第2章 花嫁強奪の試みがデルロワズの若君たちに阻止されること

 ”ルロワの真珠を手にするならば、他に望むはなにもない”



 新暦816年、4月。

 この月は例年にない暑さだった。

 ルロワ王領の首城シュトゥル・エン・ルロワを出た馬車の一団は一路西へ向かった。「諸民族のうねり」が始まる前、世界を治めた大帝国が敷いた幹線道路。盛時は石畳で舗装されていた大道も今ではすっかり荒れ果てて、快適な獣道とでもいうべき規模に縮小している。しかし、ともあれそれは大道であり、サンテネリ領域の北部から北西部へと抜ける大動脈の役割を果たしている。


 白い二台の馬車を核として前後を二十騎程の騎士が付き従う。そして、その隊列の後ろを無数の歩兵たちが続いた。

 馬車の側面には金の絵の具で盾の模様が描かれている。さらによく見ると、盾を下地として巨大な黒い蛇——大槍に貫かれた蛇が鎮座していた。ルロワ家の紋章である。大蛇はルロワ家の領地を流れるロワ河を示し、槍はロワ河中流域の支配権を示す。まことに分かりやすい紋章と言える。

 この紋を付けた馬車に乗っている人物はルロワ王家の人間であろう。


 騎士たちの装いはそれぞれだが基本形は定まっている。顔面が露出した金属製の兜、上半身は分厚い外套で覆われている。胴部からは鉄を鎖状にして編んだ鎧がのぞき陽光を乱反射させていた。


 一方で、隊列の後方を歩く兵士たちの装備は簡素である。簡素と言うよりも庶民の平服そのものである。革の腰帯で締めた麻の貫頭衣からは素肌の手足が飛び出ている。ただ、平服ではないと分かる何かがあるとすれば、兵士たち全員の衣が一様に黒染めされていたところだろう。それ以外に身を守るものといえばは身体の三分の一も覆うことが出来ない木の板。盾と呼称するには貧相な木板だ。頭部を守るものはない。皆蓬髪である。

 行幸の主役たる馬車や騎士に比して、この徒歩の兵たちにはいくつかの特徴があった。

 皆一様に若い。十代半ばの少年たち。よく見ればちらほらと少女とおぼしき姿さえ見える。女性が戦場に立つことがないこの時代においては明らかな異物といえた。

 そしてもう一つ。各自が持つ長槍である。少年たちの背丈を軽く超える長槍である。太い木製の柄に鉄の穂先が付いている。遠方からは、彼ら歩兵の集団は一個の巨大な縦長の立方体に見えたことだろう。


 徒歩行軍に合わせて一行の進みは遅い。平原の中をゆっくりと移動していく。


 馬車に随行する騎士の一人が、不意に前を行く同僚に声をかけた。割れんばかりの大声である。


「エネ・ジャン! エネ・ジャン! 今日は酷い暑さでしょう!」

 ”エネ・ジャン”。そう声をかけられた先方の騎士は振り返り、声の主の横に馬を付ける。


「ああ、今日は本当にきついね」

 きついと言いながらも、声は微塵もそれを感じさせない涼やかさだった。


「こんな暑さじゃあの歩兵達半端者たちも参っちまうはずだ。ちょっと活を入れに行ってきます」

 一方の騎士は暑さに耐えかねたのか、本来は総身を覆うべき外套を左側面に全て流してしまっている。おかげで黒塗りされた鎖鎧がむき出しになっていた。


「バルデル。兄に嘘はいけないよ。ユヌが心配なんだろう?」

「そんなことはない。ユヌは立派な戦士だ。本当に、ちょっと様子を見に行くだけです」


 ——自分たちと違い歩兵は自力で歩いているのだから、元気の残りを見ておかなければならない——、いつもの豪放な断言調を潜めて少し早口にそう付け加える弟バルデルを、兄であるエネ・ジャン、家の当主と後継子のみに用いられる付号「エネ」を名乗るデルロワズ後継子は好ましく思った。

 弟はユヌをとても可愛がっている。自分とて可愛い。


「行っておいで。本当にきつそうならば小休止も考えよう」

「それはいい考えだ! エネ・ジャン」

 兄の承諾を得るやいなや、彼は隊列の後方に向けて馬首を向けた。




 ◆




 前方から行列を逆行する一人の騎士が誰か、ユヌにはすぐ分かった。


「ユヌ! 調子はどうだ?!」


 まるで敵襲を伝える伝令のような勢いでかけてくる兄を見て、彼はふと、主人を見つけ喜びの余り突進する大型犬を連想した。そして少し笑った。

 ——犬は自分の方なのに——

 そんなことを思いながら。


「兄上。まだ行けますよ。あと数時間で日も落ちますから」

「確かにそれもそうだな。ただ、おまえたちは初めての戦。いや、戦じゃないな、これはなんだ…」

「旅行、でしょうか。」

「そうだ。まぁ旅行だな」


 耐えうる暑さの限界を超えたのか、バルデルは兜さえ脱いだ。飛び散る汗とともに、肩に掛からない程度に短くした亜麻色の髪がきらめく。髭は綺麗に剃られていて、その逞しい頬から顎があらわになる。


「兄上」

「ん?」


 声を押し殺した呼びかけにその意図を察したバルデルは、ユヌを伴い隊列から少し離れ、沿道で休止する。彼らの横を歩兵の一団が無言で流れていく。


 降馬したバルデルはユヌと向かい合った。身長はバルデルの方が拳二個分ほど高い。かなり大柄な部類に入るバルデルだから、ユヌの方が平均的というべきだろう。


「兄上、”旅行”で済みそうですか?」

「分からん。そういうのを考えるはエネ・ジャンの領分だからな」

「でも兄上は”戦”だと思われている」


 ユヌの瞳は黒い。一重瞼から大きな眼球が、漆黒の眼球がバルデルをのぞき込んだ。ユヌの視線は太く、兄の顔をなめ回す。


「いや、ただの気負いだ。気にするな」


 バルデルは弟のこの眼を好んだ。明らかに探られている。にもかかわらず、優しく撫でられているように感じるのだ。


「なぜ旅行で気負うのです?」


 弟は存外にしつこい。

 弟はいつも理由を気にする。ユヌが尋ね、バルデル、あるいは長兄ジャンが答える。これをもう何年か繰り返した。二人の兄たちはユヌの問いに様々な答えを与えてきた。教えるのは気持ちよかった。尊敬のまなざしは心地よかった。ただ、気持ちよくなったあと、ちょっとして不安になることもある。——あの答えで正しかったのか?


 今回も同じだった。

 バルデルは自身の行動の矛盾を訝しむ。彼は戦闘を想定していない。だからこそ外套をはだけ兜を脱ぐ。暑い暑いと口走る。

 にもかかわらず、この行幸を戦という。


「それはおまえ、おまえの初陣だから…」

「旅行なのに?」


 ちょっと戸惑った表情でユヌがさらに聞き返した。どちらかというと線の細い輪郭、にもかかわらず不思議な「大きさ」を感じさせる雰囲気を漂わせた黒髪の青年。自分と違い鼻も口も全部小さい。大きいのは眼だけなのに。


「ああ、おまえはいかん! 最近揚げ足を取る。生意気なヤツだ。この黒犬め」


 バルデルはそういいながら右肘でユヌの肩を小突いた。笑みを浮かべながら。大昔に付けた「黒犬」の渾名。


「すみません兄上」


 ユヌも合わせて小さく笑った。話しはこれで終わり。これ以上の深入りは何もいいことがない。


「じゃあ、おれは戻るぞ。あと少しすれば夕刻だ。飯になったらちょっと来い。エネ・ジャンにも顔を見せろ」

「分かりました」


 バルデルは言いたいことだけ言うと馬に飛び乗りすぐに走り去ってしまう。見届けたユヌも遅れた隊列に戻るために小さく駆けた。ただし自分の足で。




 ◆




 日没間近、一行は街道を少し逸れた草むらに陣を張る。


 王家の陣屋を中心に随行騎士たちの天幕が並ぶ。王家に最近侍するのは今回の行幸を取り仕切るデルロワズ家の天幕である。


 集落への逗留が出来ない道中の天幕はそう手の込んだものではない。角材で長方形の枠を作りその対角線にさらに木材を渡す。交点部に短めの木材を立てる。頂部から枠に布を張り上部構造は完成する。あとは地面に打ち立てた太めの木材の上にそれを乗せて、さらに周囲を覆う。大きめのものでも収容できる人数は十に満たない。

 王家のそれも騎士のそれも構造的にはほぼ同じである。違いを出せるのは各天幕の入口に掲示される家紋旗のみだ。


 盾型を二等分し、上部にルロワ家の紋を、下には左を向いて顎を開く大狼を配したものがデルロワズ家の紋章である。ルロワ家紋が上部に配されていることから、デルロワズ家が単なる従属諸侯ではなくルロワ家の庶流であることが分かる。その立ち位置は家名にも示されている。「半分の・ルロワ・ズ」と、ある種身も蓋もない名である。


 天幕の前のたき火を眺めながら、バルデルは数時間前のユヌとの会話を反芻していた。


「なぜ旅行に気負うのです?」


 そう弟は尋ねた。自分はなぜ気負うのだろう。自覚しなかった心の中の”何か”を弟に引きずり出された感じがする。つまり虫の声である。


 確かに今回の行幸が完全に安全とは言えない。だが、そう危険でもないはずだ。目的地はガイユール公領とルロワ支配領域の国境地帯であり、ガイユール公家は名目上とはいえルロワ王家に臣従の誓いを捧げた従属諸侯である。つまり味方の勢力範囲内を移動しているだけといえる。


「バルデル?」


 気がつけば兄ジャンが隣に立っていた。涼やか。そう表現するにふさわしい雰囲気をまとった貴公子である。弟よりは細身であるがその体躯はしなやかながらも適度に厚みを持ち、かつある種の威厳を発し始めている。兄弟そろって亜麻色の髪も、クセのあるバルデルに比してジャンのそれは滑らかだ。


