第9話 正式な婚約解消とお忍びデート
(今日で私と殿下は、何の関係もなくなるのね)
私は聖堂へ向かう途中、馬車から見える、目に染みるような青空を見つめながら考える。
今の気持ちは自分でもよく分からない。
すでに殿下との関係は破綻しているから婚約者でなくなることが悲しいとか辛いとかそういう気持ちはなく、むしろこれでようやく区切りがつく、というのが今一番の素直な心境だ。
形式的には王太子の婚約者という中途半端な関係が、ようやく解消される。
これから、ただの侯爵令嬢に戻る。
物心がついた時から未来の王太子妃、ひいては王妃になるのが当然のようだったから、なんだか変な気分だ。
(これからはいちいち誰かがそばについていたり、物々しい護衛がつかなくなるわけだし、少しは自由に過ごせるのかな)
「到着いたしました」
「ありがとう。短い間でしたが、これまでありがとうございます」
「……もったいない御言葉でございます。ミレイユ様。どうか、お幸せにおなりくださいませ」
「ありがとうございます」
御者の人に礼を言い、馬車を降りる。
王家の紋章の入った馬車に乗るのもこれが最後。
帰りは、普通の馬車に乗って帰ることになる。
私は付き添い役の父と一緒に聖堂へ入る。
しばらくして陛下と殿下が到着された。
私たちは深く頭を下げ、出迎えた。
立会人の司祭様がやってこられる。
今日の婚約破棄の儀式は内容が内容であるだけに、あくまで秘密裏にことが進められた。
殿下と顔を合わせるのは、訓練場での一件以来はじめて。
殿下は私と一度も顔を合わせることなく、儀式の最中も司祭様をじっと見つめ、その言葉に頷かれるだけ。
「――では、こちらの誓約書にご署名をお願いいたします。陛下と宰相閣下のご署名はこちらでございます」
「婚約破棄だけで、仰々しいことだ」
殿下は冷め切った呟きをこぼすと、署名する。私も署名を済ませた。
「確かに……。こちらでお二人の婚約は解消されました。では失礼いたします」
司祭様はそそくさとこの場を後にした。
殿下が踵を返し、さっさと歩いて行こうとする。
「殿下、お待ち下さい」
「何だ」
殿下は煩わしそうに振り返った。
「これを」
「……なんだこれは」
「老婆心とは考えましたが、次の王太子妃の婚約者にあてた手紙でございます。あ、決して変な内容ではございません。殿下がご覧になられても構いません。ただ、私の経験を踏まえて、気を付けるべきこと、早めに準備しておいたほうがいいことなどを書かせて頂きました」
殿下はちらりと陛下を見る。もしかしたら今すぐ破り捨てたいのかもしれないが、陛下の手前そんなことはできないのだろう。
いや、もしそんなことができたら、それはそれで頼もしい王太子になるのかもしれない。
少なくとも陛下の顔色を終始窺うような王太子が、立派な王になれるとは考えにくい。
「……分かった」
殿下は私の手紙を服の内ポケットにしまうと、今度こそそそくさと聖堂を出て行く。
「では、陛下。私どもはこれで」
お父様が頭を下げ、私の右肩に手を置いて促すように歩き出す。
「待て」
がしっと大きな手が、私の左肩に置かれた。
「ひぁ」
変な声が出てしまう。
「陛下、婚約破棄直後の未成年にそう馴れ馴れしくお触れになるのは、見過ごせませんねえ」
お父様が頬を引き攣らせる。
「宰相、ご苦労。これからは俺の番だ」
「意味が分かりません。番とは?」
「ミレイユ。気分転換に、このまま町の散策に出るのはどうだ?」
「陛下、執務があるのをお忘れですか?」
「少しの間だ。それに必要なものは朝一で終わらせておいた。だからチェックを頼むぞ、我が有能な右腕にして、親友よ」
陛下もお父様もどちらも笑顔なのに、迫力がすごすぎる!
「……ミレイユ、嫌なら無理して付き合う必要はないぞ」
「いえ、私は……嫌、ではありません」
おや、という風にお父様が眉を持ち上げ、それからふっと口元を緩めた。
「分かった。では、陛下。娘をお願いいたします。かすり傷ひとつつけずにお返しくださいませ。まだ嫁入り前、なのですから」
「無論だ。今以上に素晴らしい状態で返そう」
お父様は一礼し、そそくさと去って行く。
「ミレイユ、少し待て」
陛下は聖堂を出るとすぐに袋を持って戻って来た。中から服を取り出す。
「その格好では少々仰々しいし、民を困惑させるだろうから、お互い、庶民に変装しよう」
「あ、それもそうですね」
というわけ私たちは服を着替える。
(陛下、なんだかすごく似合ってるというか、普段以上にワイルドさが強調されてます!)
