巫女は鈴の音とともに

長崎ちゃらんぽらん

巫女は鈴の音と共に

 S県T市M地区。天竜川の支流の一つ。大窪川を見下ろせる県境の落地山の青峠に少女が一人。道行く人や車の乗客達が興味深そうに彼女を見つめては去っていく。

 この青峠は地方でもそれなりに名の知れたハイキングコースになっており、一〇〇〇mに迫る標高と相まって、この初夏の時期には歩きに来る客は少なくない。少女一人というのがいささか不用心といったくらいだが、たまに見かける光景だ。

 特筆すべきは彼女のいでたちである。

 時折吹き下ろす風に揺れるのは、丈長で束ねられた腰まで伸びた黒髪。白の上衣に緋色の袴。

 どこからどう見ても、神社の巫女さんなのだ。しかし、この青峠周辺には巫女を抱えるような大きな神社はどこにもない。

 彼女のようないで立ちを普段から拝みたければ、直近は秋葉神社になるが、何十キロと離れている。

 にも関わらず、車で来た様子はどこにもなく立つ姿は明らかに浮いていた。

 足元をみれば吐いているのは草履でも下駄でもなくタクティカルブーツ。さらに傍らに置かれているのは髪と同じくらいの高さはありそうなドラムバッグ。

 どこぞの駐屯地の新入りが、罰ゲームでコスプレをさせられて道端に置いて行かれた、と言われたら納得しかねない組み合わせだった。

しかし、彼女のぴしりと背筋を伸ばした力強い立ち姿にも関わらず纏う静謐さは、浮世離れしたある種の美しさを醸し出しており、紛れもない巫女のソレであった。

彼女が立ったままじっと見つめているのは、道路沿いの山林にひっそりと建つ石碑であった。

すっかり風化してしまい、何か掘られているのかはわかるのだが、何が掘られているのかはさっぱりわからなくなっているそれを彼女はただ静かに眺め続ける。

 遠くから救急車とパトカーのサイレンが木霊する。

やがて満足したのか、うんうんと何やら頷き、押し上げていたバンダナから指を離す。

彼女の両目が完全に覆われてしまうが、まるで意に介した様子もなく、バッグを持ち上げて歩き出す。

 鼻歌交じりで今にもスキップしそうな軽やかな足取りで峠道を進むその背中を、すれ違うハイカー達は狐につままれたように見送り続けるのだった。



「ったく、ひでえもんだ」

 開口一番、山住義元刑事はそう呟いた。

 その眼前には、落地山の工事現場で起きた土砂崩れの光景が広がっている。

 昨今のハイカーの増加もあって駐車場を整備する予定になっていたのだが、見事なまでに削れた斜面と土砂の山がそこにはあった。

 死人が出なかったのはせめてもの幸いと言った所か。

「た、退避!」

「離れろおっ!」

 怪我人を運び出し終えて現場を検証するかと散らばって行った警官や鑑識達が突然駆け出してこちらに向かってくる。様子を見に来ていた現場監督や他の作業員たちも一緒だ。

「な、なんだ⁉」

 口元を抑えながら駆け寄ってきた部下の都田がゼーゼー言いながら、ダメだと言わんばかりに手を振った。

「何が起きたっ」

「ガスみたいですよ」

「ガス?」

「ええ、卵の腐ったような臭いがしたって」

 硫化水素か。土砂崩れでガス溜が表に出てきたか、と思ったものの、山住は内心で首をかしげる。

 この辺は火山活動で出来た山はなかったはずだ。今まで硫化水素が出たという話も聞いた事はない。

 はっきりしたガスの種類はこれから改めて鑑識なりが検査するとして、ガスが出たとなっては、安全性が確認されるまで現場検証はお預けになりそうだ。

「先に事務所で聴取するぞ」

「あ、はい」

 安全確認は鑑識や他の者たちに頼むと、山住は都田と工事現場の作業事務所へ向かおうと踵を返す。

 その時、不意に鈴のような音が聞こえた気がして、山住は振り返る。

 視界に飛び込んできた思わぬ存在に、彼は目を見開き、加えていた飴を落っことした。

「おやっさ――え?」

 ついてこない山住を気にしたのだろう。振り向いた都田の顔も山住と全く同じ事になる。

「巫女、さん?」

 一体全体、どこから入り込んだのか。

 崩れた土砂を前に、緋袴の少女が一人。やけにデカい袋を肩にひっさげて立っていた。

 彼女は興味深そうに現場を見上げて、軽やかに行ったり来たりしている。

 鑑識や他の者たちも、突然の事過ぎたのか、言葉を失くして彼女を見つめていた。

「これはこれは」

 うんうん、と頷く彼女の姿に、山住の頭はようやく再起動を始める。

「なんだ君は、一体どうやって――?」

「歩いてきたんですよ~。私、巫女ですから」

 山住の方を見る事もなく、彼女は背中越しに首をかしげながらそう答える。

 巫女と徒歩の関係性が全くもって彼には理解できなかったが、とにかく面倒そうなタイプだという事は即座に理解する。

 見張りの連中は何をしていたんだ、とは思うが、入ってきてしまったものは仕方ない。

「いいからすぐに出て行きなさい。ここは関係者以外立ち入り禁止だ」

「話せば長いんですけど、一応私も無関係ではないといいますか」

「わかったわかった。そういうのは良いから」

 案の定面倒なタイプだな、と頭を掻いてから、顎で都田に追い出すように指示を出す。

 すると、少女はゆらりと山住達の方へと顔を向ける。

「都田刑事、足元には気を付けた方がいいですよ」

「え、うわっ」

 彼女の呟きが届く前に、都田がバランスを崩してすっころびそうになる。

 見れば山住が落とした飴が都田の足元に転がっていた。

 山住は背筋に何か不気味なものを感じて、彼を助け起こすのも忘れてその場に立ち尽くしていた。

 今、彼女は何と言った。都田の名前を呼ばなかったか。それに、まるで転ぶのを知っていたかのようだ。

 そして何より、どうやって彼女は、この状況を見たと言うんだ。

 振り向いた少女の両目は、バンダナで覆われていたのである。

 こちらの様子も何も、足元すら見えはしないだろう。

 だが、クスクスと口元を押さえながら笑いこぼして、こちらの心を見透かしたように「これはお気になさらず。これでもちゃんと、見えてますから」と告げた。

 狐につままれた様な気持ちを抑え込むようにして拳を握り、山住は改めて都田に告げる。

「彼女を連れていけ。近くでうろちょろするようなら、署に同行しろ」

「りょ、了解」

 状況にすっかり呑み込まれていた都田も、山住の言葉にようやく動き出す。

 足元に気を付けてそろりそろりと巫女服の少女に近づいていく。

 彼女はすばやく両手を上げた。

「まあ、そうなりますよね。お騒がせして申し訳ありません。退散しまーす」

 さっさと彼女は都田の横をすり抜けて、軽やかに工事現場の事務所の方へ向かって歩き出す。

 本当に目を覆っているのに見えているようだ。

 都田も何が何やらと困惑気味に首を振ってその後を追っていく。

 都田が追い付いた所で、少女はまたも山住の方へ顔を向けた。

「山住刑事。お話はよく聞いた方がいいですよ。これで三回でしょうから」

「何?」

 少女の呟きに、現場監督がわずかにたじろいだのを、山住は見逃さなかった。

 その様子を前に、彼女は口元に手を当ててクスクスと笑いながら、都田を置いてけぼりにして立ち去って行った。

 得体のしれない何かを感じていた背中と肩から、わずかにだが力が抜ける。

 ふう、と大きき息をつき、山住は そそくさと立ち去ろうとしていた現場監督の肩を掴む。

「さて、詳しい話を聞かせてもらおうか?」

 あの少女の言動はとても信用に足るものでない。だが、刑事生活二十余年で積み上げた自分の勘を疑ったことはない。

 この男の反応は、紛れもなく本物だったのだ。



「冗談じゃないぜ、まったく」

 現場監督や関係者からの聞き込みに一区切りをつけ、山住は喫煙所で紫煙をくゆらせる。

 工事現場の事務所だというのに、今や完全禁煙と来たものだ。

 刑事だろうが関係ない。喫煙者はすっかり敷地の端に追いやられてしまった。

 彼はチラチラと手にした携帯を気にかける。先ほど都田に連絡を取ったのだが、その後の報告が全くない。

 何をしていやがるんだ、と何度もつま先が地面をたたいた矢先、息を切らせて都田が駆け寄ってくる。

「ああ、いたいた。やっぱりここでしたか」

 なぜ電話をしないで走ってきたのか、と言いたくなった気持ちをこらえるように、山住はタバコを灰皿へ押し付けた。

「間に合ったのか?」

「間に合ったもなにもあったもんじゃないですよ、もう」

 都田の反応から、また妙な事が起きてるのは確実だった。

 すぐに案内させるように促し、後を他の刑事に任せてその場を離れる。

 連れて来られたのは、現場から数百メートルほど下った、既存の駐車場。

そのトイレの隣に設置された東屋にお目当ての人物はいた。

テーブルにはクッキングストーブが置かれ、その上で小さなケトルが湯気を上げている。その脇にはティーバッグの入ったアルマイトカップ。

キャンプか登山のティータイムのように店を広げていたのは、先ほど現場に乱入してきた巫女少女である。

 相変わらず、バンダナで両目を覆ったまま、彼女ははっきりと山住の方を向いて会釈する。

「思ったより早かったですね」

「楽しそうだな」

「ただ待つよりは、楽しく待つ方がいいじゃありませんか」

 少女は火を止めてケトルからカップへお湯を注ぐ。

「ご一緒にいかがですか?」

「え、じゃあ――あいたっ」

 すっかり相手のペースに飲まれて、今にも席に着きそうになった都田の背中を引っぱたく。

「君は、知っていたな?」

「はい」

 はぐらかす様子もなく、山住の質問に彼女はあっさりと頷く。

 山住は改めて都田にも座るよう促して、少女の向かいへと腰を下ろした。

「君の名前は?」

「里見八重です。あ、なんでしたらどうぞ」

 そういって、彼女が差し出したカードに、山住は目を丸くする。

 運転免許証である。

 住所は千葉、年齢は一九。ざっと目を通し、山住は手を伸ばした。

「これは――借りてもいいのかな?」

