第7章 『随想』にみるユニウスの人間観
”意味はない。それは人に仕掛けられた最も残酷な罠である。我々はただ在る。だから
「無意味の意味」と呼ばれる一節である。
その内容に目を見張る読者も多いことだろう。我々現代人が自己の存在の意味付けから解放されたのはつい最近のことだ。中央大陸の思想界を常に先導してきたサンテネリにおいても、この考え方が一般に普及してからまだ百年も経っていない。
およそ一千年以上の過去を生きたユニウスという一個人は人間存在の無意味さに明らかに気づいていた。ただ、その先進性が「注がれ」たものであったのかどうかについては識者の間でも意見が分かれるところでる。
我々の文明を長らく支配した正教の世界観は、人間の存在因を神に求める。神が編んだ物語において神が与えた役割こそがその人間の生きる意味であった。これは正教の世界観に生きる民、つまり中央大陸全域の人々にとって自明の真理である。人々には目に見える役割が存在した。貴族には貴族としての、商人には商人としての、農民には農民としてのそれがあった。証拠は自身の父や母であり、家そのものであった。自分もやがて成長し、父や母のようになり、父や母の生業を引き継ぐ。それが彼らの役割であった。
しかし、正教の世界観において唯一、配役から漏れた存在がいる。
それが半人である。
だからこそ、半人であった彼が思索の果てにたどり着く思想としては、「人間存在の無意味性」はさほどおかしいものではないともいえる。
第9期の後半を境に徐々に半人階級は数を減らし、最終的には歴史の中の存在として忘れ去られていった。同時に彼の思想も消えていく。大陸にはもはや「
そして、それが再び日の目を見たのは、第18期から始まる旧秩序の崩壊の最中であったのも決して偶然ではない。旧秩序の破壊は人々の身分の破壊であり、家業の消滅を意味した。配役から漏れた大量の「
<半人群における男女の教育>
残念なことに、『随想』には男女の教育について書かれた箇所は存在しない。婦人の政治参加を巡る議論が白熱する現代において、もし彼の言があればそれは貴重な資料となったことだろう。
ただし、直接的な言及こそないものの、傍証を集めることは可能である。
第9期は正教の教義こそが唯一の「常識」であった。正教において男性は勇気を、女性は慈愛を司る存在と定義される。女子の財産相続権の関係から貴族家においては少々逸脱するものがあるが、一般的に男性は「戦う者」であり女性は「育てる者」であった。前者は勇気を以て、後者は慈愛を以て。
この違いは身体的構造の差異とともに、各自に与えられた魔力の質の違いと見做されていた。男性の魔力は「他者、あるいは自分を従える圧力」であり、女性のそれは「他者、あるいは自分の魔力を増幅する」ものである、と。
このような感覚が支配的であった第9期にも関わらず、彼が組織した半人部隊は恐らくその三割程度を女性が占めていたと推測される。当時の常識から明らかに外れていたためか、その様は大衆の耳目を集めた。結果、この異常性を記録にとどめた覚書や日記の類いが幾つか残されている。
つまり、半人の群で幼い子ども達を養育する際に、ユニウスは男女を特段分けなかった可能性が高い。等しく忠実な兵士として「注いだ」のである。ユニウスに必要なのは「力」であった。自身と自身が作りあげた集団が「
この推論を補強する第一は前述したマリー・エネ・エン・バロワの存在である。
当時の戦争はすべて貴族間の争いであった。ゆえに当事者の貴族家当主が将軍として戦を指揮するのは当たり前のことである。当主すなわち指揮官である以上、何らかの事情で女性が当主の座を占めた場合、名目的な指揮官として女性が戦陣に赴くこともあった(大抵は親族の信頼できる人間を名代とするため、ごく稀な例であるが)。
一般的にバロワ女伯も、このような事情のもとにその参戦を理解されているが、それは明らかな誤解だ。彼女は当初から「一兵卒」として従軍していたのである。現代の我々が知るマリー女伯の姿は、今も残る中期絵画の傑作『女王の戴冠』に強く影響を受けている。画面中央に立つマルグリテ女王の右下に当時の華やかな女性礼装を身にまとって近侍する貴婦人だが、よく目を凝らして観察すれば、腰に小さな剣とおぼしき棒状の物体を吊り下げているのが見えるだろう。逆を言えば、この棒さえなければ、この栗色の髪を垂らした貴婦人はどこかの大公家の奥方にしか見えない。
絵画が物語る貴婦人の姿に反して、実際のバロワ女伯が握ったのは典雅な扇子ではなく無骨な長槍であり、おそらくは何人もの敵兵を直接殺害した歴戦の兵士なのである。
もう一つ、今度は逆の方向から傍証を挙げてみたい。
前述の通り、ユニウスは恐らく女児達にも兵士としての教育を施していた。一方、男児に対して、通常であれば女児に施されるべきそれがなされていたのか、である。
ここで一例として一人の男性を紹介したい。
名は「ピエ」。
ユニウスが初期に名付けを行った児童たちの一人である。ピエとは古サンテネリ語で「石」を意味する一般名詞であり、通常人名に採用されることはない。この男児は恐らくその石のような外見、つまり、大きな肩幅と骨太な手足をもった短躯から連想されたものと思われる。
彼は確実に最初期の半人部隊に属しており、後に部隊が拡大を重ね
首席を長らく務めたマリーがマルグリテ王女の侍従(実体は、後の近衛軍の前身となった部隊の指揮官であろう)に任じられて隊を離れたあと、黒針鼠の首席指揮官の座を引き継いだ。
