第7話 出会い
「……子猫?」
私は地面に転がる、小さな黒い物体に近付いた。やっぱり猫だ。小さな黒猫は、四肢を放り出すように横たわっている。
「アナタが鳴いていたの?」
しゃがみ込んで子猫を覗き込む。さっきの鳴き声は、この子の声で間違いない。でも、もう鳴き声は上げていなかった。それどころか、瞼を閉じて微動だにしない。
「この子、もう……」
不意に視界がにじむ。初めて見る子猫の最後に、不思議と胸が痛んだ。いや、不思議でもなんでもない。ただ思い出しただけなんだ。昔感じた痛みを……。
「……にゃぁ」
「えっ?」
慌てて両の瞼をゴシゴシと擦る。
「今……鳴いた?」
私は恐る恐る子猫のお腹に手を当てた。微かな……本当に微かな鼓動を感じる、
「まだ、生きてる……」
でもかなり弱っている。体も冷たい。低体温症になってるんだ。
「は、早く暖めなきゃ」
でも、ここには暖房も毛布もない。一番暖を取れそうな物は……。
「人肌……」
私は子猫を優しく抱き上げ、胸元を開けると、子猫をワイシャツの中に収めた。更に上着のボタンを締め、服の上から両手で子猫を覆う。そして体育座りのように膝を立て、全身で子猫を包み込んだ。
まずは体を暖めること。この子には、それが最優先だ。
「お願い、死なないで……お願い……」
私は子猫を優しく抱きしめながら祈った。自分の身に降りかかった不幸など忘れ、ただただ小さな命が消えないようにと。
「お願い、神様でも女神様でも誰でも良い。この子を助けて」
私は願うことしかできない。
悔しい。紗羅に裏切られた時よりも、神殿から放り出された時よりも悔しい。ただただ、自分の無力さが腹立たしい……。
「…………にゃぅ」
私は反射的に自分の胸元を覗き込む。子猫が少しだけ瞼を開け、私の顔を見上げていた。
「目を覚ました」
「にゃぁ……」
子猫は再び弱々しく鳴いた。そして私の目に、再び涙が溢れ出す。
「って、泣いてる場合じゃない。目が覚めたら次は栄養補給を……」
でも、私は自分の食糧すら持ってないんだ、とうぜん子猫が食べられる物なんて無い。元気な状態なら固形物でも大丈夫だと思うけど、今の弱ってる状態では難しそうだ。スポーツドリンクやミルクが有れば……。
「……ミルク?」
私は子猫を挟んでいる自分の胸を見た。
「いやいやいやいや、出るわけないから」
バカなことを考えている場合じゃない。なんとかして、この子に栄養を……、
「……あっ」
私はある物を思い出し、ズボンのポケットを探った。グニャリとした柔らかな感触が掌に伝わる。生ゴミの山で紛れ込んだ、腐ったリンゴだ。確かリンゴは猫が食べても大丈夫だったはず。腐った部分は取り除けば良い。
でも、どうやって腐った部分を取り除く? 素手でキレイに取り除くのは難しそうだけど、ナイフなんて持ってない。それに今はこの子を暖めていなければならない。両手を放したら、この子が服の中に落ちてしまう……。
「……えぇい! 迷うな!」
方法は一つだ。
私はポケットからリンゴを取り出した。表面は柔らかくヌルヌルとしている。生ゴミと同じような臭いもする。私は、そんな腐ったリンゴに噛り付いた。
「うぅえぇ!」
味、臭い、歯ごたえ。その全てが不快すぎて、空の胃袋から胃液が逆流してくる。私は素早く口の中のリンゴを吐き捨てた。そして再び噛り付き、吐き出す。それを何度か繰り返し、表面の腐った部分をこそぎ落として行った。
「はぁ……はぁ……やっぱり、中までは腐ってなかった」
私は吐き気をこらえながら、なんとかリンゴを食べられる状態にすることができた。
「後は……」
私は別のポケットからハンカチを取り出し、自分の口の中に突っ込んだ。更に歯磨きをするように、ハンカチで歯や歯茎を擦る。腐ったリンゴを口内に残さないために。私は歯ぐきから血が出そうなほど、力いっぱい口内を磨いた。
「これでなんとか……」
私は胸元の子猫に声をかける。
「ねぇ、これからゴハンをあげるから、頑張って食べてね」
子猫は私の顔を見上げ、消え入りそうな声で「にゃあ」と鳴いた。それが「分かった」と返事をしてくれたように感じて、思わず微笑んでしまう。
「じゃあ、いくね」
私はリンゴに噛り付き、口の中で咀嚼する。そして充分に噛み砕いた後、私は子猫の口に唇を押し当てた。口移しでリンゴを与えるためだ。ゆっくり、ゆっくり……私は口の中の噛み砕いたリンゴを、子猫の口の中へと流し込む。
動物に口移しで食べ物を与えちゃいけない。それくらいは私も知ってる。でも、今は他の方法が思いつかなかった。
「ふぅ……」
私は唇を放し、子猫の様子を眺める。しばらく口をモゴモゴしていた子猫だが、やがてコクンと喉を動かした。
「あぁ、良かった……食べてくれた」
ホッと胸を撫で下ろす。でも油断は禁物だ。私はその後も子猫を暖めながら、口移しで少しずつリンゴを与えて行った。太陽が沈み、空が茜色に染まるまで。何度も何度も……。
……そして、気が付くと私はまた闇の中に居た。何となく夢の中なんだろうなと理解する。我ながら、あんな場所でよく眠れるもんだなぁ。猛獣どころか、モンスターが居たっておかしくない世界観なのに。
しかし起きようとしても、瞼は開かないし体も動かない。きっと疲労が溜まっていたせいだろう。私は仕方なく、ただただ無音の闇を見つめていた。
このまま朝まで眠り続けるのかな? そう思っていた矢先、前方に薄っすらと人型のシルエットが浮かび上がった。あれは……女の子? 女の子が両腕に何かを抱えて泣いている。私はその女の子に、どこか見覚えがあった。
あれは……私?
