第11話

 十田は家の荷物をまとめだした。あと数時間もすれば太陽が昇ってくる。時間制限があるというわけではないが、気分はさながら夜逃げに近い。


 十田は本当に必要な物だけをボストンバッグに詰め込んでいった。漫画本やCDは今までの家賃代わりという名目で置いていく事にした。売れば小銭程度にはなるだろう。汚らしい布団は雑巾にでもしてくれればいい。


 家を漁って思った事は、本当に必要な物がこれといって無かった事だった。タンスや押入れ、流し台等の家具は備え付けだし、パソコンなど置いていない。わずかばかりの衣類を除けば、後は無くても大して困らない物が殆どだった。


 家を出て行く前、十田は自室を振り返った。もうここには帰って来ないのだろうが、寂寞間や未練などはさっぱり沸いてこない。彼は少し前に抱いていた不安が馬鹿馬鹿しくなってきた。確かに三十万円を持ってどこかに逃げた方が、ここに居続けるよりは幾分マシだったのだ。


 家に別れを告げると、十田はすぐに携帯電話を使って山中を呼び出した。待ち合わせ場所である池袋駅の西口付近に行くと、ロータリーのところへ黒いワゴンがやって来た。近くまでやって来たワゴンが短くクラクションを鳴らしたので、十田はそこまで歩いて行った。


 ワゴンは中が見えないようにフィルム貼りになっていた。仲間と分かっていなければ明らかに不審車両である。


 ウインドウが下がり、山中が親指で後部座席を「乗れ」と指した。十田が乗り込むと、ワゴンはすぐさま走り出した。


「行き先はどこなんだ?」


 前置きも無く十田は訊いた。


「これから港まで行って、フェリーに乗る。それから世界大会の会場まで向かう。お前は寝てればいい」


 ハンドルを握りながら山中はそっけなく言った。


「船? 会場は東京じゃないのか?」


「ああ、だが国外に出るってわけじゃない。俺達が向かうのは大会会場が建設された、未来島という所だ」


「未来島? なんだその痛いネーミングは?」


「施設を建てたブライトフューチャー製薬から取られた名前なんだそうだ。あ、フューチャーって未来っていう意味だからな」


「その怪しい名前の島で、俺は世界各国の犯罪者達と闘うのか」


「いや、犯罪者とも限らないかもな」


「なんでだ?」


「そもそも犯罪歴があれば入国できないはずだから、お前とは違って真っ当な奴らが来るかもな。マイク・タイソンですら犯罪歴で国内に来れないからな」


「悪かったな。真っ当じゃない奴で」


 十田は山中の背中を睨みつけた。そんな事はつゆ知らず山中は続ける。


「しかし、お前も本当は運がいいのかもしれないぞ」


「いいわけねえだろ」


「今回の興行は創世記だから出場するためのハードルは低い。これが有名な大会になったらそうはいかない。ここである程度の活躍をすれば、その成績のいかんに関わらず、お前は『大会の初期を支えた偉大なる選手』として尊敬されるわけだ。たとえそれがクズみたいな奴でもな。


 そうなればしめたもんだ。仮に引退したとしても、その興行がテレビに放映されるような桧舞台に成長していれば、お前は解説者として偉そうに放送席で技術論を語ってればいいんだ。それだけで食いっぱぐれないで済むんだ。今のどうしようもないドランカー連中さながらにな」


 十田は無言で運転席を蹴った。山中は涼しい顔で運転を続ける。


 しばらくすると、十田達は港までやって来た。うっすらと出てきた陽光が大海を照らし、美しい光景を創りだしていた。


「おい、フェリーって…」


 十田は息を飲んで前方を指さした。


「なんだ?」


「あれか?」


 十田が指差す前には、巨大な豪華客船を思わせる船が停泊していた。何段にもなった客室や威嚇するような船首は、テレビでしか見た事がない映像だ。フェリーと聞いたので、十田は無骨で所どころが錆びた船を思い浮かべていたが、実際に現れた船舶はタイタニックを思わせる優美さがあった。


 十田は何か特別なドッキリにでも引っかかっているのではないかという猜疑心に囚われていた。どう考えても、あれが落伍者の世界一を決める大会会場へ向かう船とは思えなかった。


