第4話


「……ということで、うちの不肖の倅が、周瑜殿に懸想をいたしましてな……。

 こんな話、お聞かせするのも気恥ずかしいが、あれも頑固で、話を周尚殿に持って行ってくれるまで一歩も動かんという様子なのです」


 話を持って行った時、周尚はさすがに、目を丸くした。

 それはそうだろうと思う。

 周家にとって、孫家は自分たちの身を護る鎧に過ぎない。

 言わば、主君に下働きの者が、恋を告白したようなものだ。相手にする方がどうかしている。

「周瑜殿と、伯符は幼い頃より親友で、姉弟のように接して来た。

 それと、この一年の周瑜殿のあまりに美しい変貌ぶり。

 この二点を配慮に入れ、どうか長年のお付き合いを鑑みて……良いお返事をなどと言うつもりはない。伯符を嫌わないでやってくれるとありがたい」

「はぁ……」

 周尚は戸惑っているようだ。

「こちらとしましても、突然のお話で、驚きましたが……」

「いや、当然だ。そう思われて、仕方ない。

 不躾だと思われるならばそうだろう。

 ただ、周尚殿や周瑜殿を怒らせるつもりで言ったのではないということを、ご理解いただきたい。

 この話は、次の遠征の話をしている時に、不意に伯符に打ち明けられました。

 まだ正式に勅命を受けたわけではないですが、私の読みでは次の遠征は、呉郡あたりになるのではと思っています」

「呉郡……では許貢きょこう殿と」

 孫堅は頷いた。

「呉郡は難攻不落の城がある。腰を据えてゆっくり二年攻防戦をやると言ったら、あやつが仰天しましてな……。

 二年も時を掛けたら、周瑜殿は絶対に他の男に貰われてしまうと泣き付いて来た。

 それはそうだろう。

 この一年でああも美しくおなりだ。

 あれでも、兄弟の中では夢見がちな方ではないのだが。

 ……慕う気持ちが押し隠せなかったのだろうと思う。

 どうか、お許しいただきたい」

 周尚はようやく話の全てを理解したようだった。

「文台殿、お顔をお上げください。

 孫策殿は……」

「外で待たせております」

「孫策殿をこちらに……」

 周尚が側の侍従に声を掛ける。

 侍従は一礼し部屋を出て行って、しばらくして、孫策が連れて来られた。

 彼は幾分か、緊張した面持ちだった。初めて見る表情だ。

 それに、これほど服装を改めているのも珍しい。

 いつも彼は楽な服装で周家を訪ねて来て、自分の家のように庭先に周瑜と転がって遊んでいるからだ。

 周尚は、そういう孫策を、憎く思ったことは一度もない。

 彼は孫堅という人間に惚れこんでいる所があるので、孫策のことも好きだった。

 どこか似ているのだ。

 まだ子供で、当然目の離せないようなところもあるのだが、大らかで、どっしりとしていて、大樹のような気配を持つ。

 無論、周家にも、周家の格を重んじる人間は山ほどいる。

 臨海りんかいの本家は元より、近隣の分家の人間がここで孫策を見たら、周家の姫にあんな馴れ馴れしく、と苦虫を噛みつぶしたような顔をする者も多いはずだ。

 臨海の本家からも、周瑜の結婚については、色々と注文がついている。

 一度周瑜を臨海に寄越して、花嫁修業などさせつつ、全てをこちらに決めさせるようにというようなことだ。

 周尚はそれに頷く気はなかった。

 本家の人間は、周瑜の母親である螢祇けいしの身分の低さを嫌い、周尚にとっては兄にあたる、周異しゅういが死んだ後、未亡人となった彼女の世話を見るよう、分家に押し付けた。

 兄を慕う弟として、今更その娘に、どの口で相応しい結婚を用意してやるなどと言って来たのだと思っている。


 螢祇の母が、二代前の帝の寵愛を受けた楽師であったのだ。


 彼女は母から、帝から戴いたという首飾りを受け継いだ。

 豪奢な宝玉が散らばめられたその首飾りを、細かく切り離し、幾つかを故郷に埋め、幾つかを螢祇に与えた。

 螢祇も楽師の才があった。

 螢祇が生まれると、その美しさが評判になり、こんな低い身分にこの器量の良さは、何か深い因縁があるに違いないと、貧しい暮らしをしていた母を、ある豪族が呼び寄せ自分の妻付きの楽師にしたのである。螢祇は母から幼い頃より楽の指南を受けたのだ。

