第9話
「よくやった。後は決勝戦に勝つだけだ」
山中は興奮状態の十田に何を言っていいかわからず、無難な言葉で切り出した。
「当然だ! この俺を誰だと思ってやがる!」
十田のアドレナリンは引っ込む気が無いらしい。殺人直後にも見える十田の姿はおぞましいものがあった。山中は続ける。
「比久尊も強かったが、次の相手はちょっとやばいぞ」
十田は興奮状態から「どんな相手でも皆殺しにしてやる」と言おうとしたが、山中の目が鋭く細まったのを見てやめた。
「次の相手は鬼塚覇王丸(おにづか はおうまる)といって、文字通りの狂人だ」
「狂人?」
「ああ。あいつもお前と同じくボクシング界を追放になった人間だ――薬物でな」
「薬物?」
「そうだ。薬物を試合前に打ってハイになった状態で闘っていたんだそうだ。相手の顔を別人にするまで殴り続けるような選手だったらしい。噂ではクビ直前の時、世界挑戦も決まっていたとかで、前の二試合も相手を半殺しにして病院送りだ。一人はこの先半身不随で生きていくかもしれない」
「次の相手は薬中サイコ野郎か。薬で世界戦を棒に振るなんてどうしようもないバカだな。まあ誰でもいい。そんな奴こそぶっ飛ばし甲斐があるってもんだ」
そう言うと十田はその場でシャドウボクシングを始めた。左手首に走る痛みを気付かないようにしながら。
鬼塚の控え室は真っ暗だった。そこには尋常ならざる息遣いと、判別不能の呟きが聞こえるだけである。
鬼塚陣営の人間が恐る恐る控え室へと入って来た。暗闇の中に聞こえる、荒い息遣いの方へと近付いて行く。
「鬼塚さん。出番が近付いています」
男は小さく震えながら暗闇の向こうに見える人影に話しかけた。辺りは真っ暗なのに、そこの暗闇だけはなぜか浮いていた。
「歌が、聞こえるんだ」
「え?」
暗闇の向こうから聞こえる独白めいた声に、男は恐怖を感じた。この部屋には歌はおろか、鬼塚の荒い息遣いしか聞こえないのだから。
「歌が聞こえるんだ。俺を讃え、勇気づけてくれる神の歌が。あの歌は俺を険しい山の向こうへ連れて行ってくれるんだ」
男は何と答えたら良いか分からなかった。鬼塚が薬物の影響下にいて尋常ならざる妄想を抱いている事だけは確かだった。
「あと何人を生贄にすれば神は俺を受け入れてくれるのだろう?」
「あと一人、あと一人です」
男は無理矢理話を合わせた。そうでもしないと、鬼塚がいつ試合に臨むのか分かったものではない。
「俺は、神の国に行きたい。何の狂気も、何の争いもない世界へと行きたい。
神よ、これが試練だと言うなら、俺は喜んで受けよう。破壊と悲鳴が安寧の道へと繋がっているなら、俺は少しも恐れはしない」
鬼塚は注射器を取り出し、前腕に針を突き刺した。左腕の内側には無数の注射跡が残っていた。
注射器の中身を全て取り込むと、鬼塚はふうと安堵の吐息を漏らし、直後に獣のような咆哮を上げた。全身の血管は浮き上がり、目は充血し血走っている。
男は試合会場へ来る事を頼むと、逃げるように引き返して行った。このままここにいたら何をされるか分かったものではない。
鬼塚は一人、暗闇の中で断末魔の叫びを上げ続けていた。
会場では十田が既に入場し、金網の中でシャドウボクシングをしていた。それはウォームアップという言うよりは、手首に走る痛みを紛らわせる意味合いが大きかった。
会場内は変なざわつき方をしていた。ここの常連からすれば群を抜いた狂人ぶりを発揮する二人が雌雄を決するのである。観客の関心は賭け事というより、どちらが相手を叩き潰すのか、どちらの方がよりタガの外れた狂人なのか、見てみたいという野次馬根性に傾いていた。