「構いませんけれど、あらあら。もう取り調べが始まっていたんでしたか?」

「少なくとも、不法侵入の現行犯でひっぱる事はできるな」

「なるほど。ふふ、どうぞ」

 山住の答えがお気に召したのだろうか。彼女は免許証を、伸ばされた彼の手に置いた。

「照会しろ」

「えっ、あ、はい」

 都田はそこまでしなくても、と言いたげだったが、山住の指示に従い、免許証を持って車両へと戻っていく。

 都田の姿が遠くなったのを確認し、山住は改めて、八重と名乗った少女へと向き直る。

「君は、なぜ知っていた? 関係者の身内か?」

「まさか、そう見えましたか?」

 山住の問いかけに、彼女は笑みを絶やすことなく聞き返してくる。

 その返答の意味を、彼女が理解しているのだとしたら、と山住は目の前の少女に底知れぬ何かを感じ始めていた。

「それで、工事の方はどうなるのでしょうか?」

「――当面は、中止させることになる」

 わずかに逡巡したのち、山住はそう答えた。この程度の事を、今彼女に隠してもおそらく無駄だ、という直感を信じたのだ。

「当然の判断、といったところですね。計三回のうち二回は未報告、ついには負傷者まで出してますからね。業者の選定もやり直しでしょうか」

「それについては警察の管轄ではないな」

 そう答えながら、山住は改めて、少女をじっと観察する。

 彼女はティーバッグをよけて、心地よさげに香りを楽しんでいた。 

 一体、この少女は何者なのか。格好に目を瞑れば、どこにでもいそうな女の子である。

 それだけに、不可解な事が多すぎる。

名前も住所も、免許証の情報は間違いなく本物だろう。照会はさせているが、答えを待つまでもない。少なくとも、彼の経験がそう告げていた。

 かといって、工事関係者の身内ではないという。

 ならば一体、どこでどうやって、彼女はこの現場の事故を知っていたのか。

 山住の聞き込みに、現場監督は、今日以外にも、二回の土砂崩れや崩落が起こっていた事を認めている。怪我人が出ていなかった事や、納期の都合などもあって、結果的には隠蔽していた事になる。

 作業的には起こるはずがない、とかなんとか話していたし、専門的な事は山住はわからないが、事故が起きたのは事実であり、それを隠蔽していた。彼にとってはそれがすべてだ。

 そして、その隠蔽されていたはずの情報を警察よりも早く、彼女は握っていたのだ。

 つまり、彼女は重要な参考人であるとともに、現時点で最重要の容疑者でもある。

 だが、何故だろう、と山住は幾度となく、相手の顔を覗き込んでは内心で首を傾げ続けた。

 彼女は恐らく、この事故とは直接は関係ない。

 直感が、そう告げ続けていた。胡散臭いことには変わりはないし、何かを知っている。その確信もまた、彼の中にはあった。

 彼女の飄々とした態度の向こうに見え隠れするものは、犯人の持つものとは明らかに違って感じられた。

「そんなに見つめられても、何も出ませんよ」

 八重は、お茶を飲み切り、ハンカチで口元を拭いながらそう微笑む。

 これだけ睨みを利かせても、その心はチリ一つ見せる様子はないのだ。何かが出てくるなど、山住ももう期待はしていなかった。

 しかし、彼女の近くにいれば、何かがある。何かがわかるはずだ。

 その時、ふと八重が山住の背後を覗き込むように顔を上げた。

 山住もつられて振り向くと、都田が駆け寄ってくるところだった。

「おやっさん、終わりました」

 都田は肩で息をしながら、山住に八重の免許証を渡してくる。

「どうだった」

「本物でした。身元も間違いありません」

 予想通りの答えに、そうか、と軽く答える。

 とはいえ、本当に目が見えているのか、という点には改めて驚かされる。

 なぜ、見える目をわざわざ塞ぐような真似をしているのか。

 免許証の顔を改めてみても、特に変わった所はないし、コンプレックスが仮にあるとしても塞ぐのはやり過ぎである。

「ふふふ、そんなに見つめられても、穴は開きませんよ」

 八重の微笑みに、山住はハッとなる。

 彼女が目にコンプレックスを持っていて、それを隠しているとして、何故そこを自分は今そんなに気にしているのだ。

 事件とは無関係の事のはず。それなのに、気になる。

 これが今回の件と何か関係している、と何かが訴えているような。

「おやっさん、どうするんですか?」

 都田の問いかけに、山住は暫く逡巡し「ただで帰すには、彼女は知り過ぎてる」と告げる。

「強制はできんが、当面はこの町から出ないでもらいたい。それと、その間、確実につながる連絡先を教えてもらおう」

「あらあら、困りました。今少しこの町から出るつもりはなかったんですけど、生憎と携帯電話の類は持ってないんですよ」

 山住はいったん目を閉じ、大きく息をつく。

「どこに泊まる?」

「いささか、説明しづらいですねー」

「なら、案内してもらおう。都田」

「はい――え?」

 キョトンとする都田に、山住は顎で促す。

 何かを知っているのは間違いないのだ。彼女の居場所は確実に押さえておかなければならない。

 そんな山住の考えを察したのか、八重はクスクスと笑いながら、広げていた道具を片付けて立ち上がる。

「それでは、エスコートしていただくとしましょう。あ、私、車とか使わないので」

 ちらりと都田に目配せをして、彼女はすたすたと歩きだす。

「え、ちょ、おやっさん?」

「行ってこい」

「ええ~」

 ポンと柵越しに叩いてやると、都田は今にも頭を抱えそうな顔で身をよじりながら、八重の後を追っていく。

 満足はしていないが、今できる事はやったつもりだ。

 決して長い時間を話していたわけではないが、どっと疲れが湧く。

「おっと」

 喫煙所ではないというのに、自然とタバコを手にしていた事に気づき、山住は思わず頭をかく。

 甘いコーヒーでも入れて頭に気合を入れてやるか、とタバコをしまいながら腰を上げた彼の視界を、影が横切る。

 はたと顔を上げ、影が手にしていたモノに気が付き、山住が声を上げるよりも早く、八重が都田を突き飛ばした。

瞬間、影が手にしたバールが地面にたたきつけられ、甲高い音を上げる。

「な――ん?」

 八重が都田をかばったのだ、と理解はしたものの、その状況の異質さに、山住の体はすぐには動かなかった。

 倒れた都田も状況が飲み込めず口を開けて、その影を見上げている。

 影の正体は、先ほど聞き取りをしていた現場監督だ。彼は尻もちをついている都田には見向きもせず、八重にバールを向けた。

「あらあら」

 振り回されるバールを、八重は慌てる様子もなく、ひらりひらりとかわしていく。

「都田!」

 山住が怒鳴りつけながら走り出すと、ようやく彼もハッとなって慌てて立ち上がった。

「こ、このっ、うわっ⁉」

 腕を抱え込むようにして抑え込んだ都田の体が、簡単に振り払われてしまう。

 山住は相手の背後から体当たりし、倒れた相手を羽交い絞めにする。

 しかし、相手は信じられない力で体をよじり、腕を振り回し、彼を振りほどこうとする。柔道五段、体格でも山住の方が頭一つ高いというのに、抑え込むだけで精一杯である。

「うおっ」

 振り回された手に握られたバールが一瞬、顔をかすめる。

「おやっさん!」

 都田が今一度、山住と一緒に覆いかぶさるようにして、バールをもった腕を抑え込む。

 現場監督は呼吸も鼻息も荒く、まさに興奮状態で、動きを止める気配は全くない。

 それどころか、相手が発する力はますます増えていると言っていい。

 都田が人を呼ぼうと口を開くが、すぐに腕を抑え込む方に気を取られてしまう。

「くそ――っ!」

 山住は地面が急に離れはじめ、目を見開く。

 大人二人で抑えかかっているというのに、なんと相手は体を持ち上げたのだ。

 四つん這いとはいえ、その四点で大人三人分の体重を支えている

 およそ一般的な人間からかけ離れたパワーに、化け物か、と言う考えが山住の頭をよぎり、冷や汗が浮かびだす。

 チリン、と冷たく、しかし爽やかな音が耳を駆け抜ける。

 音のした方へ顔を上げると、目の前で五色の紐が揺れ、今一度、チリンと音を立てた。

 不意に、周囲が静寂に包まれたかのように感じられる。

 抑えかかっていた男の体がガタガタ震えており、何かを警戒するようなうなり声をあげている。

「あらあら、まさかこんなに早く出てらっしゃるとは思っていませんでしたよ」

 どこか楽し気にすら感じさせるように軽やかに、八重が告げる。

 山住達にではない。その下でもがいている男だ。

「とはいえ、影に用はありませんし、騒ぎになるのは私も本意ではないので、ここは一旦、お引き取り願いましょう」

 そう告げる彼女の手の中で、連なった鈴と、柄につけられた五色の紐が揺れる。

「掛介麻久母畏伎伊邪那岐大神筑紫乃日向乃橘小戸乃阿波岐原爾御禊祓閉給比志時――」

 八重が恭しく頭を下げ、祝詞と思しき言葉を呟き始めると、抑え込もうとしていた男の体がガタガタと震えだす。

「祓い給へ清め給へ祓い給へ清め給へ」

 何度も繰り返される言葉と鈴の音が重なって響き渡る。

 その音に、静けさはさらに深まり、空気がどんどんと澄み始めていくように思われた。

 山住の耳にはもはや、八重の言葉と鈴の音しか聞こえてはいなかった。

 八重の口調に合わせて、鈴の音もまたどんどんと強くなっていく。

「神ながら現の御魂守り給へ!」

 ひときわ強く、押し出すように八重が詞を唱え、山住達が押さえつけていた男に向けて鈴を突き付ける。

 強く響く音に、男は体を大きく震わせ、顎を突き上げた。

「阿呼アアアアアア――ッ‼」

 およそ人間が出すとは思えぬ叫びをあげ、男はそのまま力を失い山住達の下に横たわった。

 まずい、と山住はとっさに押さえつける力を緩める。まさか死んではいないだろうな、と様子を伺うと、静かな寝息を立てて、先ほどまでの興奮状態が嘘のように眠りについているようだった。

