第6話 FF10のディープ過ぎる考察色々のまとめ

こんにちわ。毎日暑いですね。前回から間が空いてしまいましたが、今回はFF10のディープ過ぎる考察のまとめです。


FF10はそれまであまり宗教色が無かったFFシリーズにおいて(9まで)初めて宗教批判が入った作品なんですよね。まぁ、話自体はライトノベルやアニメなどでよくある話なのでありますが、滅多に聞かないようなそのバックグラウンドの深すぎる話をしようと思います。


一連の記事ではなく、トピック毎のまとめとして書いていきますのでよろしくです。


FF10の世界設定は説明が面倒なので、簡単にうぃきでも読んどいて下さい。読者の方はFF10が少なからずわかってるという前提で話を進めさせてもらいます。


その1 「シン」という存在、名前、そのバックグラウンドにある思想


スピラ(シンという文明を破壊するモンスターがいる。英語のスパイラルの語源)という主人公が送り込まれた世界は、機械文明の絶頂だった主人公がブリッツボールというスポーツで活躍していた時代の1000年後の世界だったのです。


シンというモンスターは、なぜかその世界の住人が街(文明=Civilizationは都市化という意味)なぞを発展させると襲ってきて破壊します。(でもなぜか、宗教都市のベベルや第二の都市ルカなどは襲撃された痕跡がありません。余談ですが、西洋に敵対してるISのようなグローバルジハードを行うテロリストがイタリアの宗教都市で爆弾テロを行わない忖度っぷりによー似てるなと)


シンはスピラのあちこちを暴れまわって街や村落を破壊してるので、スピラの住民は常にシンにやられるのではないかという懸念があるのです。


そのスピラの住民に希望を与えるのが「召喚士」という存在です。召喚士はザナルカンドというスピラの極北の地で究極召喚というものを習得して、それでシンと戦って勝つと、場合によって数ヶ月から数十年の間シンに襲われなくなるのですが、シンはなぜか復活してしまいます。ですから、時々召喚士を送り込んでシンを退治して「ナギ節」というシンがいない期間を作り出そうとします。


しかし、その「ナギ節」は召喚士本人とそれを護衛するガードの命と引き換えの自己犠牲的なものです。でもそれは一時しのぎで根源的な解決にならないのがミソなんですが。


ここで、何となくイエス・キリストの自己犠牲でアダムとイヴの罪が贖われた西欧キリスト教臭い教義のフレームだなぁ、という安易なツッコミはしない事にします。


でもそのバックグラウンドの深すぎる話はしようと思います。


さて、ようやく本題に入れます。


まずFF10の世界で文明を破壊するモンスターの「シン」と言うのは、西欧キリスト教で「原罪」と呼ばれるものです。アダムとイヴがエデンの園で禁断の実を食べてしまった事が原因となってる話です。


正確には「原罪」というよりも、血統を通じて遺伝される「遺伝罪」とも言うのが訳語として正しいのだそうです。


英語では「Original Sin」と言います。


西欧キリスト教(カトリック、プロテスタントなどの西欧のキリスト教)では、その原罪はイエス・キリストの十字架刑の自己犠牲によって贖われたとされます。が、しかし東方キリスト教(ギリシャやロシアなどのキリスト教)ではこのイエス・キリストの自己犠牲は教義の中心になってません。


この「原罪」なるものを言い出したのは、キリスト教の思想を作った「教父」と呼ばれる護教家の中のアウグスティヌスという人物です。この人は、キリスト教徒に転向する前は「マニ教」という南イラク地域発祥の宗教を信じてました。ですので、東方キリスト教の中ではアウグスティヌスは半分マニ教徒扱いで、あまり重要視されないのですが、西欧のキリスト教はほぼアウグスティヌスの思想が教義の中心を占める事になるのです。


ですので、中世ヨーロッパの価値観はアウグスティヌスの思想一色です。16世紀に宗教改革が起こっても、またより一層アウグスティヌス主義が深まります。それは宗教改革を起こしたルターは、アウグスティノ会という修道会の出身だからです。宗教改革は近代を作り上げましたが、その近代の精神にもどっぷりアウグスティヌス主義が入り込んでる。


