(12)『クラゲ泥棒、完了』

 それは、突如、空に浮かび上がった海だった。


 お姉さんは私たちを、海にほど近い古民家に連れて行った。てっきり、さっき見かけたテントに連れて行かれてるのかと思っていたが、曰く、あれは本当に一時的な寝泊まり用で、普段の実験はこちらでしているのだとのこと。


 昔ながらの三和土をあがり、やわらかくてひんやりとした木製の廊下を連れ立って歩く。古民家は湿気と、木と、紙の匂いで溢れていて、一歩、一歩と歩くたびに在処のわからない懐かしさがこみ上げてくる。


 両親の実家、というやつに私は行ったことがない。お母さんは蒸発したし、お父さんのほうは私が生まれてすぐ、家をつぶしたらしい。親戚が少ない……というかほぼいないのだ。


 だから、この懐かしさは実態のないもの。だけど落ち着くのは、この家がやさしいからだろうか。


「おばあちゃん家みたい」と朝日がつぶやいた。

「やっぱりそう思うんだ」と私が尋ねる。

「ザ・実家って感じだね」とマー君も続けた。

「この家も古いからねえ」と、お姉さんが零す。


 ここで待っていて、と通されたのは1階の最奥の部屋だった。お姉さんが戸を引いたとき、なかは真っ暗だった。言われるがまま、私たち3人は部屋に足を踏み入れる。


 廊下からの光で、なかの様子がかろうじてわかった。床は全面板張り、窓になにか貼っているらしく、それが外からの光を完全に遮っている。


「じゃあ」とお姉さんが戸を閉める。部屋は完全な暗闇に包まれた。


 さっ、と朝日とマー君の間に割り込む。朝日が腕を組んできて、それから離した。


「あれ、夕?」

「つかまってていいよ。暗いの苦手じゃん」

「んー、じゃあ、遠慮なく?」


 朝日の体温を感じながら、暗闇に目を凝らす。なにか、ある?


「なんか聞こえないか?」


 最初に気がついたのはマー君だった。

 頭上から、コオロギの鳴き声のような音がする。風を切る羽音も。

「ない?」と朝日が腕に力を込めた瞬間——。


 目の前がふわっと明るくなった。

 漆黒のなかくっきりと、青黒い空間が浮かび上がっている。


 宇宙? と口にしかけたところで、その正体に気づく。


 ふわり、ゆらりと、周囲の暗がりからそれは姿を現した。

 潮の向くまま、気の向くまま。流れに流され、海中を漂う生命体。そのまま水に溶けて消えてしまいそうな、半透明の傘。周りの音さえも吸い込んでいるかのように、静けさをともなって泳ぐ。

 水底に浮かぶ月。

 クラゲだ。

 

「なにこれ!」

 朝日が声をあげる。


 これは海だ。でも、どうして急に。


「水槽があったのか?」マー君が目の前の海に近づいていく。「あれ、触れん。というか近づけないんだけど」


「映像だからね」と、お姉さんの声がした。


「プラネタリウムの、海版ってこと?」

 マー君は興奮しているようだった。

「そんなところかな」


 確かに、すごい。

 私もさっきまで水槽があるんだと思っていた。


 部屋の電気がぱっと点いて、朝日が悲鳴を上げた。


「なんか飛んでるんですけど!」


 天上を見上げて、ぎょっとした。黒い塊が何匹も部屋の天井付近を浮遊している。


「小型ドローンちゃんです。投影用に3体、スクリーン吊り下げ役が2体」

「スクリーンも動いていたんすね。近づけないわけだ」

「お姉さん……いえ、お姉さま! すごい! これすごい!」

「でしょうでしょう! もっと褒めてくれていいんだからね」


 悔しいけれど、こればかりは素直に脱帽だ。部屋の入り口で誇らしげに立っているお姉さんに顔を向ける。


「で、これでどうするんですか?」


「こうするの」と、お姉さんが壁のスイッチを押した。電気がまた消えて、部屋が真っ暗になる。


 ぼうっ、とまた目の前に海の映像が浮かぶ。

 今度はウミガメが4匹、優雅に海中を泳いでいた。

 映像とわかっていても騙されそうになる、リアルな質感。


「カメに、なんかついてない?」

「ほんとだ。なんだあれ」


 朝日とマー君の会話に、私も目を凝らす。ウミガメの甲羅に、なにか貼ってある。見せつけるように、ウミガメがこちらに近づいてきた。


「わあ」と朝日が驚き、

「おお」とマー君が笑って、

「うそ」と思わず私も唸ってしまう。


『クラゲ泥棒、完了』の文字が、ウミガメと一緒に目の前を横切っていく。

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