第6章 トリオン大僧卿、ルロワ家の母娘と会談すること

 母后クリエの動きはあくまで偶然のものだった。深い考えを抱いてのことではない。娘の反応を見て、ユニウスの出自に関するデルロワズ家の主張は案外脆いものであることを思い知らされたのだ。

 半人は獣である。獣は神の加護を受けない。正教の元において、加護を持たぬものは人ではない。

 ユニウスがデルロワズ家から暇を出された自由民の母の元に暮らしていたならば話はなんとでもなった。母親が身体を売って日の糧を得ていたとしても、あるいはユニウス自身が盗賊まがいの行為に手を染めていたとしても、過去はどうとでもなる。

 しかし、彼は半人と、半人の群に暮らしていたのだという。正直なところ、そんな話があるものかと疑問は残るが、人畜たる半人を見事に操ってガイユールの騎士を蹴散らした実績は彼の魔力を物語っている。とはいえ、今後始まるであろう暗闘を思えば、彼の出自は非常によろしくない。箔がいるのだ。ルロワ家はユニウスの政治的人格を保証することはできる。公子と認め贈剣までなした。この上ない厚遇だ。しかし、ことは政治ではない。人であるかないかを決めるのはサンテネリ王ではない。正教の仕事だ。


 正教の首座を占める僧王は、中央大陸全域に散らばる大教区の管理を担う大僧卿の中から選ばれる。サンテネリも領域内に大教区を幾つか抱えているが、最も古く権威のある教区は王領たるルロワ公領を中心とした王国の島イレン・サンテネリである。ルロワの首城と騎馬で半日とかからぬイレン教区の大聖堂は、首城シュトゥル・エン・ルロワを凌がんばかりの頑健な作りの城郭であった。古く「諸民族のうねり」においては実際に城塞として使われた、いわば実績の城だ。

 その城の現在の主、トリオン大僧卿はサンテネリ中西部を治める小領主の三男として生まれ僧職となった男である。




 ◆




 数日前に呼び出した男が執務室に姿を現したのを見て、クリエ女王はゆっくりと立ち上がり彼を出迎えた。


「神の御裾の元、ご健勝でいらっしゃいますこと?」

 聖句を交えた挨拶は僧籍者への儀礼の一つである。


「陛下、臣は神の御裾の元、健やかに過ごしております」

 正教僧の一人称である臣は世俗諸侯の家臣であることを意味しない。神の臣である。

 トリオン卿は小太りの体躯を薄織の羊毛貫頭衣で包み、深紅の大判布を巻き付けていた。この色は大僧卿の地位を示す特別な意味を持つ。

 比較的小柄な五十がらみの男だ。小柄でふくよかなその容貌の上に、やや肉の付いた首筋と顎が乗っている。そして小さく丸い目と鼻。印象に残るのは他の部位に比して明らかに大ぶりな口唇である。政敵は影で「貪欲な口」と渾名するがその数は少ない。教区内を掌握している証である。


「トリオン猊下に是非ともご相談いたしたいことがございましたの。神の端女は導きを必要としています。どうぞ猊下の御裾にすがらせてくださいませ」

「もちろんでございます。陛下。臣のなせる限り、陛下の御宸襟を安らがんと」

「それはよろしゅうございますわ。思えば私が悩み惑うとき、常に猊下の御裾におすがりして参りました。今回も…」

「ええ、ええ、陛下。臣は陛下とともにございますれば」


 クリエはこれが「重要な取引」であると暗に告げた。まだトリオンが王国の島イレン・サンテネリ教区を首座とする前、大僧卿に就任する前からクリエは彼と様々な「相談」をしてきた。今回も同様である。

 クリエは彼を気に入っていた。正教の僧としては際立って平衡感覚に優れた男だ。俗世にまみれた売僧ではない。一方で、この世に教義の完全な実現のみを求める純粋派でもない。正教の教えを軸にして現実のやっかいごとと上手く折り合いを付けることが出来る、第一級の政治家である。


「まずは臣にお聞かせください。陛下を悩ます悪鬼の姿を」


 クリエ女王は淡々とことのあらましを大僧卿に語る。彼は無反応にそれを聞いた。これが純粋派の僧であれば女王の御前とあれども激高し、騎士を手にかけた獣たちを処分するようわめき散らしたかもしれない。


「なんともはや。なんと。今回の悪鬼はちと大物でございますな」

 話を聞き終えたトリオンは、台詞に反して平然とした様子である。

 半人が兵を組織し騎士を鏖殺した。その半人は王国の柱石とも言える諸侯の隠し子であることがした。ルロワ王家はその男に公子としての地位を保証した。にもかかわらず、マルグリテ王女がいかに内輪とは言え人前で彼を半人デオン扱いし侮辱した。これはやっかいごとである。半人デオンオンの区分の問題であり、正教の教義に関わるものだ。

 とはいえ話を聞く限り女王の裁定は済み、侮辱を経てもデルロワズ公との仲はまだ保たれているらしい。形式上の処理が終わった話であり、問題があるとすれば王女の心くらいのもの。純粋派とは決していえない老練な政治家の彼としてはそこまで大事とも思えない。では女王は何を欲しているのか。大僧卿はその愛嬌のある小さな目で女を観察していた。

