第5話

 


 寝ていた孫策は、ドォン!! と扉を蹴破るような震動で目覚めた。



「なんだ!?」


 寝台の上で飛び起き、つい、まだ長江の船の上だったかとあわあわした。

 戦場なら、すぐにだって武器に手が届いたのに、完全に油断していて、ひょい、と身体を持ち上げられた。

「はっはっは! まだまだ若君も詰めの甘いお方だ」

「朱治!?」

 肩の上に、荷物のように抱え上げられる。

「全くだ。ここが戦場なら、今、もう首を取られておりますぞ。孫策殿」

「黄蓋! 韓当! なんでお前らがここに……くそっ! 放せ! 何のつもりだおまえら!」

「運び出せ」

 黄蓋が命じる。

「孫策殿は孫家を継がれる方。どこにでも手の者は潜んでいると思っておられませい!」

「知るか! お前ら俺にこんな真似して、ふざけんなよ!! ぜってぇに許さねえからな!!」

「寝起きに威勢だけはいいですな」

「うるせーっ!! 言っとくけどここが戦場なら、首が飛んでるのはお前らの方だからな!!

 今は、ここが舒で、……、ほんのちょっと安心してただけだ!!」

「はっはっは! 周瑜殿が側におられて、気が緩まれましたかな?」

「うるせえ!! くっそ、離せ――――ッ!!」

「殿! お連れしましたぞ」

「あぁッ!?」

 孫策は朱治の肩の上で仰向けでジタバタしていたが、天を仰いだ。

 するとそこに、父親の顔が反対に浮かび上がる。笑顔で覗き込んで来た。


「ご苦労。よう、ドラ息子。元気か」


 朱治が腰を曲げ、ようやく孫策は地に足がつく。

「親父!? んだよこいつら親父が呼んだのか!?」

「こいつらとはなんだ。父の大切な重鎮兼友人に向かって」

 孫堅が腕を組むと、三人の重鎮兼友人もその側に立ち、同じように腕を組んで見せた。

 孫策は混乱もあって、気圧された。

「な、なんだよ……」

「うん? ご機嫌斜めか?」

「当たり前だ馬鹿野郎!! 人が気持ちよく寝てた所を叩き起こしやがって! ここ人ン家だぞ! てめーらホントに大人か!? なに夜更けに遊んでんだよ!!」

 大人たちが笑う。

「元気なようで何よりですな」

「うむ。ここまで毒を吐けるなら心配あるまい」

「よし。酔い潰れて途中で寝るなよ、策。着替えて来い。

 服は、お前がここに来る時着ていたものでいい。

 急げ。時間がないぞ」

「時間が無いって……なんのことだかさっぱり分かんねえんだけど……」


「早くしろ。ドラ息子。周瑜殿をあまり待たせるな。

 元より、お前には過ぎた女だ」


 怒っていた孫策はその名前を聞いた途端、きょとんと目を瞬かせた。


「韓当、着替えを手伝ってやってくれ。この様子じゃ服の前後ろも間違えて来そうだからな」



◇ ◇ ◇



(周瑜が待ってる?)



