異聞三国志【銀麗の絆】

七海ポルカ

第1話



九江きゅうこう太守への着任、祝着に存じます。殿」






 黄蓋こうがい朱治しゅち韓当かんとうの三人の武将が並び、孫堅に向かって一礼した。




「長江周辺域から黄巾党を駆逐し、洛陽より承ってのご凱旋、富春ふしゅんでお待ちの一族もさぞやお喜びでしょう」


「うん。それも、ここにいる三人、そして皆の働きのお陰だ。

 朝廷においても我が孫家の武勇は名高い。

 俺も洛陽で、鼻の高い思いをさせてもらった」


 武将達が笑う。


「袁術殿より、寿春じゅしゅんの城を頂いたとお聞きしましたが」


「ああ。袁術殿は建業に移られ、丹陽・盧江・広陵の三郡太守を任されることとなった。富春に戻る帰りに、祝いの品を持って行こうと思う」


「殿が九江太守として寿春にいらっしゃれば、袁術殿も心強いことでしょう」


「長江は鎮まったが、江東はまだ情勢不安定だ。

 すぐに出陣要請が来ると思うが、しばしの休みは取れよう。

 皆、一年にも及ぶ遠征に、よく付き従ってくれた。重ねて礼を言う」


「いや、我らの奮闘も無論ですが、孫策殿の武勇はさすがに殿譲り。

 幼い頃の指南役としての贔屓目は承知の上ですが、まだ十二歳の身で、帝から直々にお褒めの言葉と護剣を与えられるとは、この韓当、感服いたしましたぞ」


 側の武将二人も、うん、うん、と大きく頷いている。


「最初の頃は勢いばかりに突っ走られるので、冷や冷やしておりましたが、今では堂々とご自分の手勢を率いておられる。もう私が口煩く言うことは何もありませんな」


「何を言う。こいつは元来調子乗りだ。浮かれて船から落ちやせんか、俺はまだ見てて冷や冷やする。戦場でも、野ウサギのように楽し気に駆けて行きおって。

 まだ目を離せんぞ」


「はっはっは! やはり殿も父親ですなぁ」


「策! お前のことを話しているのだぞ。ちゃんと聞いているか」


 孫堅が隣に座った孫策の頭を、わしわしと大きな手で撫でた。


「富春に戻るのか! やった! じゃあ周瑜しゅうゆとまた遊べるな」


「『様』とか『殿』を付けんか、全く。じょ城の周家は孫家の主筋の家柄と幾度言えば分かる」


「周瑜は様なんか付けないでいいと言ってた!」


 孫策が膨れている。


「周瑜殿とも一年ぶりの再会ですな。お二人は幼い頃より姉弟のように仲がよろしい。お会い出来るのが嬉しいのでしょう」


「うん。嬉しい。俺はこの一年で随分背が伸びた! 絶対周瑜の方がチビになってるはずだ」


「誰がチビだ。口を慎め。周家の御令嬢に向かって」


「いて!」


 孫堅ががつり、と孫策の脳天に拳骨を食らわした。


「うう……周瑜は可愛いけど御令嬢って感じじゃ全然ないぞ……」


 叩かれた頭を摩りながら、孫策が返すと、朱治が笑った。

「なぁに、女子というものは一年会わぬだけで、驚くほど変わるものですぞ」

「そんなことねーよ。今までだって一年会わないことだってあったけど、周瑜は全然変わってなかった!」

 孫策は言い張ったが、女の成長には顕著な時期があるのだということを知っている大人たちは、微笑まし気にそういう彼を見るだけだった。


「周瑜殿は幼いながらもあのように美しい娘御。もう数年したら、驚くような美姫になられますでしょうな」


 黄蓋が孫堅に向かって言うと、うん、と孫堅も頷いた。


周尚しゅうしょう殿も、嬉しい悩みであろうな。あの器量なら有名豪族はこぞって求婚してくるであろうし、周瑜殿は芸楽にも秀でておいでだ。場合によっては洛陽からお声がかかるかも知れぬ」


 ほぉ……、と宴席に集った武将達は感嘆の溜め息で頷いてみせる。


「周瑜、結婚するのか?」


 孫策が気になったのか、ふと、尋ねて来る。

 孫堅は笑った。


「それは当然、する。周家は古の時代より漢王室に仕えて来た名門ぞ。

 縁を結びたい豪族など、それこそ掃いて捨てるほどいる」


 周瑜が誰かと結婚して、妻になるという姿が、孫策には全く想像出来なかった。


 父親である孫堅に連れられ、この一年、長江周辺域を転戦して回った。

 同盟関係にある多くの豪族に迎えられ、世話になったこともある。

 その家の奥方にも挨拶をすれば、どの人も綺麗に身なりを整えて、美しく柔らかい手をしていた。

 周瑜のように傷だらけの手をしてるような人は誰一人としていない。

 

 もし、誰かと結婚したら、周瑜は<手の届く限りの善行>と呼ぶ、あの行いを、どうするのだろう?


 普通に考えれば、闇に紛れて賊を討つなど、夫を支えるべき妻などが出来るはずがない。

 では、結婚したら周瑜はあの闇討ちを、やめるのだろうか?

 そう考えると、若干、孫策は嫌な気持ちになった。


(結婚したくらいで、やめるのかよ)


 周瑜が自分の身体に流れる微かな血の意味を辿って、何かをしたいと望んでいると知った時、孫策は感動した。

 漢王室の血というものが、どの程度のものか、孫策は分からない。

 父の話を聞いていれば、大層なものなんだなぁとは思うが、実際帝に会ってみても、そうかこの人が帝かとは思ったが、穏やかそうな、身なりの良い人と思うだけで、凄さなどは全く感じなかった。

 皆が平伏しているのは、あの一人にではない。

 四百年続いた、歴史に平伏しているのだ。


 だが、孫策が腑に落ちないのはその部分で、四百年続いた歴史を、今の帝一人が築いてきたわけではない。築いてきたのなら、孫策は平伏するが、そうではない。

 親が、先祖が築いてきたものを、受け継いだだけだ。

 普通の豪族の家と何も変わらない。

 どんな有力な豪族でも、愚鈍な当主が一代あれば没落し、二代あれば惨めな境遇に落ち、三代で潰れる。

 今の帝は英邁だと聞くが、即ち、愚かな帝が帝位に付けば、漢王室と言えども没落するということだ。

 

 この話をした時、母親の耀淡ようたんは孫策の頬を張り飛ばした。

 

 普段、言葉で強く注意しても、手を上げたりはしない母なのに、「漢王室と豪族は同じだ」と言った途端、叩いて来た。



「貴方はまだ子供です。だから、間違ったことを口にしても、母はそれほど厳しくは咎めません。

 けれど貴方は子供でも、孫文台そんぶんだいの息子です。

 孫家を継ぐべき嫡子。だから今、貴方を叩きました。

 孫策。恐れを知らぬことは男の美徳ですが、侮辱してはいけない相手がいることを、決して忘れてはいけません。」



 張昭ちょうしょうに、「漢王室と豪族の違いは何か」と聞いた時も、手にしていた定規で頭を叩かれた。


「そんなことも分からぬ者が、勉学などせずともいい」とひどく怒って、怒った理由も教えず口を閉ざすなど偏屈だと文句を言った孫策を連れて、耀淡が張昭の許に謝りに行ったことがある。


 父の耳には、孫策がそんなことを何度か言ったということは入っているだろうが、今の所何も言われたことは無い。

 だが、言ったら張り飛ばされるのだろうということはさすがに予期出来たので、それに関しては口を閉ざしている。


 その話を聞いて静かに微笑んだのは周瑜だけだ。






『この玉は、君には何色に見える?』






 周瑜が差し出した美しい宝石を見下ろして、孫策は「青色か?」と答えると、彼女は僅かに宝石の角度を動かした。


「緑色になった!」


 孫策が目を輝かせると、周瑜は宝石を孫策の手に乗せた。

 それから、別の宝石を手に取って、見せる。

「じゃあこれは?」

「赤い。どこから見ても赤いぞ」


「うん。多くの人は、漢王室を、この赤い宝石のように見ている」


 周瑜は赤い宝玉も、孫策の手に持たせた。


「赤い宝石は、どこから見ても、誰が見ても赤い。

 漢王室の権威を信じる者にとって、それは揺るぎない答えなんだ。

 でも君は、漢王室がそっちの宝玉に見えている。

 四百年続いて来た、様々な色を見せる、宝玉だと。

 他の者が見ているのは揺るぎない真紅だ。

 色という、一面。

 君は世界を多面的に捉えている」


「周瑜は俺を怒らないのか? この話を聞かせた奴は、みんな俺のことを怒って叩いたぞ」


 周瑜はくすくすと笑っている。


「そうか。みんな君のことを大切に思ってそうしたのだろう」


「大切にしてるなら叩くなよ……おふくろにも初めてぶっ叩かれた」


「この世界の大半の人が、漢王室を一面的に捉えているんだよ。

 だから君だけがそんなことを言っていると、おかしく思ったり、不快に思う者が出て来るかもしれない。

 君が多くの人に憎まれたりしないように、もう少し慎重になりなさいと、教えてくれてたんだと思うよ」


 孫策は膨れた。


「それなら口でそう、言ってくれればいいんだよ。俺は馬鹿じゃない。言ってくれれば口を閉ざしていられる」


「そうなのか? 君は君が思ってるよりも、思ったことをすぐに口にしてしまうと思うけど」


「なんだと周瑜! この!」


 寝台に押し倒してくすぐると、周瑜が可愛い声で笑った。




「わたしは、君のそういうところは嫌いじゃない」



 孫策が手を止める。

 周瑜は夜色の瞳で孫策を見上げて来た。


「率直な感想や問いを抱くのは君の美点だ。

 それが漢王室にだけ許されないというのは、私は傲慢だと思う。

 ……こんなことを言ったら、私も養父上ちちうえに叩かれるかな」


 孫策の手を借りて、周瑜は起き上がった。

 寝台に落ちた、青碧色の宝玉を拾い上げる。


「私の身体に、漢王室の血が流れていると聞いた時、私が何を一番感じたと思う?」


 孫策が首を振る。


「それまで感じてた、孤独が、一瞬で無くなったんだ」


 孫策は息を呑んだ。


「私に流れる血など、洛陽にいる人たちに比べれれば、水のように薄いものだけれどね。

 それでも、私がこの世に生まれた時、多くの人がその血の為に苦労も厭わず、私を生かそうとしてくれたことを知って、多くの人の情けや、助力を感じた。

 一人で生きて来たんじゃないんだと、その時思えたよ。

 だから多分、私は戦うんだ。

 私をこの世に生み出すために、多くの人が力を貸してくれた。

 時に命すら、投げ打ってね。

 私がここで、一人、幸せになる程度では、きっと返しきれない。

 だから戦って、返す」




「なんで賊退治なんだ?」




「漢王室を人々が崇めるのは、世が平穏だからだ。

 世が乱れれば、人は自分が生きることに精一杯になる。

 自分の為にしか、祈らなくなる。

 それでは、増々世は乱れて行くばかりだ。

 だから世を乱し、人々の平穏を壊す者を退治するんだ。

 人が少しでも、他人に分け与えたり、他人の為に祈れるように。

 私が漢王室の血を引くなら、……やはりそうするべきだと思った」





 周瑜の言葉は孫策の胸に響いた。




 

 自分たち孫家は朝廷の命を受け、長江周辺域の平定の為に戦っている。

 それと同じことを、周瑜はたった一人でしているのだと思ったからだ。

 些細なことだとは、確かに思う。

 周瑜だって、思っているだろう。

 それでも同じだと、孫策には思えた。


 洛陽で会った帝よりも、ずっと周瑜は立派に思えた。


 なのに、結婚をしただけで、もう、周瑜のしたいことは終わるのだろうか?



「どうした。急に不機嫌な顔をして」


 

 孫堅が押し黙った息子に笑いながら声を掛ける。


「周瑜殿が結婚すると嫌か」


 父の声はからかうように響いた。


「……別に嫌とかじゃねーけど」


「強がっているな」


「強がってねーよ! ずっと遊び相手だったから、結婚したら遊べなくなるって思っただけだ!」


「それは、なるだろうなあ。豪族の奥方ともなれば、家のこと、家族のこと、色々としなければならん。まぁ、周瑜殿ならば立派にどれも務められるだろうが」


 豪族の妻になんかならなくても、周瑜は今だって十分に立派だ、と孫策は言いたくなった。

 

「しかしそれも、大人になるということだ」


 慰めるように肩を叩かれる。


「安心なされい、若君。今回の帝より承った祝福は、すぐに漢一帯に広まって、あちこちの家から一目帝にお声を掛けられた若君にお目通りを、などとお声がかかるに違いない。もう数年もしたら、若君も妻を迎えられて当然の御年になられる。

 その時は、武門孫家に相応しい、凛々しく聡明で美しい娘御を、嫁に迎えられると良い」


 凛々しく聡明で美しい娘と聞いて、孫策の頭に浮かんだのは、

 飾り気のない黒い衣に身を包み、鮮やかな身のこなしで闇を駆り、満月を背に自分に刃を打ち下ろして来た、周瑜の姿だけだった。


 他の誰かなど、全く思いつかなかった。

 



◇ ◇ ◇



 舒城じょじょう




 青や赤い紫陽花の咲く中で笛を吹いていた周瑜しゅうゆは、ふっ……と音を途切れさせた。



 目の前の池の魚が跳ねたのだ。

 笛を懐にしまうと、歩いて行って、池のほとりに腰掛ける。

 池を覗き込むと、すぐに鯉が彼女の側に寄って来た。

 ほとんどが灰色掛かった色をしているが、その中にぽつんと白い鯉が一匹混じっている。

 遠目には真っ白で、側で見ると、鱗は銀色掛かっていて、光に当たるとキラキラする。

 孫策がいると、すぐにこの鯉を吊り上げようとするので、目が離せないのだが、そんな遣り取りが何回かあったからか、孫策が遠征に出てからはこの鯉を見ると孫策のことを思い出した。

 舒城では他にも色々な動物を飼っている。

 周瑜は動物が好きなので、よく世話をしているが、そういえば時々、飼っている鳥の中にも、ぽつりと白いものが混じってることがある。

 周瑜はこの前、白い馬を初めて見た。

 老年、毛が白くなっていく馬は見たことがあるが、生まれたばかりの馬で真っ白いものは初めてだった。

 孫策に見せてあげたかったのだが、結局身体が弱く、母馬の乳を飲めなくて、死んでしまった。

 僅かな間しか生きることは出来なかったが、それでもとても綺麗な白い馬だったと思う。



 時々、世は、そういう存在をどうやら生み出すことがあるようだ。



 ぽつりと、何の前触れもなく、本人すら自覚のないまま、世界の異端となる不思議な存在を。


 周瑜はごく薄い、青灰色せいかいしょくの瞳を輝かせる少年の顔を思い出した。

 同年代の少年たちの中でも一際才能が抜きん出ていて、勇敢で、素直で、……時々、側にいると不思議な印象を受ける。


 会ったことのない人間だと思わせる何かが孫策にはあった。





「周瑜さま」





 侍女の声がする。


「ここだ」


 周瑜が振り返り、声を掛けると、侍女が紫陽花の樹の陰から姿を現わした。

 周瑜の姿を見つけると、溜息をつく。


「まぁ、周瑜様またそんな男の子のような格好をして……。

 いけませんと何度もお父上様に注意されておりますのに」

「この方が楽なんだ。馬に乗る時、女の衣だと乗りにくい」

「馬を乗り回すのも、大概にしなければいけません」


 侍女がめっ、という顔で見て来た。


「昔は無理にでも男の格好をしていろと言われたのに、今では男の格好をすると叱られる。

 理不尽だと思うんだが……」

「昔は昔、今は今にございます」

 つん、とした侍女に苦笑してから、周瑜は小首を傾げた。

「何か話があったんじゃないのか?」

「ああ、そうでした。周尚様から御文を預かって参りました! 孫文台そんぶんだい様からの文にございます。無事に遠征を終え、九江太守に御着任されたそうにございますよ!」


 周瑜は瞳を輝かせ、文を受け取った。


「そうか……良かった。じきに戻って来られると書いてある。

 孫策殿も帝に拝謁したらしい」

「まぁ、では洛陽に。主上おかみが直にお会い下さるなど、何て素晴らしいのでしょう」

「うん。孫家の家柄から言って、そう簡単にお声は掛からないと思うのだが、お会い下さったということは、余程帝に、孫堅様が信頼されておられるのだろうな」

「本当に……」

「今、少しずつ世は乱れている。都は帝の御威光があり、守りの力が強くとも、遠ざかる漢の各地から……黄巾党の台頭はその一つの兆しに過ぎないかも知れない。

 帝はそのことを、ちゃんとご存じなのだろう。だからこそ武門である孫家を今、重用されている。

 他の豪族たちなど、孫家が不必要に力を付けることを面白くないという顔を隠しもしないのに、都で多くの者に守られている方が、そういうことをきちんと考えておられるというのは、少し心強い。

 今の帝はどんな方なのだろう。伯符が戻って来たら、どんな方だったか聞いてみたい」


「まぁ、姫様が帝にお会いしたいなどと仰るとは」

 玉蘭ぎょくらんがくすくすと笑った。

「お会いしたいと言ったわけじゃない。どんな人か知りたいと言ったまでだ」

「姫様がお会いしたいと強く望めば、きっとお目通り叶いますわ。

 そもそも、姫様は洛陽におられても良い方なのですから……。

 姫様は洛陽に行きたいと思うことはないのですか?」


「どんな場所かなとは思うが、別に行きたいとは思っていない」


 周瑜は全ての物事に、こういう反応を示す。

 好奇心旺盛で、何にでも興味があるのに、欲しいですかと尋ねると、欲しいわけではないと首を振る。年頃の子供だというのに、あまりに欲がないといつも思う。

 周瑜は美しい少女だったし、聡明で、賢かった。

 洛陽に行き、宮中の、帝に近い場所に仕えることだって、周瑜が望めば叶うことなのだ。

 それなのに周瑜はあまり物事を望まない。


 彼女は力のある者が「望む」とどうなるか、それをよく知っているようだった。


(周瑜様はまだ十二歳だというのに。血とは恐ろしいもの)

 これが古の時代より続いて来た名門の、秀才の血というものなのだろうか。

 膝に乗って来た猫を撫でてやっている周瑜を眺めながら、玉蘭はそんなことを考える。

「伯符が戻って来たら都のことも聞いてみる」

「……孫策様は明るくてとても感じのいい方ですけれど、姫様を泥だらけにするところだけは困りものにございますわ。あの方は周瑜様を男の子かなんかと、未だに勘違いしているのではないかと思うことがあります」

「そうかもな」

 周瑜は笑った。さして気にしてもないらしい。

「幼い頃はともかく、もう周瑜様も十二歳におなりなのですよ。それに名門周家の姫君なのですから。他の家の御子息同様、もう少し付き合い方というものを考えていただきませんと……。

 戻って来ると、やれ『周瑜狩りに行くぞ』やれ『遠駆けで勝負だ』やれ『木登りだ』などと言うのですから……」

「そんなこと言って来るのは伯符だけだから、いいんだよ。私は楽しいし」

「いくら楽しくとも、もう駄目にございます。特に、一緒に水浴びなどは絶対にしてはいけませんよ」

「それは分かってる」

「ほんとですか? 周瑜様は、孫策様がお誘いになられると、なんでも断らず聞いてしまうんですから」

伯符はくふに言われると、なんだか付き合ってやりたくなるんだよ」

「キラキラした迷いの無い目で言って来られますからねえ……」


 そうなんだ。

 周瑜は孫策の顔を思い浮かべて、微笑む。



「あの目で誘われると、ついどんなことでも付き合ってやらなければと思ってしまう」



◇ ◇ ◇



 孫堅達はまず、建業に向かい主筋にあたる袁術えんじゅつに拝謁を済ませた。


 祝いの品をたくさん届けたので、袁術は機嫌が良かった。

 孫策にも、「そのように立派な息子を持った、文台殿が羨ましものだ」などと世辞を言った。

 孫策は愛想よくしたが、感じた印象は尊大で傲慢な男のそれで、あまり好きではなかった。

 父である孫堅の方が余程人としても男としても立派だと思った。

 立派でも、今は父の方が袁術に対して膝をついて挨拶をしなければならない。

 

 孫家は成り上がりだったので、長江周辺域を転戦していた時もそういうことは何度もあったが、孫策は不思議に思うことがあった。


 中には、周家のように名門だが、孫文台という人間を評価して、それ相応に付き合ってくれる豪族もいる。

 それが出来る人間と、出来ない人間が世の中にはいる。

 孫策は、自分の父親を一つの基準に考えていた。

 息子の贔屓目を差し引いても、孫文台という男は立派だと思っている。

 漢王室に対して忠義を示し、どこの戦場にも恐れず赴く。

 戦功も無駄にひけらかさず、苦しんでいる友人や同盟者がいれば、必ず助けた。

 自分の領民に対しても、相応以上の搾取は決してしないし、世の為に働こうという志がある。

 ただ自分の領地に籠って偉ぶっているような男とは、領域が違う、と思っている。


 父を重んじない人間を、孫策は信用しないことにしている。

 それが一つの指針だ。


 袁術は父親を重んじてはいるようだったが、言葉の端々に下に見ているような印象を受けて、好きになれなかった。

 面白くもない袁術への拝謁を済ませ、ようやく城を出ると、「じょに帰るぞ!」と拳を突き上げて目を輝かせた孫策の頭をがつんと孫堅が叩いた。


「馬鹿者。まずは母上にご挨拶であろうが」


 本当にそれを忘れていた孫策は、目を丸くしてから笑った。

「そうだった」

 父は呆れた奴だ、と言いながらも孫策の頭を撫でてやる。

「ちゃんと挨拶をするのだぞ。お前がいい加減なことをすれば父が怒られるのだからな」

「うん」

「返事は『はい』だ」


「はーい!」



◇ ◇ ◇



 孫堅達は孫家の家族が住む富春に戻った。


 屋敷に入ると、母親である耀淡ようたんと、弟の孫権、妹の香凜こうりんが揃って出迎えた。


「母上! 今戻りました!」


 駆けて行って挨拶すると、耀淡は嬉しそうに孫策を抱き締めて、労った。

「おかえりなさい、策。

 まぁ、背が伸びて」

「へへっ」

「よく無事で戻りましたね。貴方の武勇も母の耳には届いていますよ。とても誇らしく思います」

「うん。権、香凜! 元気だったか」

「兄上。おかえりなさい」

「策兄さまー!」

 弟妹達が駆け寄って、嬉しそうにしている。


「耀」


「あなた。おかえりなさいませ」

 孫堅がやって来た。

「ご無事のお帰り、嬉しゅうございます」

「ああ。長らく不在にして悪かったな」

 孫堅が妻を抱き寄せる。

九江太守きゅうこうたいしゅになられたとか。おめでとうございます」

「皆のお陰だ。策も頑張った。あいつは私の若い頃より、剣の才があるかもしれん」

 耀淡は微笑む。

「孫策まで、帝に拝謁を許されたと聞きました。まさかと思って驚きましたが」

「そうだぞ。不意に策のことをお聞きになられてな。呼んだら、護剣を下さった。

 策! 母上に帝から賜った剣を見せて差し上げろ」


「あっ、そうだった! 荷車の中に置いて来た!」


 孫策が駆け出して行く。

「ああいう所はあいつは全く変わらんな……普通ならば嬉しくて寝る時も腰に括りつけておくわ」

 耀淡は明るい声で笑った。

「まだ子供だから、忠義や権威などより大切に思うものがたくさんあるのでしょう」

「それが分かって来れば、なかなかの武将になれると思うのだがなぁ」

 ぼやきながらも、妻を伴い、屋敷の中に入っていく。

「こちらの様子はどうだ。なにか変わりはないか」

「はい。今年の夏は暑くて、作物が不作でしたけれど、周家の方々が助けて下さいました。

 秋はたくさん実りましたから、冬は穏やかに暮らせましたけれど」

「冬は下邳かひにいた。雪が積もって寒くて仕方なかったぞ。寒いのは嫌いだ」

「どなたに温めていただいたのですか?」

「黄蓋や韓当とむさくるしく足を寄せ合っておったわ」

「まぁ、馬鹿なことを。それを信じると思いまして?」

 耀淡が笑っている。

「たわけ。策がいるのに女など呼ばんわ」

「フフ……」

「外に出て犬のようにはしゃぎ回っておったのは策くらいのものだ。

 みんな死んだような顔をしておったぞ。やはり俺達は寒いのは駄目だな」


「でも長江周辺域はほぼ平定されたと聞きましたが」


「ああ。袁術殿が建業けんぎょうの城に入られたからな。

 これからは江東の平定になると思うが」

「また戦にございますか?」

「孫家は武門だ。それは許せ」

「分かっております。そんなことで文台殿を嫌いになりはいたしませんわ」


「母上ー! これが帝に貰った剣だ!」


「友達みたいに言うな」

 孫堅が眉を寄せている。

「まぁ、なんて美しい刀でしょう。帝はどんな方でしたか、策」

「すごく優しそうな人だった!」

「そうですか。帝に拝謁出来るなど、誰もが出来ることではないのですよ、策。

 生涯会わずに終わる人の方が、多いのですからね」

 耀淡の言葉は、孫策には分かりやすかったらしい。

「ほんとうだ。確かに、普通の民は死ぬまで帝に会わない人もいるんだな」

「そうですよ。ですから、貴方がその若さでお目見え出来たのは、とても幸運なことなのです」

「父上が帝にとても信頼されているから、俺も呼んでもらえたんだと思う。

 俺が立派になったら、権もいつか会えるかもしれないな」

「私も帝にお会いしてみたいです」

 青い瞳を瞬かせて、孫権が言った。

 孫策が弟の頭を撫でてやる。

「よし。俺がもっと戦功を立てて、そのうち機会を作ってやるからな」

「はい!」

「策兄さま! わたし馬に乗りたい! 乗り方教えて!」

 香凜が孫策の脚にしがみついている。

「そんなの権に教えてもらえ」

「権兄さま馬に乗るの下手なの。たまに落ちてる」

「お、落ちてはないぞ! 落ちそうになっただけだ!」

「お前らなぁ~……あんなもの、バッ、と乗ってビシッとすれば勝手に走り出すから楽勝だろ……」

「よくわかんない!」

 子供たちがじゃれ合いながら、庭に駆けていく。


 それを微笑ましそうに眺めて、夫婦は居間に入って行った。


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