そうだ、アレは私だ。子供の頃の私。抱えているのは、生まれて初めてできた大切な友達。大切な「あの子」。そして、その大切な「あの子」を失った時の、私……。
暗闇の中、泣き続ける自分を見ているのは正直辛かった。でも目を背けたくても体が動かない。これは私への
私は漠然と過去の自分を見つめ続ける。すると突然、腕に抱いていた「あの子」が鳴きだした。そして「あの子」の全身が、少しずつ黒くなっていく。まるで白い絵の具に、黒い絵の具を混ぜ合わせるかのように。
やがて「あの子」は、この世界で出会った子猫へと姿を変えた。子猫は私の腕から飛び降りると、私の周りを元気に走り回る。
そうか……アノ時の痛みは、全くの無駄じゃなかったんだ。「あの子」との思い出が、子猫を救ったんだ。良かった……。
「……にゃあ!」
「……ん?」
その声に、私の意識は夢の世界から現実へ引き戻される。
「あれ……キミは……」
やはり私は、あのままの体勢で寝てしまっていたらしい。目を覚ますと、黒い子猫が私の頬をペロペロと舐めていた。空は青く輝き、そよ風に枝葉が揺れている。影の差し方から、時間はお昼前だと思う。
「おはよう、少しは元気になった?」
私は子猫の頭を、指先で優しく撫でる。子猫は私の瞳を見つめ、コクリと頷いた。緊張が解れるように、全身が脱力して行く。
「そっか、良かった。でも、まだ完全じゃないだろうし無理せずに……」
……あれ? 今この子、頷いた? まるで私の言葉を理解したみたいに。いや、まさか……。でもココは、私の居た世界じゃないし……。
「……あの~」
「にゃあ」
「ひょっとして、私の言ってることが分かるの?」
「にゃあ」
やっぱり。この子は私の言葉を理解し、返事をしている。本来なら、大げさに驚いて見せるのが正しいリアクションなんだろう。けれど、ここはファンタジーの世界。「さもありなん」と言った感じだ。
「どこか痛いところはある? お腹は空いてる? して欲しいことが有ったら教えてね」
私は目の前の不思議現象を素直に受け入れ、子猫の頭を撫でる。自分が転移させられたり、暗殺されかけたことを考えれば、猫が人語を理解するくらい何だと言うのか。
「……にゃぁ」
気持ち良さそうに頭を撫でられている子猫。改めて見るとキレイな毛並みだ。太陽の光を反射しそうなほど、美しくて深みのある漆黒。肌触りも良い。首輪などは付いていないが、野良猫だろうか? そもそも、この世界に猫を飼う風習があるかどうかも知らないんだけど。
「キミはどこから来たの? 仲間はいる?」
群れがあるなら連れて行ってあげよう。この場に捨て置くことはできないし、命を狙われている私が連れ回すわけにも行かない。
子猫は私の問いかけに対し、無言で私の顔を凝視する。そして前足を突っ張ると、私の腕の中から飛び出した。
「ど、どうしたの? 苦しかった?」
「にゃあ」
地面に着地した子猫は私の問いに答えず、空に向かって一声鳴いた。すると……。
「ん?」
子猫の全身の毛が波立つ。その波はみるみるうちに大きくなり、うねる様に激しさを増していった。そして、子猫の毛が瞬く間に膨張していく。
「な、なになに?」
よく見ると体毛だけじゃない。子猫の全身が膨れ上がり、そのシルエット自体を変えて行った。そして脳裏に蘇る街中の風景。まるでコスプレのように見えた、頭にケモミミを乗せた人々……。
「まさか……この子も……」
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