その男の体から、靄の様なものが立ち上がるように見え、山住は瞬きを繰り返す。

 靄はやがて一つの塊のようになって浮かび上がった。

「イマイマシイ――ソウクノミコ」

 喋った、と驚く暇もなく、靄はたちまちに消失する。

 八重が今一度チリンと鈴を鳴らし、恭しく礼をする。

 途端に、いくつもの足音が近づいてくる事に山住は気づく。

 振り向くと、騒ぎに気付いたのか、制服の警官たちが数名こちらに向かってきている所だった。

 男がすっかり気を失っているのに気づいて、都田は尻もちをつくようにして大きく息をついて天を仰ぐ。

 急に時間が動き出したような感覚に戸惑う山住の耳元に、八重の声が届く。

「いささか長居が過ぎたようなので、お暇しますね。この騒ぎは、私も不本意ですし。ご心配なく。またすぐ、お目にかかれますよ」

「な、おいっ――くっ!」

 おどけたように小さな笑いと共に八重の気配が遠ざかる。

 振り返る山住は急に吹き抜けた風に顔をかばった。

 腕をどけると、八重の姿はすでに駐車場の外にあり、軽快なステップで遠ざかっていった。

「くそ、なんだってんだ……」

 山住の呟きは、駆け寄ってきた警官たちの喧騒に埋もれて消えた。



 西日の差し込む市内の医療センターの待合室で、山住は絆創膏を張られた額に手を当て、組んだ足をもう何度も貧乏ゆすりさせていた。

 現場から取り急ぎ、なかなか目を覚まさなかった現場監督をここまで搬送してもらい、起きるのをまってから聞き取りを行ったものの、本人は何も覚えていないの一点張り。目が醒めて突然病院だったという事もあったのだろうが、軽いパニックになっていた。

 演技と言う可能性もあるが、可能性は低いだろう、と山住は踏んでいた。

 そんなガッツのある相手なら、隠蔽の事も隠し通していただろう。

 途中で人格が変わったのかと思えるほどに、彼の行動が結びつかない。記憶がないという事も含めて、精神鑑定も視野にいれる必要がありそうだ。

 そこへ、右手に包帯を巻いた都田がやって来る。

「遅かったな」

「全治三週間って言われちゃいましたよ」

 そう言って彼は右手をさすってみせる。つまりは捻挫だ。

「名誉の負傷だ。あっちは?」

 都田は大きくかぶりを振った。

「もう何にも問題なし。異常なしの健康体みたいですよ」

 だとしたらますます精神鑑定の方向になりそうだな、と山住は頭を掻く。

 都田に治療のついでにあれこれ聞いてみてもらったが、収穫はなさそうだ。

 ふと顔を上げると都田が少しばかり唇を右上にあげてぴくぴくとさせていた。

 言うか言わないか迷っているときの彼のクセだ。

「何か気になる事でもあるのか?」

「あー、なんかですね。足の所にヘビに噛まれたみたいな傷があったらしいんですよ」

「ヘビ? 毒とかはなかったんだろう?」

「ええ、さっきも言った通り健康そのものみたいです。ただ、出血が残るくらいには結構新しい傷だったらしいんですけど、靴下とかには穴が残ってないらしくて」

「なるほど」

 確かに妙な話ではある、と山住は頷く。そんなに新しい傷なら、先の現場で噛まれた以外にはないが、仕事場、それも工事現場である。靴や靴下をはかずに歩く事は考えにくいし、その状況でヘビに噛まれたとして、体だけ傷つくというのは奇妙としか言いようがない。

 だが、今回の騒動との関連があるとも思えなかった。

「一旦戻るぞ」

「あの現場監督は?」

「監視はつけてある。あの状態では逃げるどころではないだろうがな」

 そう言って、山住は重そうに腰を上げる。ただでさえ、報告しなければならない事はたくさんあるのだ。

 久しぶりに、彼の中でデスクでコーヒーを飲んでゆっくり整理したいという欲求が心の中に湧き上がっていた。

 同時に、病院を後にし、都田の運転する車に乗り込み、目を閉じてもなお、彼の心の片隅には、あの八重と言う少女の影が離れなかった。



「――っさん、おやっさん!」

「んん……?」

 山住は都田の呼びかけにうめくようにして目を覚ます。

 報告書作りなどの作業をしていたら、結局深夜を回ってしまい、気づけばソファで眠ってしまっていたらしい。

「帰らなかったんですか?」

「まあな」

 書類を作るのが不得手と言うのももちろんあるのだが、どう報告すればいいのか悩む箇所がいくつもあり、長引いたのだ。なんとか形にはなったが、はっきりいえば、あの八重と言う少女の行った事については言葉を濁しに濁してある。

「お前は?」

「ちゃんと帰らせてもらって、ゆっくり眠れましたよ」

「結構な事だ」

 けが人として先に帰らせたのだから、休んでくれてなければ甲斐がない。

 ゆっくりと体を起こし、山住は己のデスクを指さす。

「俺も一旦戻って着替えてくる。書類はできてるから、課長の机に置いといてくれ」

「了解です。ついでに、何か食べてきた方がいいんじゃないですか?」

「時間があればな」

 軽く手を振って応え、何度もあくびを噛み殺しながら、山住は職場を後にする。

 駐車場から車を出し、事故現場にもつながる大窪川を臨みながら南へと下って自宅へと向かう。

 もう数えるのも忘れるほどに通った道、そして人生の大半を過ごしてきた場所だ。

 だからこそ、彼はすぐに、異変に気付いた。通り過ぎた一角で、見知った顔が何人も集まっていたのだ。

 車を止め、山住は急いで自分の足で折り返していく。

 集まっていた人々は、地区内の表通りとぶつかるバス停前の空き地で、なんとも言えない雰囲気でラジオ体操に勤しんでいた。

 いつもなら、もっと奥の神社の境内でやっているはずだ。

 山住が自治会長に手を振ると、気が付いた彼は若いのに後を任せてこちらへ向かって来た。

「なんでこんな所で」

「おお、義元君。みんなここに集まっていたし、ちょうどいいかと思ってな」

「皆が? 神社には誰も行って無いんですか?」

「全員に聞いてみなければわからないが、そうじゃないのかな?」

 山住は思わず首を大きくかしげてうなってしまう。

 まったくどうなっているんだ。誰も疑問に思う様子もなく、体操に勤しんでいる。

 もともとこの場所は空き地だし、この地区の住民はほぼ農業従事者で、周りも田んぼや畑だらけである。ラジオ体操をここでやる事自体は問題がある行為ではないのだが、誰もが示し合わせたようにこの場所に集まって来たというのは不可解でしかない。

 何かが起きている。昨日の件もあってか、山住は漠然とだがそう感じた。

(神社――か)

 まさか、と言う思いを抱きつつも、山住は自治会長に挨拶をして、神社へと足を向ける。

 神社はバス停から東に歩いて十分ほどの所である。川が近いので、水害に備えて高台に位置しており、過去には何度もここに避難して住民たちが難を逃れたという話が残されている。

 神社に向けて歩きながら、山住はだんだんと違和感を覚える。静かすぎる。

 大して商店があるような地区ではないとはいえ、葉っぱの落ちる音すら聞こえそうだ。

 なんとなくだが、思考に靄がかかったような感じも覚えはじめ、この道が神社に本当に続いてるのかも、自信がなくなってくるようだ。

 だが、確かにこの道のはずだ、と山住は足取りを重くしながらも進んでいく。

 すでに彼の中で、まさか、は確信に変わりつつあった。

 何度かかぶりを振りながら歩き続け、ようやく神社へと続く石段に辿り着く。

 石段の先にある鳥居を見上げると、チリンと鈴の音が聞こえたような気がした。

 山住は大きく息を吸うと、ゆっくりと石段を上がっていく。

 涼しいな。そして先ほど以上に静かだ。

 鳥居をくぐり、山住は真っ先にそう感じた。

 小さな、昔遊んだくらいの印象しかない神社の境内だというのに、とても厳かで、どこかすっぽりとこの場所だけが切り取られてしまったように思われた。

「あら?」

 本殿の扉がゆっくりと開き、中から昨日と変わらない姿の八重が現れる。

 彼女は山住の姿を認めるなり、首を小さく傾げた。

「あらあらあら」

 彼女は小さな笑みを浮かべると、相も変わらず、目を覆っているとは思えぬ軽快さで、本殿の縁側から下りて山住の下へと駆け寄ってくる。

 山住を下から見上げるようにしてぐるりと一周し、彼女は恭しく頭を下げた。

「これはこれは、おはようございます」

「あ、ああ」

 完全に出鼻をくじかれ山住は返事にも詰まってしまう。そんな山住を八重は、手で口元を覆いながら、愉快そうに見つめた。

「入ってこられるとは、縁が強かったみだいですねー」

「やはり君が何か――したのか?」

 彼女の発言にひっかかりを覚え、山住は尋ねる。

「ご説明してわかるかどうか~、ではありますけど、お聞きになります?」

 山住はわずかに逡巡し「聞かせてもらおう」と答えた。

「では、せっかくですし、お茶でもしながらという事で」

 八重は手を叩いてそう告げて、本殿に向けて手を向ける。

 山住は促されるまま、彼女の後について本殿へ向かう。

「じゃあ用意しますから、その辺にでも座っててください」

 本殿の前に来ると、八重は山住にそう告げて、階段を上っていき、出てきた時のように扉を開けて中へと消えた。

「その辺って――」

 山住は仕方がないので、賽銭を投げ入れ、鈴を鳴らすと、二礼二拍手一礼を形式的に済ませて、本殿の縁側に腰を落とした。

 まもなく、昨日と同じようにケトルとクッキングストーブなどを手にして、彼女は社の中から現れた。

 閉まる扉の隙間からちらりと、彼女の荷物が中に見えた。

「まさか、ここで寝泊まりしたのか?」

「ええ」

 あっさりとした返答に、山住は却って返す言葉も失ってしまう。

 そうこうしている内に、お湯が沸き、八重はお茶を差し出して来る。

 受け取ると、ふわりと香りが伝わる。いい匂いだ、と山住は思いつつ、口をつける。朝とはいえ夏に外でホットのお茶だというのに、どこか爽やかな心地になるような、そんな味がした。

