4(解決編)
「うん、あったよね、そんなことが」
亜栗鼠は私の説明を聞き届けて、心に何かを溜めているような声でそう言った。黒い包帯を巻いているから、いまいち表情は掴めない。目は口ほどにものを言うという──もっとも亜栗鼠の場合、表情をつくること自体を既に諦めてしまっているふしがあるが。
妹の部屋の天蓋付きベッドの上で、私たちは隣り合って座っていた。外は、冬の時期でもうすっかり陽が落ちている。
「じゃあお姉ちゃんは、最後に聞こえた『放火事件』ってフレーズがずっと気になってる、ってわけなんだね」
「うん……ごめん、こんなの気持ちのいい話じゃないよね」
「いいんだよ」
亜栗鼠は私のことが見えているかのように、的確に手を伸ばして頭を撫でてくれた。少しくすぐったい。
それにしても、『放火事件』というフレーズは、やはり気になる。
とはいえ、もしかしたら、──と、六年前の放火事件との関連を考えることはないが。そんな関連は、ああ、ありえない。
あの放火事件の犯人が、未だ捕まっていないのは事実だけれど。
「うーん……」
亜栗鼠は顎に手を当てて考え始めた。
元々、推理小説は母親と亜栗鼠の趣味だった。母と亜栗鼠は、多分普通の家庭よりも仲の良い親子だったと思う。そんな二人に父は暴力を振るっていた。そして私は家族とあまり交流をせず、ゆえに孤立していた。
まぁ、そんな昔の感傷小話はどうでもいいのだけれど──要は、私は亜栗鼠の推理力を高く評価している、ということが言いたいのだった。原稿の下読みを読み聞かせしてお願いすることもたまにあるが、正直、そこらの新人編集者よりもずっと有効な指摘をしてくれる。
そんな亜栗鼠だから、もしかしたらこの限られた情報だけでも今回の犯人を当てられるんじゃないかと思ったのだけれど──その予想は、なんと、完璧に当たった。
「うん、多分、犯人わかったよ」
「──えっ!」
二分ほど沈黙が続いたあと、亜栗鼠の一言目はこれだった。
自分で話を振っておいてなんだけれど、本当にわかったのだろうか。現役の推理作家が、何も考えられないまま踵を返したというのに……本当だとしたら少し情けない。
「思いついたのを話さないのもなんだし、聞いてくれるかな。お姉ちゃんは、結論から言っちゃうのと順序だてて話すの、どっちが好き?」
「……後者かな」
本当は犯人の名前から先に指摘する方が好きだけれど、悔しいので意地を張ってしまった。もちろん、亜栗鼠の思考をできるだけトレースしながら聞いてみたいという妹愛的な動機もある。
「うん、わかった。じゃあお姉ちゃん──この事件で一番不審な点は何だと思う?」
「……やっぱり、アタッシュケースかな。不思議なデザインをしていたし、何より、あれだけが現場から回収されているっていうのがわからない」
「だよねだよね。じゃあ今度はいきなり結論を言っちゃうけど、私の考えでは、消防隊員さんたちも本当はそれを回収したいわけじゃなかったんだと思うんだ」
「本当は回収したいわけじゃなかった……?」
ここまで言えばわかるよねみたいなテンションで言われたが、今のところ、はたと見当がつかない。人の考える謎や推理は読み解くのが難しい……オリジナルを書く方がまだよっぽど簡単だと思う。
亜栗鼠は胸に手を当てた。
「うん、つまり、被害者を救助するためにアタッシュケースを回収する必要があったんだと思うんだよ」
「──あ」
なるほど、言わんとしていることはわかってきた。
「お姉ちゃんが言うには、そのアタッシュケースは上下に持ち手があったんだよね? お姉ちゃんは昔から視力がよかったから信用するよ。あ、ごめん、そういう意味じゃなくて……、とにかく私の予想だと、その持ち手にはワイヤーか何かが括られていたんじゃないかな? 片方を被害者の手首に、片方を大きな机の脚に括り付けたんだよ。そうなると、被害者を救助するには、机の脚を持ち上げてアタッシュケースごと運ぶのが一番手っ取り早くなる。だから消防隊員さんたちは、被害者と一緒にケースも回収してきたんだね」
「……なるほど」
腑に落ちる思いではあった。
確かにそれはありえる話だ……いくら私の目がいいとは言っても、窓越しではさすがにワイヤーは見えない。火災現場から、何の要望も受けずに被害者の体以外のものを運ぶ必然性はないのだし、現状これが一番納得のいく説明ではある。
「でも、なんでそんな状態になってたのかな。犯人が浦園さんを逃がさないようにするため?」
「それを考えるためには、もう一つの違和感に気づく必要があるね」
「もう一つの違和感?」
「うん」
例によって思い浮かばない。
こんな調子で大丈夫なのかな、私。
「……消防車、だね。炎が燃え広がったのはのは十分ごろなのに、消防車が来たのは二十八分なんでしょ?」
「え、そうだけど……でもそれは、現場にいた人たちが通報を忘れてたからじゃない?」
「それもあるけど、もっと重大な矛盾があるよ。それは、どうして被害者本人が通報しなかったのか、という点」
「それは、犯人に眠らされてた、とか……」
言いながら気づいた。
そうか。
「浦園さんは火事の四十分前にスマホを操作できてるのか」
「そういうこと」
私が聞いた中では、《つば帽子》の人の証言だ。
十四時半には、以前職場が同じだった彼女に呼び出しのメッセージが送られている。それから四十分後には炎が燃え広がり、何かただならなさを感じたのか、《つば帽子》の人はそのすぐあとに現場に到着した。