 子を二人なしてなお衰えぬ美貌を備え、ちょっとした茶目っ気もある。その実一度怒らせると危険な「正教の守護者たる地上唯一の王国」の主を。


「私の見るところ、ユニウス殿には強大な魔力がおありですわ。ですから一目あの殿方をご覧になれば半人であるなどと疑念を抱くものは誰もないはずです。ですけれど…」

「魔力はその目で見ねば分からぬもの。話を伝え聞くだけでは実感が難しいものですな」

「そう、そのことよ。今回は俄には信じがたい出来事ですから、私とて太子殿の言葉を聞き、実際にユニウス殿本人を見て初めて信じられたのです。もしそれがなければ、こう思ったでしょう。王女の魔力が半人たちを操ったのだ、と」

「ありうることです。マルグリテ様は王女でいらっしゃる強大な魔力をお持ちです。あるいは半人たちを操ることも可能やもしれない、と」


 そこまで話を進めてから、クリエはトリオンに椅子を勧めた。長い話になる。


「ねえ大僧卿様、私とて人の子、憐れみの心を持ちます。ユニウス殿は幼き日に故なく半人と取り違えられ、若き日を半人の群で過ごしたというのです。それは我ら人にとってどれほどの苦痛、どれほどの恥辱でしょう。取り違えられたがゆえに、ユニウス殿は「聖印の秘蹟」すら賜っていない。主の御裾に抱かれることもならず、獣の群の中を生きてきたのですわ」


 沈痛な面持ちで首を振るクリエ女王をトリオンはじっと眺める。この憐れみは嘘ではない。そう感じた。心底その若殿を気の毒に思われている。ただ、もちろん、憐れみだけではない。


「秘蹟を受けておられない…。それはなんとお気の毒なこと」

「秘蹟は誕生のみぎり、主により与えられる奇跡ですもの。ユニウス殿は御年二十。ここまでお年を重ねられた方に、聖印をくださることなどありえませんわ」

「その通り。秘蹟は人の“誕生”を言祝ぐものですから」

「ただ…」


 回りくどい言い回しで延々と続く交渉を捌くことが本職と言っても過言ではないトリオンにはすぐに分かった。いよいよ本題だ。


「もし仮に、この哀れな殿方に救いの手を差し伸べてくださる僧都様がいらっしゃれば、それはなんと素晴らしいことかと存じますの。もしも、もしもそのようなお方がいらっしゃるならば、この私、クリエ・エネ・エン・ルロワはそのお方を心から敬慕いたします。そしてそのお方のお慈悲がより多く、民草にもたらされることを望みます。」


 ——確かにこの悪鬼は非常に大物だ——

 にこやかな表情を崩さぬままだが、心内の驚きを抑えるのにいささか難儀した。

 “ルロワの地をこえて”。今回の話を総合する限り、女王はガイユールと「本格的な」戦の決意を固めたらしい。それは高貴な者たちの「至上の遊戯」たる戦争ではない。クリエ女王はガイユールを獲るつもりなのだ。そうなると、ガイユールの教区は当然空く。教区僧都任命権は正教会が握っているとはいえ、ガイユールを力によって下す存在があった場合、その者の意向は人事に極めて強い影響を与えるだろう。だが、それがルロワ家に実現できるのか?


「この世には、徳持たぬ君主の元に惨めな生を送る民が数多くおります。たとえば、「未来の花嫁を強奪しようと企むような」、そんな卑劣な者もおるやもしれません。私は娘を持つ母として、もしそのようなことが我が娘の身に降りかかるようなことあらば、決して忘れはいたしません。」

「陛下、まさにおっしゃるがごとく、徳なき君主の元に生きる民の悲劇を主は決して喜ばれません。陛下やグロワス太子のような英明にして仁徳に溢れたお方のご威光に民を導かれるのは神のご意志に叶うことと存じます」


 女王はかなり踏み込んだ話をしている。検討のために一度持ち帰るなど、そんな態度は許容されない。

 戦に対する王国の島イレン・サンテネリ教区の、つまりトリオン大僧卿の同意を求めているのだ。


「ああ、大僧卿様! 私、少し心が晴れた気がいたします。そのようなお言葉を頂けるなんて」

 クリエ女王の目尻を拭う仕草は至極自然だった。

「あとは、あの哀れな殿方に秘蹟を授けてくださる、憐れみ深い僧都様がいらっしゃれば!」

「陛下、陛下! 皆までおっしゃいますな。神はお許しくださいます。我らの主は憐れみのお方。その殿方の苦難を運命として編まれた上で、今、慈母の如き陛下の御心の元、“再び生まれる”ことを定められたのでしょう。神の編まれた物語において、臣めが果たせるお勤めがございますれば、何を戸惑うことがありましょう!」