「人払いをしてありましたから、ご心配には及びませんよ」

 すっかり人心地をついていた山住だったが、八重の言葉に、本来の用事を思い返した。

「人払いという事は、今日はここで朝の体操が行われていないのは――」

「私の仕業という事になりますね」

 あっけらかんと彼女は答えて、袖をごそごそとまさぐり、紙を取り出して差し出して来る。

 受け取ると、何やらお札のようであった。

「これを四方に貼りましてですね」

「……」

 山住はまじまじとそのお札を見る。なんの変哲もない、少なくとも見た所は、それこそ、そこらの寺社で売ってるお札と決定的に違うものは感じられなかった。

 とはいえ、普通ならからかわれていると思う所だが、ここに来るまでに不可解な現象に何度も遭遇していた山住は、彼女の言葉をとりあえず最後まで聞いてみようと決めて、先を促す。

「この神社周辺に簡単な結界を発生させたわけです」

「その結界とやらで、つまり、皆ここに辿り着く事ができなくなった、と?」

「ええ。と言っても、先ほども言った通り、簡単なものです。そうですね、認識を阻害する程度のものです」

 結界などという言葉が当然のように出てくる時点で、すでに眉をひそめていた山住にとって、簡単なものとそうでない結界というものはまったく理解のしようのない話ではある。

 そんな彼の様子に気づいているのか、おかしそうに口元に手を当てながら、八重はさらに話を続ける。

「ざっくり言うと、この場所に来る道をわからなくするためのものですね」

「しかし、俺はここに来れてしまったが」

「そこまでしっかりした結界ではありませんからね。この場所に辿り着くという強い意志、そして、その場所と貴方を繋ぐ縁があれば、抜ける事は可能です。ああ、縁は羅針盤みたいなものとでもお考え下さい」

「その縁というのが、俺と君の間にできた、と?」

「フフ、信じる信じないはご自由に」

 山住の問いかけに、八重は両手合わせるように微笑む口元を隠して答えた。

 信じる信じない以前に、完全に理解の範疇ではない話だ。だが、同時に彼女の言葉に全く持って、偽りや騙りの類は感じ取れなかった。

 山住はめまいが起きそうになるのをこらえるように目と目の間を指で押さえる。

「もし、君の言う事に偽りがないというのであれば、信じてもいいだろう」

「あら?」

 八重は少しだけ意外そうな声を上げる。

「だが、ただで信じるほど、俺は人間ができちゃいないんだ」

「今までのだけでは、証明としては不十分でしたか?」

「君が俺に協力してもらいたいと思っているのであれば、だがな」

 それが、疲れた頭で考えだした、山住の結論だった。

 彼女は嘘はついてはいない。はぐらかしている部分は多いが、少なくとも彼を騙そうという様子は感じ取れなかった。

 そして、今回の一連の騒動について、彼女は何かを掴んでいる。

 にも拘わらず、一人で行動を起こすのではなく、敢えて現場に自分の姿を見せている。

 どう考えても怪しまれるのに、である。

 その理由は、彼女の目的に、全体かそれとも個人でいいのかはわからないが、何かしら警察を利用したいからではないのか、と。

 それならそれでいい、と山住は思ってもいた。どんな些細な事であろうと、解決に近づけられるなら、八重の言葉ではないが、非科学的な縁とやらであろうと、掴んでみてもいいのではないのか。

 そんな考えを抱いた山住を、八重がバンダナを押し上げ、その瞳で彼の心の中を見透かしているようにじっと見つめてくる。

 やがて彼女はくるりと背を向けた。

「二歩下がってください」

「ん?」

「すぐに」

 突然言われたものの、無意味な事ではあるまい、と山住は素直に二歩下がる。

 直後、彼の足の前にベシャっと、白と黒の混じったモノがたたきつけられ、とっさに空を見上げるが、すでに鳥はいなかった。

 先ほどまでの位置にいれば、確実に当たっていた所だ。

 偶然か、と思った矢先、八重が後ろ手でⅤサインを向けてくる。

「はいピース」

「ピース?」

「はい、ピース」

 どうやら、やれという事らしい。

 山住は何なんだと思いつつも、先ほどのフンの件を思い返し、ピースをする。

「とじてください」

「とじ?」

 言われるがままにピースの指を閉じる。瞬間、ブブブ、という振動と音が指先から伝わってくる。

「うわっ」

 思わず手を開くと、ハエが慌てたように飛び立っていく。

「宮本武蔵の気分は味わえましたか?」

 振り向いてクスクスと笑う八重に、山住は頭を掻き、つられて小さく笑ってしまう。

 どうやら彼女には、この流れが見えていた、という事らしい。

 信じるには、あまりにも小さく、それでいて荒唐無稽なやり取り。それでも、彼女は誠心で以って応えてくれた、と山住は考えた。

「いいだろう、何を手伝えばいい?」

「一つ、確認したい事があるんです」



「言われた通り、調べておきましたよ」

 食事がてら休憩を取り、着替えて山住が署に戻ると、すぐさま都田が寄って来た。

 どうだった、と聞く前に資料を山住のテーブルに広げて、彼は続ける。

「工事が始まってから、現場で小さい祠がある事に気が付いたみたいですね。ただ、それが何の祠かは特にどこかに聞いたりとかはしないで、工事は続けたみたいです」

「遷座はしたのか?」

「せんざ?」

「祠の神様を移動させる時に行う儀式だ」

 なんだかよくわからないという風に都田は首を傾げる。

「一応、中のご神体みたいなものは取り出したみたいですけど、別にそういう儀式みたいなのはやってないみたいですね」

「言う通りだったか」

 山住は顎を撫でながらぼそりと呟く。

「はい?」

「こっちの話だ。そのご神体は今どこにある?」

「え、あー、すみません。事務所とかにあるんじゃないですかね?」

「憶測でモノをいうな」

 そう言って山住は車のキーをもって立ち上がる。

「とりあえず俺は事務所に向かう。お前はその間にどこにあるか確認しておけ」

「了解です。でもこれ、今回の騒ぎにどんな関係が?」

 そんな事は俺が知りたいよ、という言葉を飲み込み、都田を適当に言いくるめる。

 何しろ、今ある明確な手掛かりは、彼女に言われた頼みだけなのだから。

 


「あら、お早いお戻りでしたね」

「おかげさまでな」

 改めて神社へと足を運んだ山住を、意外そうに八重が迎える。

 彼女は山住が小脇に抱えていたものに気づいたのか「そちらですか?」と尋ねた。

 山住はそっと社の縁側に荷物を置き、包みをほどくと、すっかり黒ずんでしまった、木彫りの像が姿を現した。

 八重はバンダナを押し上げ、何かを呟きながら頷いたり首を傾げたりして、その像をありとあらゆる角度から見まわしていた。

「それは、なんなんだ?」

「と言いますと?」

「何を模しているのか、君はわかるのか」

 山住は、思わずソレを指差してしまう。

 山住が工事現場の事務所で確保した木彫りの像は、形容しがたいモノであった。

 頭や尾は蛇のようではあるが、トラのような四肢が生えている上に、背中には翼まであるが、東洋の龍とは全く異なる風貌だ。

「蛟であり水虎であり、と言った所でしょうか。水、河川に住むこの世ならざるものの象り」

「それにしても、これじゃキメラだな」

「無理もありません。コレを祀っていた集落の人達もその全身像を見た者はいないのですから。わずかな手掛かりと、それまでの伝承によるイメージを具現化しようとした結果ですから」

 今までとは違う、真っ直ぐな八重の答えに、山住は少しだけ、巫女さんっぽいな、と感じてしまった。

「しかし、これが何の証拠になるんだ」

「証拠にはなりませんねー。少なくとも、山住刑事が考えているようなものには、ですね。ただ、解決の役には立ちますよ」

「解決、ね」

 山住にしてみれば、欲しいのは明確な物的証拠なのだが、いかんせん状況が状況である。

 まずは解決を優先だった。

「それで、この後は?」

「今日は満月ですねー」

 八重の呟きに、思わず山住は空を見上げるが、まだ日は高く、照り付ける光に顔をしかめる。

 瞬間、はっとなり彼はとっさに縁側の像に手を伸ばすと、指と指がぶつかる感触があった。

「あら」

「この像は、ウチの預かり者なんでね。君にハイとは渡せないんだ」

 山住は、首をかしげる八重を横目に、像を自分の手に収める。

「それはそれは、困りましたねぇ」

「これが必要だという事であれば、それは構わない。だが、扱うのはこちら。それでどうかな?」

 八重が何を考えているのか、これをどう使うのか。何より、解決とは何を指すのか。

 それを自分の目でみておかなければ、という思いが山住の心を強く占めていた。

 それが刑事としてのものなのか、個人の興味なのか、はたまたその両方か。それは自身にもわからなかったが、そんな山住の心を見透かすかのように、八重は押し上げたバンダナの隙間から、あの瞳でじっとこちらを見つめて、ほどなく、ピンと指を立てた。

「それならそれで構いませんよ。でしたら、そうですね、この後、最初の場所に、改めてそちらをお持ちください」

「あの現場に?」

「ええ、今の時期なら――一九時前ぐらいがちょうどいい頃ですね」

「なら、時間に合わせて迎えに来よう」

 山住の申し出に、八重はそれには及びませんよ、と会釈して、足をポンポンと叩いて見せる。

「歩いていきますよ。巫女なので」

「……そうか」

 まったくもって、巫女と歩く事のどこに確固たる理屈があるのかは想像もつかなかったが、山住は、最初に会った時も似たような事を言っていたのを思い出し、何かこだわりがあるのだろう、と思い直す。

