第4章 ユニウス・エン・デルロワズ公子、クリエ女王の謁見を賜ること

クリエ・エネ・エン・ルロワは当年三十八。じきに四十を迎える。男子に恵まれなかったルロワ家を父から相続し女王に即位した。傍系の公子を婿とし共同統治を始めてもうずいぶん経つ。

 女一人後ろ盾もなく、大陸中の諸侯家からサンテネリ王位を目的とした婚姻を迫られつつも、それらを全て退けて自身が実権を握れる体制を作ってきた。

 夫のことは気に入っている。心優しい夫。言い換えれば意志薄弱でもある。彼女が言えば、大抵のことは受け入れてくれる。彼女には、夫を上手く操っているなどと、そんな意識は微塵もなかった。夫は自分を理解してくれるだけだ。

 彼女は二人の子を授かった。長女マルグリテと長男グロワス。子ども達は二人とも優秀に育った。長女は気立て優しい貴婦人、ただし良識と知性を持った貴婦人として、他家でも上手くやるだろう。恐らくその美貌も娘を大いに助けてくれるはずだ。そして長男グロワス。ルロワ家待望の男児である。来年彼は成人を迎える。まだ稚気は残るも、夫にはない活力がある。何かを為そうとする気概がある。クリエは母として、ときどき無茶をするけど根は優しい息子が可愛くてならない。

 幸い息子には優秀な配下もいる。デルロワズの兄弟と幼い頃から友誼を結ばせたのは正解だった。線の細い学究の徒とも見まごう兄ジャンだが、その言行を息子から聞く限りかなり頭が回る。そして弟のバルデル。こちらは分かりやすい。父親のあとを引き継いでデルロワズの武名、ひいてはルロワの異名を高めてくれるはずだ。戦場で。

 世の母親の常として息子の友人関係は気にかかる。変なものと連んでいないか、息子に好影響を及ぼすか。そして母后として、普通の母親にはないもう一つの視点。「次代のサンテネリ王の役に立つか」。公人と私人の二つの立場から、彼女はジャンとバルデルを眺めていた。


 ルロワ家の首城シュトゥル・エン・ルロワには当然ながらいくつもの部屋がある。中心となる大広間は即位式や婚姻式、「正規の戦」の論功行賞を行うための場である。今回の謁見のような、半ば私的、そして出来ることならば大事にしたくない類いのものに使うことはない。

 よって謁見は王家居住区画にある小広間が使われた。

 広間の奥に並べられた三つの椅子。細かい装飾はほどこされているものの、公的に使用するものとは比べものにならぬほど簡素な木椅子である。


 中央には女王クリエ・エネ・エン・ルロワ

 向かって左には王太子グロワス・エネ・エン・ルロワ

 そして母后の右を王女マルグリテ・エン・ルロワが占めた。


 彼ら母子の目前には三人の男が片膝をついて並ぶ。

 中央にはジュール・エネ・エン・デルロワズ。当代のデルロワズ公であり、大鷹の異名で知られる騎士だ。その右を固めるのは嫡子ジャン、左をバルデルが占めた。

 王家母子とデルロワズ父子の距離は近い。五歩も進めば触れることが叶う。部屋の隅に従兵が配置されてはいるものの儀礼以上の意味はなかった。


 壁面に並びかけられたたいまつが周囲を照らすが、日の入らぬこの部屋には幾つもの闇が残されていた。

 その闇と光の境目にもう一人男がいる。父子から数歩下がったところで片膝を付いて。


 謁見の始まりは母后の言葉だった。


「大鷹殿も隅におけぬ殿方。ファランシーヌはご存じなのかしら?」

 彼の妻、ファランシーヌ・エン・デルロワズは母后の幼馴染みである。貴族の間にそんな関係があり得るならば「親友」と言ってもよい。ともに女の身で男子のいない家を継承し、外から夫を娶り家をもり立ててきた、ある種の盟友でもある。