 その言葉が届くやいなや、クリエは僧都卿に歩み寄り、男の手を自身の両手で包み込んだ。

「やはりですわ。この主の端女は、僧都卿様こそが、その徳高い僧都様だと実は信じておりましたの」

 女王は腰をかがめ、男の手を握りながら優しく囁いた。


「この端女の浅はかな夢を笑わずにお聞きくださいませ」

 至近距離で女はトリオンの目を射貫いた。


「私は、大僧卿様の御徳をこのサンテネリにのみ止めおくのは貪欲の罪と思っておりますの。願わくば、その御徳を大陸の隅々まで行き渡らせていただきたい。そう思うのです」


 彼はとっさに答えることが出来なかった。

 正教僧王の座は大僧卿達の合議によって定められるが、レムル半島に聖都を構える正教はレムル周辺の都市以外からの僧王候補を非常に嫌う。ことに帝国とサンテネリはいずれも正教の守護者を名乗る大国であり、つながりが強すぎる候補が僧王となれば正教の独立性が侵される可能性があった。それを理解する両国はこれまで自国に近しい「レムル人」の候補者をそれぞれ推してきた。

 それが、クリエ女王、サンテネリ当代の主は、自分を推すというのだ。サンテネリ人である自分を。

 選挙にかかる金は気の遠くなるほどのものになるだろうし、皇帝も黙ってはいない。自分を聖界の王に押し上げるためには、金と力、それも莫大なものが必要となる。現状サンテネリを掌握しきれないルロワ家にその力はない。ただし、ガイユールを併呑し、他の有力諸侯を完全に力で押さえ込めるまでになればその目は出てくる。今のところは空手形である。母后の判断を次代の王が踏襲するかも定かではない。だからあくまでも空手形だ。

 取りあえず、今回の実際的な取引は「ある不幸な若君に聖印の秘蹟を施し、その者を“正教大僧卿として”オンと公認すること」であり、見返りは「現在ガイユール領にまたがる教区の将来の首座」だ。そもそもガイユールを下しきれなければ実現しないものだが、こちらの与えるものとてたかだか聖印であり、クリエ女王と国内有数の諸侯デルロワズ家が立場を裏書きしている青年に追加の後ろ盾を与えるだけである。正教教義の原則から外れた行為ではあるが、何か言いがかりが入ったところでルロワ領の中心部に教区を持つトリオン僧都卿の身の安全は保証されている。


「陛下、もったいないお言葉でございます。光栄に存じますが、臣はまだまだ未熟の身、そのような大業をなすことはとても叶いません」

 考えを瞬時に整理したトリオンの声は落ち着いていた。

「ただ、今後もしその徳に近づくことがこの身にも叶いますれば、その際には…」

「ええ、そうですわね。主の端女の儚い夢でございますわ。でも、僧都卿様が徳の高みに届かれたときのために、太子殿下にもお話しておきますわね」

「誠に以てかたじけなく存じ上げます」


 女王が立ち上がった。話は終わりだ。


 執務の部屋を彼が辞去しようとする間際、付け加えるように彼女が言った。

「僧都卿様、もしお手間でなかったら、この後マルグリテとお話しをしてくださっても? 突飛な出来事続きで少し混乱しているようなのですわ」

「ええ、もちろん。姫殿下にお会いするのはお久ぶりです。光栄に存じます」


 取引の後の会話は軽やかだった。




 ◆




 弟に腕を引かれ小広間を退出させられた彼女は、そのまま城の上階、中庭の見える私室に押し込まれた。

 抵抗はしなかった。


 自分がとった行動が政治的に極めて不味いものであることはすぐに分かった。相手の出方次第では戦にさえなり得る。今回の場合、当事者デルロワズ家は当然のことながら、比較的従属度の高い諸侯、そして状況によってはルロワ家が直封した軍伯たちですら王家の非をならすだろう。

 ルロワ家が単体で動員できる騎士達の数はそう多くはない。相応の直轄領を持つとはいえ、未だルロワ家は諸侯の首座であるにすぎない。支配者ではない。


 将来相応の大家に嫁ぎ家を差配するだろうマルグリテに、母后は政治に関する一通りのことを教えていた。やがて王位を継ぐ弟に対するような組織的な教育ではないが、母との会話の中で彼女が学んだことは多い。大家はどうあるべきか、他家と付き合う際の注意点、サンテネリ領域全体を見る視点、中央大陸全体を俯瞰する意識、そして複雑極まる貴族家の婚姻関係。面白いともつまらないとも感じたことはなかった。自分には母のように主導権を持って家を動かすことなどできないし、その機会もないだろう。あえてそれを為したいわけでもない。

 自分が嫁ぐ可能性が高い家は大体想像が付いていた。サンテネリの大諸侯あるいは帝国の有力諸侯、時勢を鑑みるに可能性は低いが、場合によっては皇帝その人かもしれない。

 いずれにせよ、彼女が力を振るえる環境ではない。しかるべき大家は盤石の家臣団を持ち、家宰を中心とした運営がなされている。「お若い奥方様」に求められるのは実家との関係を絶やさず、子を産むこと。それだけだ。