 時間までに来る気配がなければ、その時はその時である。木像はこちらが押さえているのだ。

 少なくとも、彼女がこれを必要としている事は事実である以上、彼女に自由を与えても、これが手元にある限りは、一定の制限にはなるはずだ。

 山住は改めて時計を確認する。暫く時間はある。一度署に戻って書類など、いくつか整理しておこう。

「では、一九時前に、現場だな」

「ええ、よろしくお願いします」



 一八時三十分を過ぎた頃、落地山の駐車場に山住の姿があった。

 事故の後で立ち入り禁止は一部を除いて解除されているが、時間帯も相まって、山住以外に人の姿も気配もない。

 空は夕焼け、日はもう沈みつつあった。

 街中であれば街灯もあって、そういう事はないだろうが、ここは山の駐車場である。明かりなど微々たるものだ。

日が沈んでも、まだまだ明るさが残る。そういう、時期だが、さすがに徐々に離れるにつれて暗さが増していく。

 光の向きもあるとはいえ、人の顔も見分けがつきにくい事になっていく。

「黄昏時ですねー」

 心を代弁するような声に振り向くと、八重が小さく手を振りながら歩いてくるところであった。

 下から歩いて来たにしては、息を切る様子もなく軽やかで、本当にここまで歩いてきたのか、と山住は怪訝な表情で彼女を見つめてしまう。

「こういう時は、人以外のモノが混じってたりしますから、注意が必要ですね」

 そう告げると、彼女は山住の反応を待つ事もなく、スタスタと奥へ進み始めてしまう。

 山住は慌てて彼女に続く。

「おい、わかっていると思うが、ここは現場なんだ。あんまり勝手に動き回るんじゃない」

「わかってますよー。ですから、ちゃんとついてきてくださいね」

 それはこっちのセリフなんだがな、とぼやきつつ、山住は八重と連れ立って、最初にであった現場に向けて歩き出す。

 だが、すぐに八重の言っていた真意に気づかされる。

 ここは土砂崩れの現場である。昼間は何と言う事はなかったが、こうして日が暮れていくと、とにかく視界が悪く動きにくい。

 懐中電灯を持ってきた事も、結果的に片手の自由が利かなくなっており、マイナスだった。

 進むのに一苦労する山住をよそに、八重は何一つ意に介する様子もなく、軽やかに進んでいく。

 進んでいくにつれ、山住は徐々に違和感を覚え始める。

 どことなく、空気が澱んでいるような違和感。脇の木々にライトを向けると、枯れた葉がなんとかぶら下がっている様子があちこちに見えた。

 そして何より、静かすぎる。夏の夜だというのに、動物はおろか、虫の気配すら感じない。

 進めば進むほどに、世界が枯れていくような錯覚を覚え始めていた。

「うっ・・・…」

 山住は鼻を突いた臭いに思わず鼻を覆い足を止める。

 硫黄の臭いだ。

 顔を上げれば、臭いを気にした様子など見受けられないが、八重もまた足を止めていた。

「ここは――何かあるのか?」

 訪ねながら、周囲を見渡した山住は、今自分がいるのが、八重と最初にあった場所であると気が付く。

 八重ははたと、目を覆っていたバンダナを取り、空を見上げる。つられて見上げると、綺麗な月が浮かんでいた。

「頃合いですね」

 八重の呟きに続くかのように、ズルっと地面が横滑りするように揺れる。

 その揺れは、断続的に、大きくなり、音が近づいてくる。

「なん――だ?」

 薄暗い山道の奥から、はっきりとはわからないが、何かが近づいてくる。

 八重は気にした様子もなく、バッグを地面に下すと、何やら物色し始めるが、山住はそれどころではなかった。

 徐々に近づいてくるその影は大きく、鎌首をもたげた。

 周囲の木々よりも高く上がった影が、月影に照らされて、その威容を山住にもはっきりと見せつけて来る。

「ば、バカな」

 その姿は一見すると巨大な蛇そのものだが、頭からは丸太のような角が生えており、さらに二本の足を有している。

 蛇と龍の中間とでも言うような出で立ちである。

 もはや怪獣としか言いようのないその姿に唖然とする山住をよそに、八重がぺこりとお辞儀をする。

「直に顔を合わせるのは初めてになりますね」

 大蛇が返答の代わりなのか、大きく口を開ける。後ずさりそうになった山住を、八重が腕を掴んで引き寄せると「離れたら死にますよ」とつぶやいた。

 死、という言葉に唾を飲みこんだ山住を後ろに、八重はバッグから取り出した円鏡を大蛇に向ける。瞬間、ゴォオ、と強烈な音を立てて、大蛇が息を叩きつけてくる。その勢い、圧は、大蛇の開けた口が歪んで見えるほどだ。

 だが、その息は、まるで岩にでもぶつかったかのように、八重に到達するとともに、左右へと割れて流れていく。

 割られた息が流れていく両脇の木々は激しく揺れ動き、そのままどんどんと枯れていく。山住の鼻に、卵の腐ったような臭いがうっすらと鼻を突いた。

 効果がないと認めたのか、大蛇が口を閉じて、改めて二人をにらみつけてくる。

「だいぶ耄碌されているようですね。主ともあろうものが、人の子を相手に、己が民を巻き込むのをいとわないとは」

《走狗ノ巫女メ。我ガ力、渡シハセヌ――我ハ、我ガ、守ルノダ》

「うおっ⁉」

 突如響いた声に、山住は思わず耳を塞いだ。しかし、頭の中に直接響いているのか、声はガンガンと聞こえている。

 八重がふぅ、と小さく息をつき、バンダナを取って、鏡と一緒に山住へと渡す。

「おっと――うわっ⁉」

 受け取った瞬間、山住の視界から八重が消え、代わりとばかりに蛇の尾が叩きつけられる。

 思わず目を瞑り、死んだか、と思った山住だったが、はっきりしたままの意識に目を開けると、蛇の尾は、まるで見えない壁に阻まれているかのように、彼の眼前で止まっていた。

 手にした鏡からは淡い光がこぼれて、山住の体の周りを覆っていた。

「こ、これは、さっきのも?」

 原理は不明だが、先ほどの毒息といい、今のしっぽといい、この鏡のおかげで守られているようだ。

「手放さないでくださいね。死にたくなければ、ですけど」

 八重の声が、頭上から響く。

 気づけば、彼女は宙に跳んでいた。

 彼女が手の平には、勾玉がきらめき、通されていた緒が鏡同様に光をにじませながら、一気にその長さを増して、大蛇の尾に巻き付いた。

《ヌゥッ》

 落下してくる八重に、大蛇の体が引きずられ、山住から離れていく。

「まったく。そこまで呑まれていては、話すだけ時間の無駄ですね」

《元ヨリ、狗ト話ス口ハモタヌワッ》

 絡まる緒を振りほどこうと、力いっぱい振り上げようとした尾を、八重はしっかりと腰を落として押さえつける

 明らかな体格差が、まるで存在しないかのような攻防に、山住の理解はまったく追いついていかない。

 ただただ、目の前で起きている事を見つめるだけだ。

 大蛇が鎌首を持ち上げると、のどが大きく膨らんでいく。

 八重が、緒をほどいて体を数歩下げる。瞬間、大蛇の体から伸びた腕が、杭打機のごとく地面をえぐり取った。

 緒がほどけ、自由になった尾が襲い掛かるが、彼女は体を軽く逸らせて回避する。

 ゆらりゆらりと、大きな動きはない。しかし確実に大蛇の攻撃をかわしていく八重の姿は、踊っているかのようだ。

《フン》 

「うおっ⁉」

 大蛇一瞬、こちらを向いた気がした瞬間、大蛇の口から毒息が放たれる。

 思わず円鏡を顔の前にかざすと、バットで殴られたような衝撃が伝わってくるが、山住はなんとか持ちこたえた。

 びりびりと地面までも振るわせて、毒息が彼の左右を流れていく。

《巫女ガ持タズトモーーナンダ、ソノ鏡ハ?》

「いけませんねぇ。まさか、巻き込むどころか、直接己が民を狙いますか」

 山住が無事なのを訝しむ大蛇をよそに、八重は悠々と歩いて、自分のバッグの元に戻っていた。

《貴様、見エテ、イタナ》

「さて、どうでしょう?」

 飄々と、彼女は肩をすくめてバッグを持ち上げる。

 見えていた。山住はその意味を理解して、見えている、と思った。

 彼女には見えている。それがどれくらいかはわからないが、少なくとも、「先」が見えているのだ。

 そうであれば、彼女の不可思議な部分の言動にも、簡単に説明がつけられる。

 そしてだからこそ、彼女はあえて、山住に対する攻撃を無視したのだ。

「話が通らぬなら、実力行使で〝返して〟いただきますよ」

 言うが速いか、彼女はバッグから剣を引き抜き、八相に構える。

 白木柄の刃を美しく照らし出す満月には、直後に雲がかかり始める。

 その様子に、大蛇の動きにたじろぎが見えた。

《ナンダ、何ヲ持ッテイル⁉》

「さて、なんでしょうか」

 クスリと笑う八重の構えた剣の真上を中心とするかのように広がった雲は満月を覆い隠してしまう。

 光が閉ざされた夜の闇に、刃が閃く。

《ヌゥ!》

 剣の切っ先に釣られるように雲が流れ、瞬間、月明かりが再び覗き、上と下に大きく割れた大蛇の姿が浮かび上がる。

「ッ」

 立て続けに、八重は剣を振るう。切っ先は決して届かない距離であるにも関わらず、剣の閃きがそのまま押しつけられたように大蛇の体が裂かれていく。

「ひい、ふう、みい、よ、いつむう」

《ヌォオ⁉》

 淡々とリズムを取る八重の声と、大蛇の苦悶の声が響く。

「ここのつ、とお!」

 ひときわ大きく踏み込んだ八重の一刀。

 止めとなったのか、月影に大蛇の体がバラバラと崩れ落ちていく。

 そんな中、大蛇の体とは違う何かが、ポツンと首のあった辺りに浮かんでいた。

 月の光を反射してか、白く輝くソレは、しかし、美しさと言うよりは、どこか不安を煽るような妖しさを纏っていた。

「ようやく出てきましたね」

あれは石か、と山住が見つめる中、八重がソレに向かって跳躍する。

手を伸ばした矢先、山住の目にもはっきりと、ガスのような靄のような何かが石から溢れ出し、うねりとなって八重を襲う。

「っ」

 剣を前に出してうねりをいなした八重は、ハッと下を向く。途端に、大きな影が彼女に襲い掛かった。

 切り裂かれたはずの蛇の体が再生しながら、彼女の体を締め付けにかかる。

「あらあら、しぶといですね」

《渡サヌ、ソレハ我ノモノダ! ソレデ我ガ、守ルノダ》

「異なことを。それは元々、あなたのものではないでしょう」

 八重は焦った様子も見せず、再び蛇の体が切り裂き脱出したが、着地の瞬間、彼女の姿が山住の視界から消えさった。

「うおっ⁉」

 激しい衝突音に続いて突風が山住を襲う。背後から、木々のメキメキと折れる音が響いた。

 ふり向くと、八重が木の根元に倒れ込んでいた。

 あっという間に体を再生した蛇の尾が、忌々し気に地面を叩く。

《流石ニ巫女ヨ。頑丈ナ》

「まったく、参りましたね」

 見るからに傷だらけの体を引きずるようにして、八重は立ち上がった。

 だが、彼女の姿がまたも、甲高い音に続いて山住の視界から一瞬で消えさった。

「あぐっ!」

 八重の呻きが遠くに聞こえる。声の方を向けば、何十メートルも離れた地面に八重が倒れ込んでいた。

 重い音を立てて、蛇の尾が今一度、山住の視界の隅で地面を叩いた。

《ヤハリナ》

(やはり?)