 非常に美しい楽師の母子がいると評判になって、それを偶然耳に入れて、訪ねてみようかと言ったのが周瑜の父親である周異である。

 彼は視察の帰りに、たまたま立ち寄って、周尚もその時、兄に付き従って共にいた。


 ……螢祇を見た時の感動は、言葉に出来ないものだった。


 こんなに美しい女がこの世にいるのかと思った。

 兄は、彼女は器だけではなく、奏でる音色までも美しいひとだと感動していた。

 すなわち、それは本当に優れた女人であるのだと。

 臨海に戻ると、すぐに兄は螢祇を妻に迎えたいと本家の当主たちに申し入れた。

 身分が低すぎると彼らは強く反対したので、兄は家督相続を三番目の弟に譲って、家を出た。

 すでに持っていた自分の居巣きょそうの城で、螢祇を妻に迎え、暮らし始めたのである。

 数年、子が出来なかったが、夫婦仲は仲睦まじく、兄もその妻も、周尚が居巣を訪ねて行くと、いつも温かく迎えてくれた。

 やがて、螢祇が身籠った時、あまり身体の強くない兄嫁を心配し、周尚も出産が無事に済むよう祈祷をさせた。

 その神官が、周瑜が生まれた時に輝く太陽の夢を見て、何か異様な気配を察したと、気になることを言ったため、兄に伝えたのだ。

 周異は螢祇の母が亡くなる前に、その話を彼女に伝え、先代とのことを話したのだという。

 