 いや、あと一つ、求められることがある。それは“政治的失点となる行動を取らないこと”。


「エレーヌ、お茶をくださらない?」

 中庭を眺めながら、マルグリテは侍女にそう告げた。呼ばれたのは側仕えの侍女の中でも比較的若い、十七歳の少女である。ルロワ領内に封じた軍伯の次女であり、その家風が隠しきれぬに現れている。より好意的に表現するならば活動的である、と言えた。

 マルグリテはその生命力を可愛がった。自身が心の底に押さえ込んでいるものを自然と解き放つ姿は新鮮だった。小柄でおしゃべり、始終あちこち動き回る姿を見るのが好きだった。


「姫様、ご気分がよくなられたのですか?!」

 女官頭によく叱られているらしいそのこの大声も嫌いではない。


「ええ、少し風に当たったら、胸のつかえが落ち着きました。喉が渇いたの」

「すぐにお持ちいたします」


 少女がいつにもまして力をみなぎらせ、お茶の手配に赴こうと木扉を開け放ったとき、目の前には別の侍女が静かに直立していた。


「エレーヌ、静かにね」

 長身の侍女が声を落としてエレーヌを窘める。


「はい! クロディネさま」

 静けさの欠片もない元気な首肯とともに走り去るエレーヌをクロディネと呼ばれた女は無表情で眺めていた。そして小さなため息を一つつくと、石床を舐めるような足取りで室内に数歩進んだ。


「あらクロディネ。監視役がエレーヌではご不安かしら」

 からかいを含ませたマルグリテに、返ってきたのはほんの少しだけ無作法な言葉だった。


「はい。あの子には不向きなお役目でございます」

 自身の主君たるマルグリテは現在丁重な軟禁状態にある。しかし、それをなかったことにするのが側仕えのたしなみであった。姫様はお体の調子が優れずご休養なさり、侍女達は心配のあまり看病している、という構図だ。

 それを「監視」であると当たり前のように認めてしまうあたり、クロディネはエレーヌとはまた違った個性の持ち主だった。小柄で元気、おしゃべり好きなエレーヌと大柄で物静か、必要なことだけを口にするクロディネ。この対称的な二人の侍女のことをマルグリテはとても好ましく思う。正反対の二人がある一点、共通したものを持つからだ。「裏表がない」という。


「姫様、お客様がいらっしゃいました」

「お客様。その方はひょっとしたらをお持ちかもしれないわね」

「いいえ、武器の類いは何も帯びていらっしゃいません」


「監視」に比べて、今回の一言は少し行きすぎてしまった。クロディネが様々な含意を一切斟酌せず動くのはひょっとしたら彼女一流の処世術なのかもしれない。

 マルグリテが今回の出来事で斬首されることはない。彼女は次代の王姉である。他家への侮辱がいかに波紋を広げようとそれは流石に行きすぎた処置だ。それを分かっていながらあえて「大きな斧」などと言ったのだ。

 捨て鉢になっている。マルグリテの自己認識は正鵠を射ていた。


「ではどなたなのかしら?」

「トリオン大僧卿猊下でございます。聖堂にてお待ちです」

「まぁ! が。すぐに伺わなくてはいけませんね。…わたくしはここを出ても?」

「はい。女王陛下のご許可を戴いております」


「大きな斧」はあながち外れてはいなかった。自分は僧院に行くのだ。「やっかいな貴種の女」の存在を消す優雅な方法。しかし、彼女はある種の安堵を感じている。僧院で静かに祈り暮らすことで、自分が陥ってしまった獣欲の罪を洗い流す。それは悪くない未来だと思った。


「では参りましょう」




 ◆




 マルグリテ王女とトリオンは旧知の仲である。幼いルロワの姉弟に正教の教えを説いたのは、彼がまだ僧正に上ったばかりの頃だった。神とは何か、人とは何か、善いとは何か、悪いとは何か、世界とは何か。正教の教えに忠実に、ただし押しつけにならぬよう巧みな問答によって教えた。「あらかじめ定まった」解に、彼女らが自分の力でたどり着いたかのように誘導することこそが、トリオンの望むところだった。

 正教の教えは真理である。真理であることが定まっているのだから、人はそれをただ受け入れれば良い。そう考える者は正教会内にも多い。トリオンは表面上賛同しながらも、少人数を対象にした——彼の地位を考えればその対象の多くは当然高位貴族の子弟である——教説においては自身のやり方を通した。

 彼は父を戦で失い、次いで母を流行病で亡くした。まだ成人前、十四の頃だ。家督を継いだ兄は彼を庇護し身を立ててやろうとはしなかった。兄とはいっても成人してまもない若者である。家を経営することに手一杯で、弟たちにまで気を配る余裕がなかったのであろうことは、様々な人生経験を経た今の彼にはよく分かる。

