第8章 デルロワズ公子とマルグリテ王女が再び出会うこと
王女の私室は広い。寝台には大人が四人ほど寝転がってもまだ余裕がある。その巨大な塊の先にはこれまた革の内張を施した豪奢な装飾の椅子が四脚、二つずつ対面して並んでいる。家族やごく親しい同性の友人を招く際に使用する簡易的な応接場である。
石積みの壁をくり抜いた小窓の側には典雅な装飾が施された木製の収納箱が置かれている。四段の引出をもったそれは、直立した女性の腰ほどの高さがある。
収納箱の天板は羅紗で飾られ、いくつかの小道具が並ぶ。
マルグリテがその一つ、銀の鏡を手に取った。
召し替えは既に大方済んだ。最後の仕上げである。
貴族庶民の別なく、成人女性の装いの基本形はほとんど変わらない。
オーヴェと呼ばれる貫頭衣を纏い、腰部を腰帯で締め上げる。肩から首にかけて四角い大判布を巻き、最後にそれを布留めで固定する。それだけだ。
女性達はこの簡素な形態の中に差異を作り出す。
腰帯はその太さ、色、素材と装飾で差別化がなされる。麻縄から麻布、綿、そして革。やわらかくなめされた革地に宝玉や金で飾られたものは一財産であり、それを身につける女性の富貴を示す象徴となる。
次に
重要なのは
流行はこのような権力構造の写し絵であるが、ただそれだけではない。年代によっても異なるのだ。少女と若い未婚女性、「奥方」と呼ばれる既婚女性、そして老婦人。それぞれに微妙な差異があり、それぞれの頂点があった。少女達にとって奥方の感覚は少し正統的過ぎると感じられた。有り体に言えば「古い」のである。そして奥方達もそれを自覚している。地位を持ち子を持つ彼女たちは流行の最先端を追うつもりはない。威厳やある種の貫禄が求められるからだ。
クリエ母后は「奥方」の頂点である。彼女がまだ未婚の頃、その流行は比較的派手好みだった。黄や明るい青、緑など、華やかな色が好まれた。その流行りはどこから来たのか。
彼女は流行に乗ったのではない。彼女こそが流行の源泉だったのだ。
王家の女は社会階梯の頂点に位置するがゆえに常に模倣の対象となる。母后の活発な性格や蠱惑的な仕草と合わさって、この派手好みは同世代の一世を風靡した。その嗜好は同世代に属する女性達が一様に歳を重ねる中で、乙女たちのものから奥方のものへと変容する。言葉を換えれば、当代の乙女達は母達の姿を少し正統的過ぎると見做しているともいえる。
では、現在の乙女達、少女達にとって、目指すべき源泉はどこにあるだろう。当然、乙女達の最上位に範を求めるべきだ。
つまり、マルグリテ王女である。
幸か不幸か、マルグリテは母ほどに容姿の拘りを持たなかった。自分がその美を讃えられていることは知っているし、誇らしい思いがなかったわけではない。ただ、人々が讃える「真珠」が本心からの賛嘆であるか、そこにははっきりと疑いを抱いている。当たり前のことだ。
周りの人間が彼女を貶めることなどあり得ない。誰がサンテネリの王女に向かって「
彼女とて人の子、十代の半ば、自身の形姿を気にしたことはある。だがやがて興味を失ってしまった。執拗な詮索さえしなければ自分は一生「ルロワの真珠」と呼ばれて過ごすのだと気づいたからだ。
疑ったとて何もいいことはない。例え自分が本当は大陸一の醜女であったとしても、その地位が死ぬまで「ルロワの真珠」であることを保証していた。
そしてもう一つ原因がある。
彼女には、自身の美を讃えてほしい相手が存在しなかった。肉親に讃えて欲しいとは思わない。そして、臣下たる騎士にも。彼女が面識を持つ諸侯の公子達はいずれもルロワの王冠に頭を垂れる存在だ。彼らがマルグリテを賞賛したとて、それは王冠へのものに過ぎないだろう。では、将来の夫は? これも望み薄である。なぜなら王女の婚姻は純然たる政治だからだ。
マルグリテは黒か白の
控えめにルロワの黒蛇紋が刺繍された単調なものだ。好みと言ってもさほど強いものではない。誰かから他の色を勧められたらそれを着けただろう。となると「考えるのが億劫なだけ」と形容した方が正確かもしれない。