それが回り回ってキリスト教徒が少ないわー国のスクエニのゲームのFF10などの設定に反映されるわけです。


しかしながら、この「原罪」というのは日本人に肌感覚で理解するのがとても難しいものです。


この「原罪」を言い出したアウグスティヌスなのですが、キリスト教に転向するまでは、マニ教という南イラク地域発祥の宗教を信じてました。


マニ教はその当時のユダヤ・キリスト教、ゾロアスター教、仏教などその地域の様々な宗教を取り込んだ折衷主義の、アメーバのような宗教です。教義はグノーシス主義という、この世は悪(もしくは悪の神に支配されてる)というものです。


グノーシス主義は、主にローマ帝国のキリスト教においては異端認定されてしまうのですが、ヒンドゥー教や仏教などの現世否定の価値観が元々文化的に強い地域は、それが当たり前過ぎて何のこっちゃな感じです。


南イラク地域では、ペルシャ湾を通じてのインド方面との交易があったので、貿易を通じてインドの宗教が自然と入ってきてしまう土地柄です。さらに南イラク地域は、古くからヒト・モノ・カネが障壁フリーで集まる金融センターですので(それ故に旧約聖書で堕落のバビロンと呼ばれてしまう。バビロンが金融センターになった原因はインドの富かと)、金ばかり追いかけるとメンタルがやられるから、現代のマインドフルネスにハマるビジネスマンのように、インドの宗教を受け入れる素地があるわけです。


仏教が始まった古代インド社会も丁度、貨幣経済が浸透して農村社会から商業社会にシフトする時代でしたので、商業社会に疲れると仏教(のようなもの)が広まる土壌が出てくる。


余談ですが、マニ教が生まれた地域は、イスラームが世界宗教となったアッバース朝時代(バグダッドに首都があった)と同じ地理的要因と環境です。


イランのイスファハーンは「世界の半分」などと言われましたが、「世界の半分」どころかほぼ旧大陸の世界のすべてが揃うのが南イラクという地域です。


YouTubeでNHKの「文明の道 第6集 バグダット・大いなる知恵の都 」の動画を見て頂くとわかるのですが、その地域の宗教的豊かさは他の地域では考えられない文化的豊穣さがあるわけです。


このような環境で、マニ教もイスラームも世界宗教としての揺籃期を過ごしましたが、マニ教の方は歴史から消えました。


南イラク地域には世界宗教を生み出す土壌があるわけです。


この南イラク地域(メソポタミアもしくはバビロニア)の特殊な宗教事情の話が本日の話題のキモとなります。


現代のイスラーム世界もそうなんですが、古代から様々な民族が行き交う地域は、基本的に多民族・多宗教・多言語・多文化な世界で、違う宗教や民族の人たちには基本的に干渉しません。西欧キリスト教は内心に干渉したがりますが、イスラームは内心には干渉しない宗教です。


それでも、宗教間の論争や交流があるので、折衷主義的に宗教が発展します。日本の本地垂迹(神仏習合)をもっと進化させたような思想になります。


特定のアイデンティティにこだわらないからこそ、多民族や多宗教の共存が可能なのです。しかし、近代のような国民国家などのアイデンティティにこだわるようになると、現代中東のような大変な政治状況になるわけです。


そういう土地柄で育まれたのがマニ教です。マニ教の創始者のマニは、イラクの原始キリスト教の共同体にいました。そこから飛び出して、その当時のサーサーン朝ペルシャの王室に取り入って勢力を拡大します。クテシフォンという、南イラクの宮廷に拠点があったそうです。


サーサーン朝ペルシャはイランだけでなく、イラク地域も入ってるのですが、現在の南イラク地域はイランと同じイスラーム・シーア派住民が沢山住んでおり、イランと親和性が高い地域ですが、元々この時代から文化的繋がりが強かったのかも知れませんね。まぁ、イランがシーア派になるのは16世紀のサファヴィー朝の時代なのですが。


さて話を戻しますと、インド亜大陸の宗教マップを見ると、イスラームを除くヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教などのインド発祥の宗教は、すべての前提教義として輪廻転生があります。輪廻転生はイデオロギーというよりも、インド人にとって疑いようがないような当たり前の話だと考える方がしっくり来ます。


その宗教マップのエリアを少しだけ西に引っ張ると南イラク地域もその圏内に入ります。


前述したように、南イラク地域は交易でインド文化が自然に入ってくる土地柄だと書きました。となると、マニ教の理論もアウグスティヌス本人が預かり知らぬの所で、インドの宗教的前提が入り込んでしまったのではないか?


