第13話

 ――二年前。


 夜空には朧月おぼろづきが輝き、まだらな光で闇に包まれた東京を包み込んでいた。


 東京ドームからは野球観戦を終えた人々が大挙して押し寄せて来る。ドームに隠れるようにそびえ立つ後楽園ホールでは、今日も男達の闘いが繰り広げられていた。




 十田はトレーナーの持つパンチングミットに得意のワンツーストレートを打ち込む。切れ味抜群の両拳はトレーナーをミットごと吹っ飛ばした。


「このへんにしとけ。試合前に疲れちまう」


 トレーナーに促され、十田はパイプイスに座り込んだ。息は軽く上がり、良い感じで身体は温まっている。全身の感覚も鋭敏になり、どの血液がどこの血管を通っているのかはっきり分かる。


「ぶっ潰してやる……」


 十田は静かに呟く。彼はこの試合に対して並々ならぬ気合を入れていた。


 試合が急遽決まったのは三週間前だった。所属しているジムに一本の電話が入り、三週間後に迫ったJJ麗刃というボクサーとの試合をしないかという話が舞い込んだ。JJ麗刃はトップランカーではあったが、日本タイトル前哨戦で伏兵に敗れ、再起を目論んでいる最中であった。ランキングは三位から下降したものの、何とか九位に留まっている。


 十田は危険な選手としては知られていたものの、まだランキング入りはしていなかった。死の天使と呼ばれた十田は試合が組みにくかった。リカルド・マヨルガにザブ・ジュダーのセンスを与えた十田とは誰も対戦したがらなかった。


 おそらく十田に時間が与えられなかったのも意図的なものであると予測される。叩くなら今だという事だろう。


 しかし、十田が怒っているのはそんな事ではなかった。


『俺が再起戦にちょうどいいとでも思ったのか? 一生後悔させてやるよ』


 十田は軽んじられる事が大嫌いだった。ランカーであるとはいえ、一度負けた選手が再起戦で自分を指名するなど侮辱に等しかった。十田は沸き出る怒りを隠そうともせず、憎しみは拳へと注がれていく。人としては確実に間違っているが、十田の闘志はその火力を増していった。


「今回の相手はランカーだ。勝てばお前も念願のランクインだぞ」


 トレーナーも発破を掛ける。屈辱も怒りも歪な闘志に転化されていく。


 控え室の扉がノックされ、スタッフが入って来た。


「十田選手、そろそろ試合が始まりますので入場の準備をして下さい」


 獣のような声で気合を入れると、十田は控え室を出て行った。



 この日の後楽園ホールはなかなかの集客だった。空席も少なく、一番安い席を購入して前の席に陣取るという裏ルールもこの日は使えそうにない。


 十田対JJ麗刃の試合はセミファイナルであったが、両者とも我の強い選手としては有名で、観客はワイドショー的な興味もあって二人の試合には注目していた。どちらがより凶悪な選手なのか。怖いもの見たさで会場は変なざわつき方をしていた。


「セミファイナル、選手入場です」


 先に入場して来たのはJJ麗刃であった。直近の試合では敗れているものの、アマチュア全日本王者と国体王者を獲得した実績はいまだに威光を失う事がない。たたき上げの選手に辛酸は舐めさせられたが、彼はいまだに未来の世界チャンピオン候補である。


 入場曲であるレゲエのリズムに乗りながらJJ麗刃は入場して来た。ドレッドヘアーにスリット型のトランクス、盛り上がった褐色の後背筋には自信が満ち溢れていた。前回負けたのは少しばかり運が悪かっただけだ。そう背中が語っているように。


 JJ麗刃はリングのロープに手をかけると、その場で少しだけステップを踏んでから大車輪の要領でリングインした。その姿はナジーム・ハメドを思い起こさせる。


 続いて十田三郎が入場した。


 会場にはスレイヤーのエンジェル・オブ・デスが鳴り響く。アウシュビッツの狂気を歌ったこの曲をバックに、十田は邪悪な笑顔を浮かべて歩いて来る。その笑顔はこれから人を殴れるのが嬉しくて仕方がないといった風であった。


 JJ麗刃もキャラクターは悪童の部類に入るのだが、そんな男をねじ伏せ、許しを請わせるのは嗜虐の喜びの最たるものだ。昨日まで自分が一番偉いと思っていた人間のプライドを完膚なきにまで叩き潰す。これほどゾクゾクする楽しみは無い。


 十田はトップロープとサードロープの間を潜り抜ける。彼の眼光は残像となって殺意の残り香を揺らめかせる。


 リングインした十田はスタスタとJJ麗刃に近付き、キス出来る距離まで顔を近づけた。世界で一番邪悪な微笑み合いがリング上で交差する。その笑顔は誰が見ても『殺す』というメッセージを発信していた。


