5(解決編)

「……お姉ちゃん、その話好きだよね」

 多少軽蔑的な声が返ってくる。ああ、うん──その通りだ。こんなこと、本来なら聞くべきではない。こんな話はさっさと忘れるべきなのだ。

 私が、既に亡くなったはずの、六年前の放火事件の犯人を地獄送りにするための小説を書いているとはいえ。

 それは、目の見えない亜栗鼠の知らないことなのだから。

 私たちの家を、水鏡みかがみ家を襲ったあの六年前の放火事件の犯人は。

 私たちの、お母さんだ。

 今、目の前。やがて亜栗鼠が付き合ってくれて、口を開く。

「お姉ちゃん、あの時アイドルオーディションの二次選考中だったでしょ?」

「うん」

「だからだと思うよ。お母さん、昔アイドル志望だったみたいだし。娘が自分の諦めた夢に簡単に手を届かせたことが我慢ならなかったんだろうね」

 下手したら浦園さんの件より誰も幸せになれないであろう、淡白な解決編が始まった。ある時から、急に興味をなくしたように途切れた、CDのコレクション。

 今も私の部屋に置いてあるもの。

「それだと、自分や一家を巻き込んで心中しようとした理由の説明がつかない」

「お父さんがDVしてたから。それで死にたい気持ちも相まって、それならってことで、家ごと燃やしてみんなお陀仏にしちゃった方が、コストパフォーマンスがよかったんだよ。今回が特例なだけで、現実の事件は、推理小説みたいに一つの動機で割り切れるわけじゃないからね。というかどっちの動機も含まれてないと、それこそもの」

「……うん」

 何度、このやり取りをしたんだかわからない。

 過去の私は、幸せだった。自分の顔の美しさを保たなければ自分に価値はないという強迫観念に駆られてはいたし、そのせいで今はこんな生活を送っているのだけれど、でも、私は本当に幸せだったのだ。だって私は可愛かったから。

 それだけでこの世界にいてもいい存在だと自信を持つことができたし、逆に言えば、私にはそれしかなかった。

 しかし──お母さんは、私のそれを台無しにした。

 父親に睡眠薬を盛って確実に死に至らしめ、私の顔を炎に押しつけてひどい火傷を負わせ、仲の良かった亜栗鼠一人だけは難なく脱出できる位置関係を考え、自分はそれらの全ての責任から逃げるようにナイフで死んだ。ナイフで死んだのだ。炎に身を焼かれることすら、やつは拒んだ。

 だから、私は思った。

 せめて地獄送りになっていてくれないと割に合わない、と。

 自分の、いや、この際私よりずっと頭がいい亜栗鼠の手で、引導を渡されるべきだと思った。だから私は母親が生きている体で今の小説を書いている。「私の顔を傷つけた犯人を、絶対に地獄送りにしてやる」……。

 六年前の放火事件の犯人を十七歳の少女が突き止める小説が、何を意味しているのかは、本当に言うまでもない。

 もう一人の──主人公のモデル。

「ごめんね、こんな話何度もして。本当にごめんなさい」

「いいよ。お姉ちゃんに必要なことなんだよね?」

「うん……」

「なら仕方ないよ。受け入れるよ。私はお姉ちゃんのことが好きだから」

 必要なこと。

 私は、何度かこの事実を確かめながら生きていかないと、気が狂いそうだった。特にここ最近は、母親を憎む気持ちを、常に純度百パーセントで発動させておきたい気持ちがある。あの小説は、私本人のどす黒い憎悪の感情がなければ、作品として完成には至れない。