「お恥ずかしい限りです。妻にはもう死ぬまで頭があがりますまい」

 低く落ち着いた声に似つかわしくない台詞だった。


「そうでしょうねぇ。あの子は怖い女ですよ。私と違ってもう即決即行。大陸を気ままに飛びまわるあの大鷹を仕留めたくらいですもの」

 彼女たちの世代の女性にとって、大鷹は物語中の理想の騎士、理想の殿方だった。それを、に全然興味を示さないファランシーヌが射止めてしまった。当時を思い出し、母后は上機嫌でからかいの言葉を投げかける。


「いやはや、私などとても。今は馬に乗るのも一苦労の有様です。しかし、我が息子達は元気盛り。ルロワ家の槍となり盾となり、立派にお役目を果たすはずです」

「そう、そうですね。そのことよ。先日は本当によくやってくれました。ジャン殿もバルデル殿も立派な武者振りで、見事に」

 母后は右に少し首をかしげ、神妙な面持ちで座っている息子を見た。


「はい。母上。お二人の奮戦なくば、私は今頃骸となってガイユールの地で朽ち果てていた。お二人の忠義に誠に助けられました」

 これは王太子としての明言である。ジャンとバルデルの勲功を公的に証言するものだ。


「ジャン殿、バルデル殿、私からも御礼いたします。よくぞ太子をお守りくださいました」

 母后が座上から軽く頭を下げる。対する兄弟は黙礼した。この場は形式的にはルロワ母后とデルロワズ公の会見であり、二人は随行者に過ぎない。


「そして」

 母后が再び口を開く。

 ここからが本題である。


 彼女は左隣に座る娘の方を見た。自分に似たものをたくさん持った娘。緑の瞳、金の髪、肉感をもつその肢体。そして、彼女が失いつつある若さ。


「マルグリテを救ってくださったお方のことです。太子よりお話しを伺ったときはどこの殿方かと驚きましたが、よもや大鷹殿のお子とは。ジャン殿やバルデル殿の武勇は大鷹殿と“あの”ファランシーヌのご子息ならさもあらんと思いましたが、そうでなくても見事な益荒男振り。やはり戦は殿方の血なのですね」


 同意を求めるように母は娘に語りかけた。マルグリテは常通りの薄い笑みを浮かべていた。答えはしない。


「お姿を見せてくださる? 大鷹殿」

「光栄です。ユニウス。こちらへ」


 “父”の言葉を受けてユヌは立ち上がり進み出た。バルデルの横に並び、同じく片膝を着く。


 彼の姿は遠目には戦場と余り変わらない。黒染めの貫頭衣。ただし下履きを付け長靴を履く。肩からは父や兄弟と同じくデルロワズ家紋が刺繍された大判の黒布を巻き付けている。

 黒づくめの姿は父や兄の亜麻色の髪に映える。しかし彼の場合、髪も同色の黒づくめだ。少し癖のあるそれを肩ほどで切りそろえ、無精髭はそり上げられている。


「御名をどうぞ」

 母后が彼に語りかけた。


「ユニウス・エン・デルロワズと申します。女王陛下」


 心地よい声をしている。クリエはそう思った。父親である大鷹ジュールの声が、円熟の貫禄であるとすれば、この青年の声は、まさに若い優しさを感じさせる。心根が声に出るのだろう。好感が彼女の背中を軽く押した。


「お顔を拝見したいわ」

 通常、随員が顔を上げることはない。私室での交流ならば話は別だが、非公式とはいえ謁見の形式を整えている以上、会話の主体は当主である。

 ユニウスは父に視線を向ける。父のうなずきは許可だった。


 ユニウスは顔を上げた。たいまつの光が眼に刺さる。逆光になって女王の姿はおぼろげにしか見えない。


「思った通りの精悍ぶり。御髪おぐしも瞳も違うけれど、確かに大鷹殿の面影を帯びていらっしゃるわ」

 はしゃぐ少女のように女王は笑った。


 これは好意である。個人の好意であると同時に、ルロワ家からデルロワズ家への贈り物たる言葉。つまり、ユニウスがジュールの種であることが「確実である」と女王が公言したのだ。

