第7話 烏龍特区の顔負け肉屋、鶏
昼間は眠っているような、どこか朝ぼらけの空気が抜けない烏龍も、火点し頃になればその本質がギラギラした電光板になって、けぶる薄闇に浮かび上がり始める。
膨大な量を誇る配達もあと一件を残し、サヤカ・リーが馴染みの肉屋を訪ねたのもそのような時間帯だった。
「毎度〜!
そこだけ人払いをしたように閑散とした店の前。路肩にバイクを停め、体をたためば大人の男一人は入りそうな木箱を荷台から下ろす。暇そうにカウンターで漫画を読んでいた白いエプロン姿の大男が、分厚い体をせかせか動かして走り出てきた。胸元にはシンプルな
「……!」
「いいけど重いよ? 塩と香辛料ね。重いからね」
喋るのが得意でない
非力な配達員には骨が軋むほど重たいそれを難なく持ち上げ、出てきた時と同じようにせかせか戻っていく大男。何を焦っているのか、受取人の署名を待つサヤカは、彼のサンダルが立てるペタパタという音を聞きながら、サドルに腰を落ち着けた。
「……! ……」
「走らなくていいって」
奥に荷物を収め、小走りに出てくる鶏。片手に握りしめた鉛筆は、ともするとうっかり二つに折れてしまいそうだ。
「はい、ここに名前お願いします」
「……」
「うん。今日はもうこれて終わり。ご飯食べてっていい?」
声にならない声で、よかったら飯を食っていけと勧める鶏に頷き、バイクから鍵を抜いたサヤカは男の後に続いて店の扉を潜る。
「生き返る〜! 譲さんとことは大違いだわ……」
中は精肉を扱うための完璧な空調によって、澄んだ空気が冷やされて循環していた。肺と気道が二倍になったような心地よさに、サヤカはつい厚ぼったい制服の上を脱ぎ、ネイビーのポロシャツまで脱いだ。対して見栄えもしない女の下着姿に、鶏がか細い悲鳴を上げてバスタオルを差し出す。家にあるものとは段違いに柔らかい生地で肩を覆われ、サヤカはあわよくばこのタオルも貰えないかな、と考えた。鶏は推しに弱い男だ。多分、ごねれば貰える。
「……、」
「はーい、奥の座敷貰うね。ゆっくりでいいよ」
店を閉めてくるから待っていろ、というようなことを身振り手振りで指示し、大男は肉を並べてある店の方へと慌ただしく去っていく。表の電気を消す音と、何やら分厚いビニールのようなものを引きずる音だけが響く店内。精肉店の業務内容についてはよく知らないが、しばらくは戻ってこないだろう。
「勝手に飲んだら怒るかな……いや、怒らないだろうな。鶏さんだし」
勤勉な配達員を終えたサヤカは、今夜、愛車を押して帰ることにした。
裏の、ほとんど鶏しか使わない居住スペースへと上がり込み、巨大な冷蔵庫から勝手に缶ビールを出して開ける。プシュ、と小気味良い音にジンと顎の下が痛くなって。
「ん、くぅ〜! はぁ〜美味すぎる……!」
すぐに汗をかく酒の缶を呷り、座敷の方へ向かう。座って待っていろと言われたそこは、烏龍でも中々見ない見事な畳敷きだった。飴色のローテーブルが柔らかなイグサの絨毯に自重で食い込んでいる。乗りっぱなし、立ちっぱなしだった足が座布団によって柔らかく支えられ、後ろに体重を預けてしまえば、もう二度と立ち上がれない気がした。
「見た目のせいで人気ない鶏さんが不憫すぎるね。こんなに沸点高い人そうそう居ないのに……」
以前通りかかった際、近所の御婦人が足早に店の前を通り過ぎ、肩を落としていた大男の姿が脳裏によぎる。人の形をした悪魔のような人間など掃いて捨てるほどいるのがウーロン・シティだ。鶏など、ちょっと包丁の扱いが上手いだけの善良な市民であるのに、彼の面相と巨躯は、他の良いところを打ち消して余りある恐ろしさであるらしい。もっとも、小さい頃から世話になっているサヤカにとって、その風貌はもはや馴染み深く、オロオロと両手でろくろを回す様には愛嬌すら感じる。
「ぁ、そレ俺の……」
壊れたラジオに似たガラガラ声。長らく聞いていない鶏の肉声にサヤカが振り向くと、エプロンを脱いできた大男が悲しげに肩を落として立ち尽くすところだった。予想外に悲しそう。銃を突きつけられても涼しい顔をしているサヤカが、めずらしく頬を引きつらせる。
「か、勝手に飲んでごめんね。鶏さんなら許してくれるかと思って……!」
半分ほど中身の減った缶を卓上に置く。びしょびしょになった掌の水分が、結露によるものか、それとも冷や汗なのか、よくわからなくなった。
