「あ、お姉ちゃん?」

 ノックをすると亜栗鼠が朗らかな声で確認してくれた。初めの頃はこういうのも都度怯えた調子だったが、さすがに六年も経ったので、私が家に他の人間を入れることなどないと了解しきっているらしい。

「うん、私」

 一応返事をしてドアを開ける。亜栗鼠の部屋に鍵穴はない。

 中に入ると、少しだけ独特なにおいが鼻に届く。亜栗鼠は介助なしでは風呂に入れないし、掃除も一人ではできない。とはいえその辺りは毎日私が時間を割いているので、部屋に溜まっているのは、普通に人の部屋に入った時のあの独特な感覚でしかない。

 六畳の部屋は本来そう広いとは言えなかったが、実際以上の開放感のある部屋だ。家具はほとんどなく、水筒とコップ三つだけがベッドの脇に置かれている。そしてそのファンシーな天蓋付きベッドの上で、亜栗鼠は上体を起こしていた。刺激を取り入れないために、彼女の目元には黒い包帯が巻かれている。

 ──妹の亜栗鼠は、六年前の火事で全盲になった。両目を失明している。

 煙を目に被ったことにより、角膜障害を患った。亜栗鼠の両目は常に充血しきったような赤目になっており、だから、この子が目元の黒い包帯を基本外さないのは、多分そのためでもある。お互い、見た目のコンプレックスを気にしているのだろう。

 しかし──私は違う。

 なぜなら。

「……亜栗鼠、少し近くに寄ってもいい?」

「うん。べつに、お姉ちゃんだったら断りなく近づいていいよ」

「ありがとう」

 私は亜栗鼠と同じベッドに乗り、正面に膝を立てた。手を伸ばし切らなくても顔に触れるような距離だ。

 亜栗鼠の長い黒髪に触れないように気をつけて過ごす。それは渦を巻くようにベッドに垂れていて、私は、そろそろ切った方がいいなと思った。亜栗鼠の髪を切るのも当然私の役目だ。火事の後遺症なのか純粋なストレスなのか、十七歳にしては白髪が多い。

 

 それが、私とこの子が違う理由だ。

 目の見えない亜栗鼠の中では、この子の記憶の中では──あの頃の美貌を伴った私が、凍るように永久保存されている。だからこそ、私は妹と二人暮らしができるのだ。もし亜栗鼠の目が見えていたら、私はどうしていただろう? 絶縁した友人たちの顔が脳裏に浮かんだ。

 それでも、そんなことは考える必要がない。

 だって今の私は、亜栗鼠のことを愛しているのだから。

 というわけで、私は亜栗鼠の胸にそうっと身を任せた。

「……何か、辛いことがあったの?」

「辛いことならいつでもある」

「ふふ、そっか。そういえば締切が近いんだっけ? うん、お疲れ様。思う存分休んでね」

 そう言いながら、亜栗鼠は私の頭を撫でてくれた。窓からは日が射しこんでいる。

 この光を、亜栗鼠は見ていない。

 私の顔が照らされることも、ない。なにものも、この黒い包帯の奥まで突き抜けることはないのだ。亜栗鼠の目に届くことは、ない……。

 その事実に、不謹慎ながら安心する。両親を喪い全ての交友関係を絶った私が、今更私がまともに接することのできる相手なんて、本当にこの子しかいない。

 ふと、唐突に、母親が集めていたCDのことを思い出した。私が生まれる前の趣味だったらしいアイドルのコレクションは、火災で焼けずに残ったのだ。率直すぎるところがあった母は、私の父にいじめられていた。連続で並んでいたはずのアイドルCDたちは、ある一時期からばたんと途絶えている。

 それに加えて性格の悪い私を筆頭に、元からどうしても仕方のなかった私たち家族の中で、亜栗鼠だけはいつも優しかった。だからこそ、いま私とこうして生活することになっている……と、言って言えなくはない。

「お姉ちゃんはいつも頑張っててすごいよ。自分のためにも、私のためにも……ううん、いつもありがとう。書き上がるのを楽しみにしてるね」

 目の見えない妹を、私は愛している。それは、私が、自分の顔を見られずに済む相手を他に知らないから……かもしれない。けれど、今、私が本当に亜栗鼠のことが好きだという事実は変わらない。そのことに精神を救われた回数も、これから減ったりすることはない。

 私は、亜栗鼠のことが、大事だ。

「……でも」

 亜栗鼠は言葉をこぼした。

「何か他に用件があったりしない? お姉ちゃん、仕事中毒だから、締め切りの時期は私の部屋に来ることが少ないような気がするんだけど」

「ああ、うん」

 返事をして、私は顔を上げた。白髪交じりの髪と、黒い包帯が目に留まる。

「実は一緒に話したいことがあって。少し不愉快な話になってしまうと思うけど……いいかな」

「もちろん。お姉ちゃんがしたい話なら、私はいつでも大歓迎だよ」

 じゃあ、と口を開く。

 こんなこと、本来六歳も年下の妹にする話ではない。けれどどうしても気になってしまったのだ。一人の物書きとしても、放火事件の遺族としても……。私はあれの真相を知りたいと、心から強く感じていた。

 窓の外に、隣の家が見える。庭にはカラフルな花たちが植えられており、その一部分が、燃え尽きているようだった。

 私は亜栗鼠の隣に座り直して、本題に入る。

「三日前に隣の家が火事になったこと、覚えてるよね?」

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