第5章 『随想』にみるユニウスの活動

”「注ぎ」は分かち。閉じた杯に注ぎはなされない。空の杯こそ求めるもの”


 サンテネリにおける教育思想史の幕開けとなったこの記述は、現代の教育行政においても未だにその影響を残している。小等学校の5期(10〜11歳)に児童達が受ける「全国知検」は子ども達を中等学校と実業学校、どちらかへの進学に振り分ける。

 中等学校に進んだ者は高等学校、そして大学入学者資格試験を経て各大学に進学する。実業学校に進路を振り分けられたものはそこで工業・商業・農業・あるいは近年必要性がますます高まる電工業の基礎技術を学び、多くはそのまま企業に引き取られていく。中でも優秀な一部が実業高等学校へ進学する。

 現代においては「全国知検」は時代遅れであり、サンテネリの過剰な学閥主義(政界・官界・経済界の指導者とその予備軍の実に九割がある特定の大学卒業者に限定されている)の元凶であるとの批判は多い。一部教育学者の実証研究から、選別時期が小等学校五期である根拠が薄弱との指摘も為されている。ご存じの通り、サンテネリの「国民教育」は第18期に起こった革命とその後の混乱の中で成立し実に200年の伝統を持つ。第18期当時の識者たちがユニウスの思想に慣れ親しみ、強く共感していた事実を鑑みるに、彼の『随想』は何らかの形で「全国地検」の実施年にまで影響をおよぼしたことだろう。


 ユニウス・エン・デルロワズはサンテネリにおける教育史の始祖として一般に理解されている。しかし、当然のことながら、彼の生きた第9期以前にも教育活動は行われた。

 貴族は貴族の家で、自由民は自由民の家で、家業に必要な様々な技能を父や年長の兄弟から学んだ。貴族の中でもより中流以上の家になると、そこに家庭教師が加わる。彼らは例外なく正教僧であり文字の読み書きが出来た。「諸民族のうねり」を経てなお生き残った古代の書物や各家に残された文書を、彼らは教え子に口伝する。教え子が優秀であれば読み書き自体を教えることもあった。特に中流貴族の次男・三男は武名を以て独立領を得るか僧院に入る以外道はない。後者の道が選ばれた際、読み書きの才は教会内での出世に大いに役立つからである。

 このような教育、いいかえれば家伝と、ユニウスに端を発する教育の本質的な違いはなにか。それこそが冒頭に示した一節の言う「選別」である。

 家伝教育において選別は必要ない。自身の子どもである。出来が良かろうが悪かろうが、それを受け入れて教え込むしか道はなかった。打擲や食事抜きなど、現代では明らかに虐待と認定されうるありとあらゆる手段が使われ、子ども達は「成形」されたのである。一方ユニウスの示した道はそれとは大きく異なる。半人達には「家業」はない。さらに、家伝を施す親の存在も極めて微小なものだった。つまり、「将来の定まらぬ、無数の子ども達」が存在した。

 後年のユニウスを鑑みるに、最初の「注がれ」のあと、彼は半人の子どもたちに文字通り現代的な意味で「教育」を施したのだろう。

 理解できる者、理解の浅い者、理解の出来ない者の三者を選別し、前二者にのみ様々な知見を注いだ。彼の「注ぎ」を最も深く理解したものたちは、彼の元で軍事・政治における忠実な腹心群を形成するようになる。理解の浅い者たちは、数限りない戦の中で鍛え上げられ歴戦の兵となった。後に「黒針鼠スール・ノワ」と渾名されることになる彼の歩兵部隊の中核を担ったのはおそらく、この時選別された子ども達が長じた姿であったことだろう。

 では、選ばれなかった子ども達はどうなったのか。この問いはユニウス研究者たちにとって誠に都合の悪い問題である。現代的な道徳観を重ねて彼の行動を評価する傾向のある研究者は控えめに調されたと述べる。そして、そのような偏向を持たない研究者は直裁にされたと表現する。

『随想』に直接的な記述はないものの、当時の人口と食料の関係を考えたとき、半人群を能動的な集団として機能させてなお全員を養う余力はデルロワズ公領には存在しなかった。後年のユニウスの事績から当然のごとく推測できることだが、彼はその端緒から半人の「武力化」を考えている。これまで所在なく部屋の隅に佇むのみだった子ども達を教練する以上、必要な栄養素は大きく増える。倍増といってもよい。それは公家が与える飼料の総量を上回ってしまう。ある種の調が必要であった。

 ただし、ユニウスにとって子どもの調は最後の手段であった。というのも、数の多寡は軍事力を数値化する最も単純で最も重要な指標である。一人でも多く手兵を確保したい彼にとって、子ども達よりも先に調できる半人達が存在した。

「注ぎを受けぬ者」つまり「大人」である。


『随想』の中頃にある「選択の節」を見てみよう。


 ”生は選択コーズである。意図の成就は選択の果実である。私は選択を行った。その重荷バダンは私に課せられる。私以外に課せられない。神や運命のような空疎な観念には課せられない。私に課せられる。”


