第6話 逃走

 影が地面に置いたナイフに片手を伸ばす。その瞬間、私の口を押さえていた方の手が僅かに緩んだ。


 今だ!


 私はその隙を見逃さず、思いっきり影の指に噛みついた。噛み千切るくらいの勢いで。


「ぐぎゃぁあああ‼」


 影が絶叫する。私はすかさず、ブリッジの要領で腰を突き上げた。私の体に押し上げられ、影の腰が僅かに浮く。


 下手ながら何度も繰り返した寝技の練習。まさか、こんなところで役に立つなんて……。


 私は素早く、影の股の隙間から這い出る。そしてよろめきながら立ち上がり、全力で駆け出した。


「くそアマァ‼‼」


 影の怒声が響き渡る。仕事が外回りだったので、ローヒールを履いていたことがラッキーだった。私は声を無視し、静まり返った商店街を駆け抜ける。


 残念ながら通りに開いているお店は無い。それなら食堂に行こう。あの店なら、まだ開いているはず。そこまで辿り着けば……。


 しかし私のそんな淡い期待は、脆くも崩れ去ってしまう。


「うぎゃぁああああああ!」


 影の声……じゃない。駆けながら振り返ると、私は地面に倒れ込む人影を見た。すぐに視線を戻したため、ハッキリとは分からない。しかし倒れた人影には見覚えがあった。確か、さっきの食堂で噂話をしていた男性……。


「まさか……」


 目撃者を殺した?


「……ダメ」


 私は角を曲がり、食堂とは別の道へ向かった。


 影の正体は分からない。それでも一つだけ確かなことがある。アイツは人を躊躇ちゅうちょなく殺せる。例え相手が無関係の一般市民だとしても。


 食堂に逃げ込めば店内の人達が、宿屋に逃げれば、あの女の子が被害にあう……。


「それはダメ……」


 私は見知らぬ街を勘だけで逃げ回った。人気ひとけのない路地を選び、ただがむしゃらに駆け抜ける。


「はぁ……はぁ……」


 しかし、やはりと言うべきか、当然のように私の体力は底をつき始める。体力に自信はあったけど、それはあくまで一般的な成人女性と比べての話。もつれる足を何とか支えるが、限界は近かった……。


「やだ、やだ、やだ……」


 殺されたくない、犯されたくない……。恐怖に押しつぶされそうになりながら、私は何とかして両足を前に運ぶ。その時、路地の先から鼻が痛くなるほどの異臭を感じた。そして現れる、何かを積み上げた小山のような物体。


 一瞬で理解した。アレはゴミの山だ。それもおそらく、生ゴミを集めた腐臭の塊。生ゴミの山は1m近い高さがあり、とても一家庭が出せる量ではなさそうだった。


「……アレだ」


 迷っている暇はない。私は全力疾走する勢いそのままに、生ゴミの山に飛び込んだ。


「……うっ!」


 生暖かく、ヌルヌルとした感触が顔を伝う。それと同時に、脳みそが破裂しそうなほどの悪臭を感じた。私はその中で必死に息をひそめる。身動きせず、呼吸を止めて、ジッと耳を澄ませた。


 やがて潜むような足音が聞こえてくる。影だ。私はそう直感した。私は口を手で覆いながら耐える。お願い、見付けないで……と、心の中で叫びながら。


 どれほどの時間が経過しただろう。


 息が限界間近になり、ようやく遠ざかる足音が聞こえた。私はそれから更に数秒、生ゴミの中で息をひそめる。


 そして本当に限界となり、私は生ゴミの山から飛び出した。


「はぁ! はぁ! げほっ! ごほっ!」


 急いで酸素を取り込み、激しくせき込む。ぼやけていた意識が、徐々に鮮明になっていく……。同時に、嗅覚もハッキリしていった。


「うっ……おぇええええええ!」


 胃の中の物が全て逆流し、新たな汚物を生み出してしまう。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 私は息を整えながら、フラフラと立ち上がった。まだ安全が確保されたわけじゃない。早くこの場から逃げなきゃ。


 ……でも逃げるって、どこに?


 宿屋には戻れない。とうぜん神殿に戻ることもできない。かといって、他に身を寄せられる場所もない。グズグズしていたら影に見付かる。そう考えると……。


「……街を離れるしか……」


 私は食堂で盗み聞きした情報を思い出す。


 この世界は私達の世界とは違い、大半が整備されず自然のままとなっている。まさしくRPGのフィールドをイメージさせる世界観だ。つまり街を出れば、人目を忍ぶことは可能なはず。幸いにも この街は、入るための審査は厳しいが、出る方は緩いらしい。


 私はゴミ捨て場から適当なボロ切れを拾うと、顔を隠すために頭から被った。そして足早に、街の出入り口である巨大な門へと向かう。


 街の出入り口である門は、基本的に常に解放されているらしい。流石に今の時間になると人通りは少ない。けど、当然のように衛兵は居る。私は俯きながら、彼らの前を通り過ぎようとした。