 だから、必要なんだ、途中で腑抜けてしまわないように。やつのしたことを忘れないよう、この顔の火傷とリンクして記憶できるように。

 そうでもしないと、私は、何を恨めばいいのかわからなくなりそうだった。だって私は、本当は母親のことが──いや。

 もっと純粋な話。

 私の顔は……お母さん似だったから。

 それに、何回もしているのはこの話だけではない。

 この後の話も、そうだ。

 私が亜栗鼠にいつも確認していることがあるなら、その逆もある。

 亜栗鼠が私にいつも確認させていることも、あるのだ。

「安心して」

 亜栗鼠は言った。

 今度は、正面にいる私の頭に手を伸ばそうとして、空振りながら、それでも迂回して頬を撫でてきた。

 七歳年下の妹。離れてはいるが非常識な範囲ではない。あるいは、父と母が私の性格に不満を持ち、新しくこさえた命、なのかもしれないけれど。

 ありえる。けれど、今とくべつ考えたい事柄ではない。

 亜栗鼠が口を開く。

 その先の台詞は──。

 できれば聞かないように──。

 黒い包帯が、こちらを見つめているような気がした。


「だって私が失明したのは、お姉ちゃんのためなんだから」


「……うん」

 この話こそ、何度したかわからない。

 普段は無表情な亜栗鼠だが、私にこれを言って聞かせる時だけは楽しそうな笑顔を忘れていなかった。声にも笑みがにじみ出ている。

 私が今、亜栗鼠と一緒に暮らせるのは。

 私が、まだ自殺せずにいられるのは。

 亜栗鼠の目が、見えないから。

 私の顔を知らないから。

 つまり。

「部屋やお風呂のお世話とか、色々迷惑をかけちゃってるけど……ごめんね、こんな予定じゃなかったの。もっと街中で白杖使って歩き慣れてる人みたいに、全部スマートにやるつもりだった。そしたら、何も見えないのって思ってたより怖くて……。でも嬉しいよ、お姉ちゃんが私のこと見るようになってくれて。お姉ちゃんたら、いつも自分のことしか見えてなかったんだから」

「……うん、ごめんね」

「ううん、いいの。今は大好きなお姉ちゃんと二人で暮らしていられるわけだからね。いつも感謝してるよ」

 感謝してるのは、いや、本来感謝しなければいけないのは、こっちなんだ……。

 もし亜栗鼠の目が見えなくなっていなかったら、私の純粋な顔を覚えてくれている人は誰もいなくなってしまっていたはずだ。

 友達の子どもの頃の姿を思い出せないように、親の若い頃の姿を思い出せないように、人間の認識は新しい方、新しい方へとアップデートされていってしまう。それは写真に残しておいても変わらない。私の精神が、そんなもので満足することはない。

 けれど亜栗鼠が見た景色は、六年前から止まっている。ネットに繋がらない古い機種のように、アップデートされないまま生きている。好きだったアイドルが金髪になったことすら知らない。

 私の顔も同様だ。

 亜栗鼠は、六年前までの私の可愛かった頃の、自分を愛せていた頃の顔を覚えていてくれている。少なくとも本人はそう言ってくれる。それだけが今の私の救いだ。

 亜栗鼠がそれを狙っていなければ、玄関に近い部屋にいた亜栗鼠が、火事の起きた我が家から無傷で逃げられない道理がないのだった。元々、亜栗鼠とだけ仲の良かったお母さんはそれを狙っていたのだから。

 煙をくらって盲目になった、というか。

 仕方のない言葉遊びのようだけれど──亜栗鼠は、六年前に煙を喰らって盲目になったのだ。

 六年前、お母さんに顔を炎へ押しつけられる私を見た亜栗鼠は、全ての事情を察し、目を開けたまま煙の中へ飛び込んだ。。それが、今の状況における全ての、直接的な始まり。

 咄嗟のことでパニックを起こしたというのも、わかる。

 私のためを思っての行動だったことも、わかる。

 しかし、それでも……いや。

 結局これは、私が悪いことだったのだ。私がもっと、亜栗鼠のことを見ていれば、まだ歪んでいなかった頃の純粋な気持ちに気づいていれば、自分の顔ばかり、鏡ばかりを見ていなければ……私が、ナルシストなんかじゃなければ。

 もっと純粋な気持ちで、亜栗鼠と幸せになれていたかもしれないのに。

「安心して、私の中では、お姉ちゃんはあの頃の可愛いお姉ちゃんのままだよ。怪我をすることもない」

「……うん」

「あの頃の可愛いお姉ちゃんのことを私は覚えてる。あのまま、変わることも、老いることも、病むことも、むくんじゃうことも、腫れることも、赤らむことも、爛れることも、整形することも、ダウンタイムも、無駄なマスクも、帽子も、サングラスも、長すぎる前髪も、ひどい火傷だってないし、忘れられることも、ないんだよ」