 庶子の発覚は貴族社会においてそう珍しいことではない。ただ、その認知でもめ事が起こるのもまた日常茶飯事であった。貴族の血統は土地の継承権と同義である。その血統が怪しいということになれば、より確実な縁を持つ別の貴族が継承に横やりを入れることができる。何らかの原因でジュール、ジャン、バルデルが死亡した場合、デルロワズの家督はユニウスのものとなる。これは非常に危険な状況だ。庶子の発見と認知には闇の部分が大きい。「本当にジュールの子なのか」という問いは常に存在する。そんなとき「サンテネリ女王がそれを認めた」という事実は正統主張の強い後ろ盾となる。


「母上、ユニウスの活躍はそれはすごいものでした。私も実際に戦のあとを見ましたが、賊の二十騎ほどを悉く蹴散らして! 戦が大きく変わりますよ。半人共を使役できるほどの魔力なのです」

「まぁ、半人を!」


 騎士であることに拘りを持つ王太子グロワスだが、意外にもユヌとその半人部隊デオンの存在をあっさりと受け入れた。

 本来であれば「卑怯なやりよう」「戦ではない」と憤ってもおかしくないところだが、実際に婚前式の襲撃は戦ではなかった。卑劣なだまし討ちをはねのけただけのこと。それがまず抵抗感を弱めた。そして決め手はジャンの一言だ。

「大陸の戦はこれから変わります。あのような部隊が。そしてあのような部隊を配下に収めたルロワの王こそが新しい時代を創るのです。『諸民族のうねり』以前のような大帝国を再び」


 ——新しい時代を創る——

 新しい兵、新しい戦術を以て新しい世界を創る。その世界は半ば伝説めいた過去の大帝国であり、自分がそこに君臨する。

 若く活力に満ちた、そして素直な王子の心に、ジャンの言葉は危険なほどに食い込んだ。


 神の如き視座を持つジャン。鼻息混じりに追いすがる賊を叩き潰す騎士の中の騎士バルデル。そして、あの半人達を自在に操るほどの強大な魔力を持つユヌ。彼らを従えるのは若きサンテネリ王である自分。

 サンテネリはルロワ家の元に統一され、いずれ帝国と雌雄を決する。大軍を以て衝突し、最後は我々が勝利を収める。ルロワ家は帝位をも手に入れる。

「正教の守護者たる地上唯一の王国」の王にして「正教の威光のもと諸王を束ねる権威を与えられた人界の君主が領する地」の皇帝グロワス・エネ・エン・ルロワ。

 人は彼をグロワス大王と呼ぶだろうか。

 そんな未来図が十九の少年の脳裏を埋め尽くした。


「それは頼もしいこと。半人を戦に向かわせるなど有史以来聞いたことがない快挙ですね。その魔力、確かに私も感じるところがあります」


 女王の言葉は本心だった。足下に跪く黒髪の青年から確かに何かを感じる。目を惹きつけられるのだ。


 しばし眺めたあと、クリエは儀式の締めくくりにかかった。


「では、新たにデルロワズに加わったユニウス殿に、ルロワの主は剣を授けたく思います。デルロワズの主はそれを許しますか?」


 贈剣の儀式は臣従の誓いの答礼として行われる。今回の場合、デルロワズ家はすでに臣従の誓いを遙か昔に済ませているのだから行う必要はない。現に後継子たるジャンに対しても贈剣はなかった。

 息子からユニウスへの贈剣を求められたとき、それは悪手だと女王は断じた。過度の厚遇は家内の秩序を崩す。「親友」ファランシーヌの息子達にさえ与えていないのに、それを敢えて妾腹のものに与えるのは強い政治的意図となり得る。つまり、デルロワズに家内不和の種をまき内部分裂を狙う行為である。

 だが、贈剣がジャンとバルデルからの申し出であると聞いて話が変わった。

 ——弟ユニウスは不幸な生い立ちゆえの苦杯をなめ続けた。本来ならば与えられる貴族の証を何も持たない。自分たちの「弟」に、何とか目に見える栄誉を授けて欲しい——そう二人から懇願されたというのである。