 小柄で風采の上がらぬ少年は我が身の不幸を呪った。この不幸は他家にはなく、自家にだけ降りかかった。その不公平を呪った。

 小領主の家である。従えるは小さな寒村一つ。領主といっても領民は皆顔見知りである。だから悪政を敷く余裕などなかった。税の取り方が少し変われば人は死ぬ。顔見知りの誰かが死ぬのだ。彼の家はだから配下の村を大切に扱ってきた。見方を変えれば彼の家は村の付属品に過ぎなかった。その甲斐あって兄が家督を継いでも表面上大きな混乱はなかった。領民達は若殿を主君と仰いだ。

 ただ、村の知った顔がふとしたときに浮かべる不安げな表情が彼を怯えさせた。この山間の閉じた世界、安定した世界は一瞬で崩れ去ってしまうかもしれない。

 父が死ななければ、母が死ななければ、自家が大領を持ちたくさんの家臣がいれば。彼は幼い心で運命を呪った。しごく単純な、幼い呪いである。


 そんな時期、彼はある発見をした。

 聖句典に記された「神は人の物語をそうあるように描かれた」という一節である。

 言葉自体はより幼い頃から知っていた。我々人の運命を定めた神という存在があることは当然知っていた。ただし、知っていただけだ。そしてこの苦境において、彼はその意味を「発見」した。これが真理である、と。

 自身の置かれた境遇は神によって「そうあるように」描かれたのだ。この世の始まりにおいて。父母の死も自身の無能も平凡な容姿も、家の貧困も何もかも、神が描かれた物語なのである。それを理解した時、トリオン少年の心にもたらされた安堵は途方もないものだった。これはことなのだ。神が描かれたことであり、自分にも父にも母にも兄にも咎はない。

 彼は家を出て僧院に入った。上級貴族の次男三男のようなギラギラした出世欲はない。ただ、自分の感じたあの温かいもの、あの安心を他者にも「気づかせたい」。教えるのではない、気づいて欲しい。そう願った。

 それがトリオン大僧卿、サンテネリ国王を補弼するイレン大教区の首座にして正教会の「ほぼ」頂点に至った男の原風景である。



「姫殿下、お久しゅうございますな。神の御裾の元、ご壮健でいらっしゃいますか」


 王宮の離れに建つ小聖堂の中で、トリオンは王女を出迎えた。小聖堂は王族の個人的な信仰の場として使われる会堂である。部屋の中には椅子が二つ、正対して並べられている。羅紗張りの幾分豪華なそれは僧の、より簡素な木椅子は信徒のもの。高所に空いた窓から指した日がちょうど二つの椅子の中間を隔てている。


「僧正様、わたくしは神の御裾のもとに…」


 そこでマルグリテの喉が詰まる。ただの挨拶に過ぎないが、それは嘘だ。——健やかに過ごしてなどいない——

 トリオンは王女の思案を見て破顔する。ただでさえ小ぶりの瞳はほとんど見えないほどにまで細められ、不釣り合いに大きな唇が柔和な弧を描いた。

 彼のことをと呼ぶのはマルグリテだけだ。姉弟を教え導いた時期、ちょうど彼は僧正だった。その後大僧正、今では大僧卿となったが、マルグリテにとっての彼は未だに「お優しい僧正様」なのだ。


「姫様、よいのです。ただの挨拶ですよ。臣が拝見する限り姫様はご壮健でいらっしゃる。それでよいのです」

「ありがとうございます。僧正様」


 マルグリテは裳裾を纏め木椅子に腰を下ろした。

 想像したほどには憔悴していない。身体の筋はしっかり通っている。女の身のこなしを観察してトリオンは少し心を軽くした。


「ここでこうしてお話をいただくのはもう何年ぶりかしら。最近はイレンのお堂に伺っておりましたから」

「臣も同感です。ここで姫様と相対しますると、まだ姫様が臣の腰ほどの背丈であらせられた時分を思い出します」

「ええ、この椅子に座るだけでも一苦労でしたわ。毎回ちょっとした山登りの心持ちでしたの」


 トリオンは声に出して笑った。あえて。


「あれからもう十年をとうに過ぎました。姫様も太子殿下もご立派にお育ちになった。臣にとってこれほどの喜びはございません」

 柔和な声。男性としては少し高めの明るい声。それでいて下卑た感はまるでない。


 ——目の前の僧正様は氷のようにこわばった自分を解きほぐそうとなさっている。笑顔と声で。

 マルグリテはそれを感じ取って少なからぬ後ろめたさを覚える。幼時から可愛がってくれたトリオンを失望させ、さらに僧院送りの宣告までさせる自分。愚かな生き物だと思った。だからこそ、「最後の嫌なこと」を彼にさせたくはない。

 あなたを僧院に送る、と彼は優しく、しかし断固として通告するだろう。それは心優しい彼にとって辛いことであろうと彼女は推測した。目の前の男が優しいだけの僧でないことは長じて知った。様々な手練手管を持つ有能な政治家であろうことも。ただ、それを知ってなお、マルグリテにとってトリオンは「お優しい僧都様」なのだ。