「エネ・ジャン。気がつきませんでした」

「いいよ。何か考え事かい?」


 バルデルは口を開いた。”こういうこと”は兄貴のほうが得意だ。確信があった。


「昼にユヌと会ったとき、おれはあいつに”戦”って言ったんです。戦いに行くわけでもないのに。それであいつに…」

「いつもの”なぜですか?”をくらったのか」


 控えめに、ただ明らかに面白そうに横やりを入れるジャン。


「ああ、ああ、そうですよ! いつものあれです。で、おれは考えた。なんでおれは戦の心構えで居るんだろうって」

「なるほどね。それは確かにおかしい。今回の行幸は姫の婚前式。争い事が起こるなんて、そんな不敬はなかなか思いつかないよ」


 ジャンはさらに口調にからかいを含める。


 そして刹那、表情を正した。


「ただし、きみの鼻は始祖の鼻。何かあれば必ず”嗅ぎつける”」


 デルロワズ家の始祖は当代後継子たるジャンと同名である。というよりも、デルロワズ家において嫡出長子は始祖の名を受け継ぎ必ずジャンと命名される。入り婿や長子の死去により当主の名前が異なる場合もあるが、今回は何もなければ伝統の通りになるだろう。


 始祖ジャンは「諸民族のうねり」の最末期、ルロワ家がロワ河流域を支配下に収める中で幾多の戦を勝ち残り別家を立てたルロワの庶子であった。危機を読み取るある種の才覚を有したことから「狼」の渾名を持つが、大陸に知れ渡るほどの名声はない。あくまで家内の昔話である。




 ◆




 サンテネリ王権の正統保持者たるルロワ家だが、ここ数百年その内情はお寒い限りだった。

 ルロワの直轄領地はサンテネリ北部にある小さな平原地帯。周囲を強大な”従属”諸侯に囲まれた、誠に王権。

 諸侯たちをルロワ家が従わせたのではない。諸侯が自らの都合で「今は」「とりあえず」従属してやっているのである。終わりの見えない諸侯間の紛争に耐えられなくなった彼らは、一番無害で脆弱な一家を王家に押し上げることで急場しのぎの秩序を作った。

 王の下の平等である。


 王権の脆弱さをルロワ家累代の王は憎んだ。飾り物の地位を憎んだ。外交による陥穽、婚姻による取り込み、時には無理をして戦争。王たちはそれぞれの得意分野でゆっくりと力を蓄え、巨大な諸侯の力を薄皮一枚、二枚と削いできた。

 百年が経ち、二百年が経ち、ついにルロワ家は無視できない程度の直轄領と「威光」を手にするまでになった。

 サンテネリ領域の巨大な公国は残りわずかとなり、そのほとんどがルロワ家になるところまでこぎ着けた。


 正教新暦815年、サンテネリと東部国境を接する帝国——正式名称「正教の威光のもと諸王を束ねる権威を与えられた人界の君主が領する地」の帝位をシュタウビルグ家が勝ち取ったとき、ルロワ家積年の努力は無に帰した。

 シュタウビルグはサンテネリと国境を接するシュトー地方に端を発する公家である。国境維持の方策としてルロワ家も諸侯時代からシュタウビルグの血筋を取り込んでいるし、送り込んでもいる。

 つまり「口実」があるのである。

 当代サンテネリ王は傍系からの入り婿である。男子直系ではない以上、シュタウビルグの当主にも継承権は存在する。

 すでに当代王の治世は二十年近くにも渡るのだから当然無理な横やりである。

 ただし、王が病に伏せり、シュタウビルグが帝国の選挙を勝ち抜いて帝冠を得たこの瞬間においては、無理は道理を上回る。


 シュタウビルグはサンテネリ北西部で依然半独立国家として大領を有するガイユール公国との連携を画策した。ガイユール公の王号を承認する見返りとして、来るべきサンテネリ王位継承戦争への出兵を求めたのである。

 一方のルロワ王家も決断を迫られる。意志決定の難しい王に代わり共同統治者として国事に当たる母后の決断は、金の卵を産む鶏をガイユールに与えることであった。

 王女の降嫁。

 王女はガイユールの当主と婚姻を結ぶ。生まれた子どもは男児、女児にかかわらずサンテネリの王位請求権を持ちうる。

 王国にはもうすぐ成人を済ませる利発な太子がいる。「なにごともなければ」問題はない。ただし「なにかがあった場合」ガイユールの公子たちはサンテネリ王として戴冠する資格を持ちうる。

 母后は息子の健康と才覚に賭けて、娘を掛け金として差し出した。


 交渉は速やかに進み、正教新暦816年4月、婚礼前の事前式を執り行うため、一行はガイユールへ向かった。

 王太子グロワス・エネ・エン・ルロワを国王名代とし、もっとも気心の知れた直臣諸侯デルロワズ家の次期当主ジャン・エネ・エン・デルロワズ、次男のバルデル・エン・デルロワズを随員として、金の卵を産む雌鶏、王女マルグリテ・エン・ルロワを贈る道中である。




 ◆




 たき火の炎の向こうから不意に人影が浮かび上がった。

 ジャンとバルデルの弟、ユヌである。


「ユヌ! 遅いぞ! エネ・ジャンをお待たせするなんて悪い黒犬だ!」


 重苦しい空気をかき混ぜてくれる弟の登場がバルデルにはありがたかった。


「待ってろ、今酒を持ってきてやる」


 そう言い残してバルデルはいそいそと天幕の中に消えていく。本来であれば従者を呼び寄せて済ますところであるが、バルデルは兄の真剣さから逃れる口実を見つけ、それに飛びついたのだ。


「あいつはしょうがないな。——それはそうとユヌ、足は大丈夫かい?」


 ジャンは近寄ってきた弟にいたわりの声をかける。自身やバルデルと異なり、歩兵たるユヌは徒歩での移動である。足にかかる負担も相当なものだろう。


「ええ、問題ありません。まだ四日目ですから」

「それは良かった。バルデルのやつが不穏なことをいうものだから、いつもの不安症が出てしまったよ」


 ジャンはうっすら笑みを浮かべたまま杯に口を付けた。


「昼間のことですか」

「そう。あいつは始祖の鼻だから」

「では?」

「あるかもしれない。君の例の隊はやれるかい?」

「分かりません。規模によります」

「敵は野党の類いじゃない。騎士だ。数は、そうだね、我々の倍は来ると思っておこう」

「倍ならば五十騎近くになります。なぜですか?」

「分かるだろう。ぼくは臆病だから、いつも最悪を想像する。最悪の最悪。こわいね」


 ジャンは自身のことを「臆病」だと言う。恐らくそれは本当だろうとユヌは嗅ぎつけていた。

 怖いから、怖くないように準備をする。徹底的に。怖いから、世間の常識も無視するし神の教えも気にしない。怖いから、それら全ての準備を綺麗に隠す。怖いから。


「ガイユール公のご威光はそこまで?」

「ないだろうねぇ。恐らく本当の子飼いしか動かせないはずだ。子飼いとその従士を全部つぎ込んで五十」

「そうですか」

「できるかい?」

「……分かりません」


 ジャンはユヌに正対した。

 痩身に見えるが、近くに観察すればしっかりと筋肉に覆われた肢体の様子が分かる。普段はおっとり垂れているのに、ここぞと言うときには細く鋭く隆起する目尻。ユヌは兄のこの顔を久しぶりに見た。


「やりなさい。そうすれば、おまえはデルロワズを名乗れる。エネ・ジャンがそれを為さしめる」


 ”エネ・ジャン”。

 公的な自称は彼がデルロワズの後継子として力を振るうと決めたときの癖である。薄い口元は引き締まり、断固とした決意を表した。この不遇な弟を、必ずや日の光の下に導き出す。それはデルロワズの長兄にとって数年前からの悲願だった。


「やってみます」


 ユヌの答えは短かった。




 ◆




「ほら、麦酒だ。景気づけに飲め」


 天幕から戻ったバルデルが幾分ぶっきらぼうに左手の杯をユヌに差し出す。彼はそれを素直に受け取り軽く口を付けたが、次兄には弟のこぢんまりとした仕草が気に入らない。


「ぐっと行け、ぐっと行け! ユヌ・エン・デルロワズ! 未来の軍伯、いや、場合によっちゃ元帥の座もあるぞ。デルロワズ元帥はおれの弟! 戦場を駆ける大鷹!」


 酒精度の低い麦酒でも大量に飲めば酔いは回る。酒を取りに行くといいながら、中でもう一杯飲んできたらしい。目元の赤みがハッキリ分かる。

 バルデルの痴態を横目に見ながらジャンが冷静な一言を刺した。


「馬鹿、大鷹は父上の渾名だろう」

「確かに確かに! じゃあユヌは…鷹を狩る——狩人!」


 彼らの父にして現デルロワズ公ジュールは「大鷹」の二つ名を轟かす大陸随一の騎士であり騎馬決闘の名手である。その父を、いや、父がそうであり自身も属する騎士という兵種を狩るのがユヌであるとバルデルは言う。

 ジャンは何も言わなかった。上手くいくかは分からない。やってみなければ分からない。ただ、上手くいけばこの大陸の戦は大きく変わる。そして、変革の担い手は、今目の前で麦酒の木杯を舐めているこの男。黒髪の、物静かな、しかし驚くほどに賢い自分のもう一人の弟。その確信があった。


「サンテネリ王国元帥ユヌ・エン・デルロワズ伯、またの名を“狩人”!」


 酔っ払いの戯れ言である。溺愛する犬に大層な渾名を付けて、変に壮大な背景設定をねつ造するのは愛犬家の特徴の一つだ。


「そうすると名前がユヌでは据わりが悪いね。どうだいユヌ、デルロワズを名乗る際には、いっそ名もユニウスに変えてしまおう」


 ユヌはサンテネリ語で「いち」を意味する言葉である。通常人名とすることは。ジャンが提案したユニウスはユヌと同根のよくある人名である。直訳すれば「一の男」つまり長男が名付けられる定番の名前だ。


「ああ、兄貴、それだとおれがユヌの弟になっちまうよ」


 酒精の虜、夢心地のバルデルは口調もひどく砕けた家族内のものになっていた。バルデルという名も「二」あるいは「下の」を意味する「バ」を元にした定番の人名である。直訳すれば次男。つまり、代々当主長子にジャンの名が与えられるデルロワズ家においては、ジャンを除いて「長男」「次男」と名前が揃ってしまう。


