第1話「生残者」

 鉄の香る青い夜空。竪琴のような上弦の月。真っ暗な天幕に穴を開けたような、幽かな星々。


 幻想的なほどに美しい月夜の晩に、赤が舞った。その赤は鉄の匂いがして、べったりと夜の廃工場を染め上げる。


 次いで響く、絶叫。声にもならぬ苦痛の声。無音の叫び。それは、廃ビルのあちらこちらから、滲むように聞こえてくる。


「ハッ、ハッ、ハッ――――!」


 バンッ、ガンッ────無機質な金属音と共に、数枚の鉄板が床に落ちる。それも、すぐに炎に炙られてひしゃげていく。


 男は逃げていた。吐息を無数に吐いて、痛みが走るほど足をばたつかせて、狭い通路を走り抜ける。掛けて欠けて駆け抜けて、一寸でも遠くへと逃れるべく、全生命活動を逃走へと費やした。


 体が重い。無数の負傷が、体を蝕んでいる。体だけでなく、その身に纏う機械式の鎧でさえ今や機能の大半を止めていて、もう使い物にならない重りになりかけている。それでもそれらを脱ぎ捨てないのは、補助機能である脚力アシストが機能していて、機動力が最低限生きているからに他ならない。


 それと、背に負う担架装置に付随した、なまくらが如き刀が一振り。それと弾切れ寸前の大型銃。これが彼の、最後の生命線。それを手放せば最後、完全にこの修羅地獄を脱する方法は失われる。


 だが、それらを保持していようが────脱出の保証は、限りなくゼロに近い。


(無理だ無理だ無理だ!!!あんな、こんなバケモノに勝てるわけがない!)


 背後から、足音が追ってくる。気付かれた。


 唯一の生存者。唯一の五体満足者。その存在を許すことはせず、追跡者は餌食にしようと追い縋る。


 立ち向かう意味はない。たった一撃で、戦車のそれに匹敵するほどの装甲を引き裂いて、無数の機銃弾を浴びても平気な奴。そんな奴を相手に、逃走以外の選択肢など取れるはずもない。


 走る。駆ける。翔ける。瓦礫を踏み越え、肉を乗り越え、血を飛び越え、しかしそれは追ってくる。


 当然、男にもそれらは見えていた。かつて上司や先輩だったモノたちの成れ果てが散らばっている。見えていたけれど、見えないようにしていた。人は見たくないモノを見ようとしない。見たいモノしか見ようとしない。選択的視野狭窄。進んで使い分ける自分が、恐ろしく冷酷な刃物のように思える。


 ふと、自分とペアを組んでいた後輩を思い出す。彼女は、初めて出来た後輩だった。二人して意気揚々と臨んだ初任務と聞いて、「でも所詮、ただの生き物でしょ?突撃機銃アサルトガンの掃射で片付くでしょう」と高を括っていたのは、隊長も含めた隊員全員がそうだった。