 よく分からないまま支度を無理に整えて、馬に乗せられ、孫策は父親たちに連れられ、舒の周家屋敷から、丁度街の反対側まで向かった。

 一体この先に何があったかと思ったが、今は全く頭が真っ白だ。

 ただ、周瑜が待ってるなら行ってやらねばと思って、馬を進める。

 やがて、街の外れにある道場に辿り着いた。

 ここは子供たちや街の人間が武術や勉学をする舒の学問所だ。

 街は寝静まっているのに、そこだけ煌々と明かりが灯されていて、人だかりになっていた。

 門から入ると、それまで息を潜めていた人たちが、突然歓声と拍手で孫策たちを迎える。


「??」


 舒はさほど大きい街では無かったが、広い学問所いっぱいに人が集まって、すでに酒や食事が振る舞われている。

「えーと……今日、なんかのお祭りだっけ?」

「まぁ祭りではありますな」

「んじゃ、普通に連れて来いよ……周瑜、どこだ?」

 呆れたように言って、孫策は馬上から飛び降りた。

 するとまた、一層な大きな拍手が巻き起こった。

 おめでとうございます! と声を投げかけられる。

「おめでとうって……今日俺の誕生日だったか?」

 的外れなことを言ってきょとんと立ち尽くしている孫策に、父親たちが笑っている。



「孫策どの」



 振り返る。

 周尚の姿があった。

 改まった姿だ。


「よくおいで下さった。さぁこちらへ。支度は整っております」


「支度は整っておりますって……え? 俺これから何やらされんの? ……相撲大会?」

「いえ。祝言をあげます。周瑜の準備はもう出来ていますから。夜が明けないうちに始めましょう」

「しゅうげん……?」

 初めて聞いた言葉のように、孫策は呟いてから、それから、ハッとした。

 父親を慌てて振り返る。

「周尚殿がお許し下さった。仔細は後で話すが、とにかくもかくにもすぐに式を挙げろ。

 グズグズするな。花嫁に逃げられるぞ。

 そんなことになったら、お前はもう孫家の家の門は潜らせてやらん」

 孫策が駆け出して、慌てて道場の中に飛び込んで行った。

 しばらくして、慌ただしい足音が戻って来る。

「どどど、どこだよ? 周瑜どこだ?」

 孫策の勢いに目を瞬かせていた周尚が、思い出したようにこっちです、と案内する。

 それを見た人々がドッと笑った。




「ふう。なんとかなるかな」



「しかし、殿も周尚殿もお人が悪い。いきなり昼下がりにやって来て、今夜式を挙げるから来いなどと」

耀淡ようたん殿が怒っておられましたぞ~」

「仕方あるまい。時間が無かったのだ。

 周家本家に気取られたら妨害されるから、周家で準備も出来なかった」

「孫家の御嫡男の祝言が、こんな小さな街の道場で民衆を集めてなど……良かったのですか?」

「別に、祝いはあとでまた盛大にするさ。

 兎にも角にも今は、あの二人が式を挙げたという既成事実を作ってしまいたい」

「そうまでされるからには……この結婚は、多くに望まれてないということですかな」

 孫堅は肩を竦める。

「望まれておるではないか。この舒の多くの人々に。俺も、お前たちも祝っておるし。

 何より当の二人が相思相愛なのだから、めでたいことだろう」

「……殿がそうでいいと仰るなら、私はそれでよろしいが……」

「よろしいが、なんだ?」

「私は一週間、張昭殿とはお会いしたくありませんな……」

「いいぞ。一緒にどこかに隠れよう」

「はっはっは! なぁに、美しい孫家の花嫁を見れば、あの偏屈ジジイの機嫌も直るでしょう」


 

◇ ◇ ◇



 周家の侍女が、準備が整いましたら、お出になられてくださいませ、と声を掛けてくれた。


 中に入ると、周瑜が美しい翠青の豪奢な衣を纏って、待っていた。


「周瑜」


 孫策は駆け寄る。

 座っていた周瑜が立つ前に、腰を屈め膝をついて、抱きしめた。

「今さっき親父に叩き起こされた。事情を聞いたのも今だ。おまえ、知ってたのか?」

 周瑜は首を振った。

「私も今さっき、養父上に呼ばれて起きた」

「お前も乱暴に叩き起こされて、荷物みたいに肩に乗っけられて、ここに来たのか?」

「いや、普通に養父上に起こされて静かに馬に乗ってここに来たが……そんなことをされたのか?」

 周瑜はくすくすと笑いだした。

「された!!」

 孫策が訴える。

「それは大変だったな……」

 周瑜は手を伸ばして、よしよし……、と孫策の額を撫でてやった。

 周瑜の美しい笑みに見蕩れて、今、纏っている周瑜の着物は、一年ぶりに舒に戻ってきた時、再会したその時に、彼女が着ていた女衣に色がよく似ていて、髪は少しだけ結い上げ、あとは銀の髪飾りをあしらって背に垂らしてるだけだ。