「それでいいじゃないか。おまえはもう少し落ち着きなさい。酔いが覚めるまではユヌの弟でいろ」

「確かに、まぁそれでいいや! な、ユニウス兄貴!」


 杯を片手に、もう片方の腕をユヌの肩に回す。ユヌは何も答えずただ微笑んでいた。




 ◆




「デルロワズ若公! 苦労をかけるな」


 酒混じりの兄弟のじゃれ合いに割って入ってきたのは、少年めいて弾んだ声だった。


「殿下」


 ジャンは呼びかけに答え片膝を着く。酔ったバルデルもやや正気を取り戻し兄に倣った。そしてユヌはすばやく兄弟から数歩後ずさり両膝を着いた。


 呼びかけの主は今回の行幸の主人、グロワス・エネ・エン・ルロワである。


 当年十九。成人前の最後の年だ。明るい金髪を短く裁ち、さらに頭の両側面を刈り上げている。母親譲りの緑の瞳、比較的小柄ながら内側に活力を十分に含んだ体躯。軽い足取りも声がけもデルロワズ兄弟との親密な関係を示唆している。それもそのはず、年の近い彼らは幼時からともに遊び、ともに学んだある種乳兄弟に近い関係であった。


「俺をのけ者とはずるいなっ、兄さんたちは」


 グロワス王太子は非公式の場ではデルロワズ兄弟を兄と呼ぶ。六つ年上のジャンは、冷静で穏やかな物腰と知性から太子が身近に想像できる最良の「お手本」であり、三つ上のバルデルは陽気な性格と持ち前の行動力から、より身近な「兄貴」だった。


「殿下に杯を」

 礼を済ませたジャンがまず立ち上がり、従者に指示を出す。


「世に名高いデルロワズの麦酒を飲めるとは思わぬ役得だね。本陣では姉上が目を光らせて、それこそ酒精の一滴も許してくださらない」


「そんな風におっしゃいますな。姫殿下の監督はまことに頼もしくていらっしゃいます。酒精は人をこんな風に変えてしまう悪魔の飲み物ですから」


 ジャンは横に立つ、すっかり赤ら顔の弟を指さして見せた。


「バルデル兄は弱いからな。その点おれは…」


 グロワスが言い終わる前に、その背後から声がした。女声だ。


「殿下もとてもお強いとは思われません。わたくしの膝ですぐお休みになってしまうでしょう?」


 急造のたき火がもたらす光源が、声の主とおぼしき女の姿を暗闇から浮かび上がらせた。


 マルグリテ・エン・ルロワ。

 王太子グロワスの姉にしてルロワ王国の王女。今は王家直轄となったいくつかの小領を母后から継承する女伯でもある。


 今年の2月に成人したばかりのマルグリテは、今まさに女盛りを迎えつつあった。弟と変わらぬ背丈は女性としては大きい方だ。衣装に抑制されてなお分かる肢体の曲面は、女性だけが持ちうるある種の柔らかさを感じさせる。

 上質な絹地の貫頭衣を緑輝石がちりばめられた腰帯で止め、肩から上半身を巻く大ぶりな白の羊毛布にはルロワ王家の紋章がそこかしこに織り込まれていた。首元で布を止めるのはこれもまた巨大な緑輝石を奢る金の留め具。

 純白と緑の光である。


 幸か不幸か分からないが、彼女は世に「ルロワの真珠」と渾名されている。

 彼女の名であるマルグリテの語義「真珠のような」と、その白皙の美貌、温かみを帯びた雰囲気が特上の真珠を想起させることを掛けた二つ名である。


 ”ルロワの真珠を手にするならば、他に望むはなにもない

 だのにお国もついてくる、なんと果報の宝玉よ”


 ルロワ領内に止まらず、サンテネリ全域の酒場で歌われる戯れ歌である。たいていの場合、この次に来るのは自身の妻や時には愛人を石ころに例えた卑下であるが、最後はその石ころこそが自分の幸せだ、と歌われて終わる。


「姉上、こんな夜に出歩くのはよろしくありません」


 自身の微行を見とがめられたがゆえではない。ガイユール家との婚姻を意に添わぬままに背負わされた姉を置いて一人楽しもうとした自身への後ろめたさだ。


「あら、そうでしょうか。こちらデルロワズの陣ほど安全な場所はそうありませんわ」


 弟の気持ちは分かっている。ただ、彼女も自身の運命は分かっていた。貴種の女の婚姻に意志は介在しない。それは政治である。

 彼女はガイユール公と結び子をなし、緩やかにルロワ王家に取り込んでいく。それが仕事だ。次代の王たる弟の忠実な臣下として子どもを教育し、導く。それも仕事だ。つまるところそれらは全て仕事である。

 出来ることならば、夫となるガイユール公と仲睦まじくありたい。いくら仕事とはいえ、同僚と楽しくやれるならばそれに越したことはない。


「これは光栄なお言葉をいただきました。デルロワズの陣は我が城の庭と同様。そう思し召しください」


 ジャンの言葉の慇懃の下にある労りを確かに彼女は感じた。幼い頃、夏になると弟とともにデルロワズの城に渡り、兄弟たちと一緒に遊んだ思い出がよみがえる。

 あの頃、自分の世界に政治は存在しなかった。

 年上のジャンにうっすらと「興味」を示したこともある。バルデルと弟が組んで行う悪戯を、お姉さんぶって叱ったこともある。


 そういえば。


 ふと彼女は思い出した。あの頃もう一人居た。黒髪の少年。城で飼育されていた半人の少年。白痴の笑顔が可愛かった。「人」には話せないことを色々と打ち明けた。「子犬」と呼ばれていた少年。


 彼女の瞳が暗闇の中にもう一つの暗闇を捉えた。二つの暗闇が「光って」いる。ジャンとバルデルの向こうに何かがいる。

 従者ではない。うずくまった何か。


 ジャンは王女の視線にすぐに気がついた。マルグリテは「彼」を見ている。


「ああ、姫殿下。覚えていらっしゃいますか? 幼い頃、城で我らが飼っていた半人の子どもを」


 ジャンは先手を取った。いずれ分かることだ。ちょうど王太子も同席している。

 正直なところガイユールに嫁ぐマルグリテは重要ではない。ユヌを「本当の弟」にするための鍵を握るのは王太子の方だ。だが、なんの理由もなく家の半人を王太子に紹介することなどかなわない。だからちょうど今、マルグリテの視線は渡りに船だった。


「ええ。…ええ、覚えています。あの黒い子犬のような半人でしょう。まさかそちらに…?」


「ユヌ。御前に」


 マルグリテの返答を受けてジャンはすかさず合図を送った。デルロワズ兄弟の背後にうずくまる塊がゆっくりと立ち上がる。


 たき火の光が暗闇の覆いを剥いでいく。


 ユヌ。そう呼ばれた男が無言で立っていた。彼女の前に。

 女の双眸が男の身体を這い上がってくる。そして目的地にたどり着いた。

 ユヌの目を彼女は見た。幼い頃の面影は目以外にはない。大きな、ごろりとした目。目玉。眼球。黒くがらんどうの無垢な瞳。白痴の瞳。無意志の視線。


 彼女が声をかけることはなかった。半人は知性を持たない。対話は成り立たない。見て愛でればよい。昔のように近寄って頭を撫でてやろうか。


 しかしなぜか彼女は踏み出すことができなかった。

 自分が「見られている」と感じたからだ。首筋を、頬を、胸を、唇を、黒い何か、意志を持った何かに撫でられている。不思議な感触だった。


 ただ、不快ではなかった。




 ◆




 国境付近の会盟地は森林地帯の周縁部。祝宴を予定して大きな天幕が幾つもしつらえられた。

 刻限の正午にはまだ早い。


 随行の騎士たちは組織ではない。個々が領主、あるいはその跡取り息子たちである。規模の差はあれ皆一国一城の主。普段顔を合わせることがほとんどない彼らは出迎えまでの時間を個々に挨拶回りをして過ごした。

 王女の婚前式をだしにしたちょっとした外交である。


 デルロワズの兄弟は彼ら騎士たちの主君ではない。いかに一行の首座といえど、「弟が不安を感じているので警戒陣を敷いてほしい」などと言える立場にはない。ジャンだけではなく、王の名代たるグロワス太子ですらそんなことを命ずることはできないだろう。確たる証拠は何もないのだ。


 ガイユールはいかに形式上とはいえルロワ家の従属諸侯である。そして、今回の婚礼は異例の早さで話しが纏まった。つまり、こちらも向こうも乗り気ということだ。サンテネリ王国の名において団結し帝国に対するというのも筋が通っている。

 実利の面で考えても、いかに帝国とガイユールがルロワ家の支配領域を挟み撃ちに出来る位置関係にあるとはいえ、現在皇位を占めるシュタウビルグ家とガイユール家の間には血縁がない。貴族として完全な他者である。血縁を持つシュタウビルグ家とルロワ家ですらこの有様なのだ。他者はなおさら信用できない。一方で、ルロワ家と結べば確実に手に入る報酬がある。「ルロワの真珠」と「将来のサンテネリ王位請求権」である。

 ゆえに貴族の常識としてこの縁談は良縁である。

 皆がそう考えた。だからルロワ側は手中の珠であるグロワスまで送り込んだ。太子の出馬はガイユール公への敬意として最上のものだ。婚前式は婚姻式典前のいわば両者顔合わせである。当然、ガイユールからは花婿となる大公自らが出向くことになっている。


 そんな中で唯一最悪を想定していたのはジャン若公だけだった。

 臆病な彼は幾重にも考えた。

 もしルロワ王権の迅速な動きがガイユール側にある種の印象を与えたとすれば。

 ルロワ家のを勘ぐられたとすれば。

 もっとゆっくり時間をかけてもよいはずなのに、ルロワ側はとにかく婚礼を急いだ。その焦りをガイユールに見透かされた可能性がある。

 ガイユール公は皇帝と手を握ってルロワ家領を蚕食してもよい。ガイユール家は王号と幾ばくかの領地を手に入れる。ただしマルグリテとサンテネリ王位は得られない。

 あるいはルロワ家と結び皇帝に抗するもよい。王号も領地も得られないが、「ルロワの真珠」と将来のサンテネリ王位継承権を手に入れる。


 いや、どれも欲しい。

 そう望む可能性もある。

 マルグリテは強奪する。身柄さえ確保してしまえばあとはなんとでもなる。弟、あるいは母との不仲ゆえ彼女の方からガイユールに助けを求めた。そんな強引な筋書きでさえ作ることが出来る。

 王位を望む彼女を旗頭にルロワ家領を蚕食し、即位させ、女王の身分となった彼女をガイユール公が娶る。共同統治の形式を取りながらも身柄を抑えられた女王はガイユール公に操られる他に道はなく、彼らの子の代でガイユール公国とサンテネリ王国は同君連合となる。そしてガイユールの血の元に纏まるだろう。

