。自身の目的に使いやすい道具。それだけだった。

 ユニウスにとって「王侯」「貴族」「自由民」「半人」と、どのような区分けが為されていようが人はただの人であった。恐らくルロワ家の王女に対してさえそうだったのであろう。


 ユニウスにとって、同じものが違う扱い、それも著しく異なった扱いを受ける状況は「不正アンジュ」であった。その状態を是正することが彼の動力源であったとすれば、実行のための「力」を欲したのも当然であろう。


 何かを変えようとすると必ず何らかの抵抗にさらされることを彼は熟知していた。実際に変化を達成するためにさえ処分しているのだ。半人の境遇という不正を正すためならば、その不正を同じく受けるさえも手にかける。

 つまり、ユニウスは徹頭徹尾観念の人である。観念の為に、現実に生きる個を犠牲にすることをいとわない。

 素晴らしい観念を実現させるために、人々を地獄に引きずり込む。そんな出来事を我々は18期に経験してきた。

 革命である。


 革命は力を必要とする。変化を強制する力。それを彼は求めていたのだ。

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