「ねえ僧正様、わたくしが赴く女僧院はどちらになりますの? できることならイレン教区がよいのですが…そんな我が儘はよろしくありませんね」


 虚を突かれた彼は一瞬戸惑った。女僧院? そんな話は女王から聞いていない。


「なぜそんなことをお聞きに?」


 だから直接尋ねることにした。対話は常に問いから始まる。


「わたくしは罪を犯しました。それを償うには生涯をかけなければなりません」

「罪とは?」

「もうお聞きになりましたでしょう。私はデルロワズ家の皆様に礼を失した行いをいたしました。先方も強くお怒りのはず。王の娘が取ってはならぬ行動です」

「ああ、そのこと。少しだけ聞き及んでおります。デルロワズ公の御三男に贈剣の儀をなされたときのことですかな」




 ◆




 デルロワズ公の御三男。その一言を認識しただけで、彼女の脳裏は瞬時に真っ黒に染め上げられた。


 ユヌ。 ユニウス。


 彼女の略取を狙った襲撃の日、天幕を飛び出した彼女は目の前に人の帯を見た。横一列に伸びた帯。

 慌てて後を付いてきた侍女達が彼女を天幕に引き戻そうとする。それを渾身の力で振りほどき、じっと目前を見る。


 彼を探した。先刻自分をむさぼった半人。

 しかし見つけることなど不可能だ。皆一様に黒い布をまとい、長い槍を持ち、等間隔に並んで微動だにしない。背中ではなく、せめて正面からであれば見つかるかとも思うが、帯の向こうに「何か」がいることは分かる。この帯は自分を護るための鎧なのだ。


 ——ではこれが半人だというの?——

 半人は城の郊外に群をなし、領主が与えた畜舎に住む生き物だ。ほとんど住処から出ることもなく、与えられた餌をむさぼり気ままに歩き回る。人間の形をした家畜の群だという。

 今彼女の瞳が映す半人の姿は家畜にはとても見えない。秩序があり、力がある。そして意志を感じる。

 彼らは自分を護ろうとしているのだ。


 呆然と立ちすくむ彼女の耳に飛び込んできたのは一筋の稲妻だった。一振りで場を支配し、人を畏怖せしめる雷だった。


「喊声っ! 槍打て!」


 これが意志だ。帯として一個の生物となった半人達の意志が言葉に結実している。


 ユヌの声!


 ユヌが、あの子犬さんが、あのたくましい「男」が、あのわたくしの騎士が、わたくしを守護する。


 声を合図に無数の槍先が揺れ、幾重にも重なる雄叫びが平原を満たした。耳鳴りがした。こんな音は生まれてこの方聞いたことがない。

 戦から凱旋する父の軍隊を言祝ぐ民衆の嬌声と比較してみる。そんなものではない。

 これは想像したこともない、一個の「巨大な生き物」が放つ咆吼だ。


 喉が詰まる。息が吸えない。やがて瞳は景色を映すことを止め、意識が途絶える。最後に焼き付いたのは、巨大な生き物がゆっくりと歩み出す姿。


 わたくしを護るために。




 ◆




「姫様? なぜそのように心乱されるのです? デルロワズ公の御三男は若き日に半人と取り違われたお方とか。いかにそれが過ちであったとはいえ、つい先頃まで半人であったものに贈剣など、姫様がご不満を抱かれるのも当然であろうと臣は感じますが」

「ええ、ええ、そうなのです! 僧正様はおわかりいただけますね。わたくしはルロワの王女として、半人に剣を与えなければならなかったのです。これほどの恥辱はございませんわ!」


 先ほどまでのたおやかな淑女はもうそこには居なかった。椅子を蹴り飛ばさんばかりに立ち上がり叫ぶ。


「臣は思うのです。取り違えなどありうるのか」

「わたくしも再三王太子殿下にそうお伝えしました。しかし全く取り合ってくださらないのです! 母上もそう! ええ、分かりますわ。政治ですもの。デルロワズ家とはもめ事を起こしたくないのです。だから…」

「実際にも怪しいものですな。その者が半人の群を操って敵方の騎士を打ち倒したと聞きましたが、はて、誠のことか。臣は無駄に歳を重ねてきました故、いかがわしい嘘や詐欺の類いもさまざま見てまいりました。姫様がそこまでご立腹なさるということは、はただの半人でしょう。そしてもし戦の顛末が本当ならば、半人共を戦に駆り立てたのはではない。現場に居られ、かつ最大の魔力をお持ちでいらっしゃるお方、つまり姫様のはず」


 一定の調子で、極めて冷静に。淡々と。彼は言葉を紡ぎ続ける。


「とすると、姫様は二重に侮辱を受けたことになりますな。実際に戦を勝利に導いた姫様のお手柄をはかすめ取り、勝利を詐取された姫様からさらに贈剣までせしめたのですから。これは全くもって不逞の輩。は自然の摂理を乱す獣です。この管区を預かる者として看過することはできません。古来より、人に従わぬ家畜は処分するのが慣わし。万事臣にお任せください。に…」