 マルグリテとの婚姻を正当に済ませた場合、彼女自身のサンテネリ王位継承権は消滅する。継承権が新たに生じるのは両者の子どもに対してであり、順位も低くなる。その頃にはルロワの王権はグロワスの元で盤石となりグロワスの子が後継子として固定される。さらに、袖にした帝国とガイユールは疎遠になるだろう。では、正当な結婚のあと帝国とともに攻め込む選択はあり得るか。

 その場合、使える「名分」がない。


 どれを選ぶか。マルグリテ強奪は最も危険の高い選択肢である。しかし、失敗してもなんとか挽回の道は残される。当初の計画通り皇帝と結びルロワを攻めれば良いのだ。

 もちろん破廉恥のそしり免れぬ完全なだまし討ちだ。ガイユール公家の威信は地に落ちる。そしてマルグリテはもう手に入らない。であるならば、その存在を消してしまえばよい。幸い王子もいるのだ。ともに消えてもらえばよい。現状ルロワは母后たる女王によって政権が維持されているため、王子が亡くなろうともただちに大勢に影響はないだろう。ただし、後継者を巡っての争いは必ず起こる。それはすなわちガイユールの勢力拡大に利するものだった。しかし、これも全て空論に過ぎない。事態がどう転ぶかは誰にも分からないのだ。


 貴族は名誉を重んじる。

 一見古くさく感じられるが、実は理にかなった特性である。だまし討ちや暗殺の類いは、個人の信条や友誼が政治に直接的な影響を与える割合が大きい貴族の社会において絶大な効力を発揮する。しかし、それを行えば「信用」を喪失する。

 貴族の社会にも世論はある。「あの家はこうだ、その家はああだ」と、噂話をもとに各家の印象が定まっていく。「あの家は義に厚い」「あの家は高貴である」。その評判はサンテネリに止まらず中央大陸の貴族社会に伝播する。敬意を受ける家の家人はどこに行っても歓迎され厚遇を受ける。

 例えばデルロワズ家は貴族世論において「忠義」の「武門」と見做されている。代々の当主がルロワ家に不動の忠誠を示し続けたことにより「忠義」を、ジャンたち兄弟の父である現当主ジュールの個人的な武名により「武門」の印象を獲得した。この名声は何か書物に記されるわけではない。貴族たちが集まる何らかの機会、王の即位式であったり貴族家の婚姻式であったり、それら無数の宴席で語り継がれていく。この印象があるからこそ、ルロワ家はデルロワズを信頼し、幼い王女と王子を預けることさえしたのである。

 もし何らかの不幸な出来事が起こり、正当な形でデルロワズ家がサンテネリへの臣従を放棄したならば、対手たる皇帝は彼らを臣下に取り込もうと躍起になるだろう。対ルロワ家の尖兵として使えるという実利ゆえではない。彼らが「信頼」できるからだ。その信頼の根拠となるのが「忠義」の世論である。さらに評判高い家を臣下に持つことは自家の威信増大にも多大な寄与をする。

 逆に言えば、悪名は大陸全土に及ぶ貴族社会で生き抜くことを難しくさせるのだ。「卑劣」「傲慢」「無作法」「弱腰」。これらの烙印を受けて生き残れるのはほんの一握りの大家、それも自領だけで生存が可能な「閉じた」家だけである。


 つまり、最悪は。ただし可能性は極小。

 広範に軍役を募り騎士を揃えるには根拠がなさすぎるし、自分自身も「流石にそれはないだろう」とほとんど信じていなかった。ただ可能性が「ある」だけ。だから取りあえず、自身の差配できる範囲で動くことを決めた。

 幸いデルロワズには活躍の場を求めるがいる。否、いるのではなくのだ。そして、何としても引き上げたい半人ひとがいる。何もなければそれでよい。は秩序だった行軍が可能であるという実績を得る。何かあればそのときは…。


 太陽は天頂に達しつつある。


 隊列も組まず、配下の従士を引き連れてあちこち動き回る騎士たちの頭上に、森の中から最初の弓矢が降ってきた。




 ◆




「あら子犬さん、わたくしを慰めに来てくださったの!」


 広い天幕の中央、簡易的な野外用木椅子にはたっぷりと重厚な深紅の織物が敷かれていて、そこに一人の女が座っている。外の喧噪、喊声、馬の踏みならす地響きなど、無粋なものはこの天幕にはまだ入ってこない。奇妙な静けさだった。


 最高級の”血の滴るような”赤を背景に、彼女のまとった白い衣装はよく映えた。重量を感じさせる羽織布と敷物の赤に包まれた女の肢体はことさらに細く見えた。


「この子は昔からわたくしが泣くとすぐに駆けつけてくれたの。デルロワズの若君方もお優しいことね。わたくしの不安を見越してこの子を寄越してくださったみたい」


 彼女が発したその言葉は、目の前に現れた突然の来訪者に向けたものであると同時に、側で震える中年の侍女に対する事情説明でもあった。


 着座の女は闖入者への恐れを感じていないようだった。

 彼女はちょうど一月ほど前に二十歳になった。だからもう少女とは言えない。女である。

 結わずに垂らしたままの長い髪は薄暗い天幕の中で、それも入り口から這い入る一条の陽光の元で鋭い金色に輝いている。

 故国で「ルロワの真珠」と謳われる所以となったその白皙の肌はいつにもまして白い。ただ、もはや真珠ではなかった。内面の緊張が皮膚にまで達し、硬質な青白い陶器の色をまとっていた。


「子犬さん」と親しげに、しかしかすれた声で呼びかけられた男は、どこをどう切り取っても子犬には似つかわしくない風体をしていた。

 高貴の女の眼前に出られるような格好でもない。甲冑も旗もなく剣も帯びず、油と汗で肌に張り付いた黒髪は肩まで伸びて切りそろえたあともない。無精髭も見苦しい。

 ただ、肉体は堂々としたものだ。

 黒い染色の施された麻衣が包む身体。身長は平均的だが間近に観察すれば分厚い胸板の隆起が分かる。半袖から伸びる日焼けした腕の筋肉は盛り上がり、放たれる寸前の極限までしなる弓を想起させる。長槍の柄を握りしめる手。指先は黒く染まっている。土と垢にまみれた爪である。


 下層の貧民の出で立ち。それにしては立派な体格。何もかもちぐはぐな男だ。

 彼が何者か衛兵達があらかじめ知っていなければ、この天幕に入ることは決してかなわなかっただろう。


 男は入り口から数歩、女の方に歩みを進め、その眼前に直立した。長い影が女の身をすっぽり覆い尽くした。


「昨夜はご無礼を、姫殿下」

 低い声で男が答えた。


 聞いた女は少し笑った。

 笑ったという表現が正しいか分からない。客観的には頬が痙攣している状態に近い、最極限の笑いだった。


 目の前に立つ男は半人と呼称される階級に属している。

 彼らは基本的に「はい」か「いいえ」以外の言葉を持たない。

 肯定と否定。主人から与えられた命令に従うか拒否するか。それだけだ。

 意志も感情も薄弱な従属種族である。

 だから普通、主人たる人間もまた命令を下すだけ。

 情が移れば戯れに問いかけもする。そんなとき、半人が返事をすることはない。ただ黙っている。

 人型犬。それが半人の端的な言い換えの言葉である。


 だから、彼女の問いかけに答えを返した男は普通の半人ではない。

 ”ちょっと賢い”のである。


 大量の半人を飼育する際、人がいちいち細部まで指示を出すのは手間がかかる。そこで人は半人と自分たちの橋渡しをする存在を作ることにした。

 人の男性が半人の女を孕ませ、男児だけを選別し十歳まで人の環境で育てる。するとその子どもはある程度人語を解し、薄弱ながらも人知を持つ生き物に成長する。人を尊崇し、命令を理解し、ごく単純な論理構造を理解する生き物である。

 この生き物は「半人頭」と呼ばれ、群に帰って他の半人たちをゆるやかに統率する。


 この男はデルロワズ家の半人頭。


 幼い頃。弟とともにデルロワズの居城に赴いて、彼の地の若君達とともに中庭を駆け回ることが許されていたあの頃、デルロワズ家で養育されていたこの”子犬さん”も一緒についてきた。

 彼女も含め子ども達は彼を同等の人格とは見做さなかった。理由は単純である。半人だからだ。

 ただし、可愛がった。

 自分たちの言葉を理解し、忠実に、従順についてくる。楽しいときは一緒に喜び、辛いときは慰めてくれる伴侶として。

 彼女とて「人」には言えない悩みや愚痴を彼にだけはこぼしたこともある。家庭教師の厳しい指導への愚痴、母からの叱責への反発。異性への幼い憧憬。

 彼は跪き、ただ聴いていた。知性の抜けた無垢の瞳でじっと彼女を見つめながら。


 そんな彼と昨夜思わぬところで再会した。なぜ半人——それも彼だけではなく大量の——が行幸に付き従うのか理解できなかったが、ジャンに「軍門デルロワズの家風」と言われれば納得するしかない。

 何も出来ぬ、魔力も知性も持たぬ半人の群に槍を持たせ行進させる? 