 政治家としての彼女は考え始める。ユニウスの生い立ちは粗方聞いていた。恐らく二人の兄弟には負い目がある。弟が受けたひどい仕打ち、運命の埋め合わせを望んでいる。

 ただ、それだけではないだろう。ユニウスが指揮したという半人部隊デオン、今後デルロワズでその規模を拡大していくはずだ。恐らくそれはいくさの核になる。その重要な役割を預けるだけの能力がユニウスにあり、ユニウスが決して自分たちを裏切らないと信頼している。兄弟だから? それとも他に何かあるのか。


「エネ・ジャンとバルデル殿が? それならば構いません」

 王家にとって損はない。贈剣を行うということは、ユニウス個人とルロワ家の間に一つの絆を打ち立てることと同義だ。デルロワズ家の疑心を買う心配がないのであればむしろ渡りに船である。


「ただ、ジュール公のお考えは確かなの?」

「そこは私も当然尋ねました。エネ・ジャンいわく、父の望みでもある、とのことです」

「ならば良い。さっそく準備を始めてください」


 許可を出しながらも万が一の可能性を考えた。兄弟の勇み足かもしれない。

 だから贈剣の申し出にジュールが


「光栄に存じます」


 と即答したとき彼女は安堵した。少なくともデルロワズは今のところ一枚岩だ。




 ◆




 剣は貴種の女性から騎士へ贈られる。

「諸民族のうねり」のさなか、花嫁が婿に、あるいは最も信頼する従士に、いくさを前にして剣を贈った風習に端を発する。その剣でわたしを護って欲しい。そんな意味を込めて。

 元々個人間のやりとりだったものがいつしか部族、そして貴族家同士のものへと拡大した。つまり、ルロワ家は剣を贈ることでデルロワズに「ルロワ家わたしを護って欲しい」と伝えるのである。

 遙か昔に起源を失った儀式だが、送り手の性別だけは変わらない。


 最も清純なる乙女が最も勇壮なる騎士に。


 母后の許可を得たあと、では誰が贈るのか、それが問題になる。グロワスは頭を抱えた。あの後幾度か話し合いを持とうとしたが、姉は普段通りの柔和な笑顔で受け流してしまう。馬車の中で見せた激情を思うと気が重い。だが、ルロワ家には他に候補がいないのだ。

 いっそ母上に頼もうか。不敬のそしりは免れない。さらにでもない。ただ、これはあくまでも儀式に過ぎない。剣を選定し渡す。それだけだ。剣は自分が選べば良い。母上には軽く頼もう。案外楽しんで応じてくれるかもしれない。私的な場では意外と幼い振る舞いを見せることもある母だから。


 断られた場合の覚悟を決めて、彼はマルグリテの自室を訪ね話を持ちかけた。


「姉上、今度の謁見でユニウスへの贈剣が決まりました」


 木椅子に腰掛け編み物をする女の手が止まった。


「贈剣? なぜです?」

 口調が鋭い。空気が冷えていくのがよく分かる


「いえ、その、エネ・ジャンとバルデル兄に頼まれて…」

 表面上は柔らかく、しかし明らかに硬質な色が混じる姉の言葉に気圧されてグロワスは口ごもる。


「母上にはお話しを? そんなことはきっとお許しになられません」

「いえ、…母上に、許可を戴きました」

「そんな馬鹿なことが? 殿下。それはおかしなことだと思われますわ。現にデルロワズ家はルロワの封建を受けているではありませんか。それを三男の、それも半人に? 殿下、ルロワの贈剣はそのような軽いものではないはずです。半人風情に与えるなど、他の諸侯方がどう思われるか」


 普段の倍はあろうかという早口。まくしたてると言った方が早いマルグリテの反応を見て、やはり、とグロワスは心内ため息をついた。何が姉をここまでさせるのか。正教の信仰厚い姉上が。半人は大切に保護せよと正教も言っているではないか。それにそもそもユニウスは半人ではないのに…。

 姉の剣幕に推された哀れな弟は穏便な説得を放棄することに決めた。


「とにかく、母上の裁可は下っています」

 母后の命令を盾にするしかない。

 マルグリテは大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。


「…分かりました。ではしかたありませんね」

「儀式は母上にお願いしようと思います」

 もうこれ以上姉を刺激したくなかった。普段穏やかだからこそ、突如情緒を乱すマルグリテが彼には少々怖かったのだ。


「は? なぜ母上なのです」

 手に持った編み棒を傍らの机に置くと彼女は立ち上がり、グロワスの元に歩を進める。この優しげな緑の瞳が真剣な色合いを帯びると怖い。美人は真顔になると怖いものなのだとグロワスは思い知った。


