第8話 暗黒街の祭典。準備期間。

 早朝。酒の飲み過ぎからくる喉の渇きに藻掻きながら起き上がったサヤカは、いつものキャミソールの肩に柔らかいタオルが絡まっているのを見た。昨夜、肉屋でヂーに被せられたものと同じ、新品に近いものだ。

「うわ、結局貰っちゃったんだ……」

 銃と鍵は枕の下に、制服は丁寧に畳まれて机の上。部屋を検めるごとに出るわ出るわ、昨晩働いた狼藉の数々。冷蔵庫の中にいつも自分が作るものより丁寧に葉の開いた薬草茶と、作った覚えのない水餃子をみとめ、サヤカは己の厚顔さに恐れおののいた。鶏は酔ったサヤカにふわふわのタオルを強請られたばかりか、持ち帰り用に鶏団子スープと水餃子を作らされ、家まで送らされ、翌日飲むための薬草茶の仕込みまでさせられたらしい。

 ねえねえ鶏さん。お願い、良いでしょ? 鶏さんなら許してくれると思ったんだけどな。

「あ、あぁぁあ〜……!」

 信じられないこの恥知らず。顔から火が出そう。

「か、顔……とりあえず顔洗おう……!」

 ほうほうの体で洗面台に移動して、ヤスリのごとくガビガビだったタオルが全て柔らかい物に変わっているのを見、とうとうサヤカは崩れ落ちた。酒が代謝した汗の他に、顔から背中から変な汁が出て止まらない。震える体を起こした時、狙いすましたようにトランペットの閧の音が、コケコッコと夜明けの烏龍を揺るがした。

「次、給料出たら一番高い肉買おう……」

 鐘の音が途切れた僵尸キョンシーのように、しばらく目を開けたまま失神していたサヤカ・リーは、ホバーシューズのシューッという風切り音に起こされてノロノロとベッドまで戻ることになった。ぐっすり眠ったはずなのに、短時間で摩耗した脳は処理落ち寸前の悲鳴を上げている。カラカラカラ、と窓を開け、赤頭巾の一人に朝飯の入った紙袋を投げ込まれても、いつものように空中で受け止めることすらできないのだった。


「お前さ、今日いつになく顔ひでぇな」

「るさいわ」

 酒と塩分、睡眠負債で浮腫むくんだ顔を不機嫌に顰め、サヤカ・リーはいつもどおり倒れるように視界から消える少年の、ホバーシューズが排気する白い蒸気の軌跡が消えるまで睨んでいた。耳元で鳴るタグの怪音も今日ばかりは忌々しい。

「今日は、ビラ配りか……そろそろライセンス更新の時期だもんね」

 政府が機能していた頃はオリンピックが覇権を握っていた世界規模の壮大な御前試合。今では烏龍に集う外様企業が誰に憚らず商売を行なうための__クリュウ・ファミリーがその利用価値を測るための試金石になっている。シーズンが近づくと辺りは異様な熱気に包まれ、流通がひときわ滞る凪の季節。暇を持て余したサヤカたち配達員は、参加企業を集めるための広告をばら撒いたり、ファミリー傘下の住民から協力を得るためのビラ配りに追われる。

 ああ、面倒くさい。熱っぽい息を吐き窓を閉めた配達員は、洗顔も後回しに美味そうな匂いをさせる紙袋を乱暴に破った。

 豚ひき肉と筍、椎茸を細かく刻んで味をつけ、分厚くふっくらした皮で包んで蒸した饅頭。それを更に大量の油で熱し、表面がカリカリになるまで揚げ焼きしたファストフード。薬草茶必須のボリュームたっぷりなご馳走を前に、けれど、心躍ることはないのだった。

「……うまい」

 ザクッと歯を立ててちぎった皮は甘く、中からこぼれだす餡の、ゴロゴロとした肉の歯ごたえと絡まって、得も言われぬ風味が舌の上に広がる。いつもならば悶絶必至の一品は、冷たい薬草茶によって荒々しく胃の腑の底へ流し込まれた。茶がやたら美味いことにも腹が立つ。

「ん。あれ、譲さんから買った鏡がない」

 ふと、部屋の中に薄っぺらい紙袋が見当たらないことに気づき、サヤカはサッと顔色を変えた。冗談じゃない、3500雀もしたのに。

「あ〜もう! ビラ配りがてら肉屋寄るか」

 できるだけ遠ざけたかった再会がすぐそこまで迫っていることに、サヤカは鈍る脳を無理矢理回して、今日の巡回経路を編みなおしたのだった。



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