 軍事は殿方の領分。大まかな話しは理解できたとしても専門的な内容になれば何もかも分からない。ただ、何か変だ。そう無根拠に感じていた。


 彼女はそもそも、現実に生きた半人との接触を持たなかった。幼時の「子犬さん」以外、半人に接する機会などない。その存在様式と意義は正教の僧侶による講義で学んだものの、血の通った経験は皆無に等しい。


 つまるところ彼女にとって半人とは目の前の彼のことだ。


 昨日感じた視線の感触は、今日はない。昔の「子犬さん」。


 一瞬緊張を緩めた彼女は、膝上に揃えた手——その右手を軽く持ち上げ地面を指さした。

 人が半人に言葉を聞かせる際の合図である。


「慰めてくれればそれで十分。他に何があるというの」


 またしても、こうやって目の前の彼につらつらと繰り言を聴かせた思い出がよみがえる。口を動かす度に、舌を動かす度に、再び感情が高ぶる。


「ガイユールの殿方はわたくしを正統に娶るだけでは満足されませんでした。わたくしを攫い取り、辱め、その上ルロワを切り取るのでしょう」


 小さく息を継ぐ。肩前に垂らした髪を撫でる。何が起こっているのか、彼女には理解できない。婚前式に出向いてみれば、どうやら将来の夫の軍勢に攻められているらしい。あと数ヶ月もすれば手に入れられる女を、どうして強奪する必要があるのか。さっぱり理由が分からない。

 ただ、数時間後の自分が、弟がどうなっているかは分かる。縄打たれ引き立てられるのか、表面上優雅に連れ去られるのか、あるいはこの世にはいないのか。そのどれかだろう。


 最初はゆっくり。やがて手には力がこもり始める。たおやかな淑女の仮面を必死で貼り付けるも、それは唐突に剥がれ落ちる。


「呪わしいっ! 決して許されぬ背徳的な! いと高き存在は決してこんな不正をお許しにならないはずです。わたくしを、神の端女を必ずお救いくださるはず…」




 ◆




 マルグリテはルロワの貴種である。戦場で死を見たこともなければ攫われたこともない。父と弟以外の異性に触れられた経験すらない。

 それが今、唐突に、死が、あるいは虜囚が、あるいは場合によっては乱暴狼藉が現実のものとして目の前に現れてきた。

 泰然自若は高貴なる者の資質であり義務である。

 幼い頃からそう躾けられてきた彼女だが、その演技を貫き通すには経験も度胸も覚悟も、何一つ準備されていなかった。


 言葉は感情を生む。ことに強い言葉は。

 自身の運命に、ガイユールの不義に、淑女として持ちうる限りの語彙で罵声を発した後、マルグリテは気づいた。


 興奮の余り自身が立ち上がっていること。そして目の前の半人が跪いていないことに。


 瞬間、名前のない情動が彼女を突き動かした。

 無理に言葉にするならばであろうか。


 彼女は王女である。であるからこそ政治の駒として嫁ぎ子をなす道具とされる。運命を受け入れたと思ったら、今度は未来の夫に捕縛されようとしている。あるいは殺されようとしている。狩人に狙われる雉のように。


 そしてこの半人にさえ、半人にさえ侮られている! 

 昨晩も”これ”は直立していた。デルロワズ若公の紹介ゆえに当たり前のように受け入れてしまった。しかも「これ」は自分を「視た」。まるで人のように、ルロワ家の王女をなめ回したのだ。半人が、跪きもせず、立ったまま。


 自分を取り巻く全ての世界が自分を嘲笑っている。馬鹿な小娘を軽んじて、好き勝手に。


 脇の下から、背筋の奥から小刻みな震えがわき上がってくる。

 よく分からないものは怖い。恐怖はしばしば怒りに変換される。それは人を変えてしまう。


 彼女は手近にあった銀の杯をつかみ取ると、女が振るいうる最大の力でそれを投げつけた。

 目の前に立つ、女性としては大柄のマルグリテをすっぽり覆い隠すほどの体躯に、その顔めがけて。


「跪きなさいっ! この半人デオンが!」

 甲高い、半ば狂気を孕んだ怒声だ。


 マルグリテの見せる激高に怯えた侍女たちが息をのんで身をかがめた。いつも穏やかで、たおやかで、下々にも優しい、ルロワが誇る珠のような姫様が、髪を振り乱し喉も裂けよと叫ぶ。彼女たちは、主人が自分たちと同じ”人間”の”女”であることを初めて知った。決して真珠ではないのだと。


 女の投げた杯は男の右目の上をなぞり通り過ぎた。若干の擦過に過ぎないものの、血管が近かったためだろうか、存外に流血は多かった。

 彼は右目に垂れる血流を軽く拭い、直立したまま答えた。


「あれは我々が食い止めます。御身のご無事を」


 低く、よく通る声だった。


「あれ」、つまり、恥ずべき裏切りの上で奇襲を仕掛けてきたガイユールの騎士ひとさらいたちを、この半人が止めるというのだ。戦場どころか単純な労役すら満足にこなすことさえできない薄知の種族が。愛玩犬が。


 冗談ではない。

 軍事など分からぬ王女でもその無意味さは分かる。

 魔力を持たぬ半人が正規の騎士達とどう対するというのか。その見かけ倒しの長槍で? 強大な魔力を誇る騎士達にあっさりと蹴散らされるのが関の山だ。そもそも騎士達の突撃の眼前に立つことさえできないだろう。

 くだらない慰めにもほどがある。


 そもそもなぜデルロワズの殿方はいらっしゃらないのか。何をしているのか。わたくしを護ることを使命としているはずなのに。そういえばグロワスは? 王太子殿下は? わたくしのたった一人の弟は?

 マルグリテの脳内を思考の矢が飛び回る。


 そしてパタリと、止まった。

 投げつけたまま小刻みに震える自分をじっと見つめる男の眼が彼女の思考を止めた。


 そういえば。


 マルグリテが知っている幼い頃の”子犬さん”はもっと甲高い鳴き声をしていた。言いつけを受けてちょこまかと素早く動く。立て、座れ、走れ、話しを聞け。そんな命令に全力で応える従順な生き物だった。賢いけど時々馬鹿で、それがまた可愛い。彼女は飼い主の一人として——正式な所有権はデルロワズ家にあるのだが——この同い年の生き物を可愛がった。


 ある日マルグリテは弟とバルデルに誘われて城下でかくれんぼに興じた。衣装を汚した彼女をお付きの女官が強くたしなめた。曰く、淑女の行為ではない。曰く、裾のよごれはふしだらである。比較的聞き分けがよい彼女は反省した振りをしてお叱りを甘受した。しかし気持ちは晴れない。

 日が落ちて寝る間際、マルグリテはお気に入りの子犬さんを自室に連れ込んだ。そして蕩々と不満を聴かせた。「わたくしも殿下のように走りたいことだったあるのです」「わたくしだけいつものけ者」。なぜ自分だけ。理屈では分かっている。男と女は違う。人と半人が違うように。

 ユヌはマルグリテのベッドの前でうずくまり、じっと耳を傾けていた。


「もう、なにか言って!」

 なぜか返事が欲しかった。半人は複雑なことをしゃべれない。複雑なことを理解することもできない。マルグリテが今感じるもやもやした思いを分からない。それを彼女は分かっている。

 幼い王女は小さくため息をつき、ユヌに近づくと優しくその黒髪を撫でた。


「ねえ、この世界にはしゃべれないオンもいるのです。それならしゃべれる半人デオンがいてもいいでしょう。」

 無茶なことを言っている自覚はあった。ユヌは依然彼女をじっと見ている。少女は笑って手荒く少年の頭をかき回した。波打つ深い黒い毛並み。


「ねえ、あなたとおしゃべりができればいいのに」



 彼女はもう一度、目の前の男をじっくりと視界に捕らえた。

 まだ耳朶に残る目の前の半人が発した声は、まるで「人」の声だ。まるで絵物語に出てくるような騎士の声だ。


 歌劇の幕が下りて非日常の空気が雲散霧消するような。止まっていた五感が一気に息を吹き返す。

 女の鼻をついたのは男の匂いだった。すえた。汗、熱。それは臭気だった。そして微かな鉄の匂い。血のにおいだ。


 足に力が入らない。身体に芯が通らず衣装の裾が小刻みに揺れる。


「半人は戦えません。逃げてしまうのでしょう。わたくしもそれくらい知っています…わたくしを馬鹿にして…」


 激高は影を潜め、しょげた様子で彼女は言う。癇癪を起こして犬を叩いてしまった小さな女の子の罪悪感をかみしめている。


「戦えないオンもおります。ならば戦える半人デオンもいるでしょう」

 返事は飾り気のないものだった。


 騎士のごとき台詞は続いていた。

 彼女は再び混乱の極みにあった。犬がいきなり人のように振る舞い始めたら誰しも混乱する。例え姿形が人と同じでも犬は犬だ。しかもその犬は昔自分が可愛がった犬だ。

 だから彼女は呆然と男を眺めるだけで、何も言えなかった。


「御身をお守りします」

 一瞬間を置いて、彼が淡々と告げる。


 予期せぬことに、彼女の食道の中に、胃の中に、腹の中にするりとその言葉が入ってきた。

 そして身体の隅々までそれは拡散する。染み渡った。

 筋肉のこわばりが解けていく。せり上がって痙攣する横隔膜が静まった。


 もしここに当代一の騎士と名高いデルロワズの現当主「大鷹」ジュールが居たとしても、これほどまでに心をほぐしてはくれないはず。

 そんな確信が湧いてくるのが信じられない。


 マルグリテは彼を見る。

 黒い瞳、黒い髪。光を浴びても灰がからない。

 幼い頃、その瞳を賢い犬のようだと思った。黒いつやつやな毛並みの優しい目をした犬。撫でると心地よい、優しい犬。

 無垢は優しい。意志がないからひたすらに優しい。赤ん坊の目や犬の目、そして半人の目。心の裏に何もない。だから柔和で愛玩できる。


 マルグリテは改めて彼の瞳をのぞき込んでみる。

 今、彼の目の中にも確かに優しさはあった。だがその裏側に、眼球の奥の方にチリチリと何かがある気がした。得体の知れない何かがあった。「人のような口を利く」だけではない。

 それは不安を煽る。同時に惹きつけられる。


 男の匂いがする。独特の匂いがする。女にはない匂いがする。下腹を強く締め付けられる。こんなことは今まで一度もなかった。

 少女の頃可愛がった子犬はやがて大きくなり、彼女を護る騎士になる。彼女だけを護る無敵の騎士になる。外の悪党は皆追いやられ、マルグリテは彼の胸の中に収まり、安心して眠る。王姉としての務め、政略結婚の務め、出産の務め、やっかいな儀式、面倒な女官達、笑顔が少しでも崩れると途端に卑屈になる取り巻きたち。そういう一切の「嫌なこと」から彼は護ってくれる。


 この男は自分を守ってくれる。そう信じさせる何かがある。

 その「何か」を指す言葉を彼女は知っている。ただ口に出すことは恐ろしくてできなかった。


「ユヌ、あなた…」


 昨晩ジャン若公が彼を呼んだ名。昔自分も呼んだその名前を思い出した。ユヌ。

 デルロワズの当代が最初に作った半人頭。

 だからサンテネリ語で「一」を意味するユヌ。

 半人には名前も姓もない。半人頭だけが使役上の利便性から名前を付けられる。


 ユヌはもう応えなかった。跪きもしなかった。


「正教の守護者にして地上唯一の王国」の第一王女、ルロワの真珠マルグリテ・エン・ルロワをそこに残して、辞去の言葉も礼もなく無言で天幕の出口を通り抜けた。




 ◆




 残されたマルグリテと侍女は言葉もなく立ちすくんでいた。

 宮廷においては”慈愛のまなざし”と形容される少し目尻の下がった瞳が今や限界まで見開かれている。瞼が裂けんばかりに。


 ひとときの沈黙を経て、恐る恐るマルグリテが口を開く。


「ユヌには、魔力があるの…」


 それは恐ろしい一言だった。涜神に等しい言葉だった。


 なぜ彼は跪かなかったの?