「いえ、それは、その、姉上はお嫌でしょうから…」

「ええ、とても辛く思いますわ。半人に剣を与えるなんて耐えがたい恥辱です。ですが、ルロワの女は母上以外わたくししかおりません。殿下もご存じでいらっしゃるように、贈剣の儀はの仕事。ええ。わたくししかいないのですもの。でも、王家の体面に関わる問題です。わたくしの我が儘でお断りすることは叶いません。女王陛下のご指示もあるのならば、わたくしが犠牲になるほかありません」

「姉上、姉上は先日王家のために犠牲を払われたばかりです。それをさらに、このように嫌なことをお願いするわけには」

「誰が嫌だと申しました? 殿下」


 辛いと言ったではないか。そう口答えしたかった。


「何かおっしゃりたいことがおありですの? 殿下。殿方は堂々となさるべきですわ」

「ならば言いますが、姉上は先ほど“辛い”と…」

「そうです。でも“嫌”とは申しておりません」

「では引き受けてくださるのですね?!」

「ええ、ええ、王命ですもの、仕方ありません。そのうえ殿下にまで命じられてはわたくしに否はないのです」

「命じてなど…」

「いいえ、お命じになりました。あの半人に贈剣せよ、と」


 もうグロワスは疲れ切ってしまった。何が言いたいのだ。やらなくてよいといえばやるといい、やるといいながらいやだという。話がまるで通じない。とにかく姉はやるというのだ。ならばやってもらおう。それでいい。


「分かりました。では、剣の選定と贈与、お願いします」


 それだけ言い切ってグロワスは部屋を逃げ出した。わけが分からない。




 ◆




 従者が捧げる剣を受け取ったマルグリテはゆっくりとユニウスの元に近づいていく。剣の長さは佩用としてはごく標準的なもの。彼女は黒い鞘からそろりと刀身を抜き放つ。諸刃の長剣。柄は比較的長く、女の小さな手であれば両手で握ることもできるだろう。

 装飾は一切ない。実用本位の、使うための剣だ。


 グロワスはそれを見ながら釈然としない。あれだけ何度も宝物庫に赴き、王家の貯蔵する剣という剣を見たはずなのに、その姉が選んだのは何の変哲もないただの実用剣。貧乏な小領主の息子が与えられるような、質素な。あの渉猟はひょっとしたらユニウスに一番粗末なものをくれてやろうという一種の意趣返しなのではないか。そう考えれば得心がいく。

 ——それにしても、一体姉はどうしてしまったのだ。昔の彼女はそんな底意地の悪いことを考える女ではなかった——。


 片膝をついて動かぬユニウスに、マルグリテは一歩一歩、踏みしめるように近づいていく。やがて手の届く距離に二人が揃う。

 彼女は右手に柄を、左手を寝かせた刀身の中程に乗せた。

 たいまつの光を受けてこの金属は乱反射を繰り返す。白光の最中、そこに一点、異なる色がある。薄緑である。柄の尻に大ぶりな緑輝石が埋め込まれていた。


「わたくし、マルグリテ・エン・ルロワは、汝、ユニウス・エン・デルロワズに贈る。この剣に依りて、我が国わたくしを守護したまわんことを」


 ユニウスが立ち上がった。吐息のかかる距離で男と女は向き合っていた。ユニウスの肢体は彼女のそれをすっぽりと覆い隠してしまう。彼は慎重に、女の手に触れぬように、柄の空いた部分に手を添え、握った。


