(16)やらなきゃいけないことがあるんだ
どうして急に? という朝日の問いに、朝日も練習してたから、とだけ答えた。
私が知らない朝日のこと。知った気になってたかもしれないこと。全部ひっくるめて、近づきたい。隣にいたい。だから、朝日が知ろうとしたことを、私も知るのだ。
ついでに、お姉さんの困る顔も、見てみたいし。
駅で朝日とマー君と別れ、父の車を待つ。
いつの間に現れたのか、どんよりとした雲が空を埋め尽くしていて、ひとつ、冷たい風が吹いたかと思うと、それは一気に来た。
夕立。
屋根や地面を撃ち抜くような勢いで降る雨が、目の前を灰色に染め上げる。雨の壁の向こうから、カップルや会社員が屋根を求めて駅に飛び込んでくる。
風に運ばれて、水飛沫が顔にかかる。轟音があたりを支配し、色も突然奪われた。そんな自然の強さに、ただただ感嘆する。
ヘッドライトが見えた。
見知った車が目の前に滑り込んでくる。道路までは屋根がないから、私もみんなと同じように手でひさしを作って、雨の壁に飛び込んだ。
「ぜんっぜん意味ない」
「お疲れ。すごい雨だね」
運転席の父がタオルを渡してきた。たった数秒で、肌着までびしょ濡れだ。
「これ、運転できないな。広いところに出たら停めるから」
「気をつけてね」
車内のエアコンが、濡れた体を心地よく冷やす。でも風邪ひいちゃうから、少ししたら弱めてもらおう。
父は言葉通り、大きな道に出てすぐ、車を路肩に停めた。
アイドリングの振動と、雨が車体を穿つ音。窓ガラスには水滴がびっちりとついていて、次々に生まれる波紋が外と私たちを隔絶しているみたいだった。
窓ガラスにもたれかかる。父の手がハンドルから離れる。時間が止まる。
「お母さんってさ、私より、やりたいことを選んだんでしょ?」
父は振り返らない。少し手を遊ばせて、それからまた、ハンドルを握りしめた。
「……いつから、知っていたんだい?」
「去年くらいから。夜、2人で話してるの聞いちゃった」
「そうか。……あのな、夕。母さんは、夕が嫌いになったわけでは−−」
「私、傷ついてないよ」
なんで母親がいないんだろう、と思ったことはある。でも、いつもそばには父がいた。朝日もいてくれた。母がいる生活はまだちょっと慣れないけれど、十分だった。
だから、困るのだ。
なんで今さら目の前に現れたのかもわからないし、隠し事してるのも意味不明だし、私自身、何を求めているのか、ぐるぐるぐるぐる悩み続けている。
私は、今のままでよかったのに。
でもみんな、変わっていっちゃうから。
「母さんはクラゲが好きでな」
角度が悪く、父の顔はバックミラー越しにも見えない。動く気にもなれず、ぼんやりと外を眺めながら、耳を傾ける。
「研究者だったんだ、クラゲの。ついでにいろいろな装置も発明していた。賢い人だった。とても、とてもね」
そうは、とても見えない。
「その分、自分の興味関心に熱中してしまう人で。最初は、家族3人での生活も頑張っていたんだ。でも、次第に落ち込んでいって。明るい人だったのに、その明るさが消えていって。本当はやりたいことがあるんだって、泣いていたよ」
雨音のなかでも、父の静かで低い声ははっきりと聞こえる。アンサンブルとなって、私をしっとり包み込む。
「それで、私より、クラゲに?」
「僕も母さんも、たくさん悩んで、話し合った。だけど、どうしても無理だった」
これから私は、あなたたちに酷いことをする。
その代わり、2度と夕の前に現れない。
「母さんはそう約束して、僕たちから離れていった。今どうしてるか、僕も知らないんだ……会いたいか?」
首を振った。見えていたかはわからないが、父は小さくため息をついた。それで、父も緊張していたことに気がついた。
「ねぇ、お父さん。お母さんのこと。なんで好きになったの?」
「……水族館で見た横顔が、そのまま消えてしまうんじゃないかって思うくらい、透き通っていて。頭は良いのに子供っぽいところもあって、僕が守ってあげないと、って思った。確かにそう、思ったのにね」
私もだよ、とは言えなかった。
シートベルトを引っ張って、運転席と助手席のあいだから顔を出す。父の顔を見た。
泣いているかと思ったけれど、なんとか我慢したようだった。
「私、今まで幸せだったよ。これからもそうするつもり。だからその前に、やらなきゃいけないことがあるんだ」
「……危ないことは、しないって約束してくれるか?」
「もちろん」
父は小さく笑って、それからギアをドライブに入れ直した。
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