 彼女は今、冷静になって初めてその現象の不気味さに思い当たる。

 マルグリテが命ずれば魔力を持たぬ半人たるユヌはどれほどそれが嫌なことであっても行わざるをえないはずなのだ。

 それが跪きすらしない。跪態は半人が仕込まれる最初の命令の一つであり、彼らが最も慣れ親しんだ軽い指示のはずなのに。


 マルグリテは王女である。

 正教の教えによれば、身分とは魔力によって保証されるものである。よって王女である彼女は多大な魔力を保持している。自身もと認識しているし、正教の僧侶たちからも折に触れて保証されてきた。

 神は恩寵たる膨大な魔力を彼女に与えた。その贈り物への感謝は神への畏敬へとつながり、彼女は正教の敬虔な信徒となった。

「正教の守護者にして地上唯一の王国」の第一王女、ルロワの真珠と名高い美貌、そしてたぐいまれな信仰心。

 教会通いとその付属救貧院、孤児院への慰問と援助など、王女としてなさねばならぬ責務のかたわら彼女は正教の信仰活動に精を出した。

 そんなマルグリテの存在ほど正教会を喜ばせるものはない。死後幾重にも調査の上で認定されるはずの「聖女」の位階がすでに内定している、と巷間の噂に上るほどである。


 だからこそ、マルグリテにとって「跪け」という命令にユヌが従うことは自然の摂理だった。


 しかし、それがなされなかった。


 可能性は二つある。

 一つは、教会の教える「魔力」など存在しない、というもの。

 それは論外だ。頭をよぎるだけでも恐ろしい背教の思考である。


 ならば答えは一つしかない。


 ユヌは半人

 さらに付け加えるならば、マルグリテの魔力に抗えるだけの魔力を持っている。


 思い至ったとき、彼女は頭頂から引き潮のように血が流れ落ちていく感覚を味わった。


 もし”そう”ならば。

 自分は彼を動物として扱ってきたことになる。

 人を。


 まだ幼い頃、召し替えの最中、部屋の片隅にユヌが跪いていることもあった。寝間着に着替えながら犬を構うように。

 侍女達もそれを当然のこととして気にもしなかった。

 裸体を見られたこともある。羞恥心など湧かなかった。ユヌは畜生だったからだ。犬の視界に自身の裸体が写ったとて、それは貞節の禁忌では全くない。


 ただ、もし、もしも彼が人ならば。

 物心つかぬ幼い頃から彼が半人の群に戻された十歳になるまで、マルグリテが彼にしてきた全ての行為が彼女を責めた。


 不当で涜神的で不貞である。神は決してお許しになられない。


「姫様っ、なんという! 姫様! お気を確かに!」

 侍女の叫びを意識の端で聴きながら、彼女の神経は過大な負担に耐えきれなくなりつつあった。


 国のため、平和のため、ガイユールに嫁ぐことになり、

 婚礼の約定を交わす式典で裏切りを受け、

 弟であるや幼馴染みの安否は分からず

 半人ユヌが「人」だったかもしれず、

 自身が背教者だったのかもしれず、

 天幕に数人の侍女と取り残されている。


 だからマルグリテは賭に出た。ユヌは「戦える半人デオンもいる」と言った。


 知りたい。


 それが嘘ならば。ユヌも半人たちも散り散りに惨めに逃げ去っていたら。彼女はを願っていた。


 ガイユールの軍勢を撃退できなければ、自身の身柄は略取され王家の威信は地に落ちる。しかし、少なくとも正教の教えは正しく、ユヌは半人の畜生であり、彼への仕打ちは正当である。

 それに、半人たちは蹴散らされあっけなく殺されるとはいえ、随身の騎士たちが奮戦してくれればあるいは…。


 彼女は心の底からユヌの敗北と死を願った。神の秩序と自身の心の安寧のために。彼女は正教の模範的な信徒であり、神の端女である。

 そして、昔可愛がった半人の死を哀れんであげることもできる、とても心優しい王女様なのだ。


 ——ではなぜ、あなたは半人に心奪われたの?——

 半人に心惹かれ、あるいは交合する夢を見たのか。それは最大の禁忌、ある種の獣姦である。おぞましい。涜神の極みだ。

 ——いいえ、そんなことはありません。わたくしはただ、ちょっと驚いただけ。わけの分からない状況で混乱しただけ——

 内なる思考をごまかすことは出来ない。

 ——あるいは彼が人なら。当然わたくしが彼に惹かれても「いい」——

 でも彼が人なら、彼女は彼を不当に扱った。神の御裾を乱す行為だ。


 幾重にも重なり合う思考を抱えて彼女は天幕を飛び出した。

 答え合わせをしたかった。




 ◆




 主天幕の周囲に大きく開けた空間は本来祝宴の会場になるはずだった。

 色とりどりの紋章旗を掲げた騎士たち。従士たち、召使いたち。歓声。嬌声。歌声。そういった全てを包含する場であるはずだった。


 遠くに乱戦のあとが見える。下馬戦闘を終えたとおぼしき一団の騎士たちが騎乗し、ゆるやかな隊列をつくる。あれが味方か敵か、判別は出来ない。


 ユヌが天幕から出てきたとき、半人部隊デオンの展開は指示の通りに終わっていた。


 半人部隊デオンは九人を最小単位の小隊とする。小隊は三人の横列を三段重ね正方形を構成する。この角塊が十。九十人の集団である。

 小隊がさらに横列を形成し、細長い帯を為す。背後の天幕を覆い隠す帯である。


 兵士たちの中に年かさのものは一人もいない。半人は出生の記録を持たないため正確な年齢は分からないが、ユヌよりも年下であることは確実だった。半人部隊デオンの成り立ちからそれは「必然」である。

 つまるところ子どもたちの部隊だ。人を相手にした実戦の経験もない。


 半人は魔力を持たない。

 ゆえに形式上どのように並べても、何を着せ、何を持たせても、遠くに見える騎士たちが突撃してくればそれで終わりだった。彼らの魔力に抗することはできず、ちりぢりに逃げ惑うだろう。

 各が手に持った長槍も役に立たない。この野原にうち捨てられ、戦利品として拾いさられる。そうあるべきだった。


「見ているな」


 ユヌは帯状に展開したデオンの中央に位置する小隊、その前列に滑り込み独語する。


「驚いてますね」

 左隣の兵士が答えた。甲高い、声変わり前の少年のような声。


「そう。驚いてる。俺たちが何者か、騎士様には分からない」


「来ますか」

「来る。あいつらはこの世サンテネリで無敵の騎士様たちで、戦いは高貴な者の義務だから。」

 問いかけにユヌはそう返した。そこには明らかに皮肉の色が含まれていた。


 敵、遠方で緩やかに纏まる騎兵たちが何を考えているのか、ユヌには大体想像がついた。まず我々が何者か。黒い帯に見えるはず。遠目の利く者がいれば槍の穂先も感知できるだろう。

 槍を手にして固まった人の群。

 彼らは我々をルロワの騎士と推測するはずだ。この世界において戦場に立てるのは騎士のみだ。


 彼らは弓兵を使った。平民を使役して

 通常の戦闘において弓が使われることはない。弓は「無粋」な、動物を仕留めるための道具だからだ。ということは、この襲撃は儀礼の一騎打ちではなく「殺す」戦いであろう。自分たちが殺す戦いを始めた以上、殺されることも覚悟しなければならない。落馬降伏と身代金では済まない。賭け金は自己の命だ。


 我々の数は多い。九十いる。九十騎の下馬戦闘? それはもう完全な会戦だ。我々がそこまで覚悟を決めて諸侯を動員した。つまり、こちらも最初から「やる」気だった。そう考えてくれればありがたい。

 相手方の数は恐らく二十に届かない。元々の数は分からないが残ったのはそれだけだ。兄の推測が過大に過ぎたのか、あるいは味方の騎士たち兄上たちが奮戦したおかげか。


 騎士の下馬は覚悟を表す。馬から下りた以上逃げることは出来ない。相手を殺すか殺されるか。ゆえに下馬戦闘は「本物の武勇」を表す。

 それが九十騎。彼らは尻尾を巻いて逃げるしかない。逃げてくれれば大助かりだ。姫を守り切れればそれでよい。


 一方で、そんなはずはないと考えるかもしれない。ルロワ王家が口実もなしにこれだけの軍役を諸侯に課せるわけがない。なぜならこれは「婚前式」のはずなのだから。


 となると、我々の正体は騎士ではないということになる。団結した召使いたちの群か? そうだとすれば、なぜ槍なぞ持って集まっている?