「ユヌは卑劣などではございませんっ!」


 もはや叫びを超えていた。怒声である。両の手を握りしめ胸元で震わせながらマルグリテの主張は続く。


「私は見ました。その場で見たのです! ユヌが半人達を指揮した姿。彼の声は天からの雷のように響きました。わたくしも、この魔力を持つわたくしもユヌにひれ伏しました。彼の魔力こそが、あの半人達を戦いにせき立てた。しかも彼はその群の中で、自分も槍を携え戦いました。ユヌは決して逃げ隠れいたしません。勇敢に賊に立ち向かい殊勲をあげた。ユヌは戦の前わたくしの元に来て、わたくしを護ると約束してくださいました。何という高貴な誓い。馬上で旗印をはためかせる騎士達など、彼の武勇には決して及びません。彼らは逃げ場もなく、自身の足で地を踏みしめ、迫る騎士と対したのです。僧正様、わたくしはこの目で見たのです!」


 喉から血が噴き出しそうなほど、声量の限りにマルグリテは喚き立てる。


「なんと。では殿オン、それも貴人シュルオンではありませんか」

「ええ! ええ! おわかり頂けますか? 殿は騎士ですわ。名高いデルロワズの殿方たちに勝るとも劣らぬ武勇。すぐに国中にその名は広まります。勇敢で高潔な騎士として。不幸な生い立ちに立ち向かい、身を立て、ルロワ家を守護する偉大な騎士です。その殿は、このわたくしに、このわたくしに忠誠を捧げてくださったのですよ」


 先ほどとは打って変わってマルグリテの台詞にうっすらと色が混じってくる。語気は徐々に緩やかに、最後は消え入るように聖堂の天井に吸い込まれていった。


「なるほど。臣の早とちりでございました。そのような素晴らしいお方なのであれば、臣も安心して聖印の儀を執り行うことができましょう」

「聖印?」

「はい。本日女王陛下からお呼びをいただいたのは、ユニウス殿への聖印の秘蹟を施すようにとのご依頼でして」

「それはおかしなお話ですわ。は半人ですから、聖印を与えるなど…」

「はて。姫様、ユニウス殿は強大な魔力をお持ちの高貴な騎士であるとおっしゃったではありませんか」

「いいえ、は半人ですわ」


 ——もしや気狂いか。

 トリオン大僧卿の脳裏に最悪の想像がよぎる。彼女の中ではデルロワズの若君は「彼女を守護する誓いを立てた高潔な騎士」であり、同時に「畜生たる半人」として存在する。片方が真ならば片方が偽となる単純な二択だ。

 これは大仕事だと彼は認識を改めざるを得ない。それこそ将来の僧王選挙で全力の後援をしてもらわなければ割に合わない。


「姫様。なぜ姫様はユニウス殿を騎士と思われるのです?」

「先ほども申し上げたように、まず魔力をお持ちです。さらに高潔な心根を持ち、わたくしを護る誓いを立ててくださいました」

「では、なぜその同じ男を半人と思われるのです?」

「それは…ユヌは昔から半人でした。ユヌは昔、デルロワズの城で飼育されていたのです。わたくしたち、幼時は夏にデルロワズのお城で過ごしましたでしょう。実はわたくし、そこでユヌにも会っているのです」

「なるほど。では、どちらの姿が本当の「彼」であると思われますか?」

「今…、今の彼は騎士ですわ」

「ということは、彼は騎士ですな。マルグリテ王女殿下の忠実な騎士、高潔な騎士です」

「でも…」


 二の句を告げない彼女の姿に、この先に核があることを察知した彼は、一人の僧として至極真っ当な助け船を出した。


「姫様のお心は定まっていらっしゃる。だのに一方でデルロワズの若君を半人と見做したいなにかがあるのですか? 臣はこのような貧素ななりをしておりますゆえ頼りなく思えますが、実は正教の僧なのです。ご存じでいらっしゃいましたか?」


 冗談を交ぜた彼の言葉にマルグリテは微笑み返した。


「まぁ、僧正様がただの僧だなんて。正教会の柱石たる大僧卿猊下でございますのに」

「ええ、ええ、そうなのです。思い出して頂けてよかった。臣はイレン教区大僧卿でございます。つまり、姫君のお心のつかえをお話しして頂いても差し支えない立場であるといえましょう。わたくしでご不満であれば、あとは僧王猊下にお越しいただく以外にはございません」


 信徒の告白を聞くのは僧の務めである。その秘密は決して漏らされない。

 もちろん告白を政治的に利用することは原理的には可能である。ただし、正教大僧卿に対してサンテネリ王家の姫が行った告白が何らかの取引の手札として使われたとき、王家は絶対に彼を許さないだろう。そして、告白聴取の禁忌を行った彼を正教会もまた決して許さない。これまで正教会が積上げてきた俗界における信用の喪失である。一番穏当なところでトリオンの自裁。最も過激な結末はサンテネリ王国の正教会離脱である。