 それは誤った評価であったことを知るのは、怪異カイイという敵を知るまでのことだった。


 それは、人外未知の怪物。人間の天敵にして、人類史に常について回る、影の存在。その脅威を今、目の前に見たばかりだった。


 キシキシと鳴いては爪をしならせ、バキバキと床が割れたかと思えば、その時にはもう跳んでいる。


 機銃弾は、何十発も命中した。一二・七ミリの大口径弾だ。ややもすれば、軽戦車とて蜂の巣になるほどのダメージのはずだった。


 けれど、まるで効果はない。硬い何かに弾かれ、明後日の方角へと落ちていく潰れた弾丸たちを、無数に目の当たりにした。


 その上から被せられる、無数の血肉と骨。


 隊長は突撃機銃が効かないことを理解した後、ナイフを突き立てた。

 ヒグマはその骨肉の分厚さ故に、口径の大きな猟銃でなければ倒せない。しかし、ナイフであれば話は別だった。

 その判断は間違っていなかった。ただ彼は、知らなかっただけだった。道理から外れた“常識外”には、どこまでも“常識”は通用しないことを。

 ナイフを突き立てようとした瞬間、ナイフはその刃先が欠け落ちた。驚愕をよそにして、次の瞬間には隊長は四分五裂となった。

 パニックを起こした隊員たちを宥めようとした副隊長は、後ろを向いた瞬間に首が胴から離れ落ちた。

 それからは、ただの虐殺であった。

 仲間たちが裂け、抉られ、屠られ、ひねられ、捻じられ、穿たれ、千切られていく。

 素早く、順番と言わんばかりに仲間を殺していったソイツが、目を向けてきた――――霧島騎志郎(キリシマキシロウ)の戦意は、そこで失われた。

 しかしだからと言って、最初から戦わなかったわけではない。

 機銃を連射し、盾を使って何とか応戦していた。だが、盾は用を為さず機銃弾は払われ、あっという間に纏う鎧の機能を破壊されていった。


 そこで理解してしまった。


 射撃の腕が良かろうと、格闘の名手であろうと、あるいは剣術の達人であっても、絶対に敵わないことを理解してしまった。人間相手ならともかく、銃も刃物も効かないそれに、勝てるはずがない。


「センパイ!退却しましょう!」


 ペアを組んでいた西田志摩子(ニシダシマコ)が気を引いてくれて、何とかその場を離脱する。 

 その後は、逃げるしかなかった。それが、出目がどの面も1しかないサイコロを振るような、結末の見えた選択であるとしても、選ばないという選択肢すらなかった。


 背後に聞こえた悲鳴や粉砕音を、完全に無視した。


 逃走経路上にある悲劇の産物を、決して直視しないように努めた。生きるために、1秒でも長く生にしがみつくために――――。


 それでも因果は、怠慢を許しはしない。現実という勅使から逃れることを、許可するはずもない。

 ビルの玄関に繋がる、階段が見えてきた。騎志郎たち特殊部隊”3T”を運んできた輸送車両がある。そこに待機してる第二次突入部隊に、状況を報せねばならない。そうすれば、こんな馬鹿げた作戦も終わりに出来る。


(ここを降りれば────)

 階段に繋がる非常口に辿り着く。硬い金属ドアが聳え立つ。そこ開け放って下れば、安全地帯のはずだ。


(本当にそうか?)


 ドアノブに手を掛ける寸前、彼はふとそんなことを思った。

一瞬間の静止。考える暇など無いことを思い出して、ノブを回そうとした時だった。


「SIIIIIIIII────」


 フロアの角から唸りながら、それはぬっと現れた。鎌のような爪を携えた、熊のような生物。この作戦で討伐する目標だったそれが、炎を逆光にして黒い陰影(シルエット)を投げ掛ける。

 その黒の中で、赤い眼を光らせて騎志郎と志摩子を睨んでいた。

 視線に気付いて、騎志郎は振り向いた。奴と目が合う。背が凍る。奴の口が、真っ赤に濡れていたからだ。

 次にあの牙に、爪に切り裂かれるのは自分たちだろう。そう考えた時、頭の中でガチリ、と音がした。

 思考がクリアになる。最速であらゆる要素を組み合わせ、最適解を叩き出す。それは────。


「志摩子、先に行けッ。俺が奴を食い止める!」


 出来もしないことを口にしていた。それは騎志郎自身がよく知っている。けれどそれ以外で、状況を打開する方策はない。


 返答を聞くより先に、騎志郎は足を止めて突撃機銃のマウントを解除する。

 志摩子は苦々しい面持ちを一瞬見せる。だが、迷う時間はなかった。


「っ、ご武運をッ!」


 駆け下りる志摩子に、騎志郎は全てを託した。部隊の命運と、自分の運命。それだけの重みを担わせるに値する仲間だと、騎志郎は見込んでいる。


「おおおおおおおッ!!!」


 一気呵成に突撃しながら、突撃機銃を発射した。太く重厚な銃声と共に、左腕に強烈な反動が襲い来る。生身であれば到底耐え切れないだろうほどの反動も、騎志郎が身に纏うパワードスーツ────”戦術胸甲”であれば耐えられる。

 航空機関砲の転用品というだけあって、その弾道は素直だ。吹き伸びた火箭は一〇〇メートル離れた怪異へと集中する。

 

「GUッ!」


 怪異(カマイタチ)は唸る。巨躯の半身にも迫るほどの巨大な爪を立てて、一二・七ミリ弾は火花と共に弾かれる。

 彼奴の最も厄介な能力は、その速度。疾風の如く駆け抜けて、巨大な鎌爪で全てを切り裂く。徹底的な一撃離脱の戦術により、騎志郎たちの部隊は対応の余地なく壊滅の憂き目を見た。

 だが。


(跳ばない…………)


 手応えがあった。突撃機銃の一二・七ミリ高速徹甲弾は、通用しなかったのではない。その爪で防いでいた。防ぐために怪異は足を止めることになり、そのスピードを発揮できなかったのだ。

 そこから推測できることは────。


(防御力自体は、大したことないんだろ!?)


 隊長のように潜り込み切る必要はない。爪に対応できる距離で、なおかつ絶妙な間合いで戦えるように立ち回れば、あのスピードを発揮されることはない────その確信を元に、騎志郎はもう一つの武器を抜いた。

 高周波長刀────刀身を超振動させ、切断力を高める機能を搭載した機械式の刀。ひとたび振るえば鉄をも切り裂くそれは、発振させれば戦術胸甲側のバッテリーを大きく消耗するため、使用するのに制限がある代物だ。更に言えば、怪異との近接戦闘は無謀極まりない。算段がなければ、確実に死ぬ。

 いわば、最後の手段とも言えよう。だがそれを使わねば、騎志郎はこの怪異を押さえることは出来ない。

 高速徹甲弾を連射しながら、騎志郎は怪異へ接近する。五〇メートルを二秒で駆け抜ける速度で、一気に距離を詰める。

 

「ッ!」

 

 かち、かち、と銃から反動と音がしなくなった。弾切れだ。

 突撃機銃を投げ捨てる。異形の目が、投げ捨てられた突撃機銃に吸い寄せられるのを、騎志郎は見逃さない。

 

「うおらァッ!」


 頑(ガン)ッ!


 ガードを上げたままの腕に、長刀を叩き込む。あわよくば爪か手首の切断を狙ったが、長刀はまだ高周波機能を起動していない。現時点ではただの鉄の塊な上、こいつの爪は一二・七ミリ弾の運動エネルギーに耐える生物。そう簡単にはいかない。激しい火花を散らして、刃は防がれてしまった。

 だが狙い通りでもあった。この怪異は目の良さ故に、気を取られやすい。もっと早く気付いていれば、他の仲間と一緒にこいつを倒せたかもしれない。

 素早く高周波長刀を引く。膂力で大きく負けていることは確か。鍔迫り合いに付き合っては、押し負けてしまう。

 素早く動いて、次の一撃を打ち込む────。


「────ッ」


 寸前で騎志郎は飛び退く。防御に使っていない方の腕、その凶刃が空を切る。その次に来るのは。


「SHAAAッ!!!」

(アレが来るッ!)


 咆哮。それと共に、怪異の姿が消える。瞬時に足をスイッチして、左に避ける。ザン、という凶悪な風切り音が聞こえたかと思えば、背後の地面に異形が佇んでいる。

 そこにあったボロボロの軽トラックが、音もなく細切れになっていた。

 他の隊員たちを屠った、凶悪な居合術。だが、騎志郎はそれを何度も見たせいか見切ってしまっていた。


「そこだッ!」


 スイッチを入れた。途端に始まるバイブレーションは、激しく刻む心拍の如し。

 長刀が唸った。震動せる刃は大気を裂く。鉄をも切り裂くその刀が、獣の肉を斬れぬはずがない。


斬(ザン)ッ!


「GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA────!!!」


 絶叫。

 脇腹から紫色の体液を撒き散らし、それと共に黒々とした臓物を吹き出しながら、怪異はずしんと倒れた。

 キーキー、と電子音。右腕の簡易ディスプレイを覗けば、もうバッテリー残量は一〇パーセントを切っている。長刀のスイッチを切って、背中の武装担架装置に納める。


「…………え?」


 一通りの動作を終えてから、騎志郎は素っ頓狂な声を上げた。


「お、れ、俺が…………倒したのか?」


 どもりながら、現実を見た。冴え渡る脳内に突如濁流のように流れ込んでくる現実。

 死体が無数に転がっている。数分前までは同僚だったモノたちだ。その中で斃れ伏す異形に、騎志郎は呆然とする。


(一〇〇人の命と引き換えの成果か、これが?)


 いや────その価値はあったと、信じるしかなかった。志摩子と合流する方が先だった。

バン、と轟音が響いた。同時に、熱風と衝撃波がビル全体を駆け抜けて────。

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