「あれが製薬会社の意気込みってわけだ。彼らは持ってる資産も桁違いだからな」


 後部座席で圧倒される十田の心中を見透かしたように山中は言った。


 山中が運転するワゴンは徐々に船へと近付いて行く。朝陽に照らされる豪華客船はまさに輝ける未来という名に相応しい荘厳さがあった。


「信じられん。信じられん」


 ワゴンが港から船内に乗り込むのを見ながら十田は念仏のような独り言を繰り返した。本職のボクサーでも、こんな好待遇で迎えられる事は無い。


 船内の駐車場に入ると、山中は携帯電話を取り出した。警備員らしき人間に車を預けると、山中は十田を連れて船内へ入って行った。


 船内も掃除が行き届いた小ぎれいな内装で、外観との落差は無かった。赤い絨毯が敷かれた回廊を渡っていくと、各々の部屋を紹介される。


 部屋の内部は豪華とは言いがたいが、それでも一般的な宿泊施設と変わらない。ユニットバスにテレビ、作業机に柔らかいベッドの枕元には聖書が用意されていた。どこか諧謔的な嫌味を感じたが、十田の住まいよりは遥かに人間的な空間だった。


 荷物を置くと、十田は山中に連れられて食事へ出かけた。


「こんな早朝に食堂なんてやってるのか?」


「食堂なんて言うな。お前の口から出る言葉は何でも安っぽく聞こえる。ここでは二十四時間体勢で食事が出るようになっているんだよ」


「ほう、ヒマなんだな」


「バカ野郎、ホスピタリティーってやつだ。俺らはVIP扱いなんだよ」


「ホスピ…何だその病院みたいな名前?」


 山中は十田を無視して船内を闊歩する。同じチンピラのくせに、勝手知ったる風で船内を歩く山中の姿は、十田にイラつきを感じさせた。船内は静かで、揺れを全く感じなかった。


 装飾が施されたやたらと大げさな両扉をボーイが開くと、そこには映画でしか見た事の無いような社交界の様相が広がっていた。


 天井にはシャンデリアが吊るされ、純白のクロスで装飾された円卓。その上には三つ又に分かれたキャンドルが火をともしていた。


 会場にいる男も女も正装で、上品にワイングラスを傾けていた。革ジャン姿の山中と土木作業の帰りのような十田は明らかに場違いだった。


 生まれて初めて外の世界を見る小鹿のように、十田は上流階級のパーティーに戸惑っていた。山中はこんなシチュエーションにも慣れているのか、スタスタと奥へ歩いて行く。


「適当に食って寝ろ。どうせ到着まで長いんだ」


 そう言い放つと、山中はグラスタワーの傍にある酒を物色しだした。この男はなかなかの強心臓である事が今さらながらに判明した。


 十田はその場で所在無さげにした後、とりあえず何か食べようと思った。腹も空いていたし、何よりもこの空間から早く抜け出したかった。


 食事はバイキング方式になっており、言い換えればセルフサービスだ。十田は適当に皿を取り、肉系の食べ物を積んでいった。ビールも飲みたかったが、試合後は頭蓋骨内部の血管が傷ついているため自殺行為だ。仕方なしに、酒で自分をごまかすのは自粛せざるを得なかった。


 好きな物を取っては食べ取っては食べを繰り返しながら、十田は辺りを見回した。口に食べ物を大量に含みながら周囲を観察する姿は時々ゴリラにも見える。


 タキシードやドレスを身にまとった上流階級の人間達は、十田とは完全に住む世界の違う生き物だった。来客は日本人ばかりでなく、白人や黒人、中東系の顔立ちもいた。この集まりが何なのか十田にはさっぱり分からなかったが、空腹の彼にとってそれはどうでもいい事だった。


 ホワイトソースで味付けされたチキンを頬張っていると、十田はどこかから呼ばれたような気がした。声ではなく、テレパシーのような感覚で。


 吸い寄せられるように振り向くと、遠くの壁際に外国人の女性がもたれかかってこちらを見ていた。周囲と楽しそうに語らう事もなく、彼女はその場では浮いていた。女の容姿は透き通るような金髪に、蒼穹を思わせるライトブルーの瞳、引き締まった唇にモデルのような細長く美しい四肢を持っていた。グラスを持つ白い手は、拳の部分だけが少しばかり浅黒く、その双眸には意思の強さと憂愁さが背理的に混在していた。顔立ちからするとロシア系だろうか。


 十田は何も言わずに彼女を眺めていた。異性としての魅力ではなく、何か不思議なものを見つけた感覚で。


 向こうの女もこちらを見ていた。無表情ながら、視線を全く逸らさずに。視線と視線は一つの交点で止まり、そのまま動く事はない。


「おい、もう十分食っただろう?」


 山中が十田の肩に手を置いた。酒のせいで顔を赤くした山中は「まだ食うのか」とでも言いたげに呆れ顔だった。


「ああ、腹一杯になった」


 十田が話しながらチラチラと視線を戻したが、女の姿は消えていた。


「さっさと寝るぞ。目的地まではまだ時間があるんだ」


 十田は山中の言う通りにする事にした。言われて見れば試合から殆ど休息らしい休息もしておらず、身体には疲労感があった。


 パーティー会場を後にする時、十田はもう一度振り返った。向こうの壁には、女の残した気配だけが残っていた。

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