第8話 陛下の私室
「み、ミレイユ様、大変です!」
初夏を迎え、ますます王宮の庭の緑や花の色彩が目にも鮮やかになりはじめたとある日の午後の昼下がり、本を読んでいると、慌てた声と共に騎士が部屋に飛び込んできた。
「いくら近衛騎士の方でもあまりに無礼ですよ」
「わきまえてください」
「も、申し訳ない」
侍女たちの咎める声に謝罪した騎士は、私の前でひざまずく。
その顔色に、胸騒ぎを覚えてしまう。
「何かあったのですか」
その時、私の頭にはなぜか殿下ではなく、陛下の顔が浮かんでしまっていた。
「陛下をどうか、おとめください!」
「い、一体何があったんですか」
「その、陛下が、殿下を……」
言いにくいことなのか、騎士は口ごもった。
「分かりました。とりあえず連れて行ってください」
事情はよく分からないが、ただならぬことが起きているらしい。
何が起こっているのかを聞くよりも現場をその目で見たほうが早そうだと判断して、私は騎士の後に続いて、訓練場へ向かった。
訓練場には大勢の騎士たちがいるにもかかわらず、誰もが口をつぐんでいるせいで水を打ったように静かだった。
そこに響き渡る、木刀がぶつかりあう音。
騎士たちに囲まれた場で剣を構える陛下と、そして殿下のものだけ。
殿下は何度も挑んでは、そのたびに陛下にいなされ、腹に蹴りを受けて地面に倒れていた。
殿下の全身が土埃まみれなのが、どれだけ長く稽古が続いているかを物語っていた。
「何をしている。立て」
陛下の空気をひりつかせるような陛下の声が響く。
殿下は四つん這いのまま肩で息をするばかり。
「立て」
「………」
「立てと言うのが、聞こえないのか!」
落雷が落ちるかのようない大音声が訓練場に轟き渡った。
陛下が迷いなく剣を突きつける。
「……これは罰でございますか」
息を切らし、殿下は声を上擦らせながら呟く。
「何?」
「私が、あの女にひどい仕打ちをしたがための罰なのですか、と聞いているんです……」
「下らんことを。もしそのためにお前を虐げていると思っているのならば度し難いほどに愚かだな。お前は未来の王なのだ。俺が築いた全てをお前は受け継ぐ。その意味が分かっているのか? 守るだけの力がなければ、奪い取られる。それがこの世界の摂理。にもかかわらず、お前は訓練を避けつづけている。それを俺が黙認するとでも思っているのか? さあ、立て!」
殿下は地面を転がる剣を拾い上げ、立ち上がろうとするが、膝が笑ってうまくいかない。
「情けない。それで王太子と言えるのか!」
陛下が容赦なく、四つん這いの殿下めがけ剣を振るう。
剣の背が殿下を容赦なく打ち据える。木刀といえど、力加減を謝れば死んでしまうかもしれない。
「おやめください、陛下!」
私は土埃にまみれるのも構わず訓練場へ入る。
騎士たちが左右にどけて作ってくれる道を抜け、倒れる殿下へ駆け寄る。
「殿下」
「さ、触るな! 穢らわしい……!」
触れようとする私を殿下が激しく払いのけ、まるで仇でも見るように睨み付けてくる。
私は陛下を見る。
「陛下、訓練はここまでに」
「お前が口を出すことではない」
「そういうわけにはまいりません」
私がじっと陛下を見つめ続けると、陛下は小さくため息をこぼす。
「……訓練はここまでとしよう。皆、下がれ」
殿下たちが全員下がり、広い訓練場で二人きりになった。
「なぜ止めた」
ずっと黙っていた陛下がぽつりと呟く。
「あれだけひどい仕打ちをされたにもかかわらず、そんなにあいつの身が大切なのか」
陛下の目には常の陛下にはない、激しい感情に揺れているように見えた。
怒りのような、切なげなような。これまで見たことがない感情。
「余計な真似をしました」
「そんなことはどうでもいい。あいつが大切なのか。まだあいつを想っているのか、それを聞いている」
(……陛下、どうされたのですか……?)