 山住は蛇の言葉に首をかしげる。蛇は何らかの確信を持って、八重を攻撃していると言うのか。

 だが、彼女には、ある程度蛇の動きが見えているはずであり、事実、先ほどまでの攻撃は効果がなかったのだ。

《巫女トハ言エ、所詮ハ人ヨ。見エテ居タトテ、貴様ノ動キハ、限界ガアル》

「っ」

 八重がさっと体を守るように剣を脇に構えた途端、彼女の姿が三度、山住の視界から消える。

「うお⁉」

 突如、何かに衝突されて、山住は地面へ叩きつけられた。

 頭を振りながらなんとか上体を起こすと、目の前に八重の姿があった。

「おい、大丈夫か⁉」

 肩を揺するが、反応がない。すでに彼女の手から、剣が零れ落ちていた。くそ、と思った山住の頭上に影が被さる。

 蛇が、二人を見下ろしていた。蛇の尾が地面を叩き、パン、と破裂音に似た音が響く。

 鞭か、と山住は間近でソレを見てようやく合点がいった。蛇は、尾を鞭の要領でしならせ、音速を超えて叩きつけていたのだ。

「先」が見えていようと、音速を超えた領域では、人が対処できるものではない。

 それに気づいた蛇の攻撃に、八重はあえなく吹き飛ばされてしまったのだ。

 何度も体を揺するが、ピクリとも動く気配がない。

 クソ、っと山住は鏡を手に、八重をかばうようにして蛇に向き直る。

《逃ゲヌトハ、見上ゲタモノダ。ダガ――》

「おぐっ⁉」

 パンッと破裂音が響き、強烈な衝撃に山住はもんどりうって倒れ込む。手の指先からつま先がジンジンと震え続ける。一瞬にして、目の前が真っ暗になり、体がバラバラになったかとすら思える衝撃だった。

 むしろ自分の体がくっついている事に自分でも驚いてしまう。

《ヌゥ――紛イ物トハ言エ、防イダカ》

 頭がグラグラとして、蛇の言葉すらまともに入ってこない。

 視界も揺れ続けている中、なんとか顔を上げると、蛇は山住の事を捨て置くかのように、八重に顔を向ける。

 八重は相変わらず気を失っているのか、微動だにしない。

 山住は、グッと奥歯を噛み締めて立ち上がると、傍らにあった鏡を拾い上げる。

《ホウ?》

 足を引きずりながら、八重を背に鏡を掲げる山住に、蛇は首をかしげて見せた。

《ダガ、邪魔ハサセヌ、何人デアロウトモ!》

 蛇の体が大きくうねる様が、ゆっくり流れるように見えて、山住は「死ぬんだな」と言う感覚に囚われた。

 だが、蛇が気を取られている隙に八重を見捨てると言うような、逃げる選択は彼の中には微塵もなかった。

 何もかもが、彼の理解を遥かに超えていたが、それでも彼女をこのまま見殺しにしたら自分はもう、元には戻れない。

刑事、警察官以前に、人として何かが終わってしまう。

 そんな予感が、彼をその場にしっかりと踏みとどまらせていた。

 彼女をここから逃がす事も、その時間も稼げそうにないのはまったく情けない話だ。

 そう思いながらも、彼は、見切れもしない蛇の動きを、じっと見つめる。

 パンッ、と言う音と共に、彼の視界は一瞬にして暗闇に沈んでいった。

《ヌウ⁉》

(ん?)

 蛇の声が頭に響き、山住ははたと目を開ける。

 彼はまだ、生きていた。

「な、ん――?」

 山住の眼前、文字通り目と鼻の先には、彼を打ち付けようとした蛇の尾が確かに迫り、そして止まっていた。

 蛇の尾に、山住の背後から伸びた何かが絡みつき、その動きを押さえ込んでいた。

《狗メ、出テ来タカ!》

「先ほど、八重が言ったであろう? こやつは、お主の民だと言うのに、本当にどうしようもないのう」

 蛇でも、八重のでもない声が響く。だが、声は確かに、山住の背後から響いていた。

 振り返った山住の目に、横たわったままながらも、不敵な笑みを浮かべた八重の姿が飛び込んでくる。

 姿かたちは間違いなく彼女だが、何かが違うと肌で感じ取る山住をよそに、ゆらりと彼女は立ち上がった。

「ちと、話があるでな。暫し、下がっていてもらおうか――の‼」

《ヌオッ⁉》

 八重の口から、八重ではない声が響き、握った拳をぐんと振るう。

 その動きに合わせて、蛇は尾に絡んでいた何かに引きずられながら、その体が宙を舞った。

 影だ、と山住はようやく、蛇の尾に絡みついてた何かの正体に気づく。

 八重の体から伸びた影の先が地面から持ち上がり、あたかも網のごとく、蛇の尾に絡みついてたのだ。

 ドォンと派手な音と共に、山住の視界の遥か彼方へと蛇は落下する。

「はてさて、と。本当は呼ばれるまでは出るつもりはなかったのじゃが、こやつを見捨てなかったお主を見殺しにするのは寝覚めが悪いでな」

 パンパンと手を払いながら、八重の体を借りた何者かは、山住にそう語り掛ける。

「君は――ッ」

 月明かりに照らされた八重の顔を、改めて見た山住ははっと息を飲む。

 八重の瞳、その瞳孔は、丸ではなく、縦長になっていたのだ。

「フフフ、安心せい。とっては食わぬわ。ほれ、そろそろ、起きんか、ほれ」

 八重が自分の頭を自分で軽くはたいて見せる。彼女の瞳が片方、人間のそれへと変化した。

「あまり勝手をされては困ります」

「お主がいつまでも寝ておるからじゃ。ワシが動かねば、こやつが死んでおったぞ」

 山住を指さす八重の口から、二つの声が交互に飛び出してくる。

 どうやら、二人の間できっちり意識は共有されており、会話もできるようだが、そんなものを聞かされる山住は、なんとかついていくだけで精一杯である。

「さすがに、ここの主だけあるわ。アレが相手では、お主もさすがに厳しかったであろう」

「確かに、閉口しました」

「口どころか気まで閉じておったろうに。だから最初からワシを呼べと言ったろう?」

「あなたに任せると穏便に終わるものも終わりません」

「今まで穏便に済んだ試しがあったかのう?」

「ちょっと、その、いいかな?」

 このまま無限に続かれてはかなわない、と山住は二人の会話を中断させる。

「おお、すまぬな。すぐに片付けるで、お前さんはその辺に下がっておれ」

「山住刑事、ここは言うとおりにしていただいてもよろしいですか」

 ひらひらと手を振って下がるように言われた山住は、ぐっと拳を握りしめる。

 このどこか緊張感のない様子は一体なんなのだ。八重は先ほどまで完全に気を失っていたというのに。

 だが、今の山住に出来る事などない事は、痛いほどわかってしまっていた。

 だからこそ、彼は、一つだけ質問をする。

「二人なら、なんとかできるんだな?」

 答えよりも先に、八重の顔で“彼女”は鼻をならす。

「はっ、当然よ。ワシがワシに負ける道理はないでな」

「ご心配なく。個人的には不本意な形にはなりますが、騒ぎは終わらせられます」

「わかった。それなら、任せよう」

 山住は彼女達の邪魔だけはしないようにしよう、と言われた通り適当な影になりそうな方へ向かう。

 はた、と手にした鏡を八重の方に示すと、彼女は首を横に振った。

「持っていてください。手放したら、死にますよ」

「……わかった」

 もはや何が起こるのか彼には全く予想がつかなかったが彼女の忠告には素直に従うに限る、と鏡を抱えて距離を取った。

 直後、地響きを引き連れて、蛇の巨体が毒息を吐き散らしながら迫ってくる。

「うわっ⁉」

 鏡を掲げて山住はなんどか踏みとどまる。

 八重はどうしたのかと目をやると、彼女は立っていた。

 何をするでもない、先ほどと同じ場所にただ、立っていたのだ。

「カカカ、さすがに威勢はよいのう」

 額に手をやって、毒の風が吹き抜けていく中、彼女は笑う。

 目を凝らせば、何をしてもいないはずなのだが、彼女の周囲に壁でもあるかの如く、毒の息がぶつかっては周囲に散らされており、彼女には一切届いていないのがうかがえた。

《渡シハセヌ! 渡シハセヌ! 例エ狗デアロウトモ!》

「わたすぅ? やれやれ、本当にどうしようもない奴じゃな」

 彼女がパンと手を叩く。それだけで、猛烈な風が吹き荒れ、山住は思わずのけぞってしまう。

 蛇の毒息も一瞬にして止まり、その巨体がわずかにだが後ろへと押し出された。

「では、お気の住むままに。どうぞ我が身、ご自由にお使いください」

 八重の声がそう告げたかと思うと、足元の影が立ち上り、彼女の姿を飲み込んでいく。

 渦を巻き始めた影は、粒子状に弾けて八重の体を包みこみ、月明かりの中、彼女の姿をひと際強く浮かび上がらせる。

 丈長が束ねられていた黒髪は枝分かれして広がっていく。それは、何本もの尾ように見えた。さらに影のドレスの効果なのか、月の光を反射して、金色の様相を呈している。

《ヌオオオオオ!》  

 蛇がうなり声をあげて、八重に向けてLの字を描くように上体を大きくくねらせる。

 破裂音が響きわたり、叩きつけられる風に、山住は木を背にしてなんとか踏みとどまる。

《グウォオオ――》

 呻き声に顔を上げると、蛇が上体を苦しそうに揺らす中、八重は一歩も動いた様子はなく、力強くその場に立っていた。

 その左手は叩きつけられたはずの蛇の尾が握られていた。

「カカカ、それは先ほど止めてやったのをもう忘れたのかえ? それならば、存分に思い出させてやろうぞ!」

 高笑いと共に、彼女は両手で蛇の尾を握りしめると、蛇の体を振り回す。

 巨体の重さなど微塵もないかのように、蛇の体はやすやすと宙に浮かび、彼女の動きに合わせて四方八方へ弧を描いた。

《ガアアアアア!》

「どうじゃ、少しは頭に血が行ったかのぉ?」

彼女はそのまま力強く、蛇の体を地面へと叩き付ける。勢い余って、蛇の体は何度も跳ね上がっては転がっていく。

 パンパンと埃を払い、彼女は先ほど自身が倒れていた辺りまで悠々と歩いて戻り、落ちていた剣を拾い上げる。

 再び、空に雲が集まり始めた。

《バ、バカナ――何故持テル⁉ 贋物トハイエ、神気ハ本物! 狗ノ身デ、何故⁉》

 蛇の狼狽を、はん、と彼女は鼻で笑い飛ばした。

「確かに、此は贋物よ。八重のヤツが年がら年中歩いて、地脈の気を練り上げて、日夜の祈祷で神性を叩き込んだ、限りなく本物に近い贋物じゃ。この神気では、陰の気のワシが持つのは、本来であれば無理じゃな」