 彼女が先代の子を身籠った時に、宮中の神殿でその子の天運を占わせたのである。


 それは先代が密かに命じたもので、公にはならなかったが、密告した者がいた。

 占いでは、彼女の身籠る子供は、まさしく蒼天に蘇る太陽になる、と神託を受けた。

 これを密告され、宮中の女達の嫉妬を買い、彼女は宮中から逃れなければならなくなったのだ。

 周異は病で亡くなる時、この話を文にしたためて、周尚に託した。

 女達が口伝えにして来た、帝から与えられた首飾りの宝玉の埋めてある場所も、書かれていた。

 宮中を追われた女の末裔が、周家という名門の姫として生まれるに至った、そのことこそ、蒼天に蘇る太陽の指し示していたものなのだろうと思う。

 だから周尚は、周瑜を大切に育てた。

 彼女に物心がつくと、この話の最後を締めくくる者として、その話を聞かせたのだ。

 後は周瑜が、幸せな結婚をして、幸せな家庭を作って行ってくれれば、父母の想いは勿論、連なる女達の魂も十分供養されるように思ったから。


 ごく薄い、青い瞳が周尚を真っ直ぐに見つめて来た。


「今、周尚殿に話を聞いていただいた」


 孫堅が言うと、孫策は頷いて、深く頭を下げて来る。


「伯符どの。周瑜がお好きですか」


 穏やかな声で周尚が尋ねる。

 孫策の頬が染まった。

「……はい。好きです」

「二人が仲がいいのは知っていたが、伯符殿が周瑜を女として見ているとは思いもよらなかったので、驚きました」

「……はい」

 周尚はしばし考え込んだ。



「――少し、時間を頂けますか?」


 側にいた孫堅が密かに、息を呑んだのは、孫策も周尚も気づかなかっただろう。


「はい!」


 その場で拒絶されなかったことが余程嬉しかったのか、孫策が安堵した表情を浮かべた。

「ご存じの通り、周瑜には求婚話が他にも来ている。ここに直接来るだけではなく、本家の方などにも申し入れがあり、その中から吟味をせねばなりません。

 ですが、私は貴方の御父上である孫文台殿とは、古くからのお付き合い。

 物事の真偽を見抜く力を有された、非常に賢く強いお方だと、昔から信頼してきた」

 孫堅が小さく頭を下げる。

「それを踏まえて、周瑜には、それを私からお伝えしましょう。

 数日時間を下さいますか。

 客間を用意させますので、どうぞそちらでお泊りになって下さい」

 当主の部屋を父子で出て、孫堅は腕を組んだ。


「……妙だな」


「なにがだ?」

「数日くれなどと、思わせぶりなことをなさるなど……周尚殿らしくない」

「だから考えてくれてんだろ? 俺があまりにも真剣だから心を打たれたんだろうな」

 孫堅は呆れた。

「お前は……本当に、頑張れば世界の全てを望み通り動かせると思っておらんか?」

「そう思った方が、楽しいだろ!」

 孫策が駆け出して行く。

「こら、策。どこに行く」

「周瑜と遊んで来る!」

「会うのか。この話のことは周尚殿からお話があるから、お前から話してはならんぞ」

 分かってる~! と分かってるのか分かってないのか、よく分からない返事が飛んで来て、孫堅はやれやれと溜息をついた。






「……江東に、一つの国を打ち立てる……か」





◇ ◇ ◇




「なんで、今日はそんなに嬉しそうなんだ?」



 周瑜は庭を孫策と歩きながら、首を傾げた。

「ん?」

「なんだか今日の君はきらきらしてる」

「へへっ。そうか? 別に俺はいつもきらきらしてるぞ」

 孫策がそんな風に言うと、周瑜は吹き出した。

「そうだな……」

 優しい表情で、前を歩いて行く孫策の背を見遣った。



「君はいつも、きらきらしているな」






◇ ◇ ◇ 



 その日の夜、周瑜は周尚に呼びだされた。


「孫家から、お前に、婚姻の申し入れがあった」


 周瑜はきょとんとしていた。

 周尚はおや、と思った。

 孫策があれだけ熱を挙げているのだから、とっくに二人で盛り上がっているのかと思ったら、孫策は周瑜にそういう話はしていないようだった。

「孫家……孫堅殿の孫家ですか?」

「うん」

「……いま、あそこの屋敷で寝ておられる?」

 庭を挟んで、対面に立つ屋敷の方を指差して、周瑜が小首を傾げる。

「うん、そうだ」

「あの……孫家の一体誰が……」

 聡明な周瑜らしからぬ問いに、周尚は吹き出す。

「孫伯符殿を忘れたのか周瑜。しっかりいたせ」

 孫策の名前が出た瞬間、周瑜の目が輝いて、頬が紅潮した。

 随分遅い反応だなと苦笑しながらも、周尚は、その表情を見据え、周瑜も孫策を少なくとも憎からず思っているのだということは察した。


「意外だったかね」


 うん、と頷いてから、周瑜は訂正するように首を横に振った。

 孫策が、自分を好きでいてくれているのは知っていた。

 でもそれは友人としての想いだっただろうから、結婚を申し込まれるとは、思いもよらなかった。

 思いもよらなかったが、聞いた瞬間、自分でも驚くほど素早く、そうだ孫策がいたと思ったのだ。

 孫策なら好きになれる。

 自分の願いも理解してくれているし、

 彼の願いも理解出来る。

 こら、などとつい幼い頃からの癖で、妻らしからぬ口調で呼びつけてしまいそうな心配はあったが、それはきっと、一緒に暮らして行けば徐々になんとかなって行くだろう。



 ……孫策と一緒に暮らす。



 その言葉を考えた時に、その言葉があまりにも優しすぎて、幸せに思え、周瑜は思いがけず涙が一つ零れた。

 指先で拭き取ると、別の方の瞳から涙が零れる。

 周尚は立ち上がって、周瑜に歩み寄った。

「お前と孫策殿は、父親同士が仲がいいという事情で、幼少期から姉弟のように過ごさせて来てしまった。

 妻と夫になるという実感が持てなくても、仕方ない。

 孫家は、孫堅殿はとても立派な御仁だが、家柄としては周家に遠く及ばぬ。

 お前の一存で断っても何の問題もない。

 仲のいい友人が、突然自分を色目で見て来るのが嫌だという気持ちは分かる。

 もしそうなら、無理せずに言いなさい。

 私と文台殿で、この件は穏やかに……」

 初めて見た、周瑜の涙にそう声を掛けたが、彼女は大きく首を振った。

 とんでもない、というように、大きく否定をする。

 まだ涙が零れて来る顔を恥じて、伏せるようにして、小さい声で返して来た。


「……断らないで……」


 周瑜を見下ろす。


 ……彼女は本当に、母親に似て来た。

 似ているのに、螢祇と印象は天と地ほどにも違う。

 螢祇が静かな月だとすれば、

 快闊で、大らかで、少年のような行動力を持つ周瑜は太陽のようだ。


(太陽……)


