第14話
「十田厳重処分。薬物疑惑も」
「ボクシング界永久追放。こんな暴君はいらない」
「十田。淫行疑惑。AVにも出演してた?」
翌日の新聞の見出しはある事ない事が言いたい放題書かれていた。プロの嘘つきは大量の虚構にスプーン一杯分の真実を加える。こうすると何が真実かなど分からなくなってしまう。
十田はしばらく記事を眺め、一気に破くと空中で何発もパンチを叩き込んだ。
「クソが!」
破いた新聞を蹴り上げる。この記事を書いた人間全員を火あぶりにしてやりたい。
昨日の事件後、十田はしばらくの謹慎を言い渡されていた。コミッションの方からも正式な処分が下るのだろうが、それが除名にならないようジムの会長が奔走しているとの事だった。処罰が下る前に自ら謹慎を申し出るという事で選手生命だけは失わないようにというジム側の配慮だ。だが、そんな会長陣営の配慮など十田に理解出来るはずがない。
試合後には人生で一番長い説教を喰らった。殴られたし罵られもした。そして勝利の余韻に浸っているはずの今日は最悪の見出しをつけた新聞が玄関の郵便受けに放り込まれている。誰が住所を調べたのかは分からないが、明らかに嫌がらせであった。
ファイトマネーもこの騒動を受けて没収となった。ジム側に罰金刑が下る事が決まったからである。何もかも解放された試合後に遊びまわろうとしていた十田にとってはまさに泣きっ面に蜂だった。
今回のファイトマネーは二〇万。出費としては痛すぎる。滞納していた家賃はどうする? パチンコで資金を増加させる計画はどうなる? 色々な思いが頭の中を駆け巡った。ナンバーワン極悪選手の肩書きを手に入れた代償はあまりにも高くついた。
十田は預金通帳を出して眺めた。残高は一三〇〇円しかない。今の十田は空き巣にも見放される財政レベルにある。
毎日一食にして牛丼一杯でしのいだとしても五日と持たない。そもそも身体が資本の生活なのだから、そんな食生活で持つはずがない。
どうする食生活? どうする家賃? そんな思いが脳内を支配する中、十田は携帯を取り出した。
『もしもし』
「おう、俺だ山中」
十田が電話したのは山中だった。一度あまりカタギ「ではない」仕事を紹介してもらった縁がある。
『何? オレオレ詐欺?』
「ナメた事言ってるとぶっ殺すぞ。すぐに金が必要になった。何か無いか?」
十田はへりくだるという概念を知らなかった。
『あるっちゃあるけどバレたらボクサー人生終わるぞ』
「どうせ首の皮一枚繋がってる程度だ。その前に生きていけなくなりそうなんだよ」
『分かった。じゃあ今夜からやるか? よっぽど切羽詰ってるみたいだし』
十田は仕事の内容も聞かずに場所と時間だけをメモした。電話を切ると新聞が散乱した床に寝っ転がる。
「そうだ。どうせやらなきゃボクシングどころじゃないんだ」
誰に言うでもなく、十田は虚空に向かって呟いた。
「いらっしゃいませ」
「おっしゃあいらっしゃいましたぜ有頂天産業株式会社の堀部長のお出ましだぞ~」
「何言ってんだよ、この酔っ払いが」
すっかり出来上がったサラリーマンの四人組が来店した。
十田の新しい職場はキャバクラだった。採算度外視にも見えるマーライオンのオブジェに謎の全面鏡張り、ゴールドの装飾品に座り心地は最悪のソファー。入り口に入ってすぐにある噴水前には今イチな女性陣が並んでいる。
十田は店の奥でスーツに身を固め、モニターでその様子を窺っている。
来店した客はすぐに奥の方の部屋へ案内され、それぞれの席にキャバ嬢が付いた。
「バカめ。俺だったら入り口の女を見た瞬間に帰るぜ」
十田は嘲笑を浮かべながら金ヅルを眺める。
モニターに映る客は酒が入っているせいか本当に有頂天だった。数時間後にはその頂点から転げ落ちているのだと思うと笑いが堪えられない。
十田は自分で水商売に加担しておきながらこの仕事を心から侮蔑していた。人を殴るのが好きだからとはいえ、十田は自分の仕事に命を賭けている。来店したサラリーマン達も日々嫌な思いをしながら、下げたくもない頭を下げて仕事をしているのだろう。それに対し、ホストやキャバ嬢は客の隣に座って喋って酒を呑んでいるだけで金をもらえるのだから楽なものだと思っていた。現実的には客にストーキングされたり酒が原因で身体を壊したりとリスクも多々あるのだが、十田にそれを鑑みる知能は無かった。そして、そんな商売に金を払う人間も大嫌いだった。
『これが商売として成立するんだったら通行人に俺の試合チケットを売りつけたって合法じゃねえか』
心中無茶苦茶な理論を展開しながら、十田はサラリーマン達に憎悪を募らせていく。相手が憎ければ今日の仕事はやりやすい。これはトレーニングだ。対戦相手に情を移さずに試合に臨む練習なのだ。そう自分に言い聞かせる。