 だが、と彼女は大きく剣を振るう。強烈な風が巻き起こり、その圧は周囲に静寂をもたらした。

「この体を借りておるからな。八重を通じておるがゆえに、ワシの陰の気は、神気と同様の陽の気へと変わっておるわけじゃ」

《ダトシテモ、渡シハセヌ! コノ力、渡シハセヌ! 我ガ、我ガコノ地ヲ守ルタメニ‼》

 彼女の余裕の言葉に、蛇は大きく体を揺らして声を荒げる。

 やれやれ、と彼女は大きく頭を振って、山住の方を指さした。

「それでこやつを攻撃しておれば、世話はないわ。お主とて、多少の自覚はあるのじゃろう。その力、お主は長く持ち過ぎたのじゃ」

 蛇はパンパンと音を立て、何度も尾を彼女に向けて叩き付けるが、その全てはむなしく地面を叩く。

 外しているわけではない、と山住は彼女の足元を見て理解する。

 ほんの少しだが、彼女は動いていた。相手の、音を超えた攻撃の全てを見切り、最小限の動きだけですべて交わしているのだ。

「そろそろやめておいた方がよいのではないか。なくなるぞ」

《ヌオオオオ‼》 

 蛇の動きが一瞬止まり、直後に苦悶の声を上げてのたうち回り始める。 

 音速を超えて放たれていたはずの蛇の尾が、気づけばかなり短くなっていたのだ。

「まあ、どちらにせよ、なくなる事に変わりはないがな」

 剣を脇に構えて腰を深く落とした彼女は「今度こそ、返してもらうぞ」と呟き、駆ける。

 巨体をくねらせのたうち回る蛇の懐へ、彼女は難なく踏み込んでいく。

「そおれ!」

 月明かりにきらめく剣が、光の線となって蛇の体に吸い込まれていく。

 一閃。

 山住に見えたのはそれだけだ。

 しかし、彼女が振りぬいた剣を戻して肩にかけると、蛇の体がバラバラに切り裂かれていく。

 再び、崩れ落ちていく蛇の体の中から、輝く石が姿を現す。

 八重の姿を借りた彼女は、飛び出さない。手を伸ばさない。

軽く手招きをする。呼応するかのように、石は静かに動き出し、彼女の手の中へと納まった。

「返してもらったぞ」

 彼女は、蛇に向かってそう告げると、グッと石を握りしめる。

 指の隙間から、石が放っていたのと同じ光の粒がこぼれだし、八重の体がまとった影に馴染んでいく。

 直後、彼女の髪の枝分かれが一つ増えていく。

《ソレヲ、ソレヲカエセェ!》

 ばらばらになった蛇の声が響き渡る。

 体内にあった石がなくなったせいなのか、先ほどに比べるとはるかにゆっくりだが、蛇の体は少しずつくっつき、再生の様子を見せていた。

「やれやれ、さすがに蛇はしぶといのぉ」

 ふうと、息をついた彼女は、そうつぶやいて山住の方を振り向く。

「お主、アレをよこせ」

「アレ――あれ?」

 彼女が言うアレが何かはすぐに思い至った山住は腰に手をやる。

 だが、そこにあるはずのものがなかった。このゴタゴタで、ベルトごと完全に落っことしてしまったらしい。

 くそ、と心中で毒づいて辺りを見渡すが、アレはスマホなどを入れるケースの中で、ケースの色はと言えば黒である。

 この夜の山の中でそう簡単に見つかるわけがない。

 必死に辺りを伺う山住の視界にふと、一筋の光が差す。

 見れば、まるで視線を導くかのように、山住の手にしていた鏡からその光は延びており、山住の探し物を照らし出した。

 山住はケースに向けて走り出す。

 距離にして数メートル程度だが、今はやけに遠くに感じられる。

《何ヲスル気ダ⁉》

 山住の動きに気づいたのか、蛇の声が降って来て、一気に頭上から影が差す。

切り裂かれていた蛇の尾の部分だけが、山住に狙いを定めていた。

「うおおおお!」

 叩き潰そうとばかりに迫る蛇の尾に、とっさに山住は手にしていた鏡を叩きつけていた。

 どっしりとした手ごたえが伝わってくるが、気づけば、彼はそのまま蛇の尾を鏡で打ち返していた。

《グッ⁉》

 反撃に動揺する蛇の声を聞きながら、山住はケースを拾い上げると、彼女に向かって力いっぱい投げつけた。

 彼女がそれを受け取ったのを確認した山住の頭上が再び暗がりになる。

《小癪ナ真似ヲ‼》

 蛇の尾が再び彼に狙いを定めていたのだ。

「くそ!」

 鏡を両手に持ち直した矢先、蛇の尾が完全に視界から消える。

 死んだな、と瞬間、呑気な考えが山住の頭をよぎる。

 直後に、猛烈な風が彼の体を叩いた。

「ん?」

 一瞬の静寂とはっきりとまだある意識に、風が先に来る事への違和感が山住の中に湧き上がる。

《ウォオオオ⁉》

 蛇の呻き声が頭の中を激しく叩き付ける。

 見れば、山住のすぐ目の前に蛇の尾はあった。すぐそこまで迫ったそれはしかし、まるで時が止まったかのように、そこで停止していた。

「まったくもって、今のお主の行動、地位に見合ったものかどうか改めて考えた方がよいぞ」

 声にふり向いた山住は、彼女の手に、ケースから取り出されたあの木彫りの像が置かれているのを見た。

《ヌオオオオ――ッ!》

 蛇の呻き声が大きくなり、ズルッズルッと何かがこすれるような音が響く。

 少しずつだが、再生していた蛇の上体が、彼女の方に引っ張られているようだった。

「そろそろ、お休みの時間じゃ」

 彼女がそう告げ、フッと像に息を吹きかける。ぼんやりと、像が光を放ち始め、蛇が一段と大きく呻き声をあげた。

「世の為、人の為、この地の者達の生健やかなるために、今はお鎮まりくださいますよう、かしこみかしこみもうしあげます」

 それは、八重の声だった。彼女の呟きに応えるように、山住の目前に迫っていた蛇の尾は一気に、引きずられるのに耐える上体の方へと戻っていく。

《狗メガアアア! 私ガ、コノ地ハ私ガ――!》

「お前さんは、確かによく治めた。だが、わかっていたはずじゃ。代償を払う時が来たのじゃ」

 八重から切り替わった彼女は、像に向けてフッと息を吹き付ける。

 彼女が手にしていた像が光を放ち、蛇の体に向かって伸びていく。

 強制的に上体にくっつき、一身となっていた蛇の体は、像から伸びた幾多もの光の線にからめとられていく。

《ウオォオオオオオ――!》

「今は、休むがよい。改めて、お主が、真にお主が治める時がこようぞ」

 彼女は諭すように蛇に語り掛けた。

呻き声を上げ続ける蛇の体は、絡みついた光の線によって、ついに地面から離れ、彼女の手にした像に引きずり込まれていく。

《我ハ――我ハ――!》

 悲しげな声を残して、蛇の姿は像の中へと完全に吸い込まれて、消えた。

 先ほどまでの騒ぎが嘘のように、山住の頭の中も周囲も、一瞬にして静まり返る。

 彼女が懐から取り出したお札に息を吹きかけると、それだけで文字が浮かび上がる。そのお札を像に張り付けて大きく頷いた姿に、ようやく山住は終わったのだと言う実感が追い付いてきた。

「手こずらせおってからに」

「終わった、でいいんだな?」

「うむ」

 彼女は小さくそう答えると、八重のバッグから鞘を取り出して剣を収める。

 途端に、彼女の頭上にあった叢雲が消え失せていく。

 月明かりが照らす彼女の纏っていた影のドレスもまたすっうと足元へと吸い込まれていった。

 山住は、八重のもとへと歩み寄り、彼女が手にした像を指さす。

「結局、なんだったんだ……?」

「あれは、元は心優しき蛟。この地やここに生きる人々を守りたいと言う願いから、目先の力に飛びつき、いつしか主となり、この地の土地神の地位を得たものです」

「その力の根源が、ワシの力の欠片よ」

「うおっ⁉」

 八重の足元から突如伸びた影が立ち上がり、山住はたたらを踏んでしまう。

 立ち上がった影はやがて、尾が何本もある犬のような姿へと形を変える。

「カカカ、久しぶりによい反応を見たのぉ」

「その声は、さっきの」

 犬のような影の声は、先ほどまで八重の体を借りていた者と同じ声であった。

「む、一応行っておくと、ワシはかつては犬ではなく狐と呼ばれたのでな。先ほどの奴も狗狗とうるさかったが、狐で頼むぞ」

 心を読んだようにそう言われ、山住はただ頷くしかできなかった。

「して、じゃ。アヤツが体の中に持っておった石は、かつての我が身の欠片の一つでな。今回、ワシの身に戻った故、こうして出歩けるようになったわ」

 やっと終わったと思ったが、まだまだ自分の理解を超えた現象に付き合わないといけないと気づかされ、山住は頭を振った。

「で、その影響でアレは暴走したって言うのか? だが――」

「先ほども申しましたが、地位としては土地神でした。石をその身に宿せば、欠片の力を己の者とできますが、陰の気を集めてしまう性質はあります。しかし、その隠の気は、社に祀られ、人々が詣で、神気を保つことで中和されていたのです」