「ちょっとアンタ」


 顔を隠す私に、一人の衛兵が歩み寄る。


「悪いけど、顔だけ確認させてくれ」


 神殿がどこまで網を張っているか分からない。もし衛兵も神殿関係者で、私の話が伝わっていたらマズイ。


 走って逃げてしまおうか? そう考え始めた時……。


「うっ! くせぇ!」


 私に近付いた兵士が、鼻をつまんで後退った。私の全身に沁みついた生ゴミの臭いだ。


「ったく、浮浪者かよ。お前らが街から出てってくれるのは大歓迎だ。さっさと消えちまえ」


 兵士は片手をパタパタと振り、私に慣れろとジェスチャーで訴える。ラッキーだ。私は兵士にペコリと会釈をして、足早に門を潜り抜けた。


 それからは必死に街から離れた。どこをどう進んだのかも覚えていない。ただただ必死に暗闇の中を進んだ。そして……。


「もう、無理……」


 やがて視界が暗転し、膝が折れる。ついに私は限界を迎え、その場に崩れ落ちた。身の危険など心配する余裕はなく、閉じ始めた瞼を支える力もなく、ただただ遠のく意識に身を任せた……。


 しばらくすると、暗闇の中に母親、友人、同僚等……元の世界で親しかった人達の顔が浮かんだ。これは、ひょっとして走馬灯? 私、やっぱり死ぬの?


 何となく納得しかけた時、彼女の顔が思い浮かんだ。昨日まで可愛がっていた会社の後輩。そう、紗羅だ。


「さようなら、先輩♥」


 あの時のセリフ、あの時の顔が何度も繰り返される。その度に、私の中に熱い物が込み上げてきた。


 紗羅……私を見捨てた紗羅……。


 今の境遇を彼女の責任にするつもりはない。でも、あのセリフとニヤケ顔は許せない。紗羅に一言も文句を言わずに死にたくない。このまま死んで……死んで……。


「死んでたまるかぁ‼‼」


 心の叫びが、脳内の暗闇を払う。


「痛っ‼」


 とたんに全身を襲う激痛と、白く眩い視界。


「私……眠ってた?」


 そして今、目覚めたらしい。私は痛む体を支えながら上体を起こし、周囲を見渡す。頭上には青い空が広がり、周囲には青々とした木々が不規則に立ち並んでいる。どうやら私は街道を外れ、森の中に迷い込んでしまったようだ。


「ここはいったい……って、臭っ!」


 自分の体からただよう悪臭に顔をしかめる。そうだ、昨日影から逃げるために生ゴミの山に飛び込んだった。


「……影」


 ゾクリと悪寒が走る。そう、私は命を狙われたんだ。あの顔も見えない影に。私は震える肩を両手で押さえ、気持ちを落ち着かせようと深呼吸を……。


「臭っ‼」


 ダメだ、こんな臭くちゃ深呼吸もできない。


「どうしよう……」


 生ゴミ臭いまま途方に暮れていると、遠くからサラサラと涼し気な音が聞こえてきた。


「これは……川?」


 私は慌てて立ち上がり、よろめきながら音のする方角へと駆ける。両足はズキズキと痛むが、そんなことは気にしていられない。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 息も絶え絶えに駆け抜けた先に、予想通りの物が現れた。


 川。それも川底が見えるほど透き通った清流。私は周囲の注意確認も忘れ、スーツ姿のまま川に飛び込んだ。


 瞬時に心地良い清涼感が全身を包む。私は両眼を閉じたまま仰向けになり、しばらく川の流れに身を任せた。全身の汗や悪臭、その他あらゆる不浄な物が流されて行く気がする。


 薄っすらと目を開けると、空には眩い太陽が燦々さんさんと輝いていた。川底は浅く、流される心配もない。私は気が済むまで、清流に浸り続けた……。


「へっくしょん!」


 しかし何時までも浸かってはいられない。私は身震いしながら川から上がり、着たままのスーツを絞った。


「臭いは落ちてるかな?」


 私は袖に鼻をつけてクンクンと臭いを嗅ぐ。不思議な程に、悪臭はキレイサッパリと消えていた。私は一通り水気を絞り落とすと、近くの木の幹を背もたれに腰を下ろす。ようやく一息付けた気分だった。


「……ん?」


 座った瞬間に違和感を覚え、私はお尻のポケットを探る。そこには金貨の入った小袋と、腐りかけたリンゴが入っていた。リンゴは、生ゴミの山に突っ込んだ時に紛れたのだろう。表面がヌメヌメして、若干柔らかい。


 ぐぅ~~~。


 そんな腐りかけたリンゴを見て、私のお腹が鳴る。胃の中の物を全て吐いてしまったせいだろう。


「……ぐ……う、うぅ……」


 情けなくて涙があふれてきた。今の私が口にできる物はたった一つ。この腐ったリンゴだけなんだ。


 命を狙われ、ゴミにまみれ、腐った果物にお腹を鳴らす。なんで私が、こんな目にあわなければならないんだろう。


 昨日の朝は、仕事帰りにケーキでも買って帰ろうなんて考えていたのに……。


「誰か……誰か助けて……」


 私は両ひざを抱え、声を殺して泣いた。何も考えられず泣き続けた。それ以外、何をする気も起きなかった。


 その時だった……。


「……にゃあ」


 微かに聞こえた、消え入りそうな鳴き声。それは今の私と同じ、助けを求めているような気がした。私は重い腰を上げ、声の聞こえた方へヨロヨロと歩き出す。


 私は深い雑草をかき分け、朽ちかけた倒木を乗り越え、森の奥へと分け入っていく。鳴き声は、近付くほどに弱々しくなっているように感じた。


 やがて私は声の主と対面する。


 それは地面に横たわる、小さな黒猫。


 そう、それが彼との出会いだった……。

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