「我、ユニウス・エン・デルロワズは、我が身朽ち果てるまで御家あなたを守護せんと約す」


 マルグリテの視線はユニウスの眼球をなめ回す。そこにはユニウスの中身がある。

 彼のこの、男の身体の中にあるもの、それが見える。それは自分に突き刺さる。

 一本の太い槍、意識の槍が、彼女の双眸を貫き通した。

 自分は今貫かれている。それは耐えがたい羞恥とこの上ない快感を生んだ。違う。わたくしは貫かれてなどいない。わたくしは包み込んでいる。


 マルグリテの意志の固まりがユニウスの槍の纏わり付いて、強く強く締め付けていた。


 やがてユニウスは目を伏せ、再び片膝をついた。


 取り残された彼女は動けない。

 これは一体なんなのか。自分は今、目の前の男に身体の中を滅茶苦茶にされた。

 貫かれた。支配された。

 いや、支配されなかった。抱きしめて手放さなかった。私は快をむさぼった。彼はその魔力で私の獣欲を支配した。


 この半人が。

 私は半人と快楽にふけった。


 彼と出会ってから自分がおかしくなりつつあることは自覚している。たった数日前のことなのに、彼以前の自分と彼以降の自分はもはや同じ自分ではない。同一性がない。

 よく分からない感情が渦巻いている。制御できないのだ。


「近頃の半人は跪礼きれいすらできないのかしら。両膝をつきなさい」


 何を言っているのか自分でも分からなかった。ただ口が動き、右手の指が地を指していた。


 それがささやきであればよかった。

 ユニウスに聞こえるだけならば良かった。不幸なことに石造りの広間は存外に音を反響する。


 とっさに動いたのはグロワスだった。


「バロワ女公! ご気分が優れぬようだ。退出してよい。大義である!」


 マルグリテは母から受け継いだ個人領を持つ。正式な称号はその地を冠してバロワ女公マルグリテ・エン・ルロワ。王太子の言葉はもはや姉に対するものではない。サンテネリ王国後継子が配下の女公に下す明確な命令であった。


 しかしマルグリテは動かない。じっとユニウスの後頭部を見つめている。グロワスがついに席を立ち早足で近づいてくる。とにかく姉をこの場から引きずり出さねばならない。デルロワズへの謝罪はそのあとだ。


 グロワスの手が姉の肩を捕まえる直前のことだった。

 ユニウスは静かに両膝をついた。


 マルグリテが法悦を感じられたのは一瞬のこと。

 わたしは彼を

 刹那にグロワスが彼女を抱き留め足早に引き立てる。彼女は引かれるがまま一切抵抗しなかった。




 ◆




「大きな…借りが出来てしまいましたね。ジュール公、ユニウス殿」

 クリエ母后がぽつりと呟く。


「そのようですな。ただ、姫殿下はまだお若い。ここのところ事件続きでお心休まらぬのかもしれません」


 貴族の世界は誇りの世界である。そして互恵の世界でもある。デルロワズ家は縁戚の直臣諸侯としてルロワ家に従っている。しかしあくまでも互いの敬意の上に成り立つ関係なのだ。

 今回の出来事が本当の公的な場、つまり即位や婚姻など満座の貴族達の前で起こっていたら、両家の関係はこの日を以て終わりを迎えたことだろう。王家の姫が自家の三男、軍功を立て贈剣までなされたユニウスを半人として、つまり畜生として扱ったのである。

 ジュールに取れる行動は一つしかない。息子達を連れて会場を出る。領地に帰り配下領主を集め軍を起こす。帝国にも、先ほど干戈を交えたばかりのガイユール公領にも使者を出し援軍を求める。サンテネリ国内の同胞諸侯に檄文を送り糾合を求める。取り得る選択肢はそれしかない。


 だが、幸い今回は内輪の席だ。母后と妻フランシーヌの伝手もある。

 何よりも、当のマルグリテの様子が明らかにおかしい。それが分からぬジュールでもなかった。

 女王もまた娘の異変に気づいていた。同性であるがゆえにジュールよりも深く。何が起こっているのか、大体の想像は付く。ただ、その表出が極めてやっかいな形だったのが問題だ。

 デルロワズ家との関係は恐らくつなぎ止められる。ただ、何らかの償いが必要だ。その賠償はかなり高く付く。差し出すべきものは一つしかない。


 では、誰に。

 ジュールにではない。


 ジャンか、バルデルか、あるいは、ユニウスか。


 彼女はそんなことを考えながらデルロワズの若君達をじっと眺めていた。

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