輪廻転生は単独のイデオロギーというよりも、インド人は輪廻転生をベースにすべての思想、哲学を考えます。日常のすべての事柄も輪廻転生の思考の延長線上にあるのです。


なので、マニ教由来のアウグスティヌスのわけのわからないものはもしかすると、インドの宗教の論争のそれではないか。


ローマ帝国の人たちは、そういったインドの宗教的思考の土台がない。だから前提がよくわからないまま話だけが進んだのではなかろうかと。何だか結論になってませんが。


----------その1ここまで----------


その2 ザナルカンドはどこにある?海のシルクロードのグノーシス、仏教繋がり


ザナルカンドは中央アジアの某都市と名前が似てる所から、そこがモデルとされてますが、大変な誤りです。(多分命名の法則が中央アジアの某都市と同じペルシャ語系の命名法則なのかも知れない。だから語感が似てるのかも?)


そもそも原作でザナルカンドは砂漠のど真ん中どころか海沿いにあるのです。主人公の父親のジェクトは海でブリッツボールの練習中にスピラに飛ばされてます。


なので、ザナルカンドは私が想像するには、ペルシャ湾岸地域のどこか、サウジアラビアのペルシャ湾岸の石油輸出拠点か、カタールにあると考えるのです。そう考える根拠は何か?というとイスラーム学者の中田考氏が監修したボードゲーム「カリフ」の表紙にあるバグダッドの円状都市を見てひらめいたわけですが(笑)、そうでなくてFF10の世界設定は攻略本などで開発サイドがアジアだと言ってますし、主人公の名前の「ティーダ」と「ユウナ」は沖縄語で「太陽と月」なんだそうで。


となると、海のシルクロードの辺りがFF10の世界設定だと考える方が妥当です。沖縄から東南アジア、ペルシャ湾岸にかけてです。アラビア半島回って紅海に向かうローマ帝国の交易ルートもあります。


その辺りの交易ネットワーク上にある国々の宗教分布地図を眺めてますと驚くことがわかりました。


それは、東南アジア国とインド洋に面してるスリランカは仏教国なのです。しかも大多数が上座部仏教です。


東南アジアでインドネシアとマレーシアだけがイスラームなのですが(インドネシアのイスラームはスーフィズムなので仏教的なものと混じりやすい土壌アリ)、ベトナム、タイ、カンボジア、ミャンマー、ラオス、スリランカは仏教国なんです。それも北伝仏教(大乗仏教)ではなくて、上座部仏教。ベトナムのみ中国文化の影響で大乗仏教なのですが、海のシルクロードに連なる国々はなぜ上座部仏教なのか?


私がキリスト教異端であるグノーシス主義を調べた所、グノーシス主義は極めて自力救済要素が強いです。イエス・キリストも救い主いますが、自力救済を肯定すると下手するとイエス・キリストいらなくなりますね。イエス・キリストの立ち位置が仏教のお釈迦さんの位置になってまう。


仏典は読まなくても悟れますって話と似てる。


またローマ帝国にキリスト教が宗教統一されてない時代、新約聖書が200も出回っていたとリヨンのエイレナイオス(キリスト教の教父)が言ってますが、あーこれお経スタイルです。お経は聖書と違って沢山あります。どれもこれも「お釈迦さんはこういった」という形式になってますが、東方文化の影響がある東地中海地域ではお経形式で新約聖書は書かれたのでしょうね。


それがローマ法的な思考回路をしていたローマ人には意味不明に映り、公会議で教義決定する時に法廷の裁判の証拠よろしく4つに福音書(新約聖書)を指定したと。


話を戻しますと。FF10のモデルとなる地域は、海のシルクロードの沿線地域で、それらの国々は仏教国が多いよ。で、グノーシス主義は正統キリスト教よりも、他力本願よりも自力救済の傾向が強いよって話です。