常に冷静な陛下らしくない、感情的な言葉に動揺してしまう。
「答えられないのか」
「い、いえ……。あれは陛下のためと思い、お止めいたしました」
「俺の?」
陛下の瞳が揺れるが、今度は驚きだ。
「誰もがあの時の……殿下が私に婚約破棄を通告した時のことを覚えております。たとえ陛下が正当な理由を訓練を続けられても、口さがない者たちはそうとは受け取らないかもしれません。あれでは陛下の評判をいたずらに傷つけるだけです」
「俺はそんな評判などどうでも」
「よくありません。陛下は殿下に仰られました。守るだけの力がなければ、奪い取られる、と。力はただ剣の強さだけでなく、君主への信頼にも大きく関係しているのです。もし本当に殿下のことを考えての指導であるのなら、余計にそのことをお考えになられるべきです」 陛下がはっとした表情になると、恥じるように目を伏せた。
「……お前の言う通りだ。短慮だった。それに、きっと、あいつの言葉も決して間違ってはいなかった。お前への仕打ちを俺はまだ許せてはいない。俺の中でしっかり切り分けられていると思っていたが……無意識のうちに、出てしまったかもしれない。君主としてあるまじきことだ……。ありがとう、お前に助けられたな」
陛下は柔らかな笑顔を浮かべた。もうその瞳は揺れることはなく、しっかりと見すえられている。
「では私はこれで……訓練のお邪魔をして申し訳ありません」
そそくさと立ち去ろうとするが、「待て」と優しく手を取られる。
「傷がついている。治療しなければ」
たしかに右手の甲のあたりが、かすかに切れて血が滲んでいる。
きっと殿下に手を振り払われた時にできたものだろう。
「ただのかすり傷ですから」
「真珠のような柔肌に傷をつけたままでいさせたくない」
「……分かりました」
ここで抗っても、陛下は一度こうと決めたから決して引かないことを、さすがに私も学びはじめていたから、素直に従う。
と、陛下は私の膝と、首に腕をすべりこませ、横抱きにする。
慌てた私は陛下の首に抱きついてしまう。
「陛下!?」
「ん?」
陛下は私の反応を面白がるように目を細めた。
「あ、あの……歩けますが」
「分かっている。これは単純に、俺がしたかっただけだ」
したかっただけ!?
「……お、お戯れがすぎます……っ」
私は間近で陛下の顔を直視できず、意図せず、陛下の顔に顔を埋める格好になる。
そんな私に陛下はかすかに微笑をもらされるだけだった。
そして私は陛下の私室へ連れていってもらう。
「皆、下がれ」
「はっ」
待機していた侍従たちは気を遣って部屋を出ていく。
(執務室の他にもちゃんと部屋があったのね!)
考えてみれば当然だけど、城内で陛下とお会いする時は執務室ばかりだったから、こうして私室があると分かるとびっくりする。
陛下は私をソファーへ座らせてくれる。
「少し待て」
陛下は隣室へ入っていく。
「は、はい」
はしたないことは理解しながらも初めて入る陛下の私室を見回す。
実務家らしい陛下らしく、家具の一点一点は華美ではないけれど、実用的だ。
華美で珍しいもの、新しいもの好きな殿下とは正反対。
(このローテーブルもそうだけど、結構古いものなのかも。丁寧に使われているのがよく分かるわ)
殿下の部屋は訪ねるたびに置かれている家具や配置がころころと変わるから、同じ部屋なのかと驚くこともよくあった。でも陛下はきっとそんなことはないのだろう。良質なものを長く大切に使われるタイプだ。
私は立ち上がり、作り付けの書棚に足を向ける。
地政学や軍事学、歴代名称・名君の列伝、地水や疫病に関する分厚い本が並んでいる。
ただ並んでるのではなく補修の後が見受けられ、繰り返し読んでいるのが分かった。
(陛下はとても勤勉な方なのね)
殿下の私室にも立派な書棚はあるけれど、本はどれもこれも新品同様だ。
(この部屋は陛下の人柄そのもののよう)
勤勉で誠実。
気配を察して振り返る。
「――見てもつまらないんじゃないか?」
「っ!」
陛下は壁に寄りかかり、微笑ましそうに見ていた。
「へ、陛下、こ、これは……!」
陛下はいたずらを成功させた子どものように目だけで微笑んだ。
見回すだけに飽き足らず、ジロジロ見て回る場面までしっかり見られてしまったことに、言い訳のしようもなく、「申し訳ありません……!」と頭を下げるしかなかった。
「別に構わない。見られて困るようなものはないからな。だが、まずは治療が先だ。そこに座れ」
「は、はい」
陛下は手にしていた箱をテーブルに置く。中身は包帯や消毒液などの治療道具。
「その箱。年季が入っていますね」
