(3)私の、夏が!

 あの人の顔を思い出してみる。


 水槽が放つ淡い光に照らされて、ぼんやりと浮かび上がる輪郭。肩にかからない程度に切り揃えられた、茶色みがかかった髪の毛。目元は、思い過ごしなのだろうけれど、むしろ父に似ているような気もした。


 細くて、小さくて、頭は良さそうだけど、子供っぽい。


 母は、私が小さい頃にいなくなった。父は死んだと言っていたけれど、今はもう、嘘だと知っている。

 父と新しい母が、ときどき私に隠れて話していたことから察するに、私より自分の人生を選んで、逃げたらしい。

 それを知ったとき、不思議と落ち着いている自分がいた。そうなんだ、ふうん、と。それだけ。私と似たような境遇の、ドラマや小説の主人公たちは泣いたり怒ったりしていたけれど、私には何も起きなかった。


 だから、今も別に、これといって思うことはない。


「ねぇ、聞いてる⁉︎」


 朝日の声に、意識が現実へ連れ戻される。


 いつもの教室、いつもの席。まとわりつくような熱気と、それをときどき吹き払う爽やかな風、お昼ご飯のあとの微睡み。ほかの生徒はがやがやとうるさいのに、朝日の声だけはいつもはっきり聞こえる。


 今はまあ、目の前に座ってるからかもだけど。


「夕、またトリップしてた」

「ごめん。食後の睡魔が」


 夕。ゆう。ユウ。自分の名前はあまり好きじゃないけれど、朝日に呼ばれるときは心地よさが勝る。朝日と夕で、名前もなんだか揃ってるし、夕でよかったなんて思う。


「で、どうだったの。下見してきたんでしょ?」

「ばっちし。ばっちしダメかも。思ったよりも人が多かった」

「ダメって……それじゃ『クラゲ泥棒大作戦』はどうするの?」

「どうしようね」


 朝日が天を仰いだ。


 クラゲを盗んじゃおう、と朝日に持ちかけたのは、他ならぬ私だ。

 17歳の夏。高校生最後の夏。何もしないと、朝日の予定表は大学生の彼氏との約束で埋まってしまいそうで、咄嗟に声をかけた。


 最後の夏休みだから、突拍子もないことしようよ。


 朝日の性格は知っている。お祭り好きで、今を全力疾走するタイプ。だからきっと、気をひけると思った。


 突拍子もないことって?

 ええとね……クラゲ泥棒、とか?


 そんな思いつきで始まった作戦は、具体的な方法さえ思いつかないまま、さっそく暗礁に乗り上げたのだった。


「私の、夏が!」


 ために溜めた朝日の慟哭に、クラス中が騒然としている。

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