つまり、亜栗鼠が言いたいのは──四十分前にスマホを操作できていた人間が、自分の家で起きた火事の通報をできないわけがない、という理屈だ。
「知ってると思うけど、日本の消防車は──過度な渋滞なんかがない限り──遅くとも十分で現場に到着するんだよ。だからこれはおかしいの。無人の家に周囲の人が集まって消火活動をしたんだったら、確かに『誰かが消防車を呼んでくれているはずだ』っていう集団心理で通報が遅れるのはわかる。けど今回は独身の家主が家にいた。つまり、その人は火元を発見しておきながら、あえて消防車を呼ばなかったってことになるよね」
言わんとしていることが。
だんだん、全容を掴めてきた。
しかし──。
「ごめん、もう、わかったかもしれない」
「……うん」
「言っていい?」
「いいよ、お姉ちゃん」
会話しながら、私はなんてことを妹に言わせるところだったんだ、と反省していた。
現実に起きた事件を推理小説みたいに解読してみせるなんて不謹慎だ──というのも、ある。もちろんある。亜栗鼠は十一歳からほとんど学校に通っていないのだから、あらゆる教育は全て私の義務となる。そう考えればこんなに情操教育に悪い内容はないだろう。しかし。
ある意味で、もう少しで私は、最も言わせてはいけない言葉を妹に、亜栗鼠に言わせてしまうところだった。
真相に気づかなかったのはもう間抜けとしか言いようがないけれど──だからこそ、今からでも言わなければならない。推理を横どりするわけではない、これを言うのは私の仕事なのだ。
隣り合う、亜栗鼠の包帯を見ながら言った。
彼女は。
「犯人は、浦園さん自身だった」
「……そう、だと思う」
焼身自殺。
あらゆる死の中で最も傷ましい死。
それが、私たちの隣で起きていたのだ──もう一度。
「一応、まだ他に犯人がいると考えることはできるよ。スマホだって真犯人が操作したのかもしれないし、ワイヤーだって誰かに繋げられていたのかもしれない。被害者は睡眠薬で昏倒させられていたのかも。でも、この仮説には一つ、無視するには大きすぎる根拠があるの」
「……そこでアタッシュケースの問題に立ち返るわけだね」
「そうだよ、お姉ちゃん。例の仕掛けを作った人は、多分どうしてもアタッシュケースを誰かに回収してほしかったんだと思う。
でね、ここで問題なのが──焼身自殺では、遺書を残しようがないってことなんだ。普通の封筒に入れて自殺したら、跡形もなく燃え尽きちゃうからね。焼身自殺は強い抗議の意を示す苦しい死に方なのに、遺書を残すのが難しい。だから、被害者──というか、その人は、例の仕掛けを思いついたんだと思う。遺書の入った耐火加工のアタッシュケースを確実に回収してもらうために、ね」
「……なるほど、全部、説明がつくね」
「動機は多分、職場でのパワハラを訴えるため、とかじゃないのかな。以前同じ職場にいたっていう女の人に連絡してわざわざ呼びつけたんだったら……、その人がパワハラの犯人か、あるいは遺言で後始末を押しつけたかのどっちかなんだろうね」
何も言えず、沈黙が生まれる。
私が間接的に摂取した話だけで、本当に全部、説明がついてしまう。隣の家で起きた焼身自殺。そうだ、そもそも、他殺事件ならば、警察が私たちの家に一度も訪問しないなんてことがありえないのだ。「ある意味放火事件」という、持って回った言い回しにも納得がいく──いくだけで、そんな言葉はもう二度と使ってほしくないとすら思うけれど。
唐突に、六年前の光景が目に浮かぶ。
自分で聞いておいてなんだけれど、それは、本当に、一番あってほしくない結末だった。
唯一救いがあるとしたら、浦園さんはまだ死んだと決まったわけではない、という点か。大火傷はしただろうし、そもそも正常に社会復帰できるのかもわからないし、自殺を試みたという事実そのものが既に重いが、それでも命は命だ。物種は物種である。
私の両親とは違って、
あの人は、生きているかもしれない……。
「ねぇ、亜栗鼠」
それでも。
私は、堪えられているだろうか。
わからない。
「なに、お姉ちゃん?」
「ありがとうね、こんな私のそばにいてくれて」
「え、何言ってるの。お姉ちゃんはお姉ちゃんなんだから当たり前でしょ? 家族なんだよ? 私の目が見えなくて満足に動けないのを抜きにしても、私はお姉ちゃんのことが好きだよ」
家族なんだから、か。
浦園さん……は、多分独り身だったけれど、彼女も木の股から生まれたわけではない。両親がいて、兄弟姉妹がいたかもしれない。では、それは、果たして幸せなことなのだろうか? 浦園さん本人にとってではなく、彼女以外の全家族にとって……焼身自殺を試みた家族がいるということは……。
私個人の感想を言うなら。
それは、幸せなことではない。
「じゃあ」
口を開きながら、六年前の火災を思い出す。母親。父親。妹。私。あの時、亜栗鼠の部屋より向こうは火の粉に包まれ、玄関まで辿り着く手段はどうしてもなかった。当然だ。
それは本当に、当然のこと。
私は亜栗鼠の正面に座り直した。
「お母さんは、なんで私たちのことを殺そうとしたのかな」
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