 螢祇を初めて見た時、輝くようなその姿に感動したことを、鮮烈に思い出した。

 静かに目を閉じる。


「……断らないで、ください」


 周瑜は言った。


「伯符が私を選んでくれるなら」


 多分、自分の方からはそういう風には思わなかったように思う。

 今の関係でも、心地良くて堪らないから。

 別の男と結ばれるようにと命じられたら、悲しく思ったかもしれないが、それでも孫策との友情は続いていくと思えたし、信じられた。

 でも孫策が別の関係に向かって踏み出すなら、ついて行きたい。


 離れないように。



「私も伯符と一緒にいたい」



◇ ◇ ◇



「……いや、多忙な文台殿を三日も逗留させてしまって、誠に申し訳ない」



「はっはっは……いやどうか気にされぬように。丁度いい、休養になった。

 それに無理難題を言ったのはこちらの方だ。

 周尚殿のお心を煩わせることになったのだろうと思う。

 申し訳ない」

 二人の当主は、紫陽花の咲く広い庭を月の下、ゆっくりと歩きながら穏やかな口調で互いに話した。

「人の恋というものだけは……全く、推し量られるものではない」

「同感ですな」

「それで、例のお話ですが――文台殿。前向きに考えさせていただきたく思う」

 孫堅は振り返った。

 周尚は静かに微笑んでいる。

「……。婚姻を申し入れておいて、失礼な聞き方だと思うが、周尚殿。

 今の言葉は、聞き間違いだったのではないかと疑いたくなるような返答に思う。

 理由を聞かせていただければ有り難い。

 婚姻は祝事だ。少しの疑念も残したくない」

「意外でしたか」

「意外などというものではない。周家が孫家の婚姻申し入れに応えるなど、漢の国のどこに噂が流れても何があったんだとびっくりされるに違いないぞ。

 しかも相手は、良家の中の残念な器量悪というわけではない、今、江東じゅうの男の胸を騒めかせる周公瑾殿だ。

 噂が遠くて耳に入っておらぬだけで、あと数年もすれば更にお美しくなられ、洛陽からもお声がかかるかも知れぬ。

 いや、かかるであろうと、ここは言っておく。

 私とて、人の親。伯符が可愛くないわけではない。

 だが、人の身分の尊さというものには、真偽はあれども、真と見抜けばそれに手を出すことがどれだけ罪深いかは分かっているつもりだ。

 伯符は周瑜殿を大切にするだろう。

 昔からそうだった。

 だが大切にするにしても、宮中に行き、帝の御寵愛を承るようなことがあれば、その比ではない」

「そうでしょうか」

 周尚はまたゆっくりと歩き出す。

「女心というものは、男の勘定では推し量れぬものがありますよ。

 男にとって、帝に拝謁が叶うことは、誰にとっても喜びでしょうが、女はそうとは限らないこともある」

「ほう」

「帝にお仕えするより、愛する男の側にいたいなどと思うことがあるのが女というもの」

 孫堅は笑った。

「男には、訳が分かりませんな」

「そうなのです」

「周瑜殿はそんなに伯符が好きですか」

 孫堅は意外だった。

 確かに周瑜は孫策のことが好きなようだったが、傍から見てると姉弟のよう、などとは孫堅からしてみれば随分綺麗に言った方で、時々あの二人は自分に懐いて来る愛犬を可愛がる令嬢と、令嬢の周りを尻尾を振って駆け回る子犬に見えることがあった。