「自分で治療するために戦場へ持参していたものだ」
「……手際までいい」
消毒液を脱脂綿に浸透させ、それをピンセットでつまんで傷口に塗布する。
「俺の部屋、つまらないだろう。よくグスタフにも、もっと派手にしてくれと言われる。今のままだとまるで書生の部屋だとな」
「ふふ、お父様がそんなことを?」
「あいつは歯に衣着せぬからな」
「……私は、とても居心地の良い部屋だと思います。陛下が物を大切にされるのがよく分かって……陛下のお人柄に触れられらような気がします」
「どれもこれも俺が生まれて皇太子だった頃のものをそのまま使っているから、今さら新しいものでは落ち着かないんだよ」
「気持ちは分かります。私も昔から使っているもののほうが落ち着きます。新しいものも素敵だし、気分を切り替えるのには絶好ですけど、その家具と一緒に過ごした思い出だけはどうにもなりませんから」
「この家具は父上と母上がまだ生きておられた折に、俺のためにわざわ、他国にあるという樹齢数百年の木材を使って用立ててくれたものなんだ」
「先代の……」
陛下はその時を懐かしむようにローテーブルについた細かな傷や欠けに触れる。
「でも本のほうはさすがに読みにくいのではないですか? 新しい版のものに入れ替えられた方が……」
ちらりと、陛下は上目遣いで見てきた。立派な体格の陛下がそんな風に人の顔色を窺うような仕草をするのが意外だった。
「笑うなよ?」
「もちろんです!」
「そうは見えないだろうが、俺は小心なんだよ。だからボロボロになった本を見て、これだけ勉強したんだから、これからする決定は間違ってはいない、絶対にうまくいくと自分自身に言い聞かせてるんだ。いわばお守り代わりだな」
「ふふっ」
「笑うなと言ったのに」
そういう陛下は怒ってはおらず、苦笑している。
「すみません。でも馬鹿にしたのではなく、微笑ましいなって。陛下は何でも出来て、完璧な方だとばかり思っていたので。とても、人間らしいなって」
「……いや、俺は無力だ。大切なものを守るべき時に守れなかった」
「陛下?」
不意に口を閉ざした陛下はガーゼを傷口に当て、包帯で巻く。
「できたぞ」
そう何事もない風で言った。
「切り傷にしては、少し大袈裟になってしまいましたね」
「戦傷の治療ばかりしていたせいだな。すまない」
「いいえ。陛下に治療して頂いたなんて貴重な経験ですから、ありがとうございます」
「ドレスも替えたほうがいいな」
たしかに土埃まみれだ。
「そうですね。戻ったら着替えます」
「新しいドレスでも仕立てたほうがいい。お前は少し控え目すぎる。同じ年代の令嬢どもはもっと派手だろう」
「私はあまり似合いませんから」
「似合うに決まってるだろ。すぐに職人を呼ぶぞ。なに、王の命令だと言えば数日で完成させられる」
「王の権威をこんなことで使ってはいけません……!」
私は慌ててしまう。
ご自身に関しては一つ一つのものを大切に使われるのに、どうしてそんな発想になってしまうのだろう。
陛下とこうして親しく話をしたりすると、よく分からなくなってくる。
「そうか?」
のんきにおっしゃる陛下を前に、私は小さく息を吐きだす。
「陛下。右手を貸してください」
「?」
陛下は小首を傾げつつ、手を差し出してくる。
右手の手の平には血が滲んでいた。
長時間、木刀を強く握りすぎたせいだろう。
「私のことを心配してくださるのは嬉しいですが、ご自身もことをもっと考えてください」
「これくらいかすり傷だ」
「私の切り傷の何十倍もひどいですっ!」
私は治療箱を開ける。
「さっきも言ったが、自分で」
「聞き手を怪我されているんですから、難しいですよね。今は私がいるんですから、やらせてください」
「分かった」
陛下は嬉しそうな顔をする。
私はさっき陛下が私にしてくれた時を真似て、傷口に包帯を巻くところまで終わらせる。
「すまないな」
「……下手で、申し訳ありません」
「問題ない。ありがとう。治療してもらえるなんて嬉しかった」
陛下は笑うと、少年ぽくなる。
「治療だなんて大袈裟です。それよりも、もっとご自身をいたわってください。陛下はこの国にとって大切な御方なんですから」
「お前にとっても俺は大切か?」
「……も、もちろんです」
「なら、少しは考慮しよう」
「ではこれで失礼いたします」
私はなんだか気恥ずかしくなり部屋を出ようとするが、陛下がそっとかたわらに寄り添う。
「な、何か?」
「部屋まで送るに決まってるだろ?」
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