かしこまった制服より、ラフな格好だと陛下の素のたくましさと、色気がダダ漏れになっているような気がする。
「ミレイユ、よく似合っている。やはりお前は素材がいいから、どんな服でも似合ってしまうな」
「あ、ありがとうございます。陛下も……」
「それは禁止だ」
「え?」
「陛下では変装した意味がない。――シュヴァイクと呼んでくれ」
「えええ! 陛下を呼び捨てに!?」
「そうでなかったら変装の意味がないだろ。分かったな、ミレイユ。これは王命だぞ」
じっと見つめられる。
「は、はい……しゅ、しゅ、シュヴァイク……様」
「呼び捨てで」
「シュバイク……ああああ、無理です。男性を呼び捨てにしたことなんてありませんから! シュバイクさんで妥協してください……!」
「仕方がない。今日のことは許す。これからの課題だな」
(これから?)
言葉のニュアンスに引っかかりながら、陛下に手を握られると何もかも吹き飛んだ。
「行くぞ。馬車は帰らせたから徒歩だが」
「はい」
やや緊張しながらも陛下のエスコートで大通りに出る。
こうして馬車に乗らずに街を歩き回るのは初めてのことで、これだけでワクワクする。
道行く人たちが陛下のことをチラチラと見る。特に女性たちがぽうっと頬を赤らめている。しかしそんな視線にも陛下はまったく無頓着。
「まずはお茶を飲むか。最近ここで有名な店が出来たと侍従長が言っていた。さまざまな紅茶のフレーバーを揃えていて、クリームブリュレとかいうスイーツが絶品らしい」
そうして一軒の真新しい白と水色を基調にしたパステルカラーの可愛らしい店に到着した。女性客やカップルばかりで、みんな楽しそう。
しかし陛下のようにがたいのいい男性はいないからとにかく目立つ。
「だいぶ並びそうだな」
陛下の顔には面倒だな、と書いてある。
「並ぶのも醍醐味ではありませんか?」
「そう、なのか? 面倒なだけだと思うが」
「ワクワクが高まる気がします!」
「そうか、お前がそうならそれでいい」
店員さんが並んでいる間に注文を決められるようにメニューを配ってくれる。
私がメニューを広げると、陛下が肩越しに覗き込んでくる。かすかな息遣いを首筋に感じると、ぞくっとして落ち着かない気分になってしまう。
「……そ、そうですね。あ、マンゴーのフレーバーティー、美味しそうじゃないですか、陛……」
「じゃないだろ」
「……あはは、そうでした」
「呼んでくれ」
「シュバイク、さん」
陛下は満足そうに大きく頷く。
「俺はこのブルーベリーの紅茶にするか」
店員さんが「次のお客様、どうぞ」と案内してくれる。タイミングが良かったのか、私たちは人気のある二階のテラス席に案内してもらえた。ここからは賑やかな大通りを見ることができた。
(衛兵をよく見るけど、何かのかしら)
王都は人が多い。人が多ければ犯罪もそれなりに多発してしまうから、警戒しているのだろうか。
それぞれ紅茶を注文し、クリームリュレを頼む。
すぐに注文の品が届く。
「これがクリームブリュレか。美味しそうだな」
「シュバイクさんは、普段甘いものは召し上がられるのですか?」
「いいや。ほとんど食べないな」
陛下はクリームブリュレをつつき、「表面が焼いてあるのか」と興味津々につぶやき、食べる。
「どうですか?」
「少し甘いな」
「もしあれでしたら、私が食べます」
「いや、せっかくだからな。思い出だ。紅茶は口に合うな。ぶとうの甘酸っぱさがいいアクセントになっている」
(……陛下、すごく目立ってます!)
