第3話
「幸せに、なりたくないわけじゃない。
でも、それでいいのか、……すごく不安になることがある」
周瑜の寝室の寝台に、幼い頃のように一緒に横になって、靴も履いたまま、抱きしめて、話を聞いた。
周瑜はしばらく涙を流したまま押し黙っていたが、やがて話し始めた。
この一年、胸の中で育てて来た不安のこと。
周瑜にとって、<闇討ち>は自分自身に流れる本当の血の、意義を問うことだった。
自分の存在理由を。
周家の周瑜としてただ生きれば、ただ、幸せになれる。
だが漢王室の血が流れる者として生きることは、人々の苦しみに同調することだ。
幸せになることとは正反対で、痛みや悲しみを真摯な目で見つめること。
男なら、戦い首級を挙げればそれは戦功になる。
平たく言えば人殺しでも、戦功と思えば慰めにはなる。
だが周瑜が相手にしているのは、名のある武将ではない。
巷に現われて、小遣い稼ぎ、一時の出来心、そういう下らない理由で平穏に生きている民衆を襲う、正真正銘の悪人だった。
どれだけ殺しても小さな悪というものは無くならないし、それでいて大した戦功にも数えられない。
周瑜は果てのない戦を、たった一人で始めてしまった。
「君に、この話をしたら、叱ってもらえるかなと思った。
だから話したくて」
孫策はそっと、周瑜の肩を優しく覆う、彼女の髪を撫でた。
触り心地がいい。柔らかくて、糸のように指先に細い感覚を覚えさせる。
「……でも、上手く喋れなくなってしまったから、それも、少し悲しくて」
「やっぱ俺のせいも入ってるじゃねーか……」
孫策は溜め息をついた。
最悪だ。
周瑜を泣かせるなんて。
「残念だけどな。公瑾。俺はお前を叱らねーぜ」
周瑜が正面に向き合って寝そべる、孫策を見た。
まだ、当然胸はざわざわとしたが、もう瞳は逸らさなかった。
「……覚えてるか? 数年前、俺が、帝と他の豪族は同じだって話をした時、この話をすると、おふくろも、張昭も、みんな俺のことを怒って、ぶっ叩くって言ってさ。
でもお前だけは、俺のこと怒んなかっただろ」
周瑜は少し思い返すような顔をしてから、こくん、と小さく頷いた。
「俺だって別に、相手怒らせたくて言ってるんじゃねーんだ。
ただ不思議だって思うから、それを素直に言ったまでのこと。
それでそんな怒られても、正直、戸惑う。
そういうものの見方だってあるって、そんな風に言ってくれて、怒んなかったのはお前だけだった。
……だから俺もお前を叱んねえよ。
お前が、幸せになるのが嫌だなんて思ってる馬鹿じゃないのは、とっくに知ってる。
お前が考えてるのは、もっと深い所にいつも意味があった。
だから今回も、そうなんだよ。
幸せを否定しているわけじゃない。
でも、<闇討ち>はお前が見つけた、自分の存在理由なんだ。止めたら、自分自身と向き合えなくなる。
……それが不安なんだろう。
お前は自分の血の意味を知った時に、孤独感が慰められた、って言ってた。
血の意味を失ったら、また孤独になる。
そう思ってるんじゃないのか」
孫策の言葉を聞きながら、周瑜はもう一度頷いた。
(そうか、私は、また孤独になるのが怖いのか)
(……そうか。こいつはまたそこに戻るのが怖いんだ)
同じ答えに、辿り着く。
孫策は周瑜に手を伸ばした。
孤独になんかならないのに。
自分は、ずっと共に戦ってやるとあの時周瑜に誓った。
それは今も変わっていない。
自分なら、例え結婚したって、周瑜を孤独になんかしない。
何故なら、結婚しても自分なら、周瑜の本当の心をもう知ってる。
だから共に戦ってやれる。
周瑜が心を隠すことは無い。
少なくとも、結婚することが、心を隠さなければならない理由にはならないはずだ。
さっきよりも少しだけ、目を閉じて眠りについた周瑜の表情は安堵しているように見えた。
孫策は慎重に身じろいで、毛布を自分と周瑜の身体にそっと掛けた。
毛布の下で、そっと身体に腕を回す。
柔らかい。
細くて、心許ない。
周瑜はこんな体をしていただろうか?
