祖國の空に

岸亜里沙

祖國の空に

1945年8月15日、正午過ぎ。

日本國の敗戦を報せる玉音放送ぎょくおんほうそうを聞き、大分飛行場の第五航空艦隊宇佐基地うさきち内に居た誰もが涙を流しながら俯いた。

皆、溢れる涙を軍服の袖で拭いながら、これからの日本國の未来を嘆いた。田舎に残してきた妻と幼き我が子、そして両親に生きてまた会えるという喜びよりも、敵國に日本國を占領されてしまう屈辱感の方が勝っていたのだろう。

「この國はどうなってしまうのか・・・」

一人の整備員が小さく呟く。


その頃、司令長官である宇垣うがきまとめ中将だけは口を真一文字に結び、黙って穏やかな青い空を見つめていた。その中将の姿は、今でも脳裏に鮮明に焼きついている。宇垣中将だけは、ポツダム宣言の受諾により、日本國が無条件降伏をするらしいという情報を大本営からの通達で知っていたのだと、後から聞いた話で初めて知った。

だが私を始め、神風特別攻撃隊の作戦準備をしていた搭乗員の多くは、玉音放送を聞いてはいなかった。いや、任務遂行の為に、敢えて聞かされなかったというのが正確だろうか。

私たち特攻隊員は整備が進む特攻機『彗星艦上爆撃機』を眺めていた。太陽に照らされた緑色の機体は、深緑しんりょくに染まった桜の木にも似て美しい。

その日は空襲警報も鳴らず、戦争中とは思えない程穏やかで、欠伸あくびが出るくらい心地よい昼下がりだった。

誰もがこれから死地へと赴くわけだが、皆一様に明るく、屈託のない雑談をしていた。

宇垣中将も近づいてきて、私たち一人一人に話しかけてきたのを今でも覚えている。

高倉たかくら、今日はお前の操縦に期待しておる。沖縄に潜む敵艦に一泡吹かせてやろう」

「はい!中将のご期待に添えるよう、全力を尽くします」

そう言うと宇垣中将は私の肩を力強く叩く。

今思えば、この時の宇垣中将の顔がとても穏和な笑顔だったのは、私を励ます為ではなく、終戦を報せぬまま任務に着かせてしまう事への、後ろ髪引かれる思いがあったからだろう。

これが宇垣中将との、個人的に交わした最後の言葉だった。


夕刻前、整備が済んだ特攻機の前で皆が整列すると、宇垣中将から情報伝達と作戦立案がなされる。

そして宇垣中将自らも特攻機へと乗り込み、沖縄近海に停泊中のアメリカ艦隊へと体当たりする旨が伝えられると、皆は姿勢を正し、敬礼で応えた。

そして出撃可能な十一機の『彗星艦上爆撃機』に計二十三人が乗り込む。

整備員全員も滑走路へと出てきて、涙を流している。

「よし、行こう」

私は操縦席に乗り込みながら、一緒に搭乗する偵察員の上岡かみおかに話しかけると、微かに声を震わせながらも元気な声が返ってきた。

「よろしくお願いします!敵をいち早く発見出来るよう、努力致します」

私が操縦席から左手だけを後ろに伸ばすと、上岡はがっちりと両手で私の手を掴んだ。


私はゆっくりとエンジンを吹かせ、プロペラを回す。

そして合図を待って私たちは、一気に祖國の空へと翔び出した。

通常よりも多めの爆弾を装備していた為、操縦桿を操るのも一苦労だった。それでもどんどんと上昇し、雲の上へと辿り着く。

徐々に薄暗くなってきた空のざわめきが、津波のように迫ってくるのを犇々ひしひしと感じる。

予定では沖縄近海までこの高度を維持しつつ、敵艦の発見に全力を尽くす予定だった。だが私が操縦する機体だけが、エンジントラブルを起こし、徐々に高度を下げていった。

「駄目だ。このままでは沖縄まで飛行出来ない。一旦何処かに不時着しよう」

私が言うと、上岡は緊張の糸が切れたのか、嗚咽おえつを漏らしながら「はい」とだけ答えたのを、私は今でも忘れない。


近くに島も無かった為、私たちは屋久島の沖、南西60kmの地点の海に着水を試み、無事成功した。

着水の衝撃は、滑走路に着陸するのとは違って、それは凄まじいものだった。搭載していた爆弾が爆発するのではないかと感じたが、幸いにも爆発する事はなかった。

「上岡、大丈夫か?」

私はたずねる。

「はい。自分は平気であります」

「本部に無線を入れたから、すぐに救助が来るはずだ」


軍の到着よりも早く、近くを通りかかった連絡船に救助をされ、20時過ぎには鹿児島の港に到着する事が出来た。まさか、生きて祖國の地を踏むとは一切考えておらず、私と上岡は波止場にただ立ち尽くすだけだった。

連絡船の船長から、日本國降伏の話を聞き、私たちは驚いたのを覚えている。

──宇佐基地から翔び立った仲間たちは、どうなったのだろう?皆、米艦に突撃を果たしたのだろうか──

その事ばかりが脳裏をよぎり、またたき出した真夏の星座も慟哭どうこくしているかのようだ。


彼らは死ぬ必要はあったのだろうか?

彼らは何の為に死んだのか?

それを考える程、私だけが生き残ってしまった罪悪感に、今でもさいなまれる。

曾孫ひまごたちに囲まれ、穏やかに暮らしても、終戦の日に祖國の空に翔び出した彼らを忘れない為、私はしっかりと語り継ぐ事しか出来ないのだ。



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