「選択の節」は、中期の人間においては誠に異質な感覚をユニウスが保持していたことを示す根拠として引用されることが多い。

 中期の人間にとって、人々の生は神の定めた運命によるものと考えられていた。良いことも悪いことも、神がそれを人に与えたのである。この考え方は「諸民族のうねり」の大混乱の中で恐らく地上の地獄を存分に味わったであろう民衆の心を慰める絶好の材料だった。悪いことは全て神の思し召し、言い換えれば責任の所在は神にある。自分が悪いわけではない。事実、当時を生きた一般の民衆にとって、ほとんど全ての「悪いこと」は天災であった。自分たちにできることは何もないのだから、そう考えるのは当然であろう。しかしユニウスは神への責任転嫁を拒絶する。自身の重荷である、と。

 この記述は、彼がデルロワズ公子として幾多の戦場を戦い多数の命を奪ったことを念頭に置いたものと解釈されている。しかし、『随想』の主題は「注がれ」と「注ぎ」、つまり、覚醒した半人としての日々、デルロワズ公子を名乗る以前の時期を描いたものなのだ。よって、この「選択」もまた、彼が半人群に属した時期に行った何らかの行為に関わっていると考えてもおかしくはない。


 ユニウスが群に帰った3年後、当代の半人頭が死去し、ユニウスがそのあとを継いだ旨がデルロワズ公家の記録に残されている。「ヌビ」と『随想』に名をとどめるその半人頭の死が自然のものだったのか、それとも「何か他の要因」によるものだったのか、我々は知るすべを持たない。ただ、『随想』の記録を時系列で整理すると、この時期ユニウスは群の主立った子ども達を配下に収め、「注ぎ」、訓練を始めていた。しかしデルロワズ家の記録における餌の配給量は一定に収まっていることは一つの傍証である。


 もう一つ、仮説を補強するものがある。

 前述のように、ユニウスが最初の「注ぎ名付け」を行ったのは同居の少女だった。城から出された次代の半人頭は当代の住処に仮寓しその行動を学ぶ。つまり、同居の少女の父親は「ヌビ」であった可能性が高い。同居の少女がのちのマリー・エネ・エン・バロワであるとの仮説があることは前に述べたが、それらの状況をつなぎ合わせると、マリーの父親を殺したのはユニウスであるということになる。

 後年バロワ女伯となった彼女は入り婿との間に一人の男児を授かった。バロワ伯領に行幸した女王マルグリテは、彼女の出産をねぎらうとともに、名をどうするのか尋ねたという。バロワ伯家は創建されたばかりで家伝の名を持たないからだ。

 その際女王はその名高い微笑を浮かべながら「ユニウス」とするか、と言った。ユニウスは「一の男」つまり長男を表す定番名だから、バロワ家の長男に名付けるのに表面上おかしいことは何もない。しかし女伯はきっぱりとそれを断っている。

 曰く、「逆臣の名である。そのうえ、人殺しのバダンを息子に重ねたくない」と。

「人殺しの責」は通常、ユニウスが軍人として数多くの敵を鏖殺してきた、その責と解釈される。しかしそれではつじつまが合わないことがある。その彼の戦を「実行」したのは黒針鼠スール・ノワの指揮官であった彼女自身なのだ。ならば、名付け以前に自身の腹から子を産んだことのほうがより重いバダンの相続であるはずだ。


 この「人殺しの責」に他の意味があったとの説がある。

 ユニウスはマリーの父であるヌビを殺した。その殺しをマリーは認知していた、というものである。自身が親となり、親という「観念」を実感した元半人の彼女は、自身が敬愛して止まなかった主君デルロワズ公が自分の「父親」を処分したことの重みをそこで初めて痛感したのではないか、と。




 半人から軍人へ


 ユニウスの幼年時代に話を戻そう。

 ユニウスは11歳で最初の「注がれ」を受けた。その後彼は身の回りの半人に「注ぎ」を試す。最初に反応したのは彼よりも数歳年下とみられる同居人の娘だった。半人ゆえ正確な生年は分からないが、彼女は恐らく7〜8歳程度であったと思われる。

 その後彼は、一人、また一人と同年代の子ども達に「注いで」いく。名付けに始まり、「数」や「世界」「人」など、物体と観念の狭間にあるような言葉を注いだ。

 彼の「注ぎ」は常に問いによって深められる。

「なぜ?」の問いである。

 痛いのはなぜか、苦しいのはなぜか、楽しいのはなぜか、交合を望むのはなぜか、腹が減るのはなぜか。

 この世界に起きる様々な出来事はおよそすべて「何らかの理由」がある、それを伝え、子ども達の頭の中に回路を作るのである。因果の観念を理解させること。これが重要であった。

 恐らく彼が「注いだ」子どもたちへの最後の問いはこのようなものであっただろう。


「なぜ我々は半人と呼ばれるのか」


 ここまでお読みになった読者諸兄の中にはある種の狂信的な過激思想団体の成立過程を見せつけられているように感じられるかもしれない。恐らくそれは正しい。現代における属領独立運動、サンテネリでいえばアージャンル独立戦争においてもその中核となる勢力は同様の過程を辿って組織化されることが多い。

 最初十人程度の小さな集団から始まったこの教育が生み出したものは、強い信念に支えられ、共同体(つまり自分たちの半人部隊)とその指導者の為に命を投げ打つ覚悟を決めた戦闘集団であった。

 家名と個人の名誉のために「戦もどき」をすることに命をかけていた貴族達の中に突如それが現れたのである。ユニウスが注いだ半人たちデオンはやがて数を増やし、自由民をも取り込み、一つの巨大な勢力としてサンテネリに現れることとなった。

中期の終わりを象徴する存在。


 軍人デオンの誕生である。

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