面白いことに、マルグリテの簡素好みは少女達の心を強く掴んだ。白と見まがう金糸の髪は白地には清楚、黒地には峻厳に映える。均整の取れた、女性としては比較的大柄な肢体と相まって、その簡素さが彼女の存在そのものを引き立てたのである。
「ねぇクロディネ、どちらが似合うかしら?」
マルグリテ王女は手に銀の手鏡を持ち、近づけては遠ざけ、遠ざけては近づける。
側に控えた侍女クロディネがこの召し替えに付き合わされて
純白、あるいは黄味の混じる白、あるいは黒、あるいは黒灰。濃紺。
クロディネは黙々と作業をこなした。
心内に驚嘆を広げながら顔には出さない。マルグリテの召し替えは通常ならば一瞬で終了する。目に付いた
それが今回は違う。
先日ガイユール公との婚前式に出向く朝でさえ全く変わらなかった退屈な仕事が、今やマルグリテの前に人生最大の選択として立ちはだかっている。
最終的にはやはり、愛用する漆黒のものと純白のものに絞られた。やる気を出して変な風に纏まってしまうのが怖かったのである。
——白か黒か。
「黒かと思われます」
クロディネは快刀乱麻、遠慮なく答えを出した。
「なぜ? 黒だとほんの少し、居丈高に見えてしまわないかしら」
「そんなことはございません。姫様はとてもお優しい空気をお持ちでいらっしゃいます。そこに黒を加えることで、柔らかさの中に凛とした色を持たせることができるかと存じますが」
見方によっては無礼な台詞である。自身の主君を批評しているのだから。しかし、クロディネの助言通り、純白の
「本当に? 今日は謝罪の日よ。それをもし”生意気な女だ”なんて思われたら…」
悩みは尽きない。
思えば髪も上手く纏まっていない気がする。ルロワ家伝の巨大な緑輝石もなんだか派手に見える。地位をひけらかしているような。誤解されてしまうのではないか。権高く威圧的な女だと。そうすると唇に刺した紅も少し赤すぎるのではないか。それ以前に鼻は少々高すぎるし、情けなく垂れた目をしている。肌こそ白くまとまっているものの、耳の辺りに小さなホクロがある。ひょっとしたら自分は大陸一の醜女なのではないか。周りの者は皆、いい気になっている自分を裏で嘲笑っているのではないか。それはいい。別に構わない。でも、これからお会いする方にだけは…。
尽きぬ自虐の糸を断ち切ったのは信頼する侍女の一言だった。
「たしか黒はデルロワズの家色でございましょう? これから姫様がお会いする殿方もおそらく黒い
お会いする殿方。
もしその方がわたくしの心からの謝罪を受け止めてくださったら! でも、あれほどの侮辱と虐待を繰り返した自分をお許しくださるでしょうか…。
またも問答が始まる。
クロディネはその様を冷静に眺めながら、この貴重な瞬間に自分が立ち会えたことを密かに喜んだ。
サンテネリの姫様が、最も輝かしく花開く瞬間に。
「——おそろいでございます」
ぽつりと短い一言。クロディネが呟く。
マルグリテは心を決めた。
◆
デルロワズ公と公子達が領地へと出立する数日前の出来事だった。
ルロワ家の家令が父子の逗留する館を訪ねてきた。
首城への再度の呼び出しである。先日の出来事は私的な話として終わらせる。そう女王との間で話が付いている。詫びもしつこいくらいに聞いた。だから今回の召喚が何を目的としているのか、ジュール公にはいまいち図りかねた。
「陛下はお気に病まれていらっしゃるのですよ。当事者へのお声がけをついぞなされていないことに」
家令はただの使用人ではない。家宰のもとで家の一切を取り仕切る役人である。サンテネリという国家の主である王家の家令とはつまり、サンテネリ国の上級役人と同義であった。身分も諸侯より一段落ちるとはいえ軍伯である。立場の上でデルロワズ公と変わらぬ貴族なのだ。
「なるほど。ユニウスに」
「ええ、つまりはその、お分かりでしょう? 王女殿下と仲直りをさせたい親心ですよ」