 祝言としては、簡素な装いと言えるかもしれないが、そんな支度でも、周瑜の容姿は華やかで、美しい。

 飾り立てる必要など、何も無いのだと、孫策は改めて綺麗な衣を身に纏い、少しだけ髪を飾った周瑜の美しさに感動していた。

「周瑜……」

「なんだ?」

 口調は相変わらずだが、でも、それが、こんな場面でもなんだか孫策を安堵させてくれる。

 訳の分からない状況であることは間違いないが、周瑜の手を握り締めた途端、孫策は何もかもがどうでも良くなった。

「周尚殿は、許してくれたのか?」

「うん」

「孫家がお前を貰うなんて、負け戦だと俺は親父に言われてた」

「そうか……。」

 全てを決めたのは、恐らく周尚だ。

 彼の中でどういう意図があり、この婚姻を了承したのかは分からないが、孫家に決定権はないだろう。

「負け戦になったら、どうしていた?」

 周瑜を見下ろす。

 結婚を許されなかったら。

 そっと夜色の瞳で問いかけて来る周瑜に、孫策は明るく笑いかけてやる。



「俺は負け戦はしない! あの手この手で絶対お前を勝ち取った!」



 周瑜がきょとん、という顔を見せた。

 いつも聡明で美しい周瑜の、珍しく幼い表情が可愛い。

 孫策は耐え難くなって、額を寄せた。

 手を絡め合って、鼻先に見つめ合う。

「……突然求婚なんかしてごめん……驚いただろ……」

「うん、驚いた。……でも、嫌だとは思わなかった」

「ほんとうか?」

「うん。今まで、ずっと友達だったから、思いつかなかっただけで……。

 君とは、そういう関係にもなれるのかって、話を聞いた時に初めて気づいて」

 孫策も笑う。

「そうだな。俺も、……一年前までは、お前が自分の……、その、……、……つつつつつま、になるとか、全然考えたこと無かったし」

「私もまだ、妻とか言われてもよく分からん。何をすればいいのかも……。

 でも、君のことは分かる。

 君が私を知ってくれていることも。

 結婚とか妻とかはよく分からなかったけど、君とこれからもずっと一緒にいられるのだと思った。そうしたら、とても嬉しく思ったんだ」

 俺もだ。

 孫策が破顔する。

「本当に、これからずっとお前と一緒にいられるのか」

「多分……結婚とはそういう約束だと思うから……」

「なんか信じられない……」

 手を繋いだまま、自分の手の甲で、周瑜の頬に触れた。

「……好きだ、周瑜」

 その時は、素直に口から出た。


「やっと言えた」


 安堵したように孫策が言う。

 嬉しそうな孫策の笑顔が可愛くて、周瑜も自然と表情が綻んだ。

「わたしも…………君が、好きだよ」

「周瑜……」

 孫策がぎゅ、と手に力を籠め、鼻先だった顔を更に詰めて、確かに唇同士がごく微かに触れ合った時、壁の向こうから思い切り叩かれて、早く出て来んか! ドラ息子! と孫堅が吠えている。


「あんなのがお前の義父になるんだぞ。いいのか?」


 邪魔をされた孫策が頬を膨らませる。

 周瑜は笑った。

「君のお父上だ。私は好きになれるさ」

「へへ……そっか。

 じゃあ行くか!」

「うん」

 孫策が立ち上がり、周瑜の身体も引き上げてくれる。







 扉から出て行くと、手を繋いで出て来た二人を、孫堅と周尚が並んで出迎える。

「ほぉ……、これは…………美しい花嫁だな。

 策、嬉しかろう」

「嬉しいのは否定しないが、今夜のやり方については後日改めて問い詰めるからな親父」

 孫策が孫堅を睨むが、孫堅は飄々と口笛を吹いて躱した。

「そんなことを言って、このめでたい縁談をまとめてやったのは、どこの誰だと思っとるんだ? このお父上様の助力無くして、お前みたいな元気だけが取り柄みたいな子倅が、天下の周家の娘を嫁に出来たなどと、まさか思ってはおらんだろうな? ん?」