 もっと幼い頃、孫策が「公瑾さま」、「お嬢さま」と周瑜を呼んでいた頃は、周瑜は本当に孫策をいつも抱きしめて、可愛い可愛いと頭を撫でていたものだ。


 ……周瑜は聡明だ。

 そこらへんにいる女とは、物の見方が違うと、孫堅は思っていた。


 それを隠し通すほどに、周瑜は賢かった。


「ええ。心底惚れているようですよ」

「……。」


 周瑜は孫策の何に惚れたのだ。

 そんなことが気になった。


「周瑜には、話した時にすでに答えを貰っていました。お返事が遅れたのは」

「本家の方々とのことですな。それはそうでしょう。失礼ながら私ももし、本家の人間だったら、貴方にどうか考え直してくれと声を掛けるかもしれない」

「生憎、私は考え直さないことに決めました」

「周尚どの……」

「しかし文台殿、この婚姻に関して、そちらに飲んでいただきたい条件があります」

「無論、飲めるものなら飲みましょう」

 周尚は懐から、一通の文を取り出し、孫堅に差し出した。

 受け取って、文を広げ、目を通すと、さすがに孫堅の顔色が変わった。

 そこには、周瑜の出自の一切について書かれていたのである。


「周尚どの」


 声が震えた。

 周瑜は特別な子供だとは感じていたが、まさか帝の血筋が入っているとは思いもよらなかった。

 よるわけがない。

 孫家にとっては、周家の血でさえ、眩しすぎるほどなのだから。


「これは誠か」


「はい。それは亡き兄が書き残したものにございます」

 周尚は言って、何かを差し出した。

 それも受け取り、月の光に翳す。

「……美しい玉だ。模様が入っている。……これは……牡丹の花か?」

「先代は、牡丹の花を殊の外お好みで、ご自分の城の庭にもたくさんこれを植えられ……身に纏う装飾品にも、よく牡丹の花を、洛陽の工房に命じ彫らせたり縫わせたりしておられたとか。

 帝に献上する品に入れる模様には、みな型がある。

 それに工房の責任者には、その技が抜かりなく受け継がれ、同じものを作れない場合は、継承を許されない上に、模造品を作ることが出来ぬよう、指を切り落とされて工房から追われるほど、献上品というものはそれほど、厳しく管理されている。