「来た」


 ユヌの後列で兵士がささやいた。


 敵騎がゆっくりと、半ば無秩序に距離を詰め始める。突撃の予兆はまだない。正体不明の何かを見定めるために、恐る恐る近づいてくる。


 さあ、そして気づくぞ。

 我々が貴種ではないことに気づくぞ。何故武装しているのか分からないが、とにかく敗残従者たちの群だと気づくぞ。

 そしてこう思う。

「ルロワの姫の恐るべき魔力よ。平民を戦に向かわせるとは!」と。


 すると何が起こるか。


「動いたっ!」


 秩序だった動きではない。騎兵たちは思い思いに馬を走らせる。そもそも彼らもどこかしらの小領主である。指揮系統などあってないようなもの。

 多分こう考えている。「こしゃくな雑兵共を一つ蹴散らしてやろう」

 騎乗した戦闘の専門家が魔力を放ちながら突進してくる。それで話しは終わるはずだった。


 平静を装ってそんなことを考えながらも、ユヌ自身、体中の筋肉が凍り付きかけている。

 彼は十年近くかけてこの部隊を鍛え上げてきた。森の動物をたくさん狩った。猪も鹿も狼も。途中からはジャンやバルデルの助力を得て、騎乗兵との模擬戦闘も行い練度を高めてきた。

 しかし、これは怖い。ひたすらに怖い。

 自分の背丈を優に超える巨大な塊が、明確な殺意を秘めて凄まじい速度で迫ってくる。本能が理性を駆逐しようとしている。恐らくもう、握りしめた槍柄を手放すことさえできない。手が固着してしまった。

 足首から先が意志を持つ。後ろを向けと、体中に指令を送る。

 動かない。動かないぞ。


 カチカチと小刻みに硬質な音がする。兵達の歯が発する物言わぬ叫びだ。


 なるほど。獣欲。これが獣欲だ。

 人だけが抑えることが出来る本能。我々は魔力を持たない。獣欲のまま生き、飼育され、死んでいく半人だ。その半人の群だ。

 だから証明しなければならない。


「喊声っ! 槍打て!」


 喉が裂けてもよい。舌が裏返っても良い。眼が飛び出してもよい。全身に残った空気を全て吐き出してユヌは叫んだ。


「おおおおおおぅ!」


 ひたすらに、一心に吠えた。吠えながら敵前に向けた槍を左右に振る。

 ユヌが投じた一石が波紋となって槍先が揺れていく。

 九十本の槍が隣同士ぶつかり合い、無数の金属音が響き渡る。生々しい、獲物を喰らう獣欲の限りが詰まった狼たちの遠吠えとともに。


 若い狼の群だ。

 甲高い女声、野太い男声、声変わり中の乾いた声。


「足踏めぇぇ!」


 音の幕を貫いて、断固たる意志、断固たるユヌの命令が群を貫く。途端に九十の足が地面を打ち始める。


 金属の叫びと人の叫び、そして地の響き。


 騎士は人と馬の混合体である。

 上に座す貴族は魔力を持つ。では下で支える馬はどうだろう。

 馬は動物である。我々半人の同胞だ。獣欲のままに生き、鞭で意に添わぬ動きを強制されて、役目を終えれば屠殺され人に食べられる。かわいそうな同胞。自分たちは少なくとも食料にはされない。どこともしれぬ穴に放り込まれて終わりだ。

 かわいそうな仲間たち。


 馬は元来臆病な生き物だ。甲高い音、大きな音を嫌う。自身の生存を脅かす危険の存在を表す何よりの印だからだ。

 一度獣欲にとりつかれた馬はもう制御できない。騎士達自慢の魔力でそれを抑えることはできない。


 先陣を切って突入してきた騎馬からそれは始まった。

 急激な減速。馬体を大きくねじり、前足を跳ね上げ、太い首をあらん限りに振り回す。やがて彼らの上に乗った「小さな生き物」は宙に放り出される。馬達の獣欲は、背に乗った「重り」が邪魔なのだ。逃げ去るために。


「進めっ!」


 何度も皆で訓練した。槍を両手で握りしめ、両隣の兵と拍子を合わせて一歩。二歩。三歩。長方形の巨大な帯がぬるりと地を這い出す。


 ユヌは恍惚感を存分に味わった。恐らく部隊の皆が同じ官能をむさぼっている。一体化する喜び。我々は今、一でありながら全である。巨大な一である。


 地を這う先に転がった幾つもの「物体」を、帯状の「我々」は轢き慣らしていく。

 ユヌはそれを見た。

 落馬の衝撃からようやく意識を取り戻し、「我々」に直面する生き物を見た。ユヌは何も考えなかった。手は滑らかに、ほとんど自動的に動いた。穂先をするりと、その生き物の柔らかいところに突き立てた。顔面に。

 手製の棍棒で兎の頭をたたき割る、あの感じに似ている。ちょっとした抵抗。そして破裂。


 この地の至る所、巨大な群が這い寄るところで同じことが起こっていた。若干の悲鳴はある。ただ、そんなものは全部食べてしまう。消化してしまう。

 この群体はひたすらに雄叫びを上げ、地面をならすのだ。


 突撃の最後尾、出遅れたとおぼしき一騎が馬首を巡らし逃げ去っていくのを見守って、ユヌは夢から目覚めた。


「止まれっ!」


 号令を合図に巨大な「我々」は解体された。

 切羽詰まった呼気がいたるところから聞こえる。あるものは全身の筋肉を震わせ、辺りかまわず汗をまき散らす。


「やった! やったぞ!」

 そうはしゃぐ者もいる。


 綺麗な方形は少しずつ歪に形を変えていく。彼らの戦は終わったのである。

 彼らはただ三列に並び、大声を上げながら前進しただけだ。途中敵兵の抵抗に遭ったものもいる。仰向けに倒れながら遮二無二剣を振り回した「獲物」もいた。そんな活きのいい獲物に直面し不幸にも足を切られた兵もいる。骨折したのかもしれない。倒れ込む仲間を気遣う集団もある。


 ただ、いずれにしろ戦は終わった。


 ユヌは槍の柄から右手を放そうとして、それがうまく出来ないことに気づく。固着した指が動かない。左手を使って引き離すべきところだが左手指も動かない。

 情けない気分だ。戦は終わったのに、彼は両手に槍を握りしめたまま不格好に佇んでいた。


「ユヌ様?」


 声をかけてきたのは彼の左腹でともに戦った兵士だった。

 背はユヌの肩までしかない。黒い貫頭衣から覗く腕は他の多くの兵よりも一回り細い。肉の問題ではない。恐らく骨が細いのだ。

 体格に優れたものを最前列に配置する中で、彼はこの小兵だけは例外的に自身の横に置いた。

 痩せた横顔。あと一重で窪み落む寸前の頬だ。狭い肩からすらりと伸びた首筋は汗と垢と、血痕で汚れている。

 黒というには明るい、茶というには深い髪が汗で強固に額に張り付いたまま。


 ただ、この浮浪者の集団にふさわしくないもの、つまり美しいものがただ一つ。

 明緑の双眸である。


「よろしければお助けしますよ? このわたくしめが」


 からかい混じりにそんなことを言いながら、ユヌの右手を両手で握りしめる。


「マリー。頼むよ」

「はいっ!」


 新しいおもちゃを与えられた幼子のように、彼女はユヌの指を弄り始めた。


「無事か?」

「もちろん!」


 この娘、体力だけはある。どんな訓練のあとも底抜けに明るい。少年達がぐったりと座り込むなかで、一人まだまだ遊び足りない子犬のようにそこかしこを飛び回る。


「実戦はどうだった?」


 返ってきたのは意外な答えだった。

「最高に楽しかった! またやりたいですね、ユヌ様!」


 マリーと呼ばれた少女もユヌと同様、堕ちた騎士を一人串刺しにしていた。あてどころ悪く盛大に吹き出した鮮血を浴びても彼女は全く動じなかった。


 彼は認識を改めた。

 この娘、体力と度胸だけはある。


「おれはもうやりたくない。…でもやるしかない」


 固着した顔の返り血を払い落としながらマリーは笑った。


「それがユヌ様の天命なんです。絶対そう」

「戦が?」

「いいえ」


 ではなんだ。そう問いかけようとしたところで少女がさらに言い募った。


をたくさん作ること。がたくさんいる世界を作ること」




 ◆ 




 成人前とはいえグロワスもまた騎士である。王は貴族の長であり、貴族とは騎士なのだ。だから彼も婚前式典を前にして礼装とともに騎乗した。

 同じく戦装束のデルロワズ兄弟が子飼いの陪臣騎士を引き連れて彼の周囲を警護するが、一見普段と変わらぬその動きにわずかな違和感を感じ取っていた。

 今日の「兄さんたち」は妙に気が立っている。常時表情を崩さず平静を保つジャンは別として、そもそもバルデルがおかしい。こういう宴を誰よりも楽しみ、盛り上げるのが彼の性分なのだ。普段ならもう二杯ほど麦酒を引っかけていてもおかしくはない。

 それが今、ずいぶん緊張している。珍しく総身を外套で覆い、右手の槍を手放さない。


「バルデル公子、柄にもなく緊張か」

 そう声をかけてみた。いつもの軽口めいた答えを期待したのだが、応答は思わぬところから返ってきた。


「殿下。可能性の話しです。この婚前式は綺麗に片付かない可能性がほんの少しだけ、あるのです」

 ジャン若公の意外な台詞だった。


「それはどういうことだ? もうすぐガイユール公が到着する。姉上も今頃召し替えだろう。酒宴の準備も出来ているはずだ」

「はい。“われらの”準備は万全です。ただ、先方の準備がどのようなものかは分かりません」

 準備。なるほど。太子は得心した。婚前式は実際に婚姻を結ぶ男女が初めて顔を合わせる場であるが、その際、同時に婚姻の盟約として男性側から何らかの贈り物がなされるのが習わしであった。

 サンテネリ王位継承権は別として姉マルグリテは母から多少の領地を相続している。この結婚によってマルグリテはルロワの姓を捨て、ガイユール公妃となる。従って、彼女が個人的に相続した領地もガイユール公家の管理下に移る。そんな小領移動の埋め合わせとして支払われるのが証金である。証金とはいうものの、それは文字通り金塊の場合もあるが、ガイユール領内の適当な土地の権利でもありえた。


「ああ、証金か。我らがルロワの真珠を娶られるのだ。ガイユール公も吝嗇ではあるまい。ここで値切ってはガイユール家の名に傷が付く」

 グロワスは笑ってジャンの心配性を慰めた。


「証金で済めば問題ありませんね。ただ、私が案ずるのは、ガイユールの殿がよりひどい吝嗇をなさる可能性です」

「ひどい吝嗇? それはなんだ」

 ジャンはあくまで最悪の可能性、と念を押してから彼の考えを伝えた。


「それは…。エネ・ジャン、そなた本気で、そのようなことがありうると?」

「何度も申し上げますが、可能性はございます」

「ジャン殿がそうまで言う。なにか兆候が?」

「確たるものは何も。ただ、我が家の“始祖の鼻”がそう囁くのです」


 始祖の鼻の逸話は聞いたことがある。ルロワ家創成期の伝説、憧れの騎士物語として、幼い頃にグロワスが現デルロワズ当主ジュールにせがんだ武功話にも出てきた。

 そんなお伽噺がここに来て…。正気かとも思うが、それを彼に伝えたジャンは信用できる男だ。ひょっとしたら何かがあるかもしれない。

 途端に不安が心を満たす。姉上が攫われる? 姉上が?