「うるせー! 別に俺一人でだって、周瑜には好きになってもらえた!!」

 孫策が周瑜を連れて、駆け出して行く。

「照れておるわ。可愛い奴め」

「はは……急ごしらえの割には、なかなかどうして、似合っていませんか」

「うん。確かにな。不思議なのだ、あの二人は。初めて会った時から、ああして、誰もそんなことをしろと言ったわけではないのに手を繋いで、くっついて好き合っておった。

 まぁ、まさかホントに夫婦になってみせるとは、さすがの俺も予想していなかったが」

 ですね、と周尚が笑う。

「どうぞ、周瑜を末永くお願い申し上げる」

「こちらこそ、愚息をよろしくお願い致す」

 二人の当主が改めて深々と頭を下げ合ってから、肩を抱き寄せ合い、歩き出した。

「明日から、共に集中砲火を浴びますなぁ、周尚殿。

 耐え切れますかな?」

「騎馬突撃の戦は周家は不得手ですが、まだ籠城戦なら、やり様もあるかもしれませんね」

「はっはっは! では、この孫文台が貴方に、孫式の騎馬突撃の戦のやり方を教えてあげましょう!」



◇ ◇ ◇




 街の祭りか、宴席に、少し趣向が加わった程度の、小さな式である。

 略式の祝言の作法を済ませた後は、集まった民衆が楽しく飲んで踊っているのを眺めているだけだ。

 孫策と周瑜も、黄蓋達に勧められ、少しだけ酒を飲んだ。

 何だかまだ、心がふわふわしているようで、周瑜は不思議な感じだった。

 孫堅がやって来て、酔いが回る前に一曲吹くか、と周瑜に、綺麗な銀の箱に入った笛を差し出した。

 孫策がすぐに気づき、教えてやる。

「母上の笛だぞ。――親父、コレ盗んで来ただろ」

「怒られるかな?」

「当たり前だ」

「大丈夫さ。耀淡は心の広いおなごだ。こんなことで嫁をいびったりせん。

 むしろ、祝言に花嫁に気の利いた贈り物一つもやらなかったのかと、俺が怒られるだろう。

 遠慮なく、受け取れ」

 促されて、周瑜は笛に息を吹き込んだ。

 美しい音色が響き渡り、わいわいと賑やかしくしていた人々が静まり返る。

 眼を閉じて、吹き終わり、隣を見ると、孫策が優しい表情で自分を見てくれていた。


「策」


 孫策が腕を伸ばして、両腕でしっかりと、周瑜の身体を抱きしめる。

 歓声と拍手が沸き上がり、人々はまた、歌い、踊り、手を叩き合った。




◇ ◇ ◇




 宴が終わり、周家の屋敷に戻って来ると、まだ空に月があった。

 よし、と孫堅が頷く。

「策」

 周瑜を一緒に乗って来た馬から抱えて下ろしてやっている息子を呼ぶ。

「なんだ?」

「いいか。これからお前は周瑜の部屋に行って、過ごせ。

 お前と周瑜は夫婦になったのだ。しかし、まだ十二歳では夜伽は早い。

 今度の遠征が終わったら、周瑜に触れるのを許してやるが、今はまだ待て」

 孫策は赤くなった。

「……うん」

 別に、最初から、そのつもりだった。

「出来るな」

「最初から、そのつもりだ」

 孫策が周瑜の手を握り締める。

「ようし。だが、内情はそうでも、世間体としては今夜お前と周瑜は契ったことにせねばならん。ということで行って来い息子よ。

 昼までは寝室から死んでも出て来るな。いいか。

 あとは二人で、好きに過ごせ。

 策。重ねて言うが、私の目から見ても、今宵の周瑜は着飾って美しい。今など少し酒も入っているからか、頬が染まっててたまらん色香だ。

 だが手は出すなよ。

 周瑜に無体なことをしたら、父が寝室の壁を蹴破って押し寄せるぞ」


「うるせーッ!! あんまり周瑜をジロジロ見るんじゃねーッ!!」


 孫策が怒って、周瑜を連れて駆け出して行った。

「はっはっは! 元気ですなぁ」

「さすがにまだまことの夫婦にとは行くまい。だがお前たち、今夜のことは余所では口にしてくれるなよ。あの二人は今宵夫婦になったのだ。よいな」

「はっ!」



◇ ◇ ◇

 