でもなんだろう、もどかしい切なさが胸に込み上げて来る。
周瑜が不安じゃなくなるまで、ずっとこうしていてやりたかった。
(ずっとこうして)
額を寄せる。
(お前の側にいてやりたい)
◇ ◇ ◇
「親父~~~!! 周家行って来る」
「もはや行くでないという言葉も言うの飽きたわ。」
孫堅が黄蓋と真剣な表情で碁を打ちながら、冷たく返した。
だが孫策は全くへこたれない。
「おう! んじゃ行って来るな!」
「近々、袁術殿から討伐命令が下りそうだ。遊びもいいが、戦になるから準備しておけ」
「おれ、あんまあいつ好きじゃない」
「たわけ。好き嫌いで主君筋に返事が出来たら苦労せんわ」
「今度は江東か?」
「まあそうだろうな」
孫策はひとまずホッとした。
江東なら今までのように、そんなに長い遠征にならないだろうと思ったのだ。
定期的に本拠地であるこの富春に戻れるなら、舒にも行ける。
例え夜を継いだっていい。
今は出来る限り、周瑜の側にいたかった。
共にいて、改めて、孫策は洛陽の話も、帝の話も、周瑜に聞かせてやった。
『親父から聞いたから、もう真新しくもないかも知れんが』と前置きをした上で、長江周辺域を転戦した話もした。
周瑜はとても喜んでくれた。
『君と孫堅様では、また物の見方が違う。だから同じ話を聞いても、同じじゃない』と言って。
一年離れていたから、話すことは山ほどあった。
周家の家の者がいい顔をしないので、周瑜の部屋に庭から上がり込んで、幼い頃からのように夜は寝台に一緒に潜り込んで、手を繋いだり、抱きしめ合って寝たりもした。
周瑜と手を繋いで寝台に横になっていると、孫策は無性に幸せな気持ちになることがあった。
だから今は、出来る限り共にいたかった。
いつかそう出来なくなると思えば、尚更今が大事だ。
「どのくらいの遠征になる? 二週間くらいか?」
「はっはっは! 子供の使いじゃあるまいし。寝ぼけておるのか?
俺の読みが正しければ、袁術殿の狙いは
腰を据えて戦をするぞ。早くて一年。二年かかるか? 黄蓋」
「一年でも二年でも、百年でも。地の果てまで殿の戦にお付き合いしましょうぞ」
「暑苦しい極みだな」
「わはは! 暑さで手元が狂っておられますぞ、殿」
「なに」
にねん……。
孫策は一瞬、予想だにしなかった数字について行けなかった。
ぽかんとして立ち尽くし、そこできゃっきゃと笑っている二人の大人を見つめる。
「権を連れて行くかどうか、悩んでおる。まだ早いか? どうかな……」
「孫権殿は、若いながら、なかなか泰然自若とした落ち着きがあられる。殿のお子らしからぬ」
「らしからぬは余計だ。――策、兄の視点からお前は権をどう見る。一緒に戦場に連れて行ってもいいかそれとも、」
「ど!!! ええええええええええっ!!!!?」
孫策は遅れて、大声をあげた。
孫堅と黄蓋が何事かと振り返る。
「二年てなんだよ親父!!!」
「二年は二年だ。七百三十日だ。なにか文句があるのか。なんだそれとも三年がいいか。それとも一年で呉郡攻めを完成させる策を吾輩が申すか? いいぞ。言ってみよ」
「二年も経ったら……!!」
孫策と周瑜は同い年だ。
つまり、二年経ったら孫策は十四歳になる。周瑜もそうなる。
周瑜はたった一年であんなに綺麗になった。
