第2話
「ん? なんだ。策はどこへ行った」
翌日、起きて居間に出て行くと、集まった家族の中に孫策の姿だけがない。
「兄上は周家に行って来ると朝方飛び出していきました」
「あいつは~~~~全く落ち着きのない……! 明日にも舒には連れて行ってやると言ったというに……突然行っては先方には迷惑だろ……」
耀淡はもう諦めたらしい。
「許して差し上げて下さいな。一年周瑜殿と離れていて、寂しかったのでしょう」
「家族も一年離れておったではないか」
「家族は死ぬまで家族ですもの」
耀淡が末の娘である香凜の頭を優しく撫でながら笑っている。
「それはそうだが……」
「周瑜殿と一緒にいられるのは今だけですわ。策もそれは感じているのでしょう」
妻がそこまで言うと、孫堅は溜め息をついた。
孫策が今、感じているであろう気持ちは、彼もかつて、感じたことがあり、理解出来たからだ。
「……まぁそうだな。策は周瑜殿に友情を感じているから、尚更寂しいのだろう。
昨日も周瑜殿の結婚の話をした時、捨てられた子犬のような寂しそうな顔をしておったわ」
「まあ。周瑜殿はご結婚が決まったのですか?」
「いやそうではないが、遠い未来の話ではあるまい。
名門周家と結びたいと願う豪族は山ほどいるし、周瑜殿はあの歳ですでに美姫と名高い」
「フフ……」
突然笑った耀淡に、孫堅は首を傾げる。
「なんだ突然不気味な笑い方をして……」
「いいえ。貴方が『策は周瑜殿に友情を感じている』と仰ったから、おかしくて」
「? 子犬のようにじゃれ合っておったではないか」
「果たして友情は友情のままで済むかしら……」
孫堅と孫権が含み笑いをした耀淡に、目を瞬かせた。
◇ ◇ ◇
舒についた。
小高い街の外れに、舒城が見える。
舒の周家の屋敷は、またそれとは別だ。
舒の周家当主の周尚は丹陽太守であり、舒城と丹陽城を所有しているが、本家は臨海にあり、古い血筋の一族なので、それ以外にも分家筋が各地に領地などを持っている。
ただ、周家は古き時代から朝廷に仕えて来た優秀な政務官であるため、自ら兵団を抱え持っておらず、武門と同盟を結ぶことによって、自分たちを守らせるという方法を取って生きて来た。
だからこそ、各地に散らばり、広い視野で見てみれば一大勢力になる周家が、武門のように危険視されず各々が各方面で重用されているという背景がある。
孫家は富春から軍勢を挙げるにあたって、まず、周家の護衛兵団として世に名乗りを上げたのだ。
孫策は舒城ではなく、街中にある、広い周家屋敷に向かった。
「こんにちはー!」
正門の前で馬から飛び降り、入ろうとすると、衛兵二人が槍で前を遮った。
「ご用件をお伺いしましょう」
孫策は二人の顔に見覚えがあった。
「いや……俺、孫策だけど……」
幼い頃からここには通っているし、父親がここの護衛をしていた頃は一緒に住んでいた。
何をいまさらという感じだ。
「俺、そんな変わったか?」
自分の全身を見てから首を傾げる。
「……孫伯符殿ですね。どのようなご用件でしょう」
孫策はさすがにムッとした。
「周瑜に会いに来たに決まってんだろ?」
「……。では、一度お伺いして参りましょう」
(お伺いだあ?)
本当に一人、その場から去って、残った一人も白々しい顔をして孫策を無視している。
周家は孫策にとって、過ごしやすい場所だったから、尚更一年留守にしたうちに、そんな対応をされて、不満に思った。
いくら天下の周家だからって、人として失礼だろ! と思ったが、そこはぐっと堪える。
孫策は無視されたので、馬に乗ったまま、塀伝いに去って行き、諦めたように見せつつ、曲がり角を曲がって、曲がった所で馬の背から塀に飛びつき、行けそうだと判断した所を見計らって石壁の間に指を挟んでよじ登った。
通りかかった子供に「よじ登ってる~!」と指を差されたが、「しーっ! 静かにしろよっ!」と叱り付けて、彼は身軽に壁をよじ登り、邸宅の中に入ってやった。
この一年、敵の船によじ登ったり敵の砦によじ登ったりしてきたのだ。平和な舒に門を構える周家の塀なんか、屁でもない。
ちょろいもんだぜ、とほくそ笑みながらも、いつも孫策が来ると、どうぞ、とにこやかに招き入れてくれたというのに、どうしたんだろうと思った。
周瑜の結婚の話を聞いた。
要するに、「年頃になったのだから」という例の話題だ。
孫策には、幼い頃から兄妹のように育って来たのに、年頃になったから何故、関係を改めなければならないのかが全く分からない。
周瑜が改めて欲しいと言うならまだしも、周囲が、孫策と周瑜の友情も理解せず「そうするべき」などと言って来るのは非常に腹が立った。
(けど)
孫策は立ち止まった。
(……周瑜がそうして欲しいと、思ったのかな)
自分も年頃だから、気安く訪ねて来られてもすんなり会わないようにしたいと。
身分の高い家の令嬢というものは、そういう所は確かにあった。
周瑜もこの一年で、考え方が変わったのだろうか?
結婚を考え、
もう武器を持つことは止め、
気安く会うことも止め、
…………そうして、周瑜は一体、どんな人間になりたいのだろう?
孫策が周瑜に初めて会った瞬間というのは、二度ある。
五歳の時周家で、周尚の『甥』だと男の格好をした周瑜に引き合わされて、「お前がこの方を御守りするのだ」と父親に命じられ、「
もう一つが――数年後、舒の周辺で起こっていた襲撃事件を父に命じられて追っていた時、本気で斬り合った時だ。
その時にはもう、周瑜は自分が女であることも理解していて、何故それを隠さなければならなかったのかも理解していて、……自分の使命に目覚め、「ただ黙っていてくれるだけでいいから、味方になってくれ」と、必死に訴えて来る姿に、ただ孫策を抱きしめて可愛がっていたあの『少年』はもういなくなったのだと、新しい周公瑾という人間に出会ったような気がしたのだ。
そしてあの気の合う少年がいなくなってしまったという寂しさよりも、女とは思えない行動力を持ち、勇敢で、気丈な少女の出現を嬉しく思う気持ちの方がずっと強かった。
それに、完全に周瑜の中の『少年』が消えたわけではない。
今でも時々、『彼』は周瑜の中にいる。
だから孫策は周瑜と遊ぶのが好きだった。
女だけど、友達のように対等だと思えるのはこの世で周瑜しかいない。
(あいつも、本当に消えて、いなくなって)
周瑜は別の人間になろうとしているのだろうか。
それを、孫策はまた好きになれるだろうか?
「――伯符?」
声が降って来た。
孫策は自然と顔を上げていた。
二階の渡り廊下を足早に通り過ぎようとして、庭先に孫策を見つけたという様子だった。
夜色の長い髪を背に垂らし、少しだけ髪を耳の後ろから結い上げ飾り紐で結んだ姿で、目に鮮やかな、
孫策が呆気に取られた顔をして立ち尽くしていると、数秒見つめ合った相手は、少年のような明るい笑顔で笑って、回廊の壁に身体を預け、こちらを覗き込んで来た。
「珍しい青い目の子犬が、どこから迷い込んだんだ? 私が可愛がってあげるから、こっちにおいで」
幼い日のいつか、同じような状況で掛けられた言葉を思い出して、孫策は衝撃を受けた。
「周瑜―――――――――ッ!!?」
◇ ◇ ◇
(嘘だろ……)
孫策は、周瑜の部屋に通され、侍女が持って来た茶を受け取り、自ら淹れてくれている周瑜を伺いながら、さっきから同じことばかりをぐるぐると考えていた。
ちらちらと気になって周瑜を見てしまうが、彼が、――違う、彼女が、こちらを見ると、何故か分からないが直視出来ないのである。
帝の前に召し出されても一切緊張しなかった、恐れ知らずの孫策がだ。
理由は分からないが、とにかく見つめ返せない。
(いや、理由は、分かってんだけど……)
周瑜は何かを話していたが、全く頭に入って来なかった。
周家らしい、美麗な食器に茶を注ぐ手を眺めたりもしてみた。
細くて、白くて、爪の先まで美しい。
周瑜は顔はいつの時代も可愛かったが、手だけはいつも泥に汚れたり傷があったりして、男のような手をしていたのに、今は、女の手だ、と思った。
綺麗になったのだ。
周家の令嬢になって、どうするんだよなどと思っていたが、紛れもなく目の前の周瑜は周家の令嬢以外の何にも思えず、そのことにも戸惑ったが、それ以前に、記憶に残る周瑜と目の前の周瑜が別人過ぎて、戸惑う。
すらりと伸びた身長は、どうだろう、もしかしたら孫策よりも高くも思えた。
一年前別れる時は、寄せ合った額がぴたりと苦も無く合った。
その時より孫策は十センチほどは伸びたのに、周瑜はもっと伸びている気がした。
髪は、「出来る限り短くしたい」なんて、肩から下に伸ばしたことが無かったのに、今は腰のあたりにまである。
綺麗な髪だった。
夏の夜みたいな色だ、とこの一年、船の上での生活も長く、夜は甲板に寝転がって、空をよく見上げていた孫策は、自然とそんな風に思って、思ったことを意識して赤面した。
女に対して「夏の夜みたいな髪だ」なんて、どこぞの気障男のようじゃないか。
顔は……。
顔はもう、見れない。
一瞬庭先で見上げた、その顔が脳裏に張り付いて、何がどこに配置されているから美人なのかなど、孫策に分かるはずがない。
ただ見上げた時に、綺麗だと思った。
思ってしまったのだ。
思ってしまった。そう、その表現が正しい。
一年前、周瑜に行った、自分の数々の悪行が蘇って来て――泥だらけにしたり水浸しにしたり、相撲だぁ、なんて足を取って地面に転がしたり、はしゃぎ過ぎた罰として父から命じられた馬小屋の掃除を、周瑜に手伝わせて、「そこの馬糞集めてくれよ」なんて言ってしまったことなど、もう、思い出したらキリがない……。
周瑜の侍女がよくそんな孫策を飛びかかって来そうな顔で睨んでいたが、その意味が今、よく分かった。
当時は幼い頃は兄弟のように過ごした相手に、遠慮なく、迷いもなくそういうことを言っていたのに、今、綺麗になった周瑜を見て、この人にそういうことをさせていたのかと思うと、孫策は自分の顔を覆った。
「……策。さっきから私の話を聞いているか?」
隣に座った周瑜に話しかけられて、「おわっ!!」と思わず孫策は椅子から立ち上がった。
周瑜の顔を近くで見てしまった。
「なんだ……どうしたんだ?」
「いや別に……」
「さっきから私の方を全然見てくれない」
「いやそういうわけじゃないけど」
「じゃあなんだ?」
「久しぶりだから」
「久しぶりならちゃんと友達の顔を見ろ」
口ぶりは周瑜のままだった。それは安心した。
「うん。あとで見る」
「あとで見るなら今見ろ」
「いや……」
「伯符、わたしのことが嫌いになったのか?」
孫策は慌てて振り返った。
周瑜は窺うような表情で、孫策を見ていた。
直視出来なかったのに、思い切り見返してしまったら、今度は目が離せなくなった。
突然こちらを振り返った孫策に、周瑜は夜色の瞳を驚いたように瞬かせて――数秒後、くすくすと笑い始めた。
「な、なんだよ!? なんで笑うんだ!?」
「いや……はは……」
周瑜はしばらく笑っていたが、やがて笑いを収めて、孫策を真っ直ぐに見返した。
「想像してたよりもずっと、君の顔が大人びていて、驚いた」
孫策は驚く。
自分の成長など、周瑜の変貌ぶりに比べれば無かったもののように思えた。
「お世辞とかいらねーし……べつに……」
「世辞など君には言わないよ」
周瑜が言った。
「精悍な顔になった。
今までも、一年くらい会わなかったことは何回もあったけど、再会した時は全然変わってないと思ってた。だから今回も、君は変わってないと思ってたから驚いたんだ。
君の立てた戦功は、舒にも伝わってる。
帝に拝謁を許されたことも、聞いたよ。
それを聞いた時に私はとても嬉しい気持ちになった。
妙に誇らしいような気持ちになったって言ったら、君は笑うかな」
孫策は言葉に詰まった。
周瑜は昔から率直に何でも話す性格をしていた。
およそ女らしいと言えない口調で、嘘や、孫策を欺くようなことを彼女は言ったことが一度もない。
お前こそ、随分変わって、綺麗になったと、別に悪いことではないはずなのに、言葉が出て来ない。
(なんでだよ)
自分に妙に腹が立った。
押し黙る孫策に、周瑜は何か言葉を期待するように見つめて来たが、待っても出て来ないと察したらしい。
見つめるのを止めた。
「孫堅様は、お元気か?」
彼女は孫策から視線を外し、体の向きを正面に戻して、茶に手を伸ばした。
周瑜の視線が外れたことに、心の底から孫策は安堵した。
そっと椅子に座り直して、隣にいるのに目も合わせずに、どちらも茶の透き通った水面を見ながら、会話を重ねる。
「舒にも顔を出して下さるだろうか? 九江太守になられたと聞いたから、ぜひお祝いを言いたい」
「うん。すぐこっちに来ると思う……」
「そうか。他の皆も元気か?」
「うん。元気だ。黄蓋も、朱治も、韓当も、いつも俺より元気だあいつらは」
「そうか。洛陽に行ったのだろう? どんなところだった?」
「……ん……賑やかだった。人が多くて、あと……宮殿はとても広かった」
喋りながら、自分が何を喋っているのか、あんまりよく分からなくなる。
周瑜は、自分と話していて、今、楽しいだろうか?
そんなことが無性に気になって、胸がざわざわした。
「そうか……。帝は、どんな方だった?」
優しそうな人だった。
孫策はそう、短く答えた。
◇ ◇ ◇
翌日の午後、孫堅が到着した。
「なーにを一足先に周家の世話になっとるんだ、このドラ息子が!」
出迎えた孫策の脳天に、拳骨が入った。
いつもは「いちいち叩くなよ!」と反抗したくなるのに、昨日からぼやあ、とした時間を過ごしていた孫策は、目が覚めたような感覚を受けて、妙にその時の父の拳骨を嬉しく感じてしまった。
「文台殿、ご無事の御帰還、祝着に存じます」
舒の周家の当主である周尚が、顔なじみの侍従や召使を並べて、孫堅を出迎える。
「
一族の長同士、しっかりと挨拶をした後、二人は歩み寄り、肩を抱き合って再会を喜んだ。
孫堅はそうしてから、ふと周尚の後ろに佇む娘に気づいた。
「そこにおられるのは……もしや周瑜殿か?」
「孫堅さま」
周瑜が嬉しそうに歩み寄ると、孫堅はきちんと女性に対して行う礼をして見せた。
「再会した時には、頭を撫でてやろうなどと思っていたが――こんな美しくなられては、もうそんなことは出来ませんな。
やぁ、
そうですな、周尚殿」
「はい。この一年で大分背も伸びて」
「まだ伸びております」
周瑜が少し誇らしそうに明るい声で言うと、周尚が苦笑する。
「これ以上伸びると、女として見苦しくなると言っているのですが、こればかりはどうにもなりませんな」
「そんなことはない。周尚殿、貴方は周瑜殿の養父とはいえ、それはいくら何でも身内に厳しいというものですぞ」
周尚も、言い当てられたような顔で笑っている。
「私は洛陽で色々な女人を見てきましたが、都にもこんな美しい娘御はなかなかおられない。
数年後、もっとお美しくなられるのでしょうな」
「ありがとうございます」
褒められ、周瑜は少しだけ頬を色づかせて、嬉しそうだった。
「さぁ、どうぞ。宴の場を用意してございます。こちらへ」
◇ ◇ ◇
宴席では、孫堅と周尚が上座に隣同士で座り、孫策は周瑜と少し離れて対面の席を用意された。
周家で、孫堅も含めて一緒に食事をする時は、いつもこの配置だ。
一年前までは、食事中も正面にいる周瑜とふざけ合って、よく注意をされていた。
場では、孫堅が食事の席を濁さない程度の遠征中の苦労話、それから、長江周辺域の各街の様子、それに洛陽の都の賑やかさ、宮中の人々、煌びやかさと、帝に拝謁した時の話をしていて、時々孫策が顔を上げると、周瑜はずっと孫堅の方を見つめて、目を輝かせていた。
周瑜にとっては、洛陽は特別な場所だ。
今の帝が周瑜と血が連なっているわけではないが、その兄弟を経て、血は繋がっている。
本当は彼女がいたかもしれない場所。
本当の家族がいる場所なのだ。
話が、聞きたくないはずがなかったのに、ろくに話してやれなかった。
自分の父親が喋るのを、本当は自分が、こんな風に周瑜に話して、聞かせてやりたかったのにと思って、孫策は全く面白くなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、適当に宴席を抜けて、一度部屋に戻って寝ていたが、夜中に目が覚めて、外に出た。
遅くまで宴席は盛り上がっていたようだが、さすがに今は寝静まって静かだ。
風に当たりながら、何気なく歩いていた孫策は、一室に明かりがあることに気づいた。
寄って行くと、中で、周尚と孫堅がいて、まだ飲み、碁を打ちながら笑い合っているらしかった。
周尚という男は、名門周家の長の一人だが、成り上がりの孫家と他の名門のように孫家を蔑むこともなく、孫堅という人柄に惚れているようで、昔から友人のような付き合いを孫堅としている。
そういうところは、血が繋がっていないというのに、彼は周瑜と少し似ていた。
同じものを食べて、同じ空気を吸い、同じ時を過ごすと、同じものになって行くのかもしれないな、とかつて周瑜が言ったことがある。
「……それにしても、周瑜殿は本当に美しくなられた」
立ち去ろうとしたのに、ドキとして立ち止まる。
「あれでは求婚されるのも時間の問題ではないですかな」
「はい……実はもう、お話は随分」
「それはそうだ。まだ十二歳だが、幼い頃より周瑜殿は同年代の子供より、数歳いつも大人びておられた。十四歳といえば、結婚を決めても、変ではない。
元より、周家のような確かなお家柄だ」
二人の当主が向き合いながら、穏やかに話し合っている。
周瑜にもう、結婚話が出ているということに、孫策は驚いた。
まだ先のことだろうと思っていたことが、突然喉元に突き付けられたような気持ちになった。
「しかし周瑜殿は、昨日今日、突然お美しくなられたというわけではないはず。
周尚殿には、すでに幾つか考えておられることがあるように思われるが」
孫堅の声は楽しげだ。
周家とその護衛を任された武門の間には、協定関係が存在するが、形は主従関係に似ていて、決して周家が護衛団である武門に気を許すということはない。
だが周尚は周家の中でも特別柔和な性格をしていた。
「
嫁取りも、友情も、宴も、狩りも、恋愛も。そして貴方は戦の天才だ。
貴方の敵は、その気がなくとも、いつの間にかあなたの盤上に導かれて、戦をせねばならない状況に追いやられてるのでしょうな」
「はっはっは……随分良いように誉めて下さるものだ」
「私も舒城周家の当主ですから。考えが何一つないわけではないですが……。少し決めかねています」
「決めかねている」
黒い石を指に挟んだまま、孫堅は頬杖を付いた。
「気になる表現だな。もっといい縁談を待っているのなら、あまりそういう言い方はしないと思うが」
「それはいかにも、勘ぐり過ぎですよ」
「そうですか。……いや。こればかりは私が面白半分に聞いていいものではないですからな」
周瑜の相手は、周尚の中でもう決まっているのだろうか。
誰だろう。
見当もつかない。
この一年で、色んな有力豪族に会って来た。
その中に、もしかしたら花婿候補がいたのだろうか?
(もっと注意して見とくんだった)
孫策は悔しい気持ちになる。
見ていればあんな奴大したこと無いと言ってやれるのに、相手が分からなければ文句も言えない。
誰だろう。
それだけが頭を占めた。
孫堅にはもう、何人か察しがついているのだろうか。
今すぐ聞きたくなった。
その男は、周瑜を幸せにする男だろうか?
明るく、可愛いけれど、心の奥深くでとても強い正義感を持っている。
周家で何一つ苦労なく生きていけるのに、周瑜は自ら剣を取り、弓と馬を覚えたのだ。
そういう彼女を、きちんと理解し、受け止められる男だろうか。
「周瑜殿にとって、良い縁談になるとよろしいな」
周尚は小さく頷いた。
「そうですね。そうあることを、私も祈りたい」
二人の男が外の方を見た。
孫策はハッとした。
微かに笛の音が聞こえたのだ。
◇ ◇ ◇
屋敷の隣には古い楼閣が立っている。
見張り台だ。
古の時代、今は長閑な舒も、外敵の侵攻を警戒しながら、この大地に建てられた街である。
これは街が建った当初から存在する楼閣なのだ。
所々朽ちて、街の人は近寄らないが、周瑜は夜に奏でたくなるとここに上って笛や琴を奏でた。
屋敷だと眠っている人の迷惑になるからだ。
それでも朝まで我慢するには、暁が遠すぎる。
冴えるような笛を静かに吹いていた周瑜は、唇を放して、楼閣の崩れた窓辺に足を伸ばした。
(眠れないな……)
息を付いた。
目を閉じると、孫堅の話を思い出した。
それを聞きながら、自分の脳裏に描いた、洛陽や帝の姿を。
周瑜はこれまで、猛烈に洛陽に行きたいと願ったことはない。
帝に会いたいと思ったことも。
だが、今日聞いた孫堅の話は、聞いていて心が躍った。
求婚話が来ていることは知っていた。
相応しい相手をいずれ周尚が定めてくれるだろう。
その点、周瑜はあまり心配はしていなかった。
でも漠然とした不安が胸の奥にある。
それが自分の相手は誰なのかという、単純なものなのか、結婚した後、今の自由な暮らしが今よりは束縛されて、自分が剣を握れなくなった時に、もっと大きな不満や、嘆きを、抱いたらどうしようという恐れなのか。
『私がただここで、幸せになるだけでは、足りない』
幼い頃からずっと感じていたもの。
与えてもらったものが多すぎて、感謝するが、時々それに押し潰されそうになる。
(何かをしなければ。私にはこの血が流れているのだから)
胸を掻きむしるように、そればかりを考え、眠れなくなることが時々周瑜にはあった。
だが、それは勝手に周瑜が思っていることであって、この世に強制するような者は誰もいないのだ。
戦いなさいと無理強いされているわけではない。
育ててやった恩に報いなさいと言われているわけではない。
生まれた時から、世界は周瑜に優しかった。
……優しすぎるほどだ。
愛する男に抱き留められる時のように、その優しさに身を委ねればいいのだと思う。
乳母や、侍女達も皆そう言う。
(なのに何故、私はそれを、嫌だと思ってしまうのだろう)
そう思う、自分が、周瑜は近頃嫌になる。
幸せが嫌だなんて、本当に愚か者の思うことだ。
この世は、願っても幸せになれない者の方がずっと多いのに。
孫策の顔が浮かんだ。
周瑜は膝を抱える。
(伯符なら、そう言って、叱ってくれるんだろうな)
近頃、特にこの一年俄かにそんなことを考え出した自分を、孫策に知ってほしかった。
彼には、何もかも今まで包み隠さず話して来た。
幸せになると不安になる。
幸せになると思うと嫌な気持ちになるなどと言ったら、孫策はあの青灰色の瞳で強く射貫いて来て、幸せになりたくてもなれない者もいるのだと、周瑜をきっと叱ってくれただろう。
彼はこの一年、乱れた長江周辺域の現実を見て来た。
世辞ではない。大人びた顔を孫策は本当にしていた。
本当は孫策に話したかったけど、彼は何か心を閉ざしたような顔をして、周瑜の方を見てくれなくなっていた。
男と女の関係は、自ずと変わっていくと玉蘭が言った。
男と女は友情などでは結びつかないと。
周瑜は信じなかった。
孫策との友情は永遠だと思いたかった。
(だってもし、そうでないとしたら。今まで、彼と姉弟のように付き合いながら築いてきたものが、一体何だったのかと、思う日が来る)
周瑜にとってたった一つの秘密を、孫策は共有して守ってくれた。
性別なんて関係ない。
孫策だからそうしてくれたのだ。
揺るぎなく思っていたけれど、こんなにも孫策に目を逸らされると、さすがに周瑜は心が揺れた。
(変わらないものなんて、この世にはないのだろうか)
自分も結婚を機に、剣を置いて、妻になって、母になって……周瑜は片手で額を押さえる。
――ああ、また頭痛がして来そうだ。
気を紛らわそうと思って、一度帯に挟んだ笛に手を伸ばす。
「……周瑜」
びくっ、と手が震え、笛が手から零れ落ちた。
少し斜めになった地面を、転げていく。
追った先に、孫策がいた。
「策」
孫策が足元に転げて来た笛を取り上げた。
服の袖で汚れを払う仕草をして、歩み寄って来る。
「壊れてないか?」
差し出された笛を、周瑜は受け取った。
吹き口に唇を触れさせ、少し奏でてみる。
周瑜が座っているのと同じ窓辺に腰掛けた。
「……うん。大丈夫みたいだ」
孫策が頷く。
「どうしたんだ? こんな時間に……」
「ん? ……ああ、寝てたんだけど目が覚めて、ちょっと散歩してたら笛の音が聞こえたから……」
周瑜がそこで、ああ、と頷いた。
「ごめん。起こしてしまったか」
「いや。目が覚めたのはその前だから。それに、俺はお前の笛の音好きだし」
笑って周瑜の方を見ると、何故か周瑜がひどく驚いたような顔をしていた。
「……? なんだ?」
彼女は大きく首を振る。
「はは……」
「なんだよ……」
「ううん。やっと君が、私を見てくれたと思って」
孫策は目を瞬かせてから、赤面した。
確かに、今は普通に話せていた。
折角話せてたのに、緊張を思い出させるなよ。
また緊張して来てしまった。
孫策は首を反らす。
「また冷たい態度を取る」
「うるせー……そんなんじゃねーよ」
「私の方を見てくれないし、宴席の間もずっと不機嫌そうだった」
「それは……、」
不機嫌なのは確かだが、その不機嫌に辿り着くのには色々とややこしい説明がある。
「別に、そんなんじゃない」
結局全て説明するのが面倒になり、孫策はそんな言い方になった。
周瑜は自分の心が落ち込むのを感じた。
「……伯符は本当に変わったな」
前の君が好きだった。
口から出かけた言葉を、飲み込む。
言ったら孫策を酷く傷つける気がした。
人は誰しも、変わりたくて変わっているわけではないのかもしれないのだから。
「私も、もっと変わらなければいけないのかもしれない」
孫策は周瑜を見た。
周瑜は笑んで見せた。孫策は彼の笑みを凝視する。
ぎこちない笑顔。何とか、笑おうと思って、懸命に笑ったような顔だった。
周瑜のこういう笑顔は、今まで見たことが無かったのだ。
周瑜は昔から、笑顔が特に可愛い。
まだ女だと知らない時からも、少年だと思っていた頃から、屈託ない顔で笑うから、その顔が孫策は好きだった。
「そうだ。君に謝っておかないといけなかったんだ」
「え?」
気を取り直したように、周瑜が言う。
「昨日、屋敷に来た時、門前で衛兵が君に失礼なことをしただろう。
最近、私の結婚話が出ているからと、気安く誰でも入れるなと、どうも命じ回っている人間がいるようなんだ。
折角、訪ねて来てくれたのに、嫌な思いをさせてごめん」
周瑜は孫策の方に手を伸ばした。
そっと額を撫でる。
「もう二度とああいうことは、君にしないでほしいとお願いしておいたから。許してくれるとありがたい」
「あ……」
周瑜が立ち上がった。
そんなことはどうでもいいのだ。
孫家は豪族の中でも成り上がりだから、ああいう応対をされることには比較的慣れている。
むしろ周家は漢の歴史における名門なのだから、好ましいか好ましくないかはこの際脇に置いておいても、普通はあの対応が当然なのだ。
それは袁術の例を見れば分かる。
今までが、孫家に対して周家が寛容すぎたくらいなのだろう。
「少し笛を吹きたくなったから、ここに来たんだが、君と話したら、何だか心が落ち着いた。
私はもう屋敷に戻る。
君は……? もう少しここにいるか?」
「……うん」
「そうか……。じゃあ……、また明日……。おやすみ」
「うん……また明日……」
周瑜と目を合わせないまま、返事を返した。
返した時には、後悔していて、なんでこんな言い方しか出来なくなったのだろうと、自分に対して無性に腹が立った。
周瑜の足音がゆっくりと遠ざかっていく。
「……明日ってなんだよ……」
呟いた。
あと、何回、その明日が周瑜との間に許されるのかも分からないというのに、何て白々しい。
周瑜が結婚すれば、こんな風に気安く会えなくなる。
門前払いなんて、まだ優しい方ではないか。
その貴重な、一日一日を、こんな下らないことで費やしてる。
孫策は自分に怒った。
昔からそうだが、彼は怒ると、行動力が異常に増すのだ。
「周瑜!!」
立ち上がって、石の螺旋階段を下りて行った周瑜を追い、半ば孫策は叫んだ。
「おまえ、すごい綺麗になったな!!!」
後から思っても、そんな言うことに勇気のいる、大層な言葉か、と自分で笑ってしまうのだが、その時はもう全ての羞恥を投げ出すような気持ちで言ったのだ。
いきなり怒鳴りつけられるように呼ばれて、振り返った周瑜は、掛けられた言葉に呆気に取られた。
目を丸くして――その、驚いた眼から、大粒の涙が零れていた。
孫策も驚いた。
周瑜は決して、孫策が声を掛けたから泣いたのではない。
その前から、泣いていたのだ。
孫策が驚いたのは一瞬。
彼はすぐに、片目を細めて、険しい表情を浮かべた。
「……なんで泣いてるんだよ」
「……。」
「俺のせいか?」
周瑜は首を振った。
孫策のせいではない。自分のせいだ。
自分で自分が嫌になった、ただそれだけだ。
「俺が、変な態度、取ったから……」
一瞬、孫策の顔から血の気が引いた。
「違う。伯符。君のことは全く関係ない」
周瑜は言った。
その言葉を聞いて、孫策は血の気を取り戻す。
一度息を付いた。
周瑜はこういう時、嘘は言わない。
距離のあった階段を一歩ずつ降りて行って、手の届く距離まで近づいた。
まだ周瑜の目から涙が零れて来る。
孫策が周瑜が泣いている所を見たのは、これが初めてだった。
泣いているように思えたことは幾度かあった気がするが、はっきり見たことは無い。
重いものを例え背負っていても、周瑜はとても強い心を持っていた。
彼女は今まで一度も、孫策の前で泣いたことが無い。
あの、秘密を打ち明けてくれた夜以外は。
泣かせたのが自分でないのは安堵した。
だが、問題は。
「……誰が泣かした」
怒りを込めた低い声で、孫策は言った。
「誰がお前を泣かした!!」
石造りの螺旋階段に、孫策の怒声が響く。
はぁ……っ、と本当に怒りに胸が満ちて、一瞬我を失った気もした。
周瑜を泣かせるような奴がいたら、どこの豪族だろうと、袁家だろうと、例え帝の一族だろうと、ぶん殴ってやったっていい、そんな気持ちになった。
しかしそんな孫策の激しい怒気を、静かな、美しい声が鎮めて行く。
「……誰でもない。私が、自分で、自分が嫌になってしまっただけだ」
周瑜の言った言葉を頭で反芻し、孫策は数段降りて行って、周瑜の身体を抱き寄せた。
一瞬彼女の身体が震えたが、すぐにやんわりと強張ったものが溶け出していく。
一段だけ高い所から抱きしめる。
周瑜は孫策の胸に顔が埋まると、そっと彼の衣の端を握り締めた。
孫策が額を寄せ、抱き寄せながら頭を撫でてくれる。
新しい涙が零れたが、孫策の腕の中は周瑜を安心させた。
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