周りのお客さんたちはもう陛下に釘付け。
素敵じゃない、でも恋人が……という声も漏れ聞こえてくると、私は恥ずかしくなってしまう。
「私のマンゴーも美味しいですよ。こっちは少し甘めが強いので陛下のお口には合わないかもしれませんが」
「飲ませてくれ」
「でも私が口をつけて……」
「俺は構わないが」
「で、でしたら問題ありません」
「なら、代わりに俺のを」
陛下が紅茶を差し出してくれる。
陛下が口をつけられた、とつい意識してどぎまぎしつつ、私はブルーベリーフレーバーの紅茶をいただく。こちらも甘酸っぱさが今の初夏の季節にとても合っていて、美味しい。
「こちらもいいですね」
「そうだろう」
陛下はリラックスしているように見えた。
もしそうだったら嬉しい。いつも陛下は政務で気を張り詰めていらっしゃるから、息抜きしてくれると嬉しい。
カフェを出ると、人混みを縫うように進む。
「すごい混雑だな」
「え、ええ、そうですね……キャ、す、すみません」
通行人とぶつかりバランスを崩しそうになったところを、陛下が優しく抱き留めてくれる。
「平気か?」
「す、すみません」
陛下は私の腰に腕を回すと、自然に抱き寄せてくる。
陛下のがたいの良さもあって通行人の人たちは陛下を避けて通るから確かに安全ではあるんですが!
「シュバイクさん、そんなに抱き寄せなくても平気です……っ」
(密着しすぎてるのですが!?)
陛下からの大胆過ぎるアプローチで頭から湯気が出てしまいそうだ。
「子どもの頃は、この通りはまだ今ほど広くもないし、立ち並ぶ商店もこんなに洒落てはいなかった。変わるものだな」
陛下はしみじみと呟く。
店先に並ぶものも異国情緒あるものだし、行き交う人々も様々な民族がいる。香辛料や民族楽器などもおかれて、市場は賑わう。
「すべて陛下が築きあげたものです」
だからこそ、陛下は殿下を鍛え上げようと辛く当たられもしている。
殿下には陛下の想いを理解していただきたい。
その手助けができる立場にはもうない私にはただ祈ることしかできないけれど。
「次はここだ」
「次?」
陛下が足を止めたのは、服飾店だ。
「ここで何を……」
「いらっしゃいませ」
にこやかな女性が応対に出る。
「ドレスを仕立てて欲しい。あとはこの子に似合う最上の装飾品を」
「かしこまりました」
「これはどういう……」
「今以上に素晴らしい状態で返す、とグスタフに約束したからな。約束を違えるわけにはいかない」
カタログ選びからはじまり、陛下は「最上級のものを」と値段に糸目をつけなかった。
装飾品にいたるまで吟味し、支払いは腰に下げた金貨入りの大袋でおこなった。
陛下! 庶民という設定が完全に名ばかりになっています!
現金一括払いということで店の人が絶句していた。
店を出た頃には日がほとんど暮れようとしていた。
「いいものが買えた。はやくあれを着たお前を見たい」
「あまりにお金を掛けすぎだったのでは?」
「あれしきのことでか? 安心しろ。あの程度で、王国の国庫は揺るがない」
さすがは陛下。お金の使い道が豪快すぎる。
「いいえ、そういうことではなくてですね。私はもう王太子妃でもなくただの令嬢なのですから……ひゃっ」
私は腕を掴まれ、路地に引っ張られ、壁際まで追い詰められた。
「……だからどうした? お前が王太子の婚約者でなかったとして、お前の価値が損なわれるとでも? 自分を安売りするな。あのドレスでもお前の価値に比べれば色褪せる。お前は自分の価値をわかっていない」
陛下の狼のような雰囲気ともあって、ここまで迫られると迫力に圧倒されてしまう。
「ありがとうございます。ですが、私は……陛下が思われているほど貴重でもなんでもございません。もし私にそれだけの魅力があれば、殿下ももっと興味を持ってくださったことでしょう……」
「あいつの話をするな。物の価値の分からぬ奴は目の前で金やダイヤを含んだ鉱物があったとしても、ただの石ころと無視をし、イミテーションの宝石に目を奪われるものだ」
俯きそうになる顎を掴まれ、持ち上げられる。
「どうしたら、お前は自分の価値に気づける? 俺が口づけし、抱けば、自覚するか?」
熱い息遣いがかすかに汗ばんだ肌をそよぐ。
鼓動が激しく高鳴り、心臓が今にも口から飛び出してしまいそうで息苦しい。
「俺の愛を受ける受けない関係なく、俺はそれが焦れったい」
「へ、いか……」
その時、「見つけましたよ!」とランタンの明かりが目を射る。
「まったく、こんな大事な時に」
陛下は大きく舌打ちをした。
