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──ああ、消防車はまだなのかよ!
──すみません、水持ってきました!
──これ、水かけてどうにかなると思います?
午後三時十八分。私の家の隣では、そういう怒号やらわめきが飛び交っていた。場所は少し狭い程度の、一本道の普通の住宅街。
その場にいたのは三人。それぞれ、スーツを着た中年男性と、眼鏡をかけた若い男子と、冬用のつば帽子を被った四十代程度の女性である。
被害に遭ったのは、隣の家の
私がその火事に気づいたのは、多分誰よりも早かったと思う。その時、私は亜栗鼠の部屋を掃除していたのだが、隣の家から視認できる程度の火が出たのは、三時十分ごろの出来事だった。
私は巻き込まれないためにひとまず亜栗鼠の部屋の電気を消し、ばれないように見張っていたのだけれど──それから三分して、通りすがりの、営業中らしい《スーツ》の中年男性と、部下か何かであるのだろう、若い《眼鏡》が火事を見つける。これは同時のことだ。二人が焦っている間、一分もしないうちに《つば帽子》が駆けつける。
《スーツ》たちと《つば帽子》はお互いに反対方向から来たので、相手が先に現場に到着したと思い込んでいるようだった。まず《スーツ》が現場に残り、《眼鏡》が(正しい対処とは思えないが)近くのコンビニで水を購入してくる。《つば帽子》は増援を期待して近隣の住宅に手当たり次第チャイムを押したが、私は留守を装ったし、他の家の人たちも出てくることはなかった。多分そちらは純粋に留守だったのだろう。事件が起きたのは金曜日だった。
──自己弁護だけれど、あの場で妹を置いて顔を晒しながら火事の現場に直面するのは、私には無理だった。
創作のヒントのためか何か思うところがあったのか、自分でも不思議と、かの様子には刮目してしまったけれど──精神的に、まだ、そこまで回復していない。たとえば手足の震えがある。
それは亜栗鼠も一緒だった。外に気づかれないよう、恐怖で叫び出しそうになるのをお互いに抑えつけるだけで精一杯だった。
とにかく。
午後三時二十八分に、のぞまれて消防車が到着した。午後三時十八分ごろの、《スーツ》による「消防車はまだなのかよ!」という言葉から、まだ誰も通報を済ませていないという事実が発覚したのだ。気の強い《スーツ》と《つば帽子》の間で責任を押しつけ合う口論が発生しかけたが、すぐに到着した消防隊員によっていさめられる。公平に見れば、先に到着したのは《スーツ》たちの方だったのだが、最寄りの消防署は徒歩七分のところにあるので、おそらく土地勘のあった《つば帽子》も気づくべきではあったと思う。私が言えたことではないが。
在宅していた浦園さんは、すぐ隊員に担架で運ばれていた。ブルーシートが被せられ詳細には見えなかったが、その際の印象に残っている出来事として──電車の連結部のように上下に持ち手がついた、不思議なデザインのアタッシュケースが、なぜか一緒に運ばれていたというものがある。
そして、それから三時間後。
私は後学のため、消火活動の終わった現場を見学しに行くことにした。帽子と長い前髪とサングラスとマスクで、顔はほとんど隠している。
浦園さんの家は二階建ての一軒家で、一階は半焼していた。焼け跡が濃く残っている前で、警察が例の三人に事情聴取を実施している。見つかって顔面火傷の不審人物と認定されてはかなわないので、遠くの物陰から少ししか聞き取れなかったが、得られた情報は以下の通りだ。
《スーツ》「私とこれは製薬会社の営業の仕事をしています。仕事でこの辺りを通ったところ、煙が上がっているのを見つけて……ちょうどノルマを捌ききったあとでしたので、野次馬気分で見に行ってみたら、思ったより人がいなかったので消火活動に」
《眼鏡》「先輩の説明した通りです。僕は……コンビニで水を買ってきました。ええ、いや、追及されるとちょっと恥ずかしいんですけど。変すよね、やっぱり。あ、ちなみに、僕は研修中で、今は先輩の仕事を隣で見させてもらってる立場です。商品の管理は先輩の担当ですね」
《つば帽子》「私、浦園さんとは前の職場で付き合いがありました。最近は疎遠がちでしたが、今日の二時半になって『一時間後に家に来てください』ってメッセージが突然……。それで行ってみたらこれで、もう私、何がなんだか」
以上、三点。
隣の家で火事が起きてこんな中途半端な野次馬行為に出るなんて私も救えないやつだな、などと感傷に浸りながら、私は十五分ほど滞在して家に戻ることにした。少し不思議な点もあったが、べつに推理作家として胃に溜まるほどの物はない。自分の創作ならいざ知らず、現実の事件には関わることすらできず、変な虚脱感を覚えながら、踵を返そうとしたところ──だった。
ちょうどその時、不用意な刑事が失言をしたのだ。
「じゃあこれは、ある意味で放火事件ってことなんですかね、先輩」
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