自分の入場から散々待たされていた十田は明らかにいらつき、被害妄想に陥っていた。これは宮本武蔵が巌流島で取った戦法だとか、主催者側が自分を優勝させたくないのだとか、色々な邪推が脳内を駆け巡っていた。
間を空ければ空けるほど、ヒマになった観客から野次が飛んでくる。金網越しに浴びせられる罵詈雑言の中、十田は対戦相手を八つ裂きにする事を誓った。
ふいに会場がざわついた。十田が振り返ると異様なオーラを放つ男が入場口の所までやって来ていた。男の風貌は油でギトギトした長いブロンドヘアーに、血走った猛禽類の目、やたらと前腕部に浮かび上がる血管、そして所どころが引きちぎられた拘束衣が特徴だった。
『自分で破ったっていうのか?」
十田の表情が険しくなる。犯罪者や重度の精神障害者を捕縛する目的の拘束衣はかなり丈夫に作られている。それを人力で破ったというなら、この男はとてつもない力の持ち主という事になる。
十田はその場をウロウロしながら鬼塚を睨みつけた。さっさとこの男をぶっ倒して三十万円を持ち帰る。そう心に決めていた。
今回も声援は鬼塚の方に偏っていたが、今までの相手とは違い、畏怖のニュアンスが強いものに聞こえた。それは猛獣の檻に一定以上近付かないような慎重さを感じさせた。
鬼塚は闘いに不向きな革靴を引きずって歩いて来る。靴は今にも底が抜けてしまいそうな痛み方をしていた。
十田と比久尊の試合もあり、また狂人同士の対決という事もあり、選手の名前がコールされるまでは金網内に人間バリケードが用意されていた。それでもこの二人が本気で潰し合いに出たら、それが持つ保障は無い。
金網の中も外も異様な空気となっており、両者の名前が紹介されても金網周囲はざわついているだけであった。歓声もブーイングも起こらない。これから本当の果し合いが始まる。その緊張感に観客達は釘付けになっていた。
「準備はいいか?」
レフリーは金網の中央に立ち、両端の二人に聞いた。十田は落ち着きはらった状態でステップを踏み、鬼塚は険しくも虚ろな瞳で十田を見つめていた。
「ファイト!」
十田は軽やかに金網中央に躍り出る。鬼塚は比較的のっそりと歩き、ガードをやや上げた状態で向かってくる。
十田は軽やかに動きながらジャブを放っていく。三発連続して打たれたジャブは、ことごとく鬼塚の顔面をとらえた。早々にリズムを掴んだ十田はさらにジャブを打ち込んでいく。左手を痛めたせいか、いつもの大胆さは鳴りをひそめている。
今度はジャブの軌道を変え、右フックを放つ。フックはガードの隙間を縫い、鬼塚の顔面を弾いた。会場にはどよめきが走る。
しかし、十田は一気に畳みかけようとは思わなかった。この男は何かを隠している。十田の野生本能が警鐘を鳴らしていた。鬼塚はガードの隙間から、尋常ではない眼光を放っていた。それは猛獣が獲物を仕留める機会を窺っている姿にも見えた。ペースを明らかに掴んでいるのに、安堵感を得る事が出来ない。
十田は違和感の正体に気が付いた。十田のパンチがいくら当たっても、鬼塚には全くダメージを受けた様子が無いのだ。生気は無いのに、憤怒を閉じ込めたような瞳。それは、向かい合った者にしかわからない迫力を放っていた。
何発も殴られているはずの鬼塚は変わらずガードを上げたまま距離を詰めてくる。プレッシャーに押されたか、十田の呼吸も少しばかり荒くなっていく。もう頃合を見て左を打ち込むしかないか。そう思った瞬間、鬼塚の双眸から鈍い光が発せられた。
十田が気が付いた時には鬼塚の右ストレートが目の前にあった。試合序盤の鈍いフットワークを見たら考えられない踏み込みの速さだ。十田はとっさにガードを固めるが、走りながら放たれた拳はガード上から凄まじい衝撃を加え、十田を金網際まで吹っ飛ばした。金網に背中を打ちつけた十田は追撃をさけるため、あわててサイドに動いていく。