 両者は各々のセコンドにやんわりと自陣まで連れて行かれ、選手紹介を待つ。


「赤コーナー、体重一三〇パウンド二分の一、神拳ジム所属、日本スーパーフェザー級第九位、スピードスター、JJ~麗刃~」


 リングアナウンサーがJJ麗刃の名前を読み上げると柄の悪い声援が上がる。


「青コーナー……」


 十田の紹介が始まるとJJ麗刃の応援団から盛大なブーイングが上がる。嫌われ方では十田の方が格上のようだった。十田はJJ麗刃応援団の方に向かって諸手を挙げ、悪魔のような瞳で笑顔を作り、会場はざわついた。


「体重一三一パウンド、獣拳スポーツジム所属、十田~三郎~」


 十田の名前がコールされると会場にはさらにブーイングが巻き起こる。十田はその場でステップを踏みながら薄気味悪い微笑を浮かべていた。


 レフリーに二人が呼び寄せられ、グローブを合わせる。気の強い二人はお互いのグローブを叩きつけた。両者はシャドウボクシングをしながら自陣のコーナー戻っていく。


「ラウンド1」


 ホールに甲高い金属音が鳴り響いた。二人は軽やかにステップを踏み名がらリング中央に吸い寄せられていく。


 JJ麗刃はガードを上げ、身体を揺らして的を絞らせないようにする。十田もクネクネと動きながら、前の手である右を伸ばし、相手との距離を計測している。気が強い選手同士にしては意外にも慎重な立ち上がりである。


 十田は右ジャブを軽く放っていく。攻撃の起点を掴むためというよりは、相手が自分の攻撃に対してどういう反応をするのか探るためだ。直近の試合で負けたとはいえ、JJ麗刃の動きは悪くない。油断すればすぐにカウンターが飛んで来るだろう。


 十田はフットワークを盛んにし、相手のパンチにすぐ対応出来るようにした。JJ麗刃ぐらいの実力者になればジャブにカウンターを合わせてくる可能性も十分にある。


  二人の前の手が交差する。サウスポーとオーソドックススタイルでは相手の体勢を崩す事が一つのキーポイントでもある。前の手で相手のバランスを崩し、無防備になったところへ利き腕のストレートを叩き込む。それが利き手の違う者同士が闘う場合のセオリーである。


 十田は右ジャブを軽く打ち、JJ麗刃にギリギリ当たらないぐらいの距離を保つ。


 JJ麗刃は十田の中途半端な右リードを内側にパーリングではたき、インサイドから右ストレートを打ちにいった。


 しかし十田ははたかれそうになった右手をすぐにひっこめ、僅かばかりにバランスを崩したJJ麗刃の顔面に右ジャブを食い込ませる。素早い一撃に驚いたJJ麗刃はパンチの勢いに押されて下がった。十田は一気に距離を詰めていく。


 ノーモーションの左が放たれ、それはJJ麗刃をガードごと吹っ飛ばす。さらにバランスを崩したJJ麗刃に十田は猛獣の如く襲い掛かった。ガードの上から無数のパンチが降り注ぐ。ストレートを主体にした連打は反撃の余地を与えない。


 JJ麗刃はガードしながらロープ際で身体をグネグネと動かしていた。ボディーブローはいくらか被弾するものの、顔面への致命的な一撃は喰らわずに済んでいる。


 十田はガードを固めたJJ麗刃に右ジャブのフェイントを見せ、すぐに引っ込めた右手でボディーから顔面を連打する。ボディーはJJ麗刃のアバラを叩き、脇腹を守るために下がったガードの上を直撃した。怯んだJJ麗刃にはすかさず左ストレートが叩き込まれる。


 左ストレートは額に直撃し、のけ反ったJJ麗刃はロープに救われる。下を向きかけたホープに容赦ないアッパーが打ち込まれる。ガードの上からでも効いたようで、JJ麗刃はグラグラと揺れる。


 十田は悪魔の微笑みを浮かべながら左ストレート、右フック、左アッパー、右フック、そして左ストレートを打ち込んだ。連打を叩き込まれたJJ麗刃はたまらず崩れ落ちる。


 会場が沸き立つ中、レフリーがダウンカウントを数える。十田が嫌われ者とはいえ、エキサイティングな試合なら観客は公平だ。悠々とセントラルコーナーまで歩き、コーナーロープを肘かけ代わりにして寄りかかる。


