第5話 影
食堂は宿屋から徒歩で五分ほどの場所にあった。店内には仕事終わりであろう、多くの人々でごった返している。性別も身なりも多種多様。これなら私の格好でも目立たないかも知れない。
それでも気は抜けないと、私は隅っこの席に座る。そしてメニューの中で一番目立つ『日替わり定食』を注文した。
まだこの世界の食文化も分からないし、あまり冒険しない方が良いだろう。定食なら、一つくらい食べられる物が入っているだろうし。
私は日替わり定食が届くまで、他人と視線を合わせないようにしながら聞き耳を立てた。
大半はなんてことない仕事のグチ、家庭のグチ、社会へのグチ。そんな他愛のない会話。しかしそんな会話からでも、この世界についての情報は得られる。常識やマナー、生活習慣、生活環境等々……。異世界人の私には重要な情報だ。私は神経を研ぎ澄まし、食堂内の会話に集中した。
その中で、私の耳が『聖女』というワードを捉える。声の主は、肉体労働者と思われる男性グループ。彼らは「もうすぐ聖女が誕生する」と噂しているようだ。
しかし『転移』や『召喚』という単語は聞こえてこない。どうやら世界中に神託を受けた女性が存在し、彼女達が聖女になる……そう伝え聞いているようだ。
とすれば、この世界で転移者は一般的ではない。または
後は「政治家の汚職が暴露された」だとか、「どっかの聖職者が戒律を破ってクビになった」「有名な音楽家夫婦のダブル不倫」だとか、週刊誌の見出しでも見ているようなゴシップばかりだった。
ホント、民衆の興味というのは異世界でも変わらない。
それ以上は聞いても無駄みたいだ。私は運ばれて来た定食を急いで詰め込み、人目に付かないように食堂を後にした。
この世界で初めての食事だし、正直ゆっくりと味わいたかったけど……何せ出てきたのが、カッチカチのパンと薄味の野菜スープ。そして真っ黒に焦げた、何の肉か分からないステーキ。
それは即効で楽しむ気が失せる代物ばかり。目立つ危険を冒してまで長居する気にはなれない。私は食堂を出ると、足早に宿へと急いだ。
早く部屋に戻って鍵を掛けたい。安全な場所でゆっくりしたい。私はそれだけを思って、宿屋へと続く路地へと足を踏み入れる。しかし後で思えば、これが良くなかった。街灯などにより、多少なりとも明るい道は他にあったんだ。でも回り道なんて私は知らない。宿へ帰るには、そこしかなかったんだ……。
もう少しで路地を抜ける。そう思った瞬間、黒い影が私の眼前を横切った。そして……。
「……えっ⁉」
気が付くと、私の体は宙を舞っていた。景色が縦にグルリとスクロールする。そして目の前に夜空が広がったと同時に、私の背中は固い地面に叩きつけられた。
「ぐっ!」
私はとっさに受け身を取り、後頭部を打つことだけは回避した。子供の頃に習っていた柔道が活きたみたいだ。白帯だったけど……。
しかし衝撃を完全に殺すことはできず、背中に強烈な痛みが走る。その痛みは、私の視界をぼやけさせるほどだった。
「い、いったい何が……」
私は両手で体を支えながら、何とか起き上がろうとする。しかし僅かに浮いた体が、瞬時に強烈な力で抑え込まれた。
それはついさっき、私の目の前を横切った黒い影。影は人型のシルエットと成り、私の体に覆い被さって来た。
「な、何を……んぐ⁉」
影は私の口を片手で押さえ、もう一方の手を高々と掲げる。その手には、月明かりを反射するほど磨き上げられた一本のナイフ。
「んん⁉ んんんんん‼」
瞬く間に恐怖が沸き起こり、私はパニック寸前になる。全力で体を揺さぶるが、両腕を膝で押さえられているらしく、影はビクともしない。
「悪いな、アンタには心底同情するぜ……」
影は
なに? 何なのいったい? 私は混乱する頭の中で、必死に現状の理解を試みる。その中で、食堂で行き着いた一つの仮説を思い浮かべた。
……この世界で転移者とは、隠匿しなければならない存在。
一気に血の気が引き、同時に全身から汗がにじみ出てきた。私は隠匿されるべき……消されるべき存在……。
「……ほぉ、理解が早いな」
私の表情から心情を察したのか、影は少し驚いたように呟いた。
「なかなか察しが良い、さすが聖女候補様だ……」
聖女候補って……私は神殿から放り出されたんですけど?
「運が悪かったと思って諦めてくれ」
諦められるか! なんで私が諦めなきゃならないの⁉ だったら初めから神殿に居させてくれれば良かったじゃない‼ 殺されるくらいなら牢屋にだって入ってやったのに‼
私は再び全身に力を込めて抵抗する。それでも影は微動だにしなかった。影は私を押さえつけたまま、ナイフを握る手に力を込める。
しかし数秒の間を置き、振り上げた手を静かに降ろした。
「……思ったほど悪く無いじゃないか」
「……?」
影が下したナイフを再び振り上げる。すると布を切り割く音と共に、シャツのボタンが舞い上がった。
「んんん⁉」
顔を押さえつけられながら、必死に視線だけを下げる。閉じていたはずのワイシャツがはだけ、私はおヘソとブラがさらけ出していた。
「どうせ死ぬんだ、その前に……」
影の顔が近づく。表情は分からないはずなのに、舌なめずりをしているように思えた。
脳内に最悪の展開が妄想される。私は、この影に犯される。蹂躙され、オモチャにされる。その上で、殺されるのだ……と。
「う……うぅ……」
体の芯から震えが起こり、全身に悪寒が走る。怖い、怖い、怖い、怖い……。
「んんんんんんん‼」
私は有らん限りの力で抵抗する。それでもやはり、影を振り払うことはできなかった。
「無駄なことはよせ」
影が顔を寄せる。そして生暖かい何かが、私の顔を撫でた。それは吐き気を
嫌だ……こんなの、あんまりだ。
私の最後は、もっと静かなものを夢見ていた。お婆ちゃんになって、膝にネコを乗せながら、縁側で静かに息を引き取るのが理想だった。それが、こんな路地裏で……顔も見えない男に犯されて、殺されるなんて……。
「それじゃあ、さっさと済ませるか」
影がナイフを置き、私の胸を鷲掴む。
「んん‼」
影は乱暴に私の胸をこねくり回す。それはただ痛いだけで、愛撫とも呼べない暴力行為。嫌だ……嫌だ……。なんで私だけ……。私は塞がれた口の中で唇を噛んだ。
「……おい」
その時だ。影の背後から声が聞こえた。それは、何の感情も感じられない沈んだ声。とても無機質で、安上がりな人工音声のようにも聞こえた。
「何をしている?」
その声に、影は明らかな動揺を見せる。いや見えないけど、感じられた。
「いや、別に……」
「さっさと仕事をしろ」
「わ、分かってるって……でもコイツは……」
「そんなにしたければ死体とヤレ」
死体とヤレって……。
無機質な声が、影に非情な提案をする。会話から影の仲間のようだが、明確な上下関係を感じ取ることができた。
「……ちっ、分かったよ……」
影が苦々しく舌打ちをして、視線を私から逸らした。手放したナイフを拾うためだ。そしてそれが、私にとって
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