 寝室に入ると、夜衣よいが整えてある。


「着替えるか……」

「うん」

「……あいつらのせいで何か変な感じする。お前と同じ部屋で着替えるなんて、慣れてるはずなのに」

「そうだな」

 言いながら、ふと、それにしたって少なくともこの一年、再会するまでは、周瑜が驚くべき変貌を遂げてからは、同じ部屋で着替えなどしたことが無かったと孫策は気づいた。

 なにせ、一年前の周瑜は十センチ以上背も低くて、胸も全然無かったのだ。

 それが、今は……。

 思わず隣にいる周瑜の胸のふくらみを見てしまって、そのあと思い切り目が合ってしまった。


「ご! ごめん!! いま、変なところ見た!」


 孫策は慌てて周瑜の手を放す。

 素直に白状した孫策に、周瑜は小さく笑う。

「いいんだ。それに、夫婦というのは、身も心もお互いのものになるということだろう?」

 周瑜が夜衣を手に取って、奥の屏風の陰に入って行くと、すぐに着替え始めた。

 孫策も慌てて、その場で着替える。


「着替え終わったか? 伯符」

「うん」

 寝台の上に乗り上げた。


「……じゃあ、俺も、周瑜のものということか?」


 周瑜は微笑み、孫策の髪を撫でる。

「そうだ。君はわたしのものだ」

「……お前も、俺のものか?」

「そうだよ」

「なんか、変な感じだ。くすぐったい」

 くすくすと周瑜は笑って、頷く。

「分かるぞ、私もなんだかくすぐったい気持ちだ」

「そうか。お前もそうなら、別に変じゃないな」

「うん。一緒だから変じゃない」

「本当の夫婦だと、ここで……、身体を繋ぐんだよな」

「うん」

 孫策は寝台の柔らかい敷布に触れた。

「……周瑜は、平気か?」

 周瑜が目で問い返して来る。

「俺と、そういうことするの、抵抗ないか? ……大丈夫か?」

「君はあるのか?」

 孫策は大きく首を横に振った。

「ないよ。俺は、確かに今までは、お前のこと、親友とか、弟みたいに思ってたけど……でも、今は……お前は、すごく綺麗になったから、とても女を感じる。

 お前を見てると、どきどきする感じだ。

 こういう胸のどきどきは、戦で結構慣れてるけど、なんかそれともちょっと違う感じだ」

 孫策の言葉は飾り気がなくて正直だ。

 だから、周瑜は安心した。

 女を感じるなどと他の男に言われたら、不気味な気がしたが、孫策に言われると、不思議と嬉しかった。

「良かった。

 むしろ君には、男みたいな面ばっかり見せて来たから、その気になれないと思われていたらどうしようかと思ったから」

「そんなことない!

 お前は綺麗だ、周瑜。

 江東一の美人だ。――いや、世界一綺麗だぞ」

「それは言い過ぎだ」

 周瑜が笑った。

「どこでそんな世辞を言えるようになって帰って来たんだ?」

「世辞なんか口にしない。本当に綺麗だ、周瑜」

 孫策が周瑜の頬に触れて、口づけた。

 柔らかい唇。気持ちいい。

 孫策は周瑜の背に腕を回して、ゆっくりと寝台にその身体を仰向けに寝かせてやった。

 そのまま自分も彼女のすぐ隣に寝て、横向きに向き合う。

 濡れて、僅かに開いて、自分を見上げる周瑜の唇から目が離せなくなる。

 もう一度唇を重ねた。

「……ん」

 周瑜が僅かに身じろぐ。一瞬、漏れ聞こえた刹那の声が色っぽく聞こえて、孫策はドキッとした。

「……、ごめん。……いやだったか?」

 唇を放すと、周瑜は一度自分の唇を確かめるように指でそっと押さえたが、首を振った。

「……嫌じゃない。もう一度してくれ」

「え……」

「こういうのは初めてだから、まだ上手く出来ないけど、ちゃんと一つずつ、慣れたい」

 周瑜は孫策の胸に額を寄せた。

 慎重に、孫策は、周瑜の身体に手を回した。

 壊さないようになんて思ってはいたが、実の所、そうやって自分の感情を、飼い慣らそうとしていたのだと思う。

 その時思い切って周瑜を抱き寄せ、衣を剥いで、まだ小ぶりではあるが、しかしちゃんと服の上からでも分かる周瑜の裸の胸に顔など埋めていたら、もう感情が爆発してそのまま抱いていたかもしれないと、後々思い起こしてみるからだ。

 孫策が周瑜に欲情する時は、その身体に手を這わせ、抱き寄せ、自分の身体との違いを、女の身体の輪郭や、柔らかさや、温かさを強く自覚した時だった。

 普段、これほど自分に同調し、溶け合い、半身のような動きをする周瑜の身体が、不意にあまりに女だと感じると、何故これほど器が違うのに、周瑜は自分をこれほど理解してくれるのかと、愛しさで堪らなくなる。