『バイソンかこいつは?』
十田は驚いていた。鬼塚は一気に踏み込んでストレートを打ったのだが、その踏み込みの鋭さと距離の長さは驚異的なものだった。先ほどまで鈍重な動きをしていた者とは思えない。今までの対戦相手も、大半はあの一撃でやられたのだろう。極端なスローボールの後に速球が来たようで、速度の変化に対応出来ない選手が殆どのはずだ。
十田は改めて鬼塚の右に回った。あの破壊力をまともに受けたらタダで済むはずがない。とにかくこの男の正面に立ってはいけないと、サイドからジャブを放っていく。
ジャブは相変わらず何度も鬼塚の頭を跳ね上げるが、彼は全く効いたそぶりを見せない。この男は今までに一度もダウンした事が無いタイプの選手なのだろうか? 十田が一瞬だけ困惑した隙を突き、鬼塚は再びダッシュスレートを放った。遠心力を利用し、体重の乗った拳が十田の腕に叩きつけられる。
ガードを割ったストレートは十田の額に当たった。遮蔽物があった分その威力は目減りしているはずだが、十田はパンチの衝撃で後方に吹っ飛ばされた。
よろけた十田めがけ、鬼塚はさらにダッシュストレートを放っていく。とてもではないが、世界挑戦まで決まったボクサーの闘い方とは思えない。しかしこの戦法は生粋のボクサーであった十田には有効だった。こんな対戦相手はスパーリングでも経験がない。そもそもこの男は本当にボクサーなのか? そんな疑念が十田の脳内には渦巻いていた。
十田はバランスを崩しながらも、身体を傾けてストレートを外す。背中を通り抜けたストレートは金網に衝突し、二人を閉じ込めた檻を揺らした。
変形した金網を見て十田は思った。もう短期決戦で一気に倒してしまうしかない。この変則的なストレートを最後まで捌ききれるかは大いに疑問の余地がある。何かが起こる前に、封印していた左を打ち込むしかないと。
十田はあえて鬼塚の正面に立った。大砲が飛んでくる危険な位置だ。しかし、そこは自分が攻撃しやすい場所でもある。
十田を正面にとらえた鬼塚は一気に踏み込んできた。殺意を孕んだ右拳が近付いてくる。十田は身体を右に傾け、右ストレートを外しながら左ストレートを打ち込んだ。クロスカウンターである。
十田の拳は突進して来る鬼塚の顔面にめりこんだ。原理としては車が電柱に突っ込んだような形になる。鬼塚はよろめき、その場で足をバタバタさせている。
『よっしゃあ死ね!』
十田は手首の痛みを感じながら、さっさとトドメを刺す事にした。手首に流れているのは激痛に他ならないが、今はアドレナリンが分泌されて気になるほどではない。カウンターの衝撃が覚めやらぬ鬼塚に猛然と襲いかかる。
左ストレート、右フック、左ボディーアッパー、右ボディー、そしてまた左ストレートと、十田の拳が間断なく吸い込まれて行く。鬼塚は顔を追うような体勢でガードしている。硬い拳で殴られ続ける鬼塚の顔は変形し、噴出す血は鬼塚の顔を真っ赤に染めていった。
もうとっくに倒れていていいはずなのに、鬼塚は血染めの眼光を光らせていた。薬物で痛みすら感じなくなっているのか、その瞳に恐怖が宿る事はない。
十田も焦ってきた。痛めた左を解禁し、ここまでしたたか打ち込んだのに、鬼塚にはまったく倒れる気配というものがない。この男の構造はどうなっているんだ? そう思った瞬間、連打の間隙を縫って鬼塚の左フックが飛んで来た。
かわしきれないと判断した十田はパンチと同じ方向に首をねじって威力を殺した。スリッピングアウェーと呼ばれる高等技術だ。