その気安げな口調。ジュールは目の前に座る同年代の男をじっと見つめていた。
中背中肉の貧相な男。恐らく戦に出たこともほとんどない。だが、人には得手不得手がある。自分が馬上で戦うのを得意とする一方で、彼は宮廷を
今回息子達が巻き込まれた一連の騒動も彼の世代であれば考えられないことだ。婚前式を襲い貴婦人を攫うなど、成功しようがしまいがそれは恥辱でしかない。それが今や…。
「しかしあれはまだ作法もろくに知らぬ身。逆に王女殿下にご無礼を働く可能性もある」
「いやはや、ですがそれもよいではありませんか。女王殿下も女性の身、若い公子の活気ある振る舞いを好まれるたちですからな」
「とはいえ、こちらとしてもそれは申し訳なく」
「デルロワズ公、気安くなされませ。これは政治ではないのです。もっと別のことですよ」
◆
当代のデルロワズ公は元は帝国領内の小領主の次男として生を受けた。小領主といえば聞こえが良いが、要は150年ほど前の「諸民族のうねり」を生き残った弱小部族が手頃な湖畔の土地を占拠し貴種を名乗ったに過ぎない。帝国の一部として臣従し、軍役をこなし、ほそぼそと生き残ってきた。
名をジュール・エネ・エン・デルロワズ。
エネは家の当主または後継子が名乗る付称であり「年上の」という意味を持つ古サンテネリ語に由来する。エンは訳すならば「〜における」。つまり土地所有を示す前置詞であり、通常その後ろに領地名が来る。
デルロワズ家の場合は少々特殊で、元来別の名前であった土地を王家からの賜姓によって上書きしたものである。つまり、かの家の地名自体が変更されたのだ。このような例はルロワ家の直臣、あるいは完全な従属諸侯の場合によく見られる。
一方で、サンテネリ北西部を領するガイユール家の地名は古来よりガイユールである。ルロワ家への形式的臣従はあるものの、実体は競争相手といえる事実上の独立公国である。
ジュールは本来の名をゲルギュと言う。デルロワズ家への婿入りに際してサンテネリ風に発音を改めたのだ。
彼がジュールを名乗るようになってもう長いが、世間では未だにゲルギュ呼称の知名度が高い。
彼は詩人達が謳う「無敵の騎士」「大鷹」であった。家を飛び出し放浪騎士として幾多の戦に参加、一騎打ちを繰り返して償金を得るとともに名声をも手にした。流浪当初は乞食同然の扱いを受けるも、戦で名を売るうちに大物が食いついてくる。
騎士の名乗りと一対一の騎乗突撃は戦場の習い。乗馬の最高速と鋭い槍突、鎧の背中に刺した濃茶色の旗指物から、彼はいつしか「大鷹」の渾名を得た。
名高い大鷹は、時に血気盛んな帝国選帝侯と槍を交わすことさえあった。自信に満ち誇り高く、ただし対手への敬意を示すのが上手い彼は、自身が負かした領主達に気に入られることもしばしばだった。
あるとき王国と領地を接する帝国小領主が、これまた王国の小領主ともめ事を起こした。国境付近に漠然と広がる緩衝地帯にある一農村の帰属問題が発端となった。「よくある話」である。彼は帝国側に参戦した。
対する王国側は縁戚の伝手からデルロワズ家の援軍を得ていた。本来であれば中央の有力諸侯が出張る規模の戦ではない。だが、対手に大鷹ゲルギュがいるとなれば話しは別である。
騎士には格というものがある。
戦争は殺戮ではない。正教の教えの元、武勇と名誉を世界に示す儀式であり、偉大な
よって、相手が世に勇名鳴り響く大鷹ゲルギュを出すのならば、こちらも応えねばならない。
デルロワズの若君が名乗り出た。両者互いに血気盛んな二十代後半。
勝負は一瞬に付いた。両者乗馬が交差する刹那、ゲルギュの槍が早業でデルロワズ若公のそれを絡め取り弾き飛ばした。衝撃で落馬した若公をゲルギュは下馬して助け起こす。それで戦は終わった。
一騎打ちに負けるのは恥ではない。
むしろ、大鷹ゲルギュに挑んだ度胸は賞賛を受け、敗者もまた名声を得る。