実はこの男ピエルは歴史上一定の知名度を持つ。
特に高等学校で帝国史を真面目に勉強した覚えのある読者ならばおそらく暗記した人名「ペテル豪胆公」が、このピエルと同一人物であろうことが近年の研究でほぼ確実視されているのだ。
ご存じの通り、豪胆公ペテル・ヴォー・ワイゼンベルは帝国の小規模諸侯であり、傭兵派遣をその生業とした。彼のもう一つ渾名「山賊の大いなる主」とは、帝国語でワイゼンベルが“白い山”を意味するところに由来を持つ。
ユニウスの死後、手勢を率いてサンテネリを離れた彼は、「白い山脈」の麓にあるワイゼンベル家に婿入りし家督を継いだ。山岳地帯の貧しい寒村を養うために家業として始めたのが傭兵業であった。
渾名の通り、幾多の戦場(おもにレムル半島における)で示した驚異的な武勇、ことに撤退戦での頑強な戦い振りは評判となり、王たちは彼に惜しみなく大金を支払った。
そんな勇者の印象とは裏腹に、ワイゼンベル家当時の家宰が書き記した日記には、彼のもう一つの顔が、ある種困惑をもって残されている。
豪胆公は初子が産湯に浸かった瞬間から自ら世話を始めた、というのである。ただ抱き上げるだけではない。日中も側について離れず、ともに寝たという。
当時の常識から完全に逸脱した行為である。貴賤を問わず第9期の男性は育児を行わない。誕生から十歳程度までの時期は母親(貴族であれば乳母や侍女が加わる)の領分であり、顔を合わせることすらほとんどない。男性が父として子どもと頻繁に接するようになるのは十代からである。魔力の質の違いがその理由であった。まだ魔力の弱い赤子は母の「増幅」を必要とする。魔力が育ち、外に拡散するようになったあとは父親による「抑制」が求められる。第9期において、というよりもつい最近に至るまでごく当たり前の育児過程である。
そんな中でペテルが取った行動はまさに異端であり、当時の人々からすれば虐待といってもよいものだった。「家宰として諫めねばならぬのに、それが怖くて出来ない」と情けない告白が残っているが、それも無理からぬことだろう。相手はあの豪胆公ペテルなのだ。
彼の示したこの奇行はおそらく、幼き日にペテルが行ったことの再現であろう。ユニウスの群の中では——これも推測ではあるが——生まれた子どもは乳離れが済み次第母の元を引き離され、ユニウスの注ぎを受けた集団によって養育された。児童が幼児を育てたのだ。集団の年長者だったマリーとペテルはおそらく複数の幼児たちの面倒を見ていたと思われる。あるいは、ひょっとしたらユニウスさえも幼児の養育に携わっていたかもしれない。
ペテル豪胆公が
状況証拠となり得るものはいくつかあった。ペテルがピエルの帝国語発音である点やペテルのワイゼンベル領への出現時期、従えていた兵数などが根拠として挙げられていた。しかし、いずれも他の解釈が成り立つ余地は十分ある。ペテルは帝国語圏において特に珍しい名ではないし、兵を従えての出現も彼が山賊の親玉であったと考えればおかしいことでもない。彼の異名の一つである「山賊の大いなる主」はその出自を物語っているともいえる。
ペテル豪胆公とピエルが同一人物であろうことが判明したのはちょうど十二年ほど前の石棺発掘に由来する。現ワイゼンベル郡(旧ワイゼンベル領を含む一帯)は現在、涼やかな気候から夏場の保養地として賑わっている。
建設業者が新しい宿泊所を建設しようとワイゼンベルク城址の一角を整地した際に一つの石棺が掘り出された。正教の葬儀は火葬が中心であるため、一時は正教成立以前の有力者を葬ったものかと思われたが、棺に副葬された腐食著しい鉄片の復元形が第9期当時の槍穂と同一であること、さらにペテル豪胆公の研究者が、家宰の手記に火葬の準備と並行して石棺の手配がなされたとの記述がある旨を指摘したところから、棺の主がペテル豪胆公その人であろうことがほぼ決定的となった。
ペテル豪胆公の遺言もその説を補強するものだ。
「我が唯一の主君と同じように、同じ
帝国の従属諸侯としての体裁を持ちながらも、レムル半島の都市国家群のみならず、帝国の仇敵たるサンテネリ王に雇われることさえあった生粋の傭兵隊長が言う「唯一の主君」とは誰を指すのか、それは中期の研究者たちを悩ませる謎の一つであった。
9期当時土葬されたのは唯一半人階層のみである。その情報にユニウスの「最後」を重ね合わせたとき、ペテル豪胆公の「唯一の主君」が確定した。
随想に記された彼の思想を読み解いていると、筆者はふと妙な錯覚に襲われる。デルロワズ公子があたかも職場の上司、あるいは同僚、部下のように思われるのだ。彼が時を超えて20期の現代にあらわれたとして、その存在に違和感を抱くものはほとんど居ないだろう。
全ての人が同等の存在であることを当たり前と認識し、男女の差別を認めない(これは現代においてもまだ少々進歩的傾向といえるが)彼は、現代の典型的な都市居住者であり、知的労働に従事する進歩的知識階層そのものである。
だが、この驚異的な現象も実は因果が逆転しているだけなのかもしれない。現代の我々が持つ常識は、革命期におけるユニウス思想の“再発見“をその端緒の一つとしている。
つまり、千年前を生きた一人の男が我々現代人に似ているのではなく、我々が彼のようになったとも考えられるのである。
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