 十田はカウント4ぐらいで立ち上がり、冷静な面持ちでファイティングポーズを取った。ダウンぐらいでは動揺しないだけの経験も積んでいるらしい。


 レフリーが試合再開を告げると同時に1ラウンド終了を知らせるゴングが鳴った。静観と敬意が混じったような拍手を背に、両選手は自陣へと帰って行った。


「いいぞ。このまま行けば楽勝だ」


 セコンドの激励に十田はフンと鼻を鳴らす。


「俺を復帰戦の相手に選ぶなんて救いようの無いバカ野郎だ。再起戦で再起不能にしてやるぜ」


 十田は自分でうまい事を言ったと思ったのか、くっくと笑う。悪魔の一人笑いを無視して、セコンドはマウスピースを十田の口にはめた。


「ラウンド2」


 ゴングが鳴ると、十田は前のラウンドよりもさらに調子付いた様子でリング中央へ躍り出た。踊るようなフットワークは挑発を超えて侮辱のニュアンスすら感じさせる。


 JJ麗刃は怒りを顔の皮一枚の内側に秘め、ガードを高く身体を揺らしている。ここで感情的になればカウンターを打ち込まれる可能性を理解しているからである。


 十田は人を小ばかにしたような顔でジャブを放つ。その人を舐めきった顔に一撃を加えたくなるが、それは明らかにカウンターを打ち込むための呼び水になっている。ジャブはギリギリ届かないぐらいの位置から放たれているので、挑発に乗って射程圏内に入ってしまうと逆にカウンターを打たれてしまう。プライドの高い選手にとってはストレスの溜まる展開だ。


 十田はそんな対戦相手の心理を知ってか知らずか、愚弄するような顔でジャブを打ち続ける。先ほどダウンを取った印象もあり、十田の方がリングを支配しているように見えてしまうのも厄介な要素の一つである。ボクシングは有効打の他に手数やリングジェネラルシップ、つまりはどちらが試合を動かしているかという点も採点基準となるので、明らかに当てる気の無い攻撃でも出していないよりマシなのである。


 JJ麗刃も見かけ上の攻勢を取られていく事を自覚したのか、右は打たないものの左ジャブを打っていく。だが、受身でその戦法を選択した感は否めない。


 十田はJJ麗刃が放つジャブの打ち終わり、一気に踏み込んで左ストレートをぶっ放した。様子見をしようとしていたJJ麗刃は虚を突かれ、浅くだが被弾した。


 十田は一気に距離を詰める。ワンツーから右フックで飛び込み、バランスを崩したJJ麗刃のガード上からフルスイングの左を叩き込む。


 コーナーにJJ麗刃を追い込むと、十田の連打はますます加速した。打ち終わりのリターンブローですら打つ隙を与えない。若さと力任せに放たれた連打はJJ麗刃のガードをこじ開け、彼を飲み込んでいく。


 このままではいけないと思ったか、JJ麗刃は連打中にガードを固めながら右ストレートを降り抜き、左フックを返した。


 反撃するならこの方法しかないと見抜いていたのか、十田は右ストレートを左へダッキングしてかわし、後続の左フックはそのまま右側にウィービングして外す。かわしざまに右ボディーを再びアバラに叩き込む。


 JJ麗刃の身体が伸びきっていたのもあり、十田の拳のは何かを砕いたような手ごたえを感じた。ガードが下がったところに、すかさず右フックを叩き込む。


 右フックの効果は覿面だった。JJ麗刃がグラリと揺れる。無防備になった対戦相手の顔面に追い討ちの左ストレートが襲いかかる。


 Jj麗刃のアゴが撥ね上げられたところでレフリーが割って入った。JJ麗刃を抱きかかえたまま右手を振る。試合終了を知らせる合図だ。


 しかし十田はレフリーに支えられたJJ麗刃にさらに左を打ち込んだ。会場は動揺し、ざわめく。


 負傷兵を救助しているようなレフリーにも構わず、十田は追撃を止めない。まるで積年の恨みが積もり積もっていたかのように。


「何やってんだ、バカ!」


 この異常事態に両陣営のセコンドがリングに上がり、十田を取り押さえた。会場にはブーイングや野次、悲鳴が交錯している。怒気を含んだ喚声の中、十田は押さえつけられ、JJ麗刃から引き剥がされていった。


「十田! 試合は終わりだ! 終わったんだ!」


 セコンドは叫びながら必死になって十田を取り押さえる。


 まだ対戦相手に喰ってかかろうとしている十田は返り血に染まり、何かを叫んでいる。その表情は狂気に満ちた獣を思わせた。


 二人が引き離されたところで、今度はJJ麗刃陣営のセコンドが十田に詰め寄る。無意味な加撃をしたのだからそれもそうだろう。


「やんのかコラ! 来いよ、ぶっ殺してやるよ!」


 終いには十田はJJ麗刃のセコンドとさえ口論を始めだし、強制的に控え室へと連行されて行った。日本人には珍しく会場にはブーイングが鳴り響いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る