「若公、私は少し姉上の様子を見てこよう。なんと言っても婚姻だ。ご不安もある…」

「殿下! 殿下! 違います。そうではありません。殿下。殿下の御身なのです」

 この台詞が非常に危険なものであることは分かっていた。王太子は姉のことを心から慕っている。その姉の危機に際して、ジャンは言外に「優先順位を付けろ」と言ったのだ。マルグリテに何があろうとも、王太子さえ無事であればサンテネリ王国は盤石であり続ける。現状襲撃があった場合、姉弟二人を守り切る戦力はない。ならば重要な方を護る。


「馬鹿なことをいうな! 姉上を見捨てろというのか?!」

「それも違います。姫殿下の護衛には別のものを手配しております。もし、万が一、万が一のことがあった場合、我々が殿下をお守りし、姫殿下は弟が命を賭してお守りする所存」

 ようするに、バルデルがマルグリテの護衛に付くということか。それならばあの緊張も納得がいく。確かに酒など飲んでいる場合ではない。


「なるほど。エネ・ジャン。回りくどいな。武勇の誉れ高いバルデル殿が着いてくれるなら姉上は大丈夫だ。驚いたぞ」


 ジャンは瞬間、バルデルと目線を合わせた。打ち合わせは昨日のうちに済んでいる。

「恐れながら、バルデルも殿下とともにあります。武芸つたない私一人では危険なのです」

「ん? では誰だ? ジュール殿に妾腹のお子が?」

「はい。一人。下賤の生まれ故、表には出しておりませんが」

「何を水くさい。ジュール殿のお子であろう? それは是非会ってみたいものだ。そうだ、今ここに随行しているのなら呼んでくれないか。我らが真・珠・を委せるのだ、わたしもそのものを見ておきたい」

 こうなることは分かっていた。昨夜から何度も考えた。ここで「彼」の名を告げた場合、グロワスは激怒するだろう。心配が全て取り越し苦労で、式が大過なく終わった場合、自分、あるいはデルロワズ家が王太子の不興を買うこと間違いない。

 ただ、「それだけ」だ。式を無事取り仕切った我が家を罰する名分はない。また、帝国とこれから睨み合おうとする王家にデルロワズ家を切り捨てる余裕もない。時間をかければ関係修復も可能な不興で収めうる。

 一方で、万が一襲撃があれば、王国は王子と姫を一度に失うこととなる。王の不予は近い。母后はサンテネリの共同統治者であるが、女性である。成人した男性の正統王ではない。よほどの豪腕がなければ諸侯は抑えられない。東は帝国、西はガイユールから、サンテネリ王国は一気に蚕食されていくだろう。恐らく数年の内に王国はこの世からその名を消すことになる。

 だからやるしかない。


「実は殿下、もうお見せしているのです」

「いつです? 覚えがない」

「昨夜のことです。姫殿下がお見えになり、私とバルデルの後ろに控えた弟にお声がけをくださいました」

「ん? それは」

「はい。我が家では彼をユヌと呼んでおります」

 グロワスは昨夜の様子を記憶の底で攫った。姉上が誰何して、黒い召使いが近づいてきて…


「半人ではないか! 若公、私を愚弄しているのか? 私を侮っているのか? 姉上を半人に委せろと!」

 こんな馬鹿げた話しはない。兄とも慕った人にこんな仕打ちをされるとは思いもしなかった。頬を紅潮させ、グロワスはジャンに詰め寄ろうと馬を進めた。


 刹那、野太い声が会場となる平原の奥から轟いた


「襲撃だっ! 矢が来るぞ!」


 ジャンは即座にグロワスに近寄り、乗馬の手綱を取ると、自身の乗馬を進めた。バルデルと配下の騎士達が周囲を固め、陣屋を離れて走り出す。


「若公! なんだこれは、一体なんだ! 姉上のところへ。私は騎士だ。姉上を置いて逃げ隠れはしない! 不埒者どもを成敗する」

 紅顔そのままに怒鳴り叫ぶグロワスにジャンはもう何も答えなかった。代わりに声をかけたのは併走するバルデルだった。


「殿下、おれの弟は強いですよ。この間模擬試合をやりましてね。——なんと…負けました!」

 カラカラと笑いながら断言する。

 バルデルが負かされる? 大鷹ジュール殿の薫陶を受けたこの無双の騎士が? 半人に? 半人だぞ?


「し、しかしバルデル兄…その、あれは、半人だろう…? 半人に戦は無理なはずだ」

 バルデルの陽性に充てられたのか、グロワスは少しひるんで語気弱く尋ねた。


「戦えないオンもおります。ならば戦える半人デオンもいるでしょう」

 バルデルの答えは明快だった。




 ◆




「姉上、姉上。実際にごらんになったはずです」

「ええ、確かに見ました。でも、おかしいのです、殿下。杯から水を零せば水は地に落ちます。地から水が戻ることはありえません。この世界は神の御意志の元、決して変わらぬ法則によって動いているのですから」


 襲撃を防ぎきったルロワの一行は領国への帰途を急いだ。今回の戦で殊勲著しい半人部隊デオンの徒歩行軍を待つ余裕はない。姉弟を乗せた馬車を生き残った騎士達が護衛する騎馬のみ、全速力での逃避行である。若さからか殊更に騎士たることにあこがれ騎乗を好むグロワスも、流石に今回は大人しく馬車に乗った。


 何より姉のことが心配だった。国のためと決意して未来の夫に会いに赴いてみれば、当の夫配下に襲撃され一時は略取される寸前まで行ったのだ。

 政務に忙しい母后の代わりに常に自分を可愛がり気遣ってくれた姉。心穏やかで微笑みを絶やさず、悲しさを押し殺し自己を抑える姉。普段は控えめなのに、自分の悪行をちゃんと叱ってくれた姉。自慢の姉。

 その姉が今、その眼を血走らせ、口をきつく結んで怒気をまき散らしている。こんな姿は初めて見る。


「殿下。デルロワズの殿方のお話しはおかしいところばかり! 自由民の娘との間に生まれた子を半人と取り違えるなどありえません。庶民の子の話しではありません。デルロワズ公のお子ですよ? そんな間違いあろうはずがない。それに、半人には魔力がないのですから目を見れば分かるはず。それを…」

 何かに憑かれたようだ。グロワスはそう思った。姉がこれほど語気を荒げたことなど今まで一度もなかったのに。


「姉上、落ち着いてください。ではなぜ半人達が徒党を組み、騎士を倒し得たのです? 指揮したのはユヌだと…」

「殿下! そのような汚らわしい名前、口に出されるのはお控えになって」

「いいえ、ことは重大です。反故には出来ない。今回の襲撃を乗り切ったデルロワズ家の勲功は比類ない。彼らはサンテネリ王国を救ったのです。その立役者が『ユヌは本来はジュール殿と自由民の妾の間の子であった』と言っているのです。そして証拠も見せた。彼はその膨大な魔力で半人達を従わせ、姉上を救った。それを無視しようというのですか? これはジャン後継子の言です。ならば当然ジュール公の承諾もあるはず。つまり家門としてユヌの認知と名誉回復を願っているんです」


 馬車はかなりの速度を出している。波にただよう小舟のように揺れる。姉の髪もふわふわと揺れる。少し落ち着かなければならない。なんと言っても女性にはキツい戦場だった。納得してもらうのはあとでもいい。

 ただ、グロワスにはユヌが不憫でならなかった。幼時に取り違えられ、半人に落とされ、畜生のように扱われてきた。それでも諦めず、真実を突き止めたジャン・バルデルとともに力を蓄えた。表向きは半人なので今も半人の群でくらしているという。そんな彼が命をかけて救った姉なのに、姉はなぜか頑なにユヌを毛嫌いする。これではユヌが浮かばれない。


 相変わらず右へ左へゆらゆら漂う姉の髪を見て彼は思い出した。

 幼い頃、ユヌは確かに自分たちとともにいた。十歳まではデルロワズ城で飼われていたというから時期も合う。そういえば、バルデル兄と一緒によくユヌをからかった。珍しい黒髪を引っ張ったり、ユヌお気に入りの麻布を隠してみたり。でもすぐ謝ってやって、また一緒に遊んだ。この姉はどうだろう。彼女は殊更ユヌを可愛がっていた気がする。自分たちがユヌを遊びに連れ出すと少し不機嫌になった。よくユヌを撫でていた。

 自分も今日まですっかり忘れていた幼い頃の思い出。姉も恐らく忘れているはずだ。いきなり逞しい男の半人に出会ったものだから、ちょっと怖がっているのかもしれない。


「マリー姉さん」

 昔の呼び名をあえて使ってみる。

 マルグリテは一瞬驚いてみせたが、その後すぐに仏頂面に戻った。


「ねえマリー姉さん。覚えているかな。おれたち、小さい頃デルロワズの屋敷に遊びに行ったね」

 彼女は答えない。顔を背けて、今は鎧戸が下ろされた窓の方を見ている。


「そこでさ、エネ・ジャンやバルデル兄と一緒に遊んだね。その時、黒髪の小さな男の子がいただろう。『黒犬』って呼んでた」

 女の手が所在なげに首の大判布を撫でていた。


「姉さんも気に入ってたよな。おれたちが黒犬を連れて行くとうらめしそうな顔をして」

「殿下…」

「たぶん姉さんは混乱してるんだ。当たり前さ。戦場なんて女の行くところじゃないんだから。でも、ユヌは怖いヤツじゃない。あいつなんだ。あいつが」

 マルグリテは依然肩掛けをもてあそんでいる。いや、いつの間にか、白陶の肌が赤く染まるほど、強く強く握りしめていた。


 やがて彼女は口を開く。

「殿下。もうこのお話しは終わりにいたしましょう。わたくしも変に取り乱して疲れてしまいました。…お城に着いたら久しぶりにお酒をいただきましょうか」


 マルグリテの顔にいつもの微笑みが戻ったのを見て、グロワスは少しほっとした。

 普段酒を嫌う姉が自分から飲みたいと言うなんて、よほど今日の出来事が堪えたのだろう。女の身で戦場とは不憫でならない。

 城についたら取りあえず酒を飲もう。飲んで忘れて、落ち着いて。そうしたら話をしよう。


「そうだね。飲んで忘れよう。マリー姉さん」


 グロワスはそれきり口をつぐんだ。


 城に帰ったら母后と謀らねばならない。デルロワズ公も呼び出す必要がある。主要な軍伯、諸侯にも招集をかける。


 軍を起こす。


 この恥辱は血で贖われなければならない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る