二年経って、十四歳になったら、きっともっともっと綺麗になる。
そんなことになったら、周囲の男達が放っておかないはずだ。
絶対に二年で戻る前に、周瑜は誰かに貰われてしまう。
孫策は本当に身震いがした。
そんなの、絶対に嫌だ。
戦地から戻って来たら、周瑜が誰か別の男と結婚して、別の男の手を握り、別の男と抱き合って寝るようになっていたら、絶対に絶対に嫌だ。
「ふん。ろくに城攻めの策も立てられぬドラ息子が俺に意見するなど百万年早いということだ」
「あんまり御子息を苛めてはいけませんぞ、殿」
「む。ちょっと待て
「ちょっと待ては禁止ですぞ文台殿。それともなんですかな。素直に公覆に降伏いたしますかな? ぬあっはっはっは!」
「たわけ、この孫文台、降伏などまだまだせんわ」
「親父――――ッ!!」
「五月蝿い。ドラ息子。そんなに叫ばずとも聞こえておるし、俺はとっくにお前の親父だ」
「今すぐ周瑜と結婚させてくれ!!!」
二人の男がもう一度孫策の方を見た。丁度、側の茶を口に含んだ瞬間だった孫堅は数秒後、ぶう! と茶を吹き出した。
「ぬ! 文台殿、劣勢だからといって水攻めとは卑怯な……」
正面から茶を顔に浴びせられた黄蓋が衣の袖で濡れた顔を拭いている。
げほげほと咳をして、孫堅は立ち上がり、自分の吹き零した茶を側の布で拭きながら、ようやく息を付いた。
「突然何を言うのかと思えば……周瑜殿と結婚させてくれだと?
はっはっは! 策! なんだ。公瑾殿に惚れたのか。あんなに俺は周瑜になんか興味はないぜいという顔をしていたのに、結局、それか。情けのない奴め」
孫堅は笑っている。
黄蓋も一瞬は目を丸くしたが、今は穏やかな表情で目を細めていた。
「美しい娘御になっておられましたからなぁ。私も、あの方はこーんな小さな頃から存じ上げているから、驚きましたが」
一通り拭き終えて、孫堅は椅子に座り直し、その上に胡坐を掻いた。
「残念ながら、それはならん。焦がれるだけにしておけ。策」
父は全く相手にしていない。
「なんでだよ!!」
「あれはお前には高嶺の花だ。手など届かん」
周瑜の、柔らかい手の平を思い出す。
周瑜の手は、手の甲の方はすっかり綺麗になって女らしくなっていたが、手の平の方は相変わらず剣の修錬で作るマメや傷があった。
それでも、柔らかみを帯びた、女の手になってる。
ちゃんと、手は届く。
「ちゃんと手は届くぞ!!」
「まだ分からんのか。今は、向こうが手を差し出してくれるから、辛うじて届いておるだけだ。
周家と孫家の家柄の違いは、お前が今より鼻ッタレだった五歳の頃から言い聞かせておるだろうが。
幸せな結婚とはな、釣り合いの取れた家同士で行われるものなのだ。
周家は帝の一族と婚姻出来るほどの家柄なのだぞ。孫家は江東の新興豪族に過ぎん」
「釣り合わない釣り合わないってもう聞き飽きた!
釣り合わない豪族だって四百年前はその新興豪族だったんじゃないのかよ!!」
ついに孫策は父にもそう言った。
軽はずみな気持ちではない。
拳骨を食らう、決死の覚悟だ。
黄蓋は腕を組み、父子の遣り取りを興味深そうに聞いている。
「そんな風にいつまでも言ってて、家は大きくなるのかよ!
親父にだって大望はあるだろ!
いい家柄の女を貰えば、家の格があがるんだろ!
じゃあ周瑜を嫁に貰ったって、孫家は別に損するようなことは何もないじゃないか!」
「確かに周家の嫁など、貰ってみたいものだ。
だが、周家が孫家など相手にせん」
「周瑜は俺のことを好きでいてくれている!!」
「それは子供の頃の話だろう。それか友情の話だ。結婚はそれとは全く別だ。未熟者が」
孫策は地団駄を踏みたくなった。
全く話が通じない。
違うのだ。
子供の頃も、周瑜とは好き合ってる。
友情だって、ある。
でも、いまだって好きだ。
あの夜から、感じている。
周瑜から、そんな焦がれるような視線を感じることは無いけど、でも変わらず自分のことを好きでいてくれてるのは分かる。
自分が好きだ結婚してくれと言ったら、周瑜は頷いてくれる気が孫策にはした。
「周瑜は絶対頷いてくれる!」
「周瑜殿と呼べと言っているだろう。策、そういうところはお前の美点でもあるが、同時に欠点でもあるぞ。
この世で自分の手に入らないものなど無いと思っているのであろう?
だとすれば、一番最初にそれを思い知るべきが周瑜殿だ。
それは即ち、地に這う生き物が、空を飛び回る鳥を欲するようなものなのだ」
「周瑜は空を飛び回る鳥なんかじゃない。俺と同じ、地を這う生き物だ。幸せな結婚をしなくちゃいけない女なんだ!」
「ほう。お前は周瑜殿を幸せにする自信があるというのか」
「あるぞ」
「まだ青二才のくせにどこからその自信が湧いて出て来るんだ……」
「この世で俺より周瑜を愛せる男なんかいない!!」
黄蓋は優しい表情で、必死に食い下がる孫策を見ていた。
「孫策どの。若君のお気持ちはこの朴念仁にも伝わって参りましたが、周瑜殿はどうですかな。若君と同じお気持ちか?」
「同じだ。俺が抱き締めた時、とても嬉しそうな顔をしてた」
「おまえ、いつの間に周家の姫に手を……」
「はっはっは! さすがは文台殿の長男だのう! まったく、恐れを知らん」
「とにかく、周家に親父から結婚を申し入れてくれよ!」
「無駄だと言っておるだろうが。相手にされんわ」
「周瑜が俺を選んでくれれば、何の問題もないんだよ!」
「たわけ。いいか、豪族の結婚とはな。平民のように何もかも二人で決めるというわけにはいかんのだ。周家は名門とは申せ、古くから俺達のような武門と組んで、自分たちを守らせる形で領地を守って来た。
領地を守るということは、江東の、色んな豪族の思惑と向き合うということなのだ。
結婚は家と家を結び付けるもの。
だからこそ周尚殿は、周瑜殿の結婚に慎重なのだ。
下手な結婚をすれば、要らぬ蛇の巣を刺激することにも繋がりかねんからな」
孫堅は言ったが、孫策はひるまなかった。
「そんなこと分かってるぞ! でも孫家は伝統も格式も全くない家なんだから、別に周家と結びついたって、脅威だなんて思う豪族はどこにもいないはずだ!」
「むっ……。妙に鋭い所をついてきおって……。格式はともかく伝統くらいは我が家にもあるわ! 失礼な!」
黄蓋が父子の遣り取りを笑って聞いている。
「お前が申しているのは孫家の言い分ではないか。
周家はどうだ? 孫家と結びついたって、向こうは何にも得るものがないだろう」
「俺が夫になれば、周瑜が幸せになる!」
「だからどこから来るんだお前のその自信過剰は……。周瑜殿がお前に夫になってくれと言ったのか。きちんと。あの方の口から」
孫策は赤面した。
周瑜からそんなことを言われたら、嬉しくて多分胸が破裂すると思う。
「言われてないけど、言われたら嬉しいぞ」
「お前の気持ちなど聞いておらん。お前が言っておるのは口約束ですらないではないか」
「んじゃ、今から周家に行って、周瑜に求婚して来る。
周瑜がいいって言ったら結婚していいか」
「おまえ、私の話をきちんと聞いていたか?」
孫堅が半眼になる。
「周家の結婚は、周瑜殿の一存では決められん。ましてや孫家の子倅の一存など雀の涙ほどの価値もないわ。そんなことも分からんのならお前はそこでずっとチュンチュンチュンチュンと鳴いておれ」
「だれが雀の涙だ」
「周瑜殿の結婚は、当主たる周尚殿がお決めになる。
そして、それも、本家や近隣の分家の当主が寄り合って、この相手はどうか、と吟味してお決めになることだ。
孫家の名前など出たら、鼻で笑われるわ」
「笑われるのが怖いのか、親父」
孫策が父親を、正面から見据えた。
「俺はどれだけ笑われたって、周瑜が俺のものになってくれるなら、痛くも痒くもないぞ。
孫家が笑われる?
笑わせておけばいいだろ! 人を家柄で判断して笑う奴らなんか!」
孫策は強い表情で、声を張る。
「孫家に格が無いって、いつまで言い続けるんだ?
豪族の起源だって、みんな、何も無い所から始まってる。漢王室だって、それは同じはずだ!
家や国が興る前は、みんな大したこと無かったはずだし、何も持ってなかったはずだ!
なんでそれを孫家だけが恥じなきゃいけないんだ。
親父は孫家の当主だろ!
俺が、志の低いことを言って、それを叱るなら分かるが、俺はいい家柄の女を嫁にしたいと言ってるんだ。普通、よく言ったって褒めるのが当主の役目じゃないのかよ!」
孫堅はそこで初めて、腕を組み、孫策の話に興味を持ったようだった。
「――ふむ。一理はあるな。
では伯符。
お前は志と言ったが、お前の志とはなんだ」
「親父の志ってなんだよ」
「お前から申せ」
「親父が言えよ!」
「……私は今回の遠征で、帝より新しいお役目をいただいた。
まずはそれを成し、それ以上のことを成し、帝に御信任を頂くこと。
洛陽の高貴な血が、何か守り手を必要だと思った時に、まず、孫家を呼べば守ってくれる、どうにかしてくれる、そういう風に思っていただけるように、忠義を尽くすことだ。
帝に対して忠義を尽くすことはな、策。
周家がするも、孫家がするも、全て平等で、家柄の優劣などそこには全く関係ないのだ。
天帝の一族は、我らの遥か高みにおわすのだからな。
嬉しいことだろう。
最も美しい忠義と、迷いない武の高みのみが、問われる。
それに孫家がなれるのならば、家の格など、いずれ自ずとついて来るもの。
分不相応の結婚などして、高嶺の花を手に入れたとして、仮初めに名声を高めてもな、いずれ中身のないようになって行くのだ。
俺はそれは好かぬ。
例え荒野に一人投げ出されたとしても、名に頼らなければ生きていけないような人間にはなりたくない。
名より実を磨くのだ。
それを孫家の伝統にする」
「……。」
「初めてだな。お前にここまで話すのは」
「うん……。」
「これが父の志だ。――ではお前の志を申せ」
「おれは……」
孫策はしばし逡巡してから、しかし顔を上げた。
「俺は江東を平定する!」
「ほう、江東を」
「江東を平定して、豪族たちを束ね、江東に大きな国を一つ建てるんだ!」
幼い頃から、周瑜にだけ話して来たこと。
周瑜は目は輝かせて聞いたが、嗤ったことは一度もない。
大変な夢だな、と言ったが、荒唐無稽だとは言ったことが無い。
何故なら。
さすがに目を丸くした父親たちに向かって、孫策はもう一歩前のめりになった。
「出来なくはないはずだぞ!!
だってあの袁術が、いまは三郡太守だろ。
郡を束ねて行けば、もっと大きな一つの形になるはずだ」
「袁家は名門だ。袁家が統治者になると、民は安心するのだ。だから三郡を束ねても他の有力豪族が黙っている。
孫家がもし三郡太守になってみよ、もっと攻め手に出てくるつもりだなどと警戒されて、方々から攻撃を受けて終わり……」
黄蓋が思わず、言葉を止めた孫堅を見た。
孫堅が息を呑んだのが分かった。
孫策は頷く。
「――――だからこそ、周瑜が俺には必要なんだよ!!」
明るい瞳で彼は言った。
袁家と周家なら、確かにいずれも劣らぬ名門だ。
漢王室と古くから繋がりがあり、朝廷で最高位の官職を、どちらもが戴いたことがある。
つまり袁家が出来ることは、周家も出来るということなのだ。
自ら、それを今、口で説明してしまった孫堅は押し黙る。
黄蓋も、口を挟まず黙っていた。
「……――伯符。おまえ……その話を周瑜殿にしたことがあるか?」
孫策は頷いた。
「今言った、そのままをか」
もう一度頷く。
孫堅は考え込んだ。
孫策は焦れる。
なんだかこうしている時間にも、周瑜が誰かのものに決められてしまいそうな気分になって来る。
「周瑜殿は、今の話を周尚殿にしたと思うか?」
「周尚殿?」
「ああ」
孫策は首を振る。
二人だけの夢の話だ、と約束した。
周瑜に流れる血のことも、孫策は、父にも話していない。
周瑜が、孫策の夢の話を、周尚に話しているはずがない。
それは信じられた。
「確かか?」
しつこく聞かれて、孫策はムッとした。
「周瑜はおしゃべりな女じゃない! こういう話を、誰も彼にも、気安く話したりはしない!」
孫堅は胡坐を崩して座り直した。
「……いい返事だ。恋情はともかく、確かにお前達は互いを信頼し合っているようだな」
「え?」
黄蓋は孫堅の顔を見ていた。
盤上を見ているが、別のことを考えている顔だ。
それに、先ほどまでと、纏う空気が全く変わっていた。
実際の戦場に立っている時の顔である。
戦の天才と呼ばれる孫文台の、策謀を張り巡らせる時の顔だ。
しばらくして、孫堅はおもむろに立ち上がった。
「……いいだろう。お前の気持ちはよく分かった。
これから周家に行くゆえ、供をしろ」
孫策は怪訝な顔をしている。
通り掛けに、孫堅は息子の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「そんな顔をするな。周尚殿に、周瑜殿との結婚のこと、父から申し入れてやる。
まぁ、相手にされんと思うがな。
それでも押し黙るよりは、いいのだろう? おまえは?」
孫策は頷く。
息子を目を細めて見遣り、孫堅は笑った。
「少し背が伸びたな。策」
父親が出て行くと、孫策はパチパチと目を瞬かせる。
「早く、支度をなされよ。若君。
侍女ではなく、御母上に、周家に御父上の供をするから、服を選んでもらうようにと、黄蓋に言われたとお伝えなさるように。
こういうことは早い方がいいのだ」
孫策はようやく意味が頭の中で追いついた。
父親が、周家に婚姻を申し入れてくれる。
全ては周尚が決めることだと言いながらも、孫策は、父がそうしてくれるなら、絶対に叶うはずだという強い確信があった。
なにより――周瑜の耳に入れば、きっと喜んでくれる。
「あははは! やった! やったぞ黄蓋! 初めて親父に押し勝った!」
飛び上がって喜んだ孫策を、黄蓋が目を細めて微笑ましそうに眺めている。
「きっと権に言っても、香凜に言っても、朱治も韓当も信じてくれないぞ! お前が証人だ」
「うむ。孫策殿の大望を、殿はしかと、見極められたのだろう」
「これで周瑜を娶れる!」
「さぁ、早く支度を。負け戦に向かわれるといい。若君の骨はこの黄蓋が必ずや拾って差し上げますからな。華々しく散って来られい」
「俺は負け戦などせん。それに、骨なら、周瑜に拾ってもらう!」
孫策は嬉しそうに駆け出して行った。
黄蓋が声を立てて笑った。
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