「そろそろ帰るか」
「え~もう帰っちゃうの? エリカ、さびしい~」
今イチのキャバ嬢が猫なで声で甘える。サラリーマンはまんざらそうでもない。
「ほら、俺も明日があるからさ。な?」
「う~」
声しか可愛らしくないキャバ嬢をなだめ、堀部長と呼ばれた男は「お会計を」と言った。
ボーイから伝票を渡され、部長は凍りついた。「どうしました?」と訊いた部下達も伝票を覗き込んで固まる。
「これ……高くない?」
部長はもう動かしようのない事実を少しでも変えようと、表情を失いながらも抵抗する。
「ええ、女の子が呑んだお酒代も入ってますから」
「いや、分かるんだが、だからって六十万はないんじゃね?」
「ええ、でもそれがウチの値段ですから」
モニターでは映像しか分からないものの、大体どんな会話がなされているかは想像出来る。十田は店の奥で一人笑いを堪えていた。キャバクラで六十万円なんて聞いた事がない。
「ざけんなよコラ! ボッタクリかここは!」
サラリーマンの一人が怒り出した。特別な酒を注文したわけではないのだからそれもそうだろう。
ボーイはモニターをチラリと見た。十田はホールへと出て行く。
サラリーマン達はスーツ姿の十田を見た瞬間に慄然とした。坊主頭で筋骨隆々、その眼は日本刀のように鋭く、何人を血祭りに上げてきたか分からない。そんな男が店の奥から急に現れたら一般人は怖がらないはずがない。
「なんかあったか?」
十田はしらじらしい質問をボーイにした。
「いやあ、このお客さん達が、料金が高いってさ」
「何い?」
十田は顔をしかめるとサラリーマン達の方に向き直る。案外芝居は向いているのかもしれない。
「お客さん、困るね。こっちも真っ当な商売してるからさ。お金払ってくれないとか言われると困っちゃうんだけど」
十田は睨みつけるのと諭すのと半々ぐらいの顔で言った。
「ふざけんなよ。こんなチンピラまで出しやがって。俺ぁなあ、学生時代にボクシングやってたんだあ!」
サラリーマンの一人はその場でシャドウボクシングを始めた。全くの素人ではなさそうだったが、おそらくフィットネスでやっているとかそんなレベルだろう。『ガードが甘いな』と思いながら十田は答える。
「ケガする前に払った方がいいよ」
十田の眼つきはみるみる鋭くなっていく。ボクサーサラリーマン以外は恐れ慄く。
「やってみろや」
ボクサーサラリーマンは不意打ちで左フックを放った。十田はそれをスイとかわす。あまりに簡単にかわされて屈辱的だったのか、ボクサーサラリーマンはさらに右ストレートで飛び込んだ。
『パンチってのは』
十田は半身で右ストレートをかわす。
『こう打つんだよ!』
かわしざまに放った左アッパーがミゾオチに突き刺さる。破裂音が店内に響き、ボクサーサラリーマンは吐瀉物を撒き散らしながらもんどりうつ。
サラリーマン軍団はすぐに支払いを決めた。這いつくばる一人は除き、三人で二十万円ずつをカードで支払う事になった。領収書にはリップ・オフと書いてある。酔いで気が付かなかったが、それは艶かしい唇のようなものを指すのではなく、ボッタクリを意味する英単語だった。サインをしながら、堀部長は英会話教室に通おうと思った。
「またおこしくださいませ~」
まったくイケてないキャバ嬢と並び、十田は頭を下げた。先ほど汚れた床を掃除し、次の獲物を待つ。
何人かの犠牲者を捌いた後、山中が現れた。この日の給料を受け取る。十田は袋で渡された一万円札の枚数を数えてほくそ笑んだ。
「なかなかいい商売だな」
「誘っておいてなんだが、あんまりやるもんじゃねえ。この店も近々たたむからな。いつパクられるかなんて分かったもんじゃねえよ」
「さすがだな。儲け方はクズだけど、やっぱお前はプロのクズだわ」
「褒めてるか? それ」
にこやかな十田は聞いていなかった。これで謹慎期間も何とかなる。朝に感じていた絶望が嘘のようだ。
「また仕事はあるか?」
「言っとくけど今の内に止めとけ。ハマると足を洗えなくなるぞ」
山中は珍しく真面目な顔で忠告した。十田は珍しく素直に従う事にした。確かに意味なく危ない橋を渡る事はない。この副業がバレたらボクサーのキャリアは確実に終わるだろう。十田はこの仕事からは手を引こうと思った。
「他に仕事は無いのか? 出来ればもうちょっとマシな」
十田の声が聞こえたか、ボーイが少し嫌な顔をしたが、十田がそれに気遣いなど見せるはずがない。
「あるっちゃある。が、今はボクシングに専念しろ。世界さえ獲っちまえば全部が大逆転するんだ。それを忘れるな」
山中は急に説教臭くなった。十田は少し不思議に思ったが、山中の忠告に従う事にした。
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