いかに儀式めいた勝負とはいえ、少し手元が狂えば騎士の長槍は簡単に相手の命を奪う。命を落とさずとも四肢の欠損を招く可能性は十分にある。だからこそ挑むためには一定の覚悟と技量が必要なのだ。
そして当然のことながら、その一定の覚悟と技量をもった相手を無傷で負かすためには、さらに高い技量が求められる。骨折程度ならまだしも、万が一それ以上の負傷、特に回復不能な損傷を相手に与えた場合、戦争は「儀式ではなくなる」可能性が高い。
ゲルギュは相手を殺さず、できる限り軽傷で、可能であれば無傷で負かす。負かした上で、いかに手強い勝負、紙一重の勝負であったかを周囲に高らかに語り、敵手の勇気を褒め称える。
騎士の時代に求められる最高の仕草である。
対手は高名なゲルギュと一騎打ちを行った名誉を誇り——大体は無傷で——、ゲルギュは対手を気持ちよくさせながらも「手強い相手を無傷で仕留めた」自分の名声を高める。
つまり両者損のない結末を作り出す名人なのだ。
小競り合いはうやむやのうちに終わった。
ゲルギュをたいそう気に入った若公は彼を自領に招く。若公の父である当代も、この高名な賓客との縁を喜び、公家を挙げた宴会が催された。
そこでゲルギュはある姫君と出会うことになる。
若公の妹、ファランシーヌ・エン・デルロワズである。
サンテネリでは基本的に痩身の女性はあまり好まれない。少し丸みを帯びた身体を清楚な白系の
ファランシーヌの装いはそんな流行の真逆を行くものだった。完全に純白の、装飾一つない簡素な
痩身長駆、言葉を換えれば中性的な肢体の上には細面が乗っている。盛り上がった鼻梁に青い瞳。断固とした視線。そして少し大きい口元。軽く閉じた唇は笑顔を作っているはずなのに、なぜか戦の前の決然とした意志を感じさせる。
ゲルギュは言葉を失った。
理想の騎士はこれまで数限りない浮名を流してきた。
市井の女から大公家の奥方まで、彼に懸想する女性は山のように居た。彼自身の容姿が特段優れていたわけではない。身長は平均を少し超えた程度だし、いかに鍛えているとはいえ贅肉がつき始める年齢に達していた。鼻は丸がかり、顎の造形も精悍とは言えない緩みがある——もっともこれは頬から顎したまで続く髭によって上手く隠しおおせていたが。
彼の美点は二つある。
無敵の騎士であること。そして黒い、ギョロリとした大きな目玉。
端的に言って、男性性である。
男性的であることを誇りとしてきた彼は、女には女性を求めた。ふくよかな、ともすれば肥えているといってもよい肢体に柔和な仕草と吐息。そんな女を好んできた。
そんな彼の目の前に、デルロワズの姫が理想の正反対を体現して佇んでいた。
そして彼は猛烈な恋に落ちた。
彼は逗留期間の許す限りこの「
やがて彼は城を去る。
名残惜しさはひとしおだが、いかに武名高い大鷹といえどもサンテネリ有数の諸侯たるデルロワズの乙女に手を付けるのは難しい。難しいというよりも、中途半端な形でそうしたくなかった。身代も釣り合わぬ二人である。
一年後、デルロワズ公と若公が相次いで流行病で没したとの噂を耳にした彼は、当時参加していたレムル半島の戦争から抜け出しデルロワズ公領に急いだ。
ファランシーヌはデルロワズを相続し女公となる。出来ることなら彼女を娶りたいと思うが、そんなことよりもまず彼女の身を案じた。あの細い身体。あの清冽な意志。しかし家臣達や領民の無言の圧力には耐えきれないだろう。女性の当主は舐められる。
デルロワズ城に迎え入れられた彼をファランシーヌは受け入れた。思案の時間は存在しなかった。彼女の中では「決まっていた」のである。
女はゲルギュを伴侶にすると一方的に宣言し、反論の一切を許さなかった。
相手がゲルギュであることは幸いだった。大陸全土に知られる勇名は貴族の社会における力の源である。
「あの大鷹殿であれば仕方がない」。心底賛成は出来なくとも、最低限の納得はできる。
空高く飛ぶ大鷹は、勇敢な狩人によってついに射止められたのである。
◆
女王の召喚を受けたユニウスは二人の兄に連れられて首城シュトゥル・エン・ルロワに参上した。