「イイよ、うまイ?」
「……美味い。生き返るくらい」
「なラ、いいヨ」
全くよく思ってない声でそう言って、鶏は冷蔵庫の奥、キッチンスペースへとペタペタ去っていった。畳の部屋と店とを仕切る上り框には、彼が脱いだ巨大なサンダルがきちんと揃えられて主人の帰りを待っていた。
申し訳無さに肩をすぼめ、それでもビールは飲みながら待っていると。
「……」
「あ、おかえり……わ! すっごいご馳走!」
奥から焼き餃子の乗った大皿と鶏団子の汁物、黄金色のチャーハンと酒瓶を携えた鶏が危うげない足取りで戻ってきた。途中、汗を流してきたらしくややしっとりした黒髪が、いつもより毛束感を増してピョンピョン跳ねている。絶妙なバランス感覚で指先に摘まれたグラスは二つ。鶏と、サヤカの分だ。
「帰リは、送ル……」
「いいよそんな! ビール、ごめんね」
「もう、いイ」
子どもの粗相を許すように微笑まれてしまい、割り箸まで差し出されてしまっては、サヤカももうしつこく謝ることはできなかった。一応、許してもらえたことだし。折り合いをつけ、食器を受け取る。
グラスに注がれたのはキンキンに冷えた透明な果実酒で、口をつける前から、ライチの爽やかな香りが料理の湯気を押しのけてブワッと香った。
「
「乾杯! いただきます!」
指でつまめるほどの小さなグラスをコチリとぶつけ、サヤカは待ちに待った鶏団子スープに箸をつけた。黄金色の鶏油が小さな丸を作って浮かぶ滋味深いスープ。塩と生姜で味をつけたそれは、汁も美味いが鶏団子が何より美味い。他のどんな飲食店に行こうと、噛めば噛むほど味が出るプリプリ食感のこの肉団子には、なかなか出会えるものではない。
「うんっまい……!」
「昔から、ソレ好きだナ」
「これで育ってるからねー。もう、おふくろの味?」
「葱も食エ……」
焼き物の器に五つも入った鶏団子を三つほど飲み込んで、サヤカは次に熱々のチャーハンを大きなレンゲで二掬い。取り皿に分け、食事用の小さなレンゲで少しずつ口に放り込む。鶏はひと口が大きい上、熱いものを熱いまま食べることができるので、遠慮なくワシワシとかきこんでいた。
「熱、うまっ、はふい」
「火傷するなヨ」
ゴクンと喉仏を上下させ、クイッとグラスを煽る鶏。口が空くと、今度は焼餃子を三つまとめて頬張った。皿の上のそれは、いまだにパチパチと油を跳ねさせており、見た目からして熱々だ。サヤカには真似したくてもできない芸当である。
「今日さぁ、」
チャーハンの横に三つ確保した餃子が冷めるのを待って、サヤカは黙々と食べ続ける鶏に話しかけた。彼はいつも返事をしないので、咀嚼を続けながら顔だけをサヤカに向ける。
「アスカ覚えてる?ランプの店の。工芸品の通りの」
「……」
鶏が頷き、サヤカはビールの最後のひとくちを啜ってポクンと缶を置いた。
「アスカにいつまでこの仕事続けるんだって話されてさ。譲さんも言ってたかな」
鶏が話の続きを待って、持ち上げた餃子を空中にとどめる。サヤカは確保した餃子が冷めていないか、箸で割って立ち昇る湯気に顔を顰めた。
「鶏さんはどう思う? 小さい頃から知ってるあたしがヤクザ・カルテルの手先ってやっぱり心配?」
自然と俯いていたサヤカの耳に、パリッと餃子の皮を破る美味そうな音が届いた。見れば、鶏が大きな口で餃子を半分に割って食べているところだった。生白い顔。色の薄い皮膚に剃ってある髭が青く浮いて見えた。
「……仮に、仕事ヲ辞めテも、二人は責任をトッテくれない」
程よく冷めた餃子を齧る。モチモチとした皮はきっと手作りだ。野菜、にんにく、あらびきの豚ひき肉からじわじわと美味い汁が出る。
「好きニ、やればイイ。失業したラ……まあ、ウチで雇ってヤル」
「やば。口説かれてる?」
「惚れた女なラ養ってル……」
「ナハハ、それもそっか!」
迷惑そうに顔を顰めた男が、箸で掴んでいたもう半分とスープとを一口に咀嚼するので、サヤカは笑ってようやく食べられる温度になった餃子を丸ごと頬張った。
「あ〜美味い。鶏さんはあたしのお父さんだね」
「コんなデカい娘もった覚えはナイ……」
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