 山住の問いを見透かしたように、八重が告げる。

「だが、あの社はもう長い事参る者もおらんかったであろう。そのせいで神気を保てず、どんどん陰に傾いて、蝕まれたわけじゃ。むしろ、今までよくもったものよ」

「そして、遷座される事もなく、社を取り壊された事で、タガが外れてしまったのです」

 山住は、話を聞いているうちに、先ほどの蛇に憐みの情が浮かぶ。

 人々のために神の座についたのに、人々に忘れ去られた神の末路に、じっと八重の手にした像を見つめてしまう。

「どうぞ」

「は?」

 八重は、あの蛇が吸い込まれた像を山住に差し出す。

「石を失った今、出てくる心配はありませんよ」

「いや、そういう事ではなくてだな」

 曲りなりにも、この地の神様だった存在が宿っている像であり、受け取るには山住の手には大きすぎた。

 八重の隣にいた影が、ふいと像をくわえて、山住に放りだす。

「おわっ」

 山住が慌てて受け止めると、影はカカカと口を大きく開けて笑う。

「おい!」

「いいから受け取っておけ。ワシらは所詮は外の人間よ。ソレは、この地に根差した者達が扱うべきものじゃ」

 文句の一つでも言おうとした矢先に、影にそう告げられ、山住はグッと言葉に詰まってしまう。

 同時に、そうは言ってもどうしろというのか、と言う気持ちが湧いてくる。

 どうしても、ただの警察官の己には重すぎる。

 そんな彼の心を見透かしたように、八重が山住の手ごと像をそっと両手で掴んだ。

「彼の方の怒りや、溜め込んだ陰の気がすべてなくなったわけではありません。これから末永く、鎮めていかねばなりません」

「安置しろ、と?」

「はい。この地に住まう人々が崇め、神気を与えてこそ、その心は鎮まり、やがてまた、神としての心を取り戻すでしょう」

「今まで、神様の恩恵に与った人々が、神様に恩恵を与える、という事か」

「人も神も、持ちつ持たれつよ。この国ではな」

「責任は重大だが、そういう事なら、わかった。代表なんて言うのはさすがにおこがましいかもしれんが、この土地の人間としてきちんと祀らせてもらう」

 山住はしっかりと、気持ちをもって土地神の像を抱きしめる。

 その様子に、八重は満足そうに頷いて両手を放すと、影の方へと向き直る。

「それでは、そろそろ最後の仕上げと参りましょうか」

「うむ、そうじゃな」

 声をかけられた影は八重を飲み込む。再び、ドレスのように影をまとった彼女は大きく息を吸い込み、体をぐっと夜に広げる。

 月の光をその身に受けた彼女が合わせた両手から、パンッと放たれた音と風が、辺りに一瞬にして静寂をもたらす。

「な、ん――?」

 途端に、周囲で不可解な事が起こり始めて、山住は目を見張った。

 先ほど、彼女が切り裂いた木が、まるで映像を巻き戻しているかのように、元の姿へと戻っていく。

 それも、一本や二本ではない。蛇との争いでやられた木々が次々と戻っていく。

「何が、何が起きてるんだ――」

「カカカ、欠片が戻ったのでな。それによって起きた事を、修正しておるのよ」

「修正だって?」

 ただただ戸惑う山住に、彼女から戻った八重が、指をクルクルさせて、説明してくる。

「ええ。力の欠片、石を見ましたよね。アレがこちらに戻りましたので、今回の一連の事象から“欠片の影響”という事実を、をなかった事に直している所です」

「一連の事象そのものを全くなかった事にすることはいくらワシでもできん。ワシらが斬った木くらいは、曲りなりにも神器に似せたものでやっとるからやっておるがな。事象全部とはなるとそうもいかんのじゃ。さすがに世の理に対して影響がデカすぎるでな。却って悪い影響が出るかもわからんからな」

「つまり、なんだ。一部の例外を除いては、土砂崩れなんかは実際に起きたまま、あれは土地神様の仕業ではなく、その修正とやらが終われば、単なる事故という事に変わっているという事か?」

 その通りです、と言わんばかりに八重は小さく拍手を返す。

 やれやれ、と山住は肩をすくめた。それが事実なら、どうやら今夜見た内容をどうやって調書にまとめるべきか悩む必要は皆無らしい。

「一晩も立てば、すべての修正は終わる事でしょう」

「そう、か。それなら、もう本当にこれで終わり、か」

 山住は、ようやく肩の力が抜けていくのを感じた。

「ええ。山住刑事、参りましょうか」

 八重に促されるまま、山住は連れ立ってその場を後にする。

 駐車場へ着いた時、彼は戻って来た、と言う脱力感と、本当に今日見た物事への現実感のなさを改めて感じ、どこか地に足がついていないような気持ちに襲われていた。

「それでは、安置の件はよろしくお願いいたしますね」

「あ、ああ。ありがとう。世話になったな」

「いえいえ、元々、欠片を回収する目的がありましたから、礼には及びませんよ」

「そうか。それじゃあ、ここでお別れ、でいいのかな?」

「ええ。送っていただく必要もありませんので、お気になさらず」

 さすがに送るか、と思っていた所に先手を打たれて、山住は苦笑する。

 本当になんでもお見通しのようだ。

「こやつの力は、歩くのが肝要じゃ、気にするな」

 狐の影がそう言って笑う。

 言われてみれば、そんな事も言っていたような気がするが、少々曖昧だった。

「君たちは、この後も、なんだ、その――」

「ワシの力の欠片はまだいくつかあるでな。それを集めきるまで契約しておる」

「ですので、ここは離れますが、同じような事を終わるまで続けるだけですね」

「そう、か。わかった。くれぐれも、気を付けてくれ。改めて、世話になったな」

 山住は、八重と影に頭を下げ、踵を返す。

 車を発進させると、バックミラー越しに手を振っている彼女の姿が見えた。

 全く、本当に、夢としか思えないような出来事だった。だが、紛れもない現実だった。

 助手席でシートベルトをしている土地神の像がその証だ。

 安置の場所は、山住はもう決めていた。そちらを済ませてから、一眠りしよう。

 そんな事を考えながら、山住は山を下り始める。

 バックミラーからその姿が消えるまで、八重は手を振り続けていた。



 清々しい、と言うよりはもはや蒸し蒸しと暑苦しい夏の朝。

 いつ以来かと思うほどにすっきりした気持ちで目覚めた山住は、ふと思い立って出勤前に街の神社へと顔を出した。

 石段を上るだけですっかり汗をかいてしまう。

 境内では、街の人達がラジオ体操の真っ最中だった。

 気づいた者が、体操を続けながら軽く会釈をくれるので、手を振って返す。

 いつもなら絶対にしない行為だが、今日は何故か無性に、そんな気分に襲われて、山住は参拝を行う。

 二礼二拍手一礼。

 じっと目をこらすと、格子戸の隙間から御神体が見える。

 いつ見ても虎やら蛇やらの特徴が入り混じった、キメラ感あふれる木彫りの像で、見慣れているはずなのだが、そこにある事に、彼は何故か妙な安心感を覚える。

 今日は、昨日、途中で倒れた現場監督へ今一度聞き取りの予定だ。

 医者の話では心労からくるものだろうと言っていたので、病院のベッドで一晩過ごしたのであれば、多少の聞き取りは問題ないだろう。

 そんな事を考えながら、踵を返した山住は、ふと、鈴の音が聞こえた気がして振り返る。

 社から巫女さんが出てくる。そんな気がしたのだが、御神体が小さく見えるだけであった。

 いささか寝すぎて、夢で見た事でも思い出してしまったのだろうか。

 適当にコーヒーでも腹にいれて、改めて目を覚まさせようとパンパンと顔を叩いて歩き出す。

 鳥居をくぐる所で、彼は人とすれ違う。

 再び、鈴の音が聞こえたような気がしたかと思うと、急に眩暈を覚えて彼はうずくまってしまう。

 後ろから、先ほどすれ違ったと思しき人物が近づいてくる気配がする。

 相手は、一旦彼の後ろで立ち止まると「きちんと祀っていただき、ありがとうございます」と呟いて立ち去っていく。

「な――ん――あぐっ――」

 その声を聞いた山住の脳裏に急激に、昨夜の出来事がフラッシュバックして思い出される。

 眩暈が収まり、すべて思い出した山住は体を起こすと、境内への石段を下りる八重の姿を見つける。

修正が記憶にまで影響するとはちゃんと説明を受けて無かったぞ、と苦言を呈するために声をかけようとしたが、ぐっと踏みとどまる。

 恐らく、本当なら思い出さなかったはずなのだ。だが、昨日彼がこの境内で彼女を見つけられたように、少々予定以上に強い縁が彼と彼女の間に出来てしまったがゆえに、たった今、思い出せたのだ。きっと、都田なんかは今頃全部忘れている修正された記憶のまま呑気に過ごしているはずだ。

 そして、彼女の、八重の事である。それに気づき、こうなる事も見えていたはずなのだ。

 それでも、彼女は御神体の様子を確認し、そして何も告げずに去っていく。

 それはつまり、彼女と、そしてあの狐の影はあくまでも、我々の常識の外にいるのであり、知らず知らずに、忘れてしまい、存在していないものとして扱われる事を望んでいるという事だ。

 昨日山住が触れたあちら側に、いたずらに接触する人がいないように、と。

 それならば、どうして呼びかける事が出来ようか。

彼女をまたこちら側に、いや、自分からあちら側に飛び込むことがどうしてできるだろうか。

 彼に出来る事は、覚えている事。そして、今回の件を解決してくれた感謝をする事だけなのだ。

 山住は改めて、去っていく彼女に深々と頭を下げる。

 それに応えるように、彼女が小さく手を挙げるのが見えた。

 まったく敵わないな、と山住は頭をかく。

 そして祈る。彼女の役目が無事に果たされる事を。

「達者でな」

 そして誓う。あの土地神だった存在が救われるまで、この街の人々と共に詣で続ける事を。

「土地神様がまた暴れない程度には、街の治安を維持できるように、お勤め頑張りますかね」



《了》

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巫女は鈴の音とともに 長崎ちゃらんぽらん @t0502159

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