第6話 小休止

 犬に噛まれたようなものだ、と思うことにした。

「ああ怖かった。なんなのアレ」

 腐った楽園エデンに棲む囁き蛇、その牙城から逃げ出したサヤカ・リーは、工芸品の通りに並ぶランプとお香の店を訪ねていた。店主は古くからの知り合いで、青い顔をしたサヤカを見るや「まあ、お入んなさいよ」と手招いた。店主の名をアスカ・フェイという。店の入口に扉はなく、仕切りに使われているのは木のビーズを糸で繋げたビーズカーテンだった。手で掻き分けるとキャラキャラ小気味の良い音がする。

「ご無沙汰じゃないの。どう、配達員の仕事は? 儲かってる?」

 高い染料で染めた虹色の髪を、やはり木のビーズで出来た髪飾りで押さえた店主は、大して聞きたくもない様子で話を振った。事実ありふれた話題であるが、店を持っているアスカに比べたら、サヤカの稼ぎなど子どものお駄賃にもならない。かすかな、けれどはっきりと存在を主張する沈黙が、二人の間に落ちた。

「あー、ごめん。やっぱいいや」

 露骨に気まずそうにする友人に対し、サヤカは首を横に振る。この街では気にするだけ無駄なのだ。

「雀の涙よ。家賃払ったらギリギリ」

 肩をすくめ、大げさに嘆くサヤカ。誰だって冗談とわかる仕草。傷付いた様子のない彼女に、虹色はパッと笑って言った。

チュンだけにね」

「……」

 天誅。調子づいた友人の極彩色の頭めがけて、渡すはずだった薄い箱を振り下ろす。この無礼者、言っていい冗談と悪い冗談があるというのに。

「痛ぁっ!? ぶつことないでしょ!」

「ぶたれるようなこと言うからでしょ」

 パン、といい音がして、店主は頭を抱えて蹲った。可愛くて陽気な無神経。全方位が射程圏内の放言はいっそ清々しく、無視できない程度の棘が含まれている。


「さ、どーぞ。粗茶ですが」

 長居を察したアスカは、おもむろに奥に引っ込むと、杏仁茶を持って出てきた。ドン、と真正面から差し出された茶碗には、白くとろりとした甘い香りの飲み物がたっぷり入っている。色も香りも、何一つ似ても似つかないのに、蛇腹紅社での出来事を思い出し、サヤカは青ざめた顔を両手で覆った。

「げぇ……ごめんそれやめて」

「なにがよ」

「粗茶って言わないで」

 てんで要領を得ないサヤカの我が儘に、店主は訝りつつも茶碗を引き戻し、今度は尊大に差し出してみせる。

「可愛い友人が手ずから淹れたありがた〜いお茶よ。ありがた〜く飲みなさい」

「……アリガト」

 小芝居を挟んで飲む杏仁茶は温かくまろやかで、透明なタピオカがモチモチと歯にくっつく懐かしい味がした。砂糖でなく蜂蜜で甘みをつけている。プリプリしたタピオカを噛みながら、サヤカは茶碗の中を見下ろした。

「おばさんのと同じ味」

「ふふん、一子相伝よん」

 粥を飲むように豪快に茶碗を傾けながら、アスカは得意げに目を細めた。 

 新参者が居つきにくいこの街では、多くの店が親から子へ、師から弟子へと譲り渡されて存続する。アスカ・フェイもご多分に漏れず親から店を受け継いだ口で、年季の入った内装にまだ馴染めていないように見える。飴色の巨大なテーブルにところ狭しと並べられた色硝子のランプを避け、アスカが怠そうに卓上に手をついた。

「オカンから店継いだ私が言えることじゃないけどさ、もっと安全な仕事場なんてこの烏龍にいくらでもあるんじゃない?」

「……それ、ジョウさんも似たようなこと言ってた」

「雑貨堂の?」

「うん」

 アスカは意味深長に視線だけで天井をなめると、杏仁茶をすすりながら鼻息を漏らした。

「ふぅ〜ん」

「なに?」

「別に」

 言いたいことがあるならはっきり言え。サヤカが無言の圧をかけてジッと凝視すると、空になった茶碗をクルクル弄っていた店主が、やがて根負けし白状した。

「その、さ。確かにジョーさん格好良いけどさ、整頓できない男とは一緒にならないほうがいいよ」

「……あ!?」

「あのカップ麺の山の高さ異常じゃん。陳列っていうかもう、賭けでもしてるんじゃないかと思うよ。いつ倒れるか、みたいなさ」

「そりゃカップ麺の高さはヤバいと常々思うけど、そうじゃなくて! あたしが!? ジョウさんと!? 無いから!」

 タピオカが鼻から出そうになり、サヤカは不本意にも「落ち着け、興奮するな」と宥められてしまった。混乱の呼び水は目の前の店主二世であるのだが、棚上げと責任転換については一家言ある友人に口で勝てた試しがない。

「わかったわかった。何もないのね」

「くそ、失礼すぎる……」

「どっちに対して?」

「両方!」

 ぐいっと飲み干した茶碗を戻し、受取人のサインも貰った配達員は、まだ何か言いたそうなアスカを残し、仕事に戻っていった。

「ごちそうさま!」

「は〜い、お仕事がんばれ!」

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