左フックはかわせたが、後続の右ストレートまでは気が回らなかった。初めてまともな形で打たれた右は、十田の顔面をとらえた。十田はすぐ距離をとり、後続打をもらわないようにした。鼻を伝って温かいものが流れていくのを感じる。十田は改めて鬼塚の破壊力が尋常ではないという事を認識させられた。
血塗れの鬼塚が咆哮を上げる。
会場は静まり返っていた。血ダルマで十田を威嚇する鬼塚は明らかに常軌を逸している。それは人間ではない、何か別の凶獣が発する殺気を放っていた。
血だらけになった鬼塚は何かの錠剤を拘束衣から取り出し、一気に飲み込んだ。鬼塚の上腕部に浮かぶ血管がさらに盛り上がっていく。
『イカレてやがる』
十田はサイドに回りながら心中毒づいた。目の前の対戦相手は公然とドーピングめいた行為を行った。何発殴っても効いたそぶりさえ見せなかったのは、薬で痛覚が麻痺しているのだろう。十田はそう思っていた。
おそらく現役時代はもっとスピードのある選手だったに違いない。薬物の影響下で動きが鈍重になった彼は、一瞬のスピードだけは辛うじて保持し続けたのだろう。それがステロイドなのかストリートドラッグなのかは不明だが、薬物というものは摂取した者の肉体に必ず報復をするようにできている。焦点を失った視線には生気が無く、虚ろな表情からは感情を読み取る事が出来ない。
錠剤を飲み込んだ鬼塚は再び血ダルマの姿で咆哮を上げた。血圧が上がったのか、彼の顔中から流れる血は滴り落ちる速度を増していた。
先ほどとはうって変わって、鬼塚は鋭いジャブを放っていく。十田はアウトサイドを取っていたのでジャブを叩き落とす事が出来たが、その技術が集約された左ジャブは十田を驚かせるには十分だった。
『なるほど。こっちが本当の姿ってか』
十田は驚きながらも嬉しそうだった。対等な技術を持つ対戦相手というのは、時に命を賭けた闘いにおいても楽しいという感情を呼び起こす事がある。地下格闘技でこれほどの相手と対戦出来る事が十田にとっては嬉しかった。
ドーピングのせいか、鬼塚の動きは試合開始直後に比べてスタイリッシュになった。薬が一時的に彼本来のを取り戻したのか、それとも十田が過去の鬼塚を連れ戻したのかは分からない。
十田の右手と鬼塚の左手が触れるか触れないかの距離で、お互いの体勢を崩し合う。両者はともに大砲を打ち込む瞬間を狙っている。
鬼塚の左手が十田のバランスを崩し、即座に右ストレートが放たれる。スピード重視の右は十田の顔をかすめた。被弾は逃れたものの、空気を切り裂くその音に十田は脅威を覚えた。これをまともにもらったらタダでは済まないはずだ。
両者は再び前の手の崩し合いに戻った。拳は飛び交わないが、その緊張感は観客達を黙らせていた。勝負は真剣勝負のように一瞬で決まる。そんな予感を抱きながら。
一瞬の隙を突き、十田の右手が鬼塚の左手を叩き落とした。バランスを崩した鬼塚へ一気に距離を詰める。
電光石火の左ストレートは鬼塚の顔面をかすめ、返しの右フックが後続となって襲いかかる。右拳は鬼塚の顔面を浅くとらえた。
すぐに右ストレートで反撃しようと思った鬼塚であったが、十田はその右に左クロスを合わせた。会場には湿った衝撃音が鳴り響いた。
鬼塚は鼻と口から大量の血を流しながら、何とか倒れないよう脚をバタつかせている。十田は走りながら追撃に向かう。一気に勝負を決める気だ。
金網にもたれかかった鬼塚に無数の連打が浴びせられる。頭を覆うように身を守る鬼塚の表情は腕に隠れて分からない。だが、飛び散る血や十田が放つ連打の凄まじさを見れば、試合が終わるのは時間の問題にも感じられた。先ほどまで息を止めて闘いの成り行きを見守っていた観客達も徐々に騒がしくなっていく。
一方、十田は連打しながらも一抹の不安を抱えていた。先ほどのクロスカウンターで左手首をまた痛めたからである。連打の中で左手による