 背筋がぞくり、とする。

 それが妹に愛されていることの喜びなのか、あるいは恐怖なのかはわからないけれど──あるいは罪悪感かもしれない。

 亜栗鼠をこんな状態にしてしまった、罪悪感。

 そして、多分私は、こんな状況でも、目の見えない、自分が美しかった頃を覚えてくれている人になら、すっと心を開いてしまうのだろうと、それでも確信していることの、背徳感か。

「うん、わかってる、ありがとう、いつも、亜栗鼠」

「こちらこそいつもありがとうね」

 私のせいで黒い包帯を目に巻く羽目になった亜栗鼠は最後に一度笑い、そしてまた真顔に戻った。

 この傷ましさも、私を妹に依存させている要因の一つだ。あの時、あの一瞬でここまで計算して失明する道を選んでいたのだとしたら……、と考えることもあるが、それは何にしろ意味のない想定だった。だとしたら、どうだというのか。

 私は亜栗鼠から視線を落とした。

 一つ、怖い想像をよくする。

 亜栗鼠が、もし、また見えるようになってしまったらどうしよう、と。姉として、最善にして最悪な杞憂が脳裏に浮かぶ。

 医者が言うには、手術で治ることはないということだった。しかしそれは、裏を返せば、自然治癒であれば視力が戻る可能性はあるということなんじゃないのか? 医学の知識なんてない私には判断しようもないけれど、そういうことだってありえるのではないか。人間の自己修復能力は時に予想のできない反復運動を見せる。仮に、そうだとしたら──、

 もしかしたら、もう治ってるんじゃないか。

 そう疑うことを、私はやめられない。

 亜栗鼠は、時々、見えているかのように聡い。いちいち私に聞かないでも物の場所を覚えていたりする。ただ、それが本当に位置を覚えているだけなのか、気配を感じて察しているだけなのか、あるいは──、私は、亜栗鼠が風呂場のシャンプーを取る時に手こずらない理由が、わからない。

 その包帯の奥に、

 何が広がっているのか。

 亜栗鼠には、世界がどう見えているのか。

 私が、どう見えているのか──。

「お姉ちゃん?」

 不意に声をかけられて、緊張で肩が跳ねる。

 見上げると、亜栗鼠はまるで私のことが見えていないかのように──いや、実際に見えていないのか──正面ではなく、私と向き合わない方向を向いていた。左下だ。もし見えていれば、折り曲げている私の右太もも辺りが見えることだろう。

「どうしたの、急に黙っちゃって」

「うん……」

 どうしたもこうしたもない。

 何だか叫び出したい気分に駆られた。その衝動を我慢するために息を止め、そのまま亜栗鼠の胸へと行き着く。少し反応したあと、黙ってまた、頭を撫でてくれる。

 隣の家で火事が起きたくらいのことで、こんなに取り乱すなんて、私は本当に弱い。少なくとも亜栗鼠よりずっと。でも、本当は、亜栗鼠も私と同じくらいに弱かったはずなのだ……。昔は泣き虫で、私の後ろをついて回っていて……。

 うずくまりながら、ねぇ、と声をかける。

 亜栗鼠は応じてくれた。

「今、推理小説を書いてるんだ」

「うん」

「天国のお母さん、喜んでくれるかな」

「そうなんじゃない?」

 亜栗鼠は興味なさそうに答えた。その態度自体が、私が過去に囚われ続けていることを快く思っていないのだと示している。

 過去じゃなくて、今を見てよ。

 自分じゃなくて、私を見てよ。

 おねえちゃん。

 見て、

「見ないで」

「え?」

「ああ……ううん、何でもないの。何でも……」

 そうしてそのあとは沈黙だった。

 何分間経ったのだろう。一通り泣きはらし、知らないチャイムが鳴ったのを無視し、締め切りが近いことを思い出し、いつか部屋に帰った。ブラックコーヒ―を飲み切っていない、自分のパソコンデスクに行き着いた。

 そこに座って、まず、あの手鏡を割った。

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カガミナルシス・ブラインド・ラヴ @mukotsu_tomiya

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