「ひゃっ」
陛下は私を抱き上げると、路地を駆け出す。
「お待ち下さい!」
なぜか衛兵が追いかけてくる。さらに謎なのは、陛下が逃げていることだ。
「な、なにがどうなっているんですか!?」
「舌を噛みたくなければ黙っていたほうがいいぞっ」
陛下は私を抱えたまま手すりに手をかけると、水路を進む遊覧船に飛び移ると、さらに一足跳びに向こう岸に渡り、再び駆け出す。
「あっちだぞ!」
「回り込め!」
「陛下、やっぱりおかしいですっ」
「いや、おかしいのは連中だ」
「話だけでも……」
前方に、騎馬兵が立ちふさがった。戻ろうとするが、背後もまた同じように騎馬兵に取り込まれる。
「陛下、いい加減になさってください!」
騎馬兵を両脇にどかせて現れたのは、騎士団長様だった。
「まったく、突然馬車を返したかと思えば行方を眩ませるなんて……」
「えええっ!」
騎士団長の一言に、驚くしかない。
でもよくよく考えてみれば陛下が変装して自由に王都を散策なんて普通に考えて、できるわけがない。
お父様が散策を許したのもきっと、護衛がいることを前提だったのだろうし。
(陛下と出かけられるって浮かれてたんだわ、私……)
だからそんな単純なことにも気付かなかった。
「もう日が暮れますので、どうか城へお戻りください。宰相様の血圧をこれ以上、あげないためにも」
「陛下、観念……というより、もうこれ以上、みんなを困らせないでください。それから、私を下ろしてください……!」
騎士団長や衛兵の方々に抱き上げられたままの姿を見られて恥ずかしい。
しかし陛下は下ろしてはくれず、そのまま馬車に乗り込もうとする。
「私は別の馬車に」
「なぜだ?」
「私はもう婚約者ではないので、王宮に部屋はありません。屋敷に戻らなくては」
「それなら心配するな」
「は?」
陛下は詳しく説明せず、そのまま馬車に乗り込んだ。
「……陛下、ですから、おろしてください」
今、私は陛下の膝に乗っていた。
「今は人目はないんだから問題ないだろう」
「そういうことではなくて! これは、尊厳の問題なんです! 子どもではないんですから……!」
「俺だって子どもをいちいち抱き上げたりはしないぞ。大切なものだから、こうして腕の中にいれたい、そう思ってるだけだ」
城へ到着すると事前に連絡を受けて、憤怒のお父様が待ち受けていた。
さすがに陛下も空気を呼んでくれたのか(遅すぎるくらいだけど)、私をおろしてくれる。
「陛下――」
「お父様、おやめください。私も陛下が護衛の方を撒いたことに気付きませんでした。ですから、叱責されるなら私も……」
「いや、お前は気付けなくても問題ない。俺のペースに巻き込まれたんだからな」
私たちの庇い合う姿に毒気を抜かれたらしいお父様は小さく息を吐き出す。
「もういい。ですが、二度と娘を巻き込まないでくれっ」
「今回のようなことは俺も控えよう」
「控えるのではなく」
「わかったわかった。さあ、行くぞ」
「へ、陛下」
私は陛下に当たり前のように手を握られて王城へ。
案内されたのはいつもの部屋ではない。
「こちらは、陛下のお部屋」
「――その隣に、お前の部屋を用意させた」
「は、い?」
室内は、婚約者の時と同じレイアウト。どうやら昼間の内に、陛下の手はずで家具もなにもそっくりそのまま移動させたらしい。
「どうしてですか? 私はもう何者でもありませんが!」
「俺にプロポーズをされたのが、普通の令嬢なはずがないだろう。まだ答えも聞いていない。答えを聞くまで、お前をただの令嬢にするつもりはない」
私は口をぱくぱくさせるが、言葉がでない。
そうしている間に、陛下はどんどん話を進める。
「俺は執務に戻る。しっかり休め」
陛下は颯爽と去って行こうとする。
その背中に、私は言わなければならないことがあったことに思い至る。
「シュバイクさん!」
陛下の肩がぴくりと跳ね、振り返る。
「今日はとてもとっても、楽しかったです! ありがとうございましたっ!」
陛下は優しく微笑み、小さく頷いて歩き去った。
※
(最後のあれは不意打ちだったな)
平静を保ったように見せられただろうか。
俺は頬や耳に火照りを意識しながら、執務室へ進む。
がらにもないと想いながら、これが人を愛するということなのだろう。
(世間の人々はどういう風にして対処てるんだ。あんな輝く笑顔を見せられて、頭がおかしくなるぞ……っ)
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