 同時に、これほど自分に近しく思う存在なのに、その身体がこんなにも別の異性なのかと実感すると、それもまた、不思議で、孫策の胸を強く締め付けた。

 自分の感情を不必要に刺激しないよう、孫策はその夜はひどく慎重に、周瑜の身体に手を伸ばした。

 確かめるように探ることもなく、ただ手を添えて、抱き寄せる。

 

「だからもう一度してくれ」


 見下ろした、夜色の髪から覗く、周瑜の耳は赤かった。

「……うん……」

 孫策は周瑜の耳に唇を寄せた。

 ぴくん、と腕の中で周瑜の身体が反応する。

 顔を上げた周瑜にそっと口付ける。

 今度は少しだけ、唇を押し当て、探ってみた。

 真似をするように、周瑜も微かに唇を動かす。


(気持ちいい……)


 孫策がしばらくそうしていると、周瑜の手が、孫策の肩あたりの衣を握り締めた。

 その手に、手を重ねて、孫策は口づけを続けた。

 浅く触れ合わせ、その合間に息を整えながら、落ち着くと、深く重ねて、そのうち舌が触れ合うと、それも気持ちが良かったから、すぐに絡ませ合うようになった。

 息が上がって来ると、また浅く触れ合わせ、時々、周瑜の額や、首筋にも口づけてみた。


「……気持ちいいか……? 周瑜……」


 ひどく、一時が、いつもの何倍も長く引き伸ばされたような、そんなゆったりとした感覚の中で、孫策が、聞いたこともないような、優しい、囁くような声を響かせる。

 首筋を探られながら、周瑜は自分が溶け出していくのが分かった。

 きもちいい……、小さく頷いて、周瑜は自分も孫策の首筋に唇を寄せて、彼の動きに合わせるように、そっと探った。

 握り締め合う手の平が、時々、堪えるように強く力がこもる。


 抱き合って、口付けをし、共に寝る。


 二人の初夜はそれだけだった。


 それでも、何度思い起こしても、忘れられない印象的で幸せな夜になった。



◇ ◇ ◇



 どわああああああっと虎のように孫策が大きな欠伸をした。


 孫堅が笑いながらやって来る。

「見応えのある寝不足の顔だな。お前は分かりやすい。結局どこまでこなした?」

「……どこまでって……なんだよ」

「まさか本当に手を握って終わったのか?」

 小馬鹿にされたように感じて、孫策は強く言い返す。


「いっぱい口づけをした!!」


 しかし孫堅は呆れた声だ。

「何だそんなものなのか。勿体無いことを。手を出さずとも、どうせなら、裸に剥いて身体中をまさぐっておくぐらいのことしておけばいいものを。」


「周瑜に変なことすんなよ!!」


 孫策は怒って、父親の背を叩いて来たが、孫堅は「するのはお前だろうに。はっはっは!」と陽気に笑っている。

 全く懲りない父親を諦めて、孫策は馬に寄り掛かりながら、唇を尖らせた。


「……今度いつじょに戻って来れる?」


 先に馬に乗っていた朱治と韓当が笑った。

「分からん。戻ったらもしかしたら袁術殿より書状が届いてるかもしれん」

「届いてなかったら、……ここに戻ってもいいか? 遠征にはちゃんと行くから」

「ならん。策。今回の遠征の準備は、黄蓋に補佐してもらいながら、全てお前が整えてみろ。

 お前は帝から護剣を承ったのだぞ。

 もう朝廷の志士なのだ。そして妻も娶った。戦場に連れて行ってもらい、お膳立てだけされて戦を楽しむような甘えはもう許さん。

 お前は周瑜と共に、孫家を盛り立てて行かねばならん」

 孫堅が、黄蓋から帝の護剣を預かり、それで、馬に頭を預け、身体を斜めにして今にも寝そうな孫策の頭に置いた。


「お前が戦でヘマをすれば、周瑜が恥を掻く。

 汚い真似をすれば、周瑜が悪く言われる。

 それを忘れるなよ」


 孫策が身を起こした。

 剣を受け取る。


「戦に出たら、戦功をきちんと立てる。男は出世をして、家族を守るものだ。

 分かったな?」


「……。………あっ!!!」


 剣を見下ろし、孫策がいきなり声を上げた。

 馬が嘶く。

「なんだ。お前、父上様の今のありがたい説教、ちゃんと聞いておったか?」

「悪い……! ちょっと待っててくれ! 忘れてた!!」

