(6)クラゲ、盗んでくれたら

 なんとなく、帰りたくない日がある。


 家に帰れば美味しいご飯が待ってるし、父も母もみんな優しいし、本当はお風呂だって早く入りたいし。


 でも、なんか違う。いつも通り、何も考えず、ただまっすぐ帰るのは違う気がする。

 今日をまだ終わらしてはいけない。考えなくちゃ、感じてなくちゃいけないことがある。漠然と、そう思う。


 空は真っ赤に燃えていた。海は漣を立てながら、空よりも暗い赤に染まっている。


 考えないといけないことはたくさんあるはずなのに、海を見ている私は自分でも引くくらいぼんやりしていて、遥か遠くの海岸線に魂が持っていかれてるんじゃないかって、他人事のように達観している。


 黙ってても、この体ごと海の向こうに行ってしまうなら、いっそ今、連れ出してほしい。海の向こうの大陸じゃなくて、終わりのない大海原へ。


 授業中にこっそりポケットに忍ばしたマッチを取り出す。反対側の手には、昨日からずっと持ち歩いている、誰かの煙草。


 揃ってしまった。


 封を開けて、一本取り出して、口に咥えて、マッチを擦って、火をつける。たったそれだけ。シンプルな行動で、私はたぶん、どこかに連れていかれる。


 封を開けてみた。側面まで少し破れた。

 一本取り出してみた。器用に取れなくて、他の数本が少し潰れた。

 口に––。


「それは言い逃れできないんじゃないかなー?」


 背後から聞こえてきたその声に、思わず煙草を砂浜に落としてしまう。

 振り返ると、昨日のお姉さんがいた。


「不良少女、現行犯で補導かな?」

「……警察に連れていきます?」

「どうしよっか。でもでも、私って警察に行った記憶ないんだよね」


 お姉さんが隣に腰掛ける。潮風に混じって、石鹸の香りが漂ってくる。色白の肌が夕日を受けて、橙色に光っている。


「未来が変わりますか?」

「そうかもしれない……! やめとこっか」


 はい、とお姉さんが手のひらを差し出した。


「今度こそ、没収」

「どうぞ」


 煙草とマッチを、手のひらの上に置いた。


「あれ、やけに素直さん」

「もう必要ないですから」

「でも、形見でしょ?」


 目の前で生きてるしなぁ、とは、言えなかった。そもそもお姉さん––お母さんはどういうつもりなんだ。


「そうだそうだ、じゃあ代わりをあげちゃおう」

「代わり?」

「はい、どうぞ」


 お姉さんは私の手を取って、手のひらに柔らかい毛玉を置いた。

 水族館のお土産売り場にある、ぬいぐるみキーホルダー。しかもよりによって、ピンク色したクラゲの。


「クラゲ嫌いって、言いましたよね」

「まぁまぁ。クラゲ、かわいいよ? なんで嫌いなの」


 モヤっとする。うまく言語化できないけれど、昔から嫌いなのだ。クラゲがちやほやされているのが、どうにもいけすかない。


「かわいさがわかりません。毒あるし、ふよふよしてるし」

「えー。どうしたら好きになってくれる?」

「そうですね」


 2人で潮風に髪を吹かれながら、並んで砂浜に座っている。


 これ、なに?


「クラゲ、盗んでくれたら」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る