 これを工房に持ち込めば、それは明らかになるだろう。

 しかし、それはこれが帝の持ち物かどうかの真偽が分かるというだけで、螢祇殿の母が御寵愛を受けた楽師であること、周瑜がその血に連なることの証明にはならぬ」


「……確かに、そうですな」


 気に入った楽師に自分の身の回りの物を与える。

 そんなことはよくあることだろう。

「周瑜が落胤であることは、この天に輝く月だけが真実を知っていること。

 今は大した意味はない。

 ですから私は、本家の人間にも、他の誰にも、この話は一切申し上げておりません」

 「……知れるとしたら、月以外には?」

「洛陽の宮中神官。

 螢祇殿の母君が身籠った時に、神託を下しました。

 それは記録に残っている。

 彼らの神通力が本当であるならば、周瑜の存在を[[rb:質>ただ]]せるでしょう。

 まぁ……質す意味があるかは、私には判断出来ませんが……、平定の世が続くならば、そのような神託にこだわる意味はないでしょう

 他はないとは思っていますが、何と言っても帝の血筋。万が一のことがあってはいけない」


「つまり、親心か。周尚殿」


「いかにも、そうです。

 私だけが、周瑜の真実の全てを知っている。

 本家の人間は螢祇どのを冷遇しました。

 周瑜を彼らに預ければ、彼らはここぞとばかりに周瑜を飾り棚の上に置いて、江東じゅうの求婚者を値踏みし、彼らの尺度で最も相応しいと思う相手を選ぶでしょう。

 その相手を周瑜が愛せるのであれば、それもいい。

 しかし今愛する人間が他にいるのであれば、そうして人を競わせる道具にされる間こそ、周瑜には苦痛でしょう。

 意味もない。

 私はあの子をもう苦しめたくないのです」


「周家の方らしい答えですな。

 持たざる者の孫家ならば、周瑜殿を使ってどうにか少しでも家の格をあげようなどと企んだだろう」

「厭味な言い方にはなりますが、私は家の格はもう十分です」

 羨ましいことだ、孫堅は笑った。

 文と、宝玉を、丁寧に周尚に返す。


「貴方にお願いしたいことは、周瑜のその素性については、一切表に出さず、ただ周家の娘として扱っていただきたいということ」

 孫堅は腕を組んだ。

「それは、不必要に、という意味に捉えてよろしいのですかな。

 そもそも秘密にしたい場合、私に言って聞かせる意味もない。

 貴方が口を閉ざしていれば、知る者は他にいないのだから」

「私は貴方を強く信頼しているのです。文台殿。

 都から遠い江東は未だ、情勢不安定。

 周瑜を託すならば、その全てを託したい。

 周瑜の夫になれる男は他にもいるでしょうが、周瑜の運命を正しい方へ導ける者は、さぁ……今の江東に何人いるか……。

 ……万が一、秘密がどこからか漏れた場合、周家では周瑜を守り抜けません。

 周家本家のものでさえ、それは無理かもしれないのですから。

 だから力ある者に。

 ――伯符殿は、貴方にとても似ておられる」


 つまり、単純な求婚者選びをして、万が一その後に周瑜の出自が明らかになった時、不測の事態が起こることを周尚は案じているのだ。

 その中でも、特に周瑜の血が悪用されることを何より恐れている。

 ただ、悪を打ち倒すやりかたには、正しいものを新たに突き立てるというやり方もある。


 ――袁家。


 孫堅の脳裏に走った直感はそれだった。

 この古い血筋を継ぐ、当主の一人である男が危惧する、悪しき予感の一つ。

 袁家が江東に祟ると、周尚は読んでいるのか。

 もし、袁家が動いた時……止められるものは限られている。

 周家もその一つだが、しかしもし、周家に何かあった場合の、これは布石か。

 周尚が周瑜を本家に託さなかったのは、やはり彼らを信頼していないからなのだ。

 他の周家も、同じようなものなのだろう。

 周尚は周瑜を、周家から切り離したかったのだ。

 周家という立場から、おおよそ一番かけ離れた所に、周瑜という宝玉を隠した。

 隠れ蓑というわけだ。

 確かに成り上がりで格のない孫家は、よい隠れ蓑になる。


「だがもし、孫家が周瑜を悪しきことに利用するようなことがあれば、それは私が貴方を信じていた目が曇っていたということですから、そうなった時は私も覚悟を決めましょう。

 この話を、ある友人たった一人には告げておきました。

 今、貴方に話したことと同じことをです。

 周瑜を嫁がせた孫家がもし、悪しき物事に加担し、周瑜の存在を利用して、世の乱れを煽るようなことがあったとしたら、その時は貴方と孫家を斬れと伝えてある」

「なんということを命じてくれたんだ周尚殿」

「でも貴方は私にそのようなことはさせないでしょう?」

 にこ、と周尚は微笑む。

「不愉快かもしれませんが、これは我慢してください。こちらも周瑜を悪用されるわけにはいかない」

「その友人というのは、誰なのか、教えていただけないわけだな?」

「その方が緊張感が保てる」

「そんな緊張感いらんのだが……。いざという時私を斬れるというくらいだから、武門か?」

「さぁどうでしょう?」

「私の身近に潜んでいるのではあるまいな。私と貴方の共通の友人か?」

「さぁ……」

「気になるではないか……どいつもこいつも信用出来なくなって来る」

「とても見識の正しい、冷静な方です。見誤ることはないでしょう」

張昭ちょうしょうの顔が今浮かんだぞ」

「フフ……」

「張昭はいかんぞ! 周尚殿。あいつはたまに俺が庭で大の字で寝ているだけで殺し屋のような顔をすることがあるのだぞ。全然中立じゃないぞ」

「私はこの目で貴方を信頼した。同じ目で選んだ人を、貴方にも信頼していただく。

 周瑜を孫家にお任せするにあたっての、これが条件です。

 飲んでいただけないのならば、私の目で吟味した、ほどよく血のいい、温和そうな青年でも選んで周瑜を嫁にやりますが」

「……お断りする術、なさそうですな……」

 周尚が笑って、歩き出した。

「ところで周尚殿、基本的なことを聞いて申し訳ないが。この話、貴方と私で話が通っても本家の方々の耳に入れば……」

「ええ。すぐに妨害工作が行われるでしょうな」

「ではどうされる?」

「簡単なこと」

「ほう、さすがは聡明な周瑜殿の叔父どの。周家の秀才には、もう手立てが浮かんでいると」

「妨害を挟む隙もないほど、全てを整えてしまえばいいのですよ」

「すべてを?」


 「そう。全てをです。

 貴方からいただいた、三日。

 三日で私は全ての準備を終えました」





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