「コラ策! 早くせんか! 富春に戻るのが深夜になるぞ!」



◇ ◇ ◇



「周瑜――っ!!」



 池のほとりで、魚を見下ろしていた周瑜は振り返った。

「策?」

 先ほど見送ったばかりだ。

 どうせ冷やかされるから、門までは見送りはいらないと、ここで別れた。

「どうした? 忘れ物か?」

「周瑜! これ、お前にやる」

 孫策は剣を周瑜に手渡した。

 瑠璃の宝玉が埋め込まれた、細身の、美しい剣だ。

「綺麗な剣だな……。これは、君が言っていた、帝に受け賜わった剣じゃないのか?」

「うん。そうだ」

「そんな大切なものなら、これは君が持っていた方が……」

「俺にはちょっと、細すぎる。貰った時、お前なら上手く扱えるんじゃないかと思ってたんだ。バタバタして、やるの忘れてた。

 ……次の遠征、長くなるかもしれない。

 俺は側にいてやれないから、その代わりにこの剣をお前の側に置いておけ」

 周瑜は少し考えたが、やがて、うん、と頷いた。

「分かった。ありがとう……大切にする」

「うん」

 周瑜に手渡して、孫策は安堵したようだ。

 周瑜を抱き寄せて、口づけた。

 たった一夜で、唇を重ねることも、手を繋ぐことのように、二人の間で、当たり前のことになった。


「……俺のいない間、他の誰とも、これはするなよ」


 孫策が額を寄せて、確かめるように覗き込んで来る。

「逆に聞くが、夫の留守中に私が、君以外の誰とこんなことをするかもしれないと思っているんだ?」

 呆れたように返されて、ぎゅっ、と脇腹を抓られると、孫策はいてて、と身を捩って、誤魔化した。

「誰ってそれは………、いぬ、とかだな……」

 周瑜は目を丸くしてから吹き出した。

「犬もダメなのか」

「当たり前だ! これは、俺だけのものになったんだからな……」

 これは、とまた唇が重なる。

「ん……、」

 周瑜は一度深く瞼を閉じてから、孫策を見た。

「……じゃあ、君の唇も私だけのものだな」

 優しく、指が孫策の唇に触れる。

 周瑜は少しだけ嬉しそうに、そんな風に言った。


「もう一回」


「もう駄目だ。とまらなくなるだろ」

「もう一回したい」

「ダメだってば」

 逃げようとした周瑜を抱き寄せて、今度は深く口付け、舌を絡めた。



「策! 早くせんかァ!!」



 孫堅の大声が舒の屋敷に響き渡る。


「うっせ~!! 親父聞こえてらァ!!! 今行くから黙ってろ!! ここ、人ン家だ!!」


 孫策が怒鳴り返すと、遠くの方から大人たちの笑い声が聞こえて来た。


「じゃあ……、行って来る。

 多分、遠征に出る前にはもう一回ここに来る。……いや、絶対、意地でも来るから」

「うん。気を付けて帰るんだぞ。義母上さまや、仲謀ちゅうぼう殿、香凜こうりん殿にもよろしくお伝えしてくれ」

「分かった」

 自分が名残惜しかったから、孫策も多分、そうだったと思うが、孫策はようやく振り返らず、庭の紫陽花の向こうに消えた。

 手の中に残った美しい一振りを、しっかりと胸に抱きしめる。


「……ありがとう。伯符」


 使いにくかったからなどと言ったが、多分孫策は、例え使いやすい他の剣でも、自分にくれたのではないかと周瑜は思った。

 帝に与えてもらった剣だから、自分よりももっと、持つのに相応しい相手がいると、孫策はそう考えたのではないか……。

 それは単なる周瑜の想像だったが、相手が孫策ならば、それは確信に変わる。

 周瑜は孫策の、そういう正しい考え方をする所が、とても好きだった。


「ありがとう」


 この血のことを考えると、孤独が慰められると言った、周瑜を覚えてくれていたのだろう。


(でも、策……私の孤独は多分もうとっくの昔に、慰められていたのだと思うよ)


 君というひとが目の前に現れて、自分の運命と結びついた時から。




 胸に巣食う寂しさは、いつも君が消してくれたんだ。








 <終>

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