 つまり、秘密は守られる。


 ——もういい。そう思った。頭を渦巻いていることを全部目前の僧に委ねてしまおう。彼女は心底疲れ切っていた。

「…わたくしの心を僧正様に委ねます」

 用意された椅子に再び深く腰掛け、ぽつりぽつりと話し始めた。

「わたくしはユヌを、ユニウス殿を幼き日より半人として扱って参りました。犬のように扱ったのです。無論手荒なことはしておりません。ただ、幼時とはいえ、召し替えの最中に肌を見せたこともありますし、一緒に昼寝をしたこともあります。誓って申し上げますが、当時のわたくしにとってユヌは“かわいくて従順な子犬”以上の存在ではありませんでした。」

 先ほどの狂乱が嘘のように、マルグリテは淡々と言を並べていく。

「ユヌは群に帰り、再び出会ったの襲撃の前日でした。ジャン若公が紹介してくださいました。その時見たユヌは、確かに昔の黒い子犬のような雰囲気を残していました。波打つ柔らかい髪や大きな瞳はそのままです。ただ、そのとき…」

 そこで彼女は口を閉じた。

 トリオンは待つ。この哀れな乙女には心の整理が必要なのだ。


 やがて意を決した彼女は再開した。

「その時はまだ、ユヌが幼き日に取り違えられたデルロワズ公の庶子である事実は説明されませんでした。ただ、デルロワズ家の半人頭である、と。ユヌと私は見つめ合いました。そこで私は……かすかに、彼に「男性」を感じてしまったのです」


 トリオンは何も答えなかった。ただ彫像のようにじっと座っていた。


「翌日、襲撃の最中、彼がわたくしの天幕にやってきました。そこに居たのは一人の騎士でした。わたくしは混乱しました。ユヌは半人です。畜生なのです。それを理解しながら、わたくしは————彼に護られ、抱かれる夢を見ました。」


 ああ、そういうことか。

 トリオンはようやく合点がいった。稀にある事象だ。半人の群を飼育する下級役人の中には半人を手込めにしてしまうものがいる。会話と行動さえ見なければ半人の女体は人間の女性と変わりがない。身分も低く縁談の宛もない若者が破れかぶれに起こす「獣姦」である。聴取の儀においてそのような告白が為された場合、僧はその男に獣欲を抑えるよう諭し、改心を促す。そして、交わった半人を「処分」する。話はそれで終わりだ。

 だが、ルロワの姫、ルロワの真珠にこのような話を伝える者などいようはずがない。信仰心の強いマルグリテだから、さぞかし悩み抜いたことだろう。半人に男を感じるなど、犬や馬と交わりたいと思うようなものだ。明確な禁忌である。

 しかし、今回の場合は何の問題も無い。ただの「不幸な勘違い」に過ぎぬのだから。


「姫様、臣が幼い頃にお伝えした聖句典のこの句を覚えておいででしょうか」

 ゆっくりと、言葉がマルグリテの心に染みこむようにゆっくりと。


『神は人の物語をそうあるように描かれた』


「はい、もちろん覚えておりますわ」

「それが、臣がお伝えできる姫様へのお答えです。幼き日のユニウス殿への仕打ち、そして再会してからの姫様のお心。すべては主が描かれた物語なのです。姫様は主の物語のままに行動し、感じ、生きられました。主は姫様の生に一つの試練を描かれた。類い希な殿方をし、手ひどく扱い、それに気づき後悔し、苦しむ。そのような試練です」


 ——わたくしは主の物語を歩んだ。わたくしがそうあるように主が描かれた。

 髪の一房から爪の先に至るまで、すべてのこわばりが解けていく感覚を今彼女は味わっている。意志がせき止めた最後の関門が開かれ、その明緑の瞳から涙がしみ出してくる。


「…わたくしっ…おそ、おそろしくて…けがれて…」

 嗚咽と言葉は両立しない。呼吸のわずかな合間を縫って、辛うじて聞き取れる単語が漏れ出していく。


 大僧卿は姫の背中をさすりなどしなかった。涙を拭く手布を差し出すこともなかった。ただ椅子に腰掛けたまま、すすり泣きを続ける彼女を見続けていた。


「正教大僧卿トリオンが信徒マルグリテ・エン・ルロワに述べます。汝は主の御心のままに生きた。責はない」


「僧正さま! わたくしは、ユニウスどのは、わたくしは…そのわたくしを…」

 まとまらない言葉の意図をトリオンは正確にくみ取った。


「ユニウス殿はここ数日中に聖印の秘蹟を受けます。臣がそれを授けます。ユニウス殿はデルロワズ家の公子でありサンテネリの姫君に贈剣までいただいた若殿。先ほどの襲撃を見事撃退なさった魔力と胆力をお持ちだ。今後デルロワズの兄君たちとともに永劫ルロワ家を守護なさる。そしてとりわけユニウス殿は、剣の送り主たる乙女を守護する義務を負うのです。そんな高貴で豪胆な殿方が、かような運命に苦しめられ、懊悩されたあわれな姫君をお許しにならないなど、そんなことがございましょうか。」


 マルグリテは真珠と渾名される柔い白肌の持ち主である。

 今彼女は肩から巻いた大判布の先、その細い首筋から耳の先までほんのりと紅色に染め上げられていた。


 ——ユニウスはわたくしの騎士。

 その言葉が、彼女の身体の内奥まで赤く染めた。

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