第10話
「痛え」
「うん、折れてはないな」
山中は控え室で十田の手首を触診していた。素人療法にも見えるが、彼には十田が骨折していないと分かるらしい。
山中は氷嚢を取り出し、氷を詰め込むと十田の手首に巻きつけた。氷嚢が動かないように、バンテージで固定してテーピングを施す。
「手際いいな、無駄に」
「無駄とは何だ。これでもこの世界で長くやってるんだ。多少のケガなんてお手の物よ」
山中は最後のテープを犬歯で切り、バンテージの固定を終えた。
「それでしばらく冷やしてろ。多分それで治る」
「ところで三十万をさっさとくれ」
十田はケガをしていない右手を差し出した。
「くれてもいいが、今もらっても困ると思うぞ」
山中はあさっての方向を向き、壁に話しかけるように言った。
「困るわけねえだろ。明日家賃が払えなければ俺はホームレスだ」
「なあ、金の前に、世界大会の説明をしよう。それからでも遅くないだろ」
不満一杯の十田をよそに、山中は説明を始めた。
「まず、ここの競技の話から始めようか。こんな文字通り地下格闘技にもちゃんと名前がある。ここの裏興行は、仲間内ではEBCと呼ばれている」
「EBC?」
「ああ、Extreme Boxing Championshipの略だ。訳せば、超過激ボクシングってとこだろうか」
「英語は分からん」
「そうだ、お前は英語が分からなくていい。この競技は海外に端を発し、それが日本に広がってきたという話になっている。なっているっていうのは、もともとの歴史がはっきりしないからで、当時は全国に支部があるというわけでもなかった。会場も不定期に移動するし、亜流も出てきたから大本の組織が何で、誰が代表なのか、俺ですら分からないというのが現状だ」
「頭が痛くなりそうだから早く本題に入ってくれ」
「簡単に言うと、世界中に勢力を広げた俺たちの団体が、とある製薬会社の目に止まった。その製薬会社がスポンサーとなり、地下格闘技を現代の格闘技と並ぶ、プロの団体を作り上げるというプロジェクトを始めた」
「何のために?」
「お前にとってそれはどうでもいい情報だろう? 要は、世界中の猛者を集めて、新しい格闘技団体を作るっていう事だ」
十田は内心鼻で笑った。日本の大会とはいえ、決勝に上がってきたのは薬物中毒のロートルボクサーである。そんなレベルの格闘技が世界的な成功を収めるなど、冗談にしか聞こえなかったのである。
しかしこれは十田にとって都合の良い話でもあった。素人考えの、近未来には失敗確実のどうしようもない企画だが、この大会で賞金が出るなら十田にもメリットがあったからだ。ボクシング界は追放になってしまったが、この弱小団体なら花形選手になれるかもしれない。そうすれば、皮肉にもボクサー時代よりも儲かるのだ。十田の脳内にはそんな方程式が出来上がっていた。
「なるほど、それで俺はその猛者の一人に選ばれたってわけだな」
「そうだ。お前はこの大日本帝国の特攻隊長となるわけだ。簡単には優勝出来ないだろうが、今回のトーナメントの賞金が素晴らしい。なんと、一千万円だ」
「マジか!」
「ああ、マジだ。実際にはドルを円に換算しただけだけどな」
「一千万って言ったら、五年は遊んで暮らせるじゃねえか」
「(暮らせねえよ、バカ)これでお前の生活も変わる。どうだ? やる気になってきただろう?」
「やるやる。ザコをぶっ殺してさっさと金を貰う」
十田はもう自分が一千万円を手に入れたように嬉々としていた。
「よし、決まったな。じゃあ行こうか」
「行こうってどこに?」
「決まってるだろバカ。大会に向けて出発するんだよ」
「ハア?」
十田は呆然としていた。今しがた三試合をこなしたばかりなのに次の試合など、公式の興行ではありえない。
「さっさと荷物をまとめて来い。俺だってそんなにヒマじゃないんだ」
「だって家賃…」
「放っておきゃいいだろ、そんなもん。帰って来たらもっといい家を探せばいいんだから。後で向かえに行くから、それまでに準備をしとけ」
立ちすくす十田を残し、山中はどこかへ行ってしまった。控え室には十田一人が取り残された。
色々な事がありすぎて、頭の中が混乱している。まず、十田は住む家を失う事になった。予選で優勝したにも関わらずだ。そして、三連戦の激闘後に休みも無く、今日、彼はこれから世界の猛者を相手に闘うため旅立つのだ。
一体何なんだろう。俺は山中に騙されていたのか? 最初から俺が住家を無くす事は確定していたというのか? 十田の思考にはそんな言葉がよぎっていた。
とりあえず大家に家賃を渡しておくべきか? そうすれば、ある程度家を空けていても、ホームレスにはならないで済むかもしれない。帰って来た時に住む家がありませんではシャレになっていない。
しばらく呆けている間に、十田は三十万円を受け取っていない事に気がついた。しかし山中は、既に会場から姿を消していた。
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