特に西欧キリスト教でもカトリックは大乗仏教のような万人救済傾向を持っており、キリスト教異端のグノーシス主義とキリスト教正統派の枠組みを無理矢理仏教で分類すると、上座部仏教と大乗仏教のような区分になります。


グノーシス主義と仏教は厳密に言うと違うのですが、何となく親和性高そうな要素があるのは否定できない。


このグノーシス主義っぽい世界観に近そうな海のシルクロード沿線地域の仏教国というラインがFF10の世界観のキモだったりします。


その海のシルクロードの終着駅のひとつとして、南イラク地域のマニ教に発展する。グノーシス主義の本場はイランだったりするので。海のシルクロードと陸のシルクロードから運ばれてきた宗教が交錯する地点が南イラク地域。


ザナルカンドの壁にあった文字がサンスクリット語に似てたのは偶然ではない。


ザナルカンドを中央アジアの某都市とか言う人はその辺を見過ごしてないか?まぁ、リマスター版でないと壁の文字までは見えにくいかもですが。


----------ここまで----------


その3 チョコボ動力で思いついた「進歩」の謎


FF10で主人公たちは最初の島ビサイド島からチョコボ動力の船に乗って行くわけですが、チョコボ動力というのはFFの黄色い鳥のチョコボがハムスターのようにカラカラと回転して船の動力やってるんです。


それは何故かと言うと、スピラでは機械が禁止されてますんで、特定の許された技術しか用いてはいけない「ことに」なっている。


でもアルベド族という、ユダヤ人を連想させるような人たちは、機械の禁止というタブーがないので、昔の機械をサルベージして使ってる。


FFシリーズの名物は金髪のユダヤ人です。FF12でもユダヤ人の立ち位置にいるのは金髪だったりします。ヴァンくんやバルフレアなど。


バルフレアは(ローマ帝国にユダヤ人の叛乱を起こしたバル・コクバなど、バルなんとかとつくのはユダヤ人の命名の法則)どう考えても帝国の人が黒髪浅黒い肌なのに対して金髪です。リアルのローマ帝国にも、ユダヤ人のルーツを持つ人が帝国の中枢に食い込んでる事はありました。


ちなみにイスラエルにいるユダヤ人に金髪碧眼は少ないです。イスラエルにいるユダヤ人は旧ソ連地域から来た人が多いですが、それでも金髪はその地域のキリスト教徒より少ない。


金髪のユダヤ人は、スクエニに白人至上主義のイデオロギーでもあるんですかね?


欧米の科学者の中には、かなり高い確率でユダヤ系のルーツを持つ人が多いのです。(300年遡って改宗ユダヤ人だったりする)日本では殆ど知られてないこのような情報にまでゲームクリエイターが通じてるとは、ゲームクリエイターの教養って本当に凄いですね。


さて、チョコボ動力で思いついたのは「進歩史観」です。これまでは、「中世」が進歩して「近代」になると考えられてましたが、どうやらそうでない事が最近判明しつつある。


それは、ウクライナ戦争でのチェチェン人などの中世と変わらない感覚を持ちながらテクノロジーを使いこなす人たちがもしかしたら沢山住んでるのかも?というのがわかったからです。


ネットがなかった時代に信じられていた「進歩」が実は西側諸国の限られた国々にしかなく、東側諸国や第三世界(西側でも東側でもない国々)はそうじゃなかったと。


「進歩」で乗り越えられて来たと思われてきたものが、ウクライナ戦争以降噴出してきている。時計が逆回転してるような現象が起きてるのです。


となると考えられる事は、中世(プレモダン的な傾向)と近代はパラレルな関係なのでは?と。


非西欧地域の大多数の国はテクノロジーが普及しても頭の中が近代ではないのです。それで、非西欧地域の文明の中には、イスラーム文明や中国の宋の時代など中世が全盛時代の文明がある。それらのプレモダンな感覚を持つ文明はずっーと中世なのであって、進化してモダンになるわけではない。