一行は応接の間に通され、そこで上機嫌が一目で分かるグロワス王太子の歓待を受けた。
しばし会話の後、王太子は彼ら兄弟を城内散歩に誘う。
若かりし頃の思い出から直近の
曰く、あの兵はいかほど揃えられるのか。曰く、デルロワズの礼法は覚えたか。
彼は太子の妙に親密な態度に若干の戸惑いを覚えた。
もう長い付き合いの兄バルデルはともかく、太子はルロワの次代王である。対するユニウスはいかに王家と近しいとはいえ他家の、それも妾腹の三男である。普通ならば形式的な挨拶のみ、その後はもっぱら長兄ジャンと語り合うのが普通だ。それが、まるで昔からの知己、久しぶりに会った友人のように自分に気安い。
グロワスが幼時の自分を覚えている、あるいは思い出したであろうことは確定的だった。もちろん自分も忘れてはいない。
いつも遊んでくれた、飼い主の友人。
やがて一行は城の外れで「散歩」を終えた。
太子は立ち止まると、確たる足取りでユニウスの前に立つ。
「ユニウス殿。あそこに小聖堂がある」
彼は指さし、半球状の屋根をたたえた石造りの建物だ。
「はい」
「そこに、さる高貴な乙女がおられる。その方は、先日不幸にも起こってしまった出来事に心痛められ、その償いをなさりたいとお考えなのだ」
芝居がかった言い回しだが、君主教育の賜物か、グロワスの役者振りは堂に入っていた。
「私は思うのだ。どなたか高貴な心根を持つ騎士が、その乙女を慰めてくださらないかと」
台詞を終えて、グロワスはジャンに、バルデルに、そしてユニウスに、視線を移した。
ジャンもバルデルも何も言わない。ユニウスも事情は当然分かっている。そもそも自分とマルグリテの面会が目的なのだから自分が行くしかない。
「僭越ながら殿下、そのお役目、私にご下命ください」
だからユニウスが答えた。
「よくぞ申し出てくださった! ユニウス殿ならば間違いない。乙女のお心を必ずや溶かしてくださるだろう。少々手狭な聖堂ゆえ一人で向かっていただくほかはないが、この騎士ぶりであれば心配は無用。そうでしょう、デルロワズ若公」
「その通りです、殿下。ユニウスであれば問題ありません」
グロワスとジャン若公の言葉はそれぞれに意味を持つ。ルロワ家の当主名代たる王太子が、ユニウスが一人で女性と会うことを、デルロワズ若公の保証の元で認めたのである。
「光栄に存じます。殿下」
そしてユニウスは一人、聖堂に歩を向けた。
◆
聖堂の木戸を開け、室内に足を踏み入れる。
部屋の中央には大きな椅子が一つ。重厚な深紅の羅紗張りの上に一人の女が座っている。扉は閉まり、外の無粋なものはもう入ってこない。奇妙な静けさだった。
最高級の”血の滴るような”赤を背景に、彼女のまとった白い衣装はよく映えた。濁りのない純白の
着座の女は闖入者への恐れを感じていないようだった。
彼女はちょうど一月ほど前に二十歳になった。だからもう少女とは言えない。女である。
結わずに垂らしたままの長い髪は薄暗い天幕の中で、それも入り口から這い入る一条の陽光の元で鋭い金色に輝いている。
ユニウスは目の端で周囲を確認する。
侍女達がいない。
ということは、本当に二人きりなのか。
彼は内心驚きを隠せない。男は自分一人でも女の側にはお付きの者が控えている。そう思っていたのだ。それが常識である。密室で未婚の男女が会ったと噂が立てば、すぐに醜聞に繋がる。少なくとも可能性がある。
彼は片膝をつき目を伏せる。
先刻王太子とエネ・ジャンが交わした言葉から、恐らく彼らは聖堂の中に女一人しかいないことを知っていたのだろう。
——面倒なことだ。
そう思った。
女が椅子から立ち上がり、ゆっくりとこちらに近づいてくる。微かに花の香り、何の花かは分からない。興味もない。ただ、女の身体から発せられる匂いが、女よりも先に彼に届いた。
「ユニウス・エン・デルロワズ殿、どうぞご起立くださいな」
先日跪けと言ったその口が、今は立てと言う。
ユニウスは指示の通り立ち上がった。天窓から差し込む光が彼の身体から大きな影を作り出し、女の身体を覆い隠した。
「光栄に存じます。バロワ女伯様」
そして彼は見た。
これで四度目だ。
襲撃の前日、野営地で彼女の翆眸を見た。襲撃の最中、それを見た。城内の一室でそれを見た。そして今、聖堂でそれを見ている。
相変わらず、宝玉のような瞳をしている。
透度の高い湖に投げ込まれた小石のように瞳孔がほんの少しだけ絞られて、
先に目をそらしたのはマルグリテの方だった。
彼女はうつむき、何度か深く呼吸を繰り返し、何とか言葉を吐き出した。
「…先日のご無礼をお詫びしたくて、陛下に無理を申しました」
細い指が時折
「ユニウス殿は命の恩人でいらっしゃいます。わたくしは恩人であるあなたを”半人”などと罵り、陛下の前で重ねてあのような無礼を働きました」
男は目前の女をじっと見ていた。
素晴らしい女だ。
革編み靴の隙間から覗く小さな足指も、光に透けて浮かび上がる脹ら脛も、太ももも。
「誤解が解けたにもかかわらず、心の惑いを抑えられぬわたくしは、あなたをさらに貶めてしまいました。あなたは決して
「私ごときには過分なお言葉でございます、女伯様」
「マルグリテと! ……マルグリテとお呼びください」
ユニウスは再び彼女を視た。
細い腰をしている。家伝の金帯も邪魔なだけだ。腹を視たい。そう思った。
「わたくしたちは幼時に出会っています。
待てど返らぬ応答に、マルグリテは恐る恐る顔を上げる。途端にユニウスの視線が彼女を絡み取った。
相変わらず表情はない。笑みもないが侮蔑もない。マルグリテはただ男に「視られている」。
「その獣は殿下の心を和ませたでしょうか」
「ええ! ええ! わたくしの唯一のお友達でした。やさしい子犬さん」
「それは何よりと存じます。」
ユニウスは小さく口の端を上げて笑顔を作った。皮肉ではない。自分の存在が役に立つのはよいことだ。
「ですから…わたくしは惑ったのです。あなたが天幕にいらしたとき、昔の子犬さんではなかったことに。あのときのあなたは既に騎士でいらした。おわかりでしょう? 全ての思い出が塗り変わってしまったのです」
「しかし私は変わりません。…幼時マルグリテ殿下に可愛がっていただいた頃も、今も」
「わたくしにはそうは思われません! 何もかも違います」
「そうでしょうか」
緩やかに波打つ黒髪を持ち、大きな黒い瞳を持つ彼は、時々呆けたような顔をする。
「ええ。むしろなぜあなたは変わらぬと感じるのです? 獣として小娘に撫でられていたあなたと、その小娘を護ってくださる勇敢な騎士のあなた。どこに同じところがありましょうか?」
マルグリテは心底不思議そうに男にそう告げた。
誰がどう見ても別人ではないか。
確かに黒髪と瞳の色は変わらない。顔の輪郭も成長を考えれば似ている。特に無精髭を綺麗にそり上げた今の彼には、うっすらと幼時の面影がある。だが、それは外面の特徴に過ぎない。最も重要な内面が全く異なるのだ。知性のない無垢の瞳、飼い主を疑うことなど微塵もないがらんどうの瞳から、強大な意志の槍を秘めた捕食者の眼へと、ユニウスは様変わりしている。
だから、続く彼の返答を聞いたマルグリテが無上の法悦を感じたとしても、それは無理からぬこと。
彼は答えた。
「御身をお護りしたいと思う心に変わりはありません」
首筋から、身体の奥から赤みが差していく。足に力が入らない。
倒れ込んでいく彼女の肢体をユニウスの腕が抱き留めた。女の体重がすべて、彼の両腕に委ねられている。
「——ああ、このような…ごめんなさい。ごめんなさい。こんな…力が…」
「構いません。殿下は混乱していらっしゃるのです」
女の身体を抱き留めながら、ユニウスは淡々とそう告げた。
女の耳元で。
二人の顔の間にはもはやほとんど距離がない。吐息も肌の発する熱も、全てが伝わってしまう。
そしてマルグリテは視た。男の瞳の奥にあるもの。
情欲だ。
気がついたとき、彼女の体内で何かが弾けた。
この男はわたくしを欲している。
そして、わたくしには拒む理由はなにもない。
主は許してくださる。
ユニウス殿は人なのだから。
マルグリテが感じた喜悦は自己の存在への肯定を源とする。
自分自身が欲されている。これほどまでの喜びはない。ルロワの王女でもなく、子をなす道具でもなく、小領の所有者でもなく、次代の王の姉でもなく、男はただ自分に欲情している。
わたくしと彼は欲しあっている。
◆
「ねえユニウス殿、わたくし、その剣はデルロワズの殿方にしては少々控えめに感じます。もっと立派なものを探しましょう!」
抱き留められた身体を引き起こされてなお、マルグリテは彼に触れていたかった。男の手を握りしめたまま自身は再び椅子に身を預ける。
すると男の腰に佩かれた剣が眼に入る。
これは少しだけ不似合いだ。
わたくしの騎士には不似合いだ。
対するユニウスは右手をマルグリテのなすがままに委ねながら苦笑した。
「殿下がお贈りくださったものですよ。殿下のお言葉に不用意に同意すれば、それは不敬のそしりを免れません」
「もう! 意地悪をおっしゃって! 存じております。あの時はどうかしていたのです。だからやりなおしましょう。その剣のせいで、わたくしの騎士が他の殿方に侮られるなどあってはならぬこと。…そうです! 今から参りましょう。宝物庫の場所は存じて…」
「マルグリテ様」
さらに言い募る彼女をユニウスは一言で押しとどめた。
「この剣で良いのです。確かに簡素、実用の剣です。しかし、外見が変わったところでなんの違いもありません。大切なのは意味です。今この剣は貧相に見えるかもしれません。しかし、私はこの剣でこれから幾つもの戦をいたします。殿下をお護りするために。——するとどうなります。この剣は変わります。貧相な鉄剣ではなくなるのです。人々はこの剣に意味を見出すでしょう。”マルグリテ王女を守護する剣”と」
女はさらに強く、男の手を握りしめた。
「あなたと同じ、ということですか?」
「はい。その通りです。わたしを
マルグリテは賢い。ユニウスはそう思った。
「でも、その理屈を通せば、ユニウス殿は今も
不安げな声色だった。ユニウスは優しく彼女の手を振りほどく。
そして一歩下がり距離を取った。
「——殿下には、どうお見えでしょう」
「それはもちろん
ユニウスの破顔は少し歪だ。しかしマルグリテはその笑顔を心底かわいらしいと思った。
「では、私は
◆
「姫殿下のご様子はどうだい?」
館に戻る馬車の中、ジャンは弟に尋ねた。
聖堂から連れ立って出てきた二人を直に観察しているので大きな不安はない。いつもよりも明らかに高揚したマルグリテの様子。隙あらばユニウスに話しかけ、庭に咲く花やら木々に止まる鳥やら説明しはじめる様は微笑ましくすらあった。
対するユニウスも、礼を失しない程度に、だが明らかに柔らかく応じている。
「とてもお優しい方です。私のようなものにも過大なご厚意をいただいてしまいました」
「その割にはあまり嬉しそうではないね」
すかさずバルデルが混ぜ返す。
「照れてるんだろ! なにせルロワの真珠のご厚意だ」
「かもしれません」
「本当かい?」
「ええ。自分に言い聞かせています。”舞い上がるな、いずれ姫様も落ち着かれる”と」
「おお、我らがユニウス元帥はサンテネリの真珠をお望みではないのかなぁ?」
ニヤニヤと腕を小突いてくるバルデルに、彼は少し困った笑みを見せた。
「私には分かりません」
「いずれにしろ、贈剣いただいた以上ユニウスはマルグリテ様の騎士になったんだ。それを忘れてはいけないよ」
言外に色々な意味が込められている。エネ・ジャンの言葉はいつもそんな風だ。
「ですが、一度忘れる必要はありそうです」
ユニウスはジャンから視線を外し、馬車の窓に目を向けた。
「戦の季節が来ますから」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます