アクト1 雨と傘と貴女

 雨が降って真っ暗な、少しも色を感じられない夜……といっても、二十時だ。人によっちゃ夜とは言わないかもしれないが。

 ただ、こんな日こそ、こんな半端な時間こそ私の最期にはふさわしいのかもしれない。

「ここから、落ちてしまえば……」

──楽に、なれるんだ。

 何もかも嫌になった。逃げ出してしまいたくなった。だから私は傘も差さずにこの橋の上にいる。

「……なんで、動かないんだよ」

 何故か、踏み出してしまえば楽になれるはずの右足が、まるで地に根を張ったかのように動かせないでいる。

 消えてしまいたいはずなのに、どうにも、私の身体は死と言うものを拒んでいるらしい。

「はは……やっぱり、私は……そう簡単には死ねないんだ」


 諦めて、帰ろうとして振り向いたその刹那。

「……あれ、立夏りっかくん?」

 私の名を呼び、何者かが近づいてきた。

「……え?」

「あ、やっぱりそうだ!! 立夏くんだよね!」

「えっと……」

 困惑する私をよそに、彼女は詰め寄ってくる。どこかで見たことのあるような、そんな誰かが。

「あたし、おんなじクラスの出雲 聖花いずも せいか!」

 そういえば、たしかにこんな子が居た気がする。クラスの人になんて、大して興味がないから、そう言われるまで気づかなかった訳だけど。

「……ああ、出雲さんか……」

 私は一度、深呼吸をして、なんとか暗い気持ちを隠そうとする。

「私に何か用でもあったんですか? それだったらどこか、お茶でもできるような場所で……」

 死のうとしていたことを悟らせまいと、精一杯の演技をする。決して、自分を出さないように作られた私で、だ。

「ううん。用とかはないんだけど、立夏くん、傘も持たずにこんなところに居たから気になっちゃって。お洋服、ビショビショだよ?」

「あー……あはは、それが風で傘を飛ばされてしまって……そこへ、落ちてしまったんです」

 傘を持っていないのは、どうせ落ちてしまえば結局濡れてしまうから。それなら、どっちだって良いと思ったから。

「そう……なの? でもでも、そんな感じには見えなかったよ?」

「傘を気に入っていたものですから、それを失ってしまって悲しみに明け暮れていただけですよ。私は結構、ものを大事にするタイプなので」

 これも嘘だ。ほんとに大事にするような人間なら自分の命だって大事にするだろう。

 私には、何かを大事に出来るほどの余裕なんてないのだから。


「うーん……それじゃあ、あたしのおうちまで、着いてきて! 着替えと傘あったほうがいいと思うの!」

「……お言葉は……ありがたいんですけど私は……」

 彼女の瞳を見て、私は思わず言葉を飲み込んだ。

 必要以上に、他人と関わりたくないんです。と、本来続くはずだったその言葉を、こんなにも純粋な彼女に向けて言い放つことは、私にはできなかった。

「……いえ、ではお言葉に甘えて。案内、お願いします」

 私のこの後のことを考えると、断ってしまえば良いはずなのに、私はそれを断ることができなかったのだ。

「……! うん! 任せて!!」

 その時、彼女は嬉しそうに笑った。そんな姿を見たとき、すっかり色を失っていた世界がほんの少し、色を取り戻したように感じたのは、気の所為だろうか。



「そういえば──立夏くんって、男の子なんだよね? 見ただけじゃ全然わかんないね!」

 道中、彼女はそんなことを言い出した。ああ、やはりこの人も私を物珍しいと思って近づいてきていたのだろうか。

「……そうですね。……やっぱおかしいですかね、こんな格好」

 皆、私と関わった人は私のことをおかしい、ヘンだと言うのだ。

 好きな物を否定されるような日々に嫌気が差したから、私はそれを終わらせるために、あの場所にいたのだ。

 まぁ、結局、終わらせることも叶わなかったのだが。

「──なんで、おかしいの?」

 それは、どういう意味だろうか。どうしてそんな格好をしているのか? といった意味の否定なのか。あるいは、私が今まで求めていたような言葉なのか。

「なんでって……?」

 その言葉の本意が知りたくて、私はついそんな一言をこぼしてしまった。

 知りたい? いや、知りたくない。もし、私が望んだようなものではなく、他の、私を何も知らない人たちと同じようなものならば、また私は心を傷付けることになるのだから。

 傷付くことが怖くって、ぎゅっと目を瞑る。

「だってだって、立夏くん、すごく似合ってるよ? 自分に似合うお洋服を着るのって、おかしなことじゃないでしょ?」

 ──答えは、至極単純なものだった。

「貴女は……出雲さんは、私をヘンだと思わないんですか?」

「うん。あたし、立夏くんみたいに自分らしさを大事にできてる人、すっごく憧れるなって思うの!」

 なんだ、あんなにも怯えていた私が、馬鹿みたいじゃないかなんて考えてしまう程に、彼女の言葉は温かかった。

「……ありがとう、ございます」

 初めてかけられたそんな言葉に、どう反応するべきか分からなくって、私は困惑してしまった。


 「──立夏くん、気をつけて帰ってね。本当は泊まって行ってくれたら安心だったんだけど……明日も、学校あるもんね……」

 出雲さんは、私に着替えを貸してくれた後、玄関で私を見送ってくれていた。

 体格があまり変わらないからか、彼女の服は男である私でも着ることは可能なようだった。

「……すみませんシャワーまで借りてしまって……。明日は……洗濯が間に合わないでしょうから、明後日必ずお返しします」

「急がなくても大丈夫だよ! それじゃあ、気をつけてね!」

「……はい。では、失礼します」

 一つ、死ねない理由を作ってしまった。

 折角声をかけてくれたのだ。そんな私が死んでしまっては彼女も多少なりとも気にすることだろう。

 流石に、少なくとも一ヶ月は待ったほうがいいのかもしれない。

 いくら彼女の言葉が温かかったとしても、それが死なない理由になりはしない。だって、服を返してしまえば彼女だってただの他人に戻るのだから。


 雨はもう、止んでいる。傘を閉じて、私は呟く。

「面倒なことになったな……」 

 と。しかし、そんな声は、静かな夜の街に吸い込まれていった。

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交わるキセキ、紡ぐ言葉を @Rikka_Hinatsuki

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