なのでモダンの傾向を持つ文明はずっーとモダンなわけです。しかしそれは条件があって、モダンな感覚が維持されるには地理的条件に左右される。


それは何故かと言うと、モダンな感覚を持つ地域があったとしても、文明が発達していくに従って政治状況や社会の流動化などで、プレモダン的な社会に変質してしまうんです。


東地中海地域で古代からかなり合理主義的だったギリシャ人も社会や政治状況の変化でそうではなくなった。


でも北欧は、西アジアや地中海地域と違って閉鎖世界で、寒い自然環境なのでモダンの感覚を長い間維持する事ができたかと。


しかしモダンというのは、改良主義に改良主義を重ねて凄いテクノロジーを作り上げますが、残念ながら持続性がない。


モダンが好きな人はローマ帝国の高度なテクノロジーが中世の時代に失われた(禁止されたこと)を惜しみますよね。


このローマ帝国時代の高度なテクノロジーが西ローマ帝国崩壊(529年)からルネッサンス(1400年代後半まで)までの1000年間教会に管理されたのが、FF10の物語の原動力になってる気がします。


非西欧地域にはこういった西ローマ帝国崩壊後の1000年間のような文明の崩壊にあたる歴史的記憶が少ないような気がする。特にアジアでは中国のように王朝は推移しても文明そのものは残るという感覚で。


中世の1000年間にテクノロジーが教会で管理されたのも、モダンな傾向を持つ文明に持続性があまりなかったので。


ローマ人は現代から見てもかなり近代的なのですが、近代というものがにっちもさっちも行かなくなって、東方から中世的な宗教を導入したのが、ローマ帝国のキリスト教化だったと思うのですが。


なのでモダンというのは、中世が進化してモダンになるのではなく、ずっーと頭の中モダンな人たちがいて、モダンには隆盛期とそうでない時期というサイクルがあると。それは、ずっーと中世の非西欧地域とパラレルワールドの関係にあると。


それがチョコボ動力でよくわかりました。


----------ここまで----------

2024/8/9加筆

以下多少ネタバレになりますので、ご注意下さい



その4 FF10のスキーム 原罪はウソ(西方教会否定)から東方教会(原罪重視しない)へ


FF10のテーマは、つまる所シンというのは過去の戦争の原因から生まれたもので、機械とシンは何の関係もなかったという流れですよね。1000年前はザナルカンドとベベルが戦争しておりましたが、むしろザナルカンドが召喚士の都市で、ベベルが機械文明の中心だったと。(だから10-2でベベルの地下にヤバい機械があると)


非宗教的な機械文明が宗教文明に鞍替えというのは、西ローマ帝国の崩壊後(529年)に、ローマ帝国の中央集権化した(ディオクレティアヌス帝の284年以降)行政機構(ちなみにキリスト教の「教区」はローマ帝国の行政単位から来た。ヨーロッパの基礎自治体はローマ帝国の行政単位の末裔なのですね)とローマ軍団が、宗教組織に化けて全ヨーロッパをカバーする超国家的な組織になったというお話からでしょうか?


元々ローマ帝国はその当時の割と現代的な文明で、その当時の西アジアやインドなどに比べると宗教色強くない文明で、ギリシャ的な合理主義も強かったのに、なぜか古代の機械文明を捨てて(というより修道院の中に回収されて)宗教的な文明になった事が、どうしても特に北米や北ヨーロッパ地域の人には許せなかったと。


中世末期になると、そういった修道院の中に回収されていた古代文明の知識が漏れ出して、(東ローマ帝国、イスラーム圏からの流入も相まって)ルネッサンスが起こり、ルネッサンスが北上する過程で、それに刺激されて宗教改革が起こると。


それらの歴史的流れに対する主に北米や北ヨーロッパの人達の世界観がFF10には反映されてますね。


さて話を戻しますと、この話の中核にあるのは、シン(原罪)というのはウソというテーマです。でも前に話たのですが、原罪というのは西方キリスト教の中心教義です。これを否定して、シンが機械文明で討伐可能とは如何なる事なのか?って話ですよね。


それは今回の話のキモとなる部分ですが、つまる所、西方教会(カトリックやプロテスタントなどのアウグスティヌス主義が色濃い西側のキリスト教)から東方教会(ロシアやギリシャなどのキリスト教。アウグスティヌス主義がとても薄い)への価値観のシフトという側面があると思われます。


なので、ゲームやアニメのクリエイター界隈にはどうやら、隠れ東方教会的な価値観を持つ人が潜んでるようです。


でも、ロシアのキリスト教というと「西側の悪魔崇拝との戦い」を主張するキリル総主教といい、かなりマスコミではトンデモな報道がされてます。とてもじゃないですが、ゲームやアニメのクリエイターがプーチン政権やキリル総主教に親近感を持つ親露派にはとても見えないわけです。(というか、日本の親露派やロシア好きには独特の雰囲気があって、そんな界隈の空気は微塵も感じられないのです)


なので西側のキリスト教の中の隠れ東方教会属性を持つ勢力ですね。


FF10に限らず別作品でも、隠れ東方教会属性の話はチラホラあります。その見分けるポイントが「教皇」制の否定です。「教皇」制度の否定というと、すぐさま教会のヒエラルキーを否定するプロテスタントだと思われますが実は違います。


原始キリスト教の流れを汲む東方正教会も教会のヒエラルキーはありますが、「教皇」制度はありません。そこまで聖職者と一般信徒の垣根は高くないですし。


そもそも「教皇」制度とは何なのか?という事から始めないといけません。「教皇」はラテン語でPontifex Maximusといいますが、この職はキリスト教化以前は皇帝が兼任していたローマ帝国の宗教管理の役職です。


原始キリスト教は教会のヒエラルキーは三階級なのですが、なぜか西方キリスト教は元々ローマの司教区の長だった役職が「教皇」という事になってる。(年代的にカリフ制に影響受けてそうな気があたしにはしますが)


それが東西教会の違いです。「教皇」制否定だから安易にプロテスタントではありません。


なので、その特徴としてFF10に出てくる宗教リーダーは「総老師」という名前なんです。これは「総主教」と多分元の言葉は同じです。東方正教会の指導者はどんなに偉い人でも総主教です。こういう所の訳語で誤魔化してありますが、チラチラと見える。


他にも隠れ東方教会属性は、例えば「狼と香辛料」に出てくる、ドイツ騎士団領をモデルにした国々の宗教信者もどう考えてもカトリックっぽいのに、自称「正教徒」なんですよね。昔ならいざ知らず、これ全世界で配信されてますから、現地の人が見たらどう思われるんでしょうかねぇ?


このように、FF10のスキームには西方教会の中核教義の否定があります。


また、FF10の思想は東西教会の統一というイデオロギーがあるのではないか?


日本が西洋文明の辺境に位置してるがため、ゲームやアニメのクリエイターは日本での東西教会の統一という、まるで戦前の大アジア主義の「西洋文明の超克」という壮大なイデオロギーを目指してるのではないか?


ゲームやアニメのクリエイターはこんな壮大なイデオロギーを目指してるすごい人達です。


でも当事者から見るとトンデモナイ話に見えるのですがね。


当事者の利害関係のない日本で東西教会の統一を目指すのは、これまた当事者の利害関係のない日本でカリフ制の再興を目指してるイスラーム学者の中田考氏と同じ発想ですが。


日本は西洋文明の辺境に位置するからこそ、世界中のキリスト教を統一できるという壮大なイデオロギーを持つのでしょうね。戦前の大アジア主義の「アジアはひとつ」というのと同じで。


その大義のために命かけてるのが日本のゲームとアニメのクリエイターです。


----------ここまで----------


その5 浄罪の路は煉獄?

FF10の宗教都市ベベルの地下には浄罪の路という水で満たされた監獄みたいなエリアがあるのですが(BGMいいですね。特にリマスター版)、あれ煉獄を直訳というか意訳すると浄罪の路でもありなんですよね。


鬼滅の刃に煉獄さんというキャラがいますが、実はこの「煉獄」というワードもキリスト教の教派をわけるワードでして。


煉獄はカトリックにのみ存在する教義で、プロテスタントと東方正教会には存在しない教義です。また、「地獄」も東方正教会には殆ど存在しない教義です。(地獄はないけど冥界はある)


このあたりのワードひとつで、アニメやゲームのクリエイターの思想がリトマス試験紙のようにわかってしまうのです。(笑)


----------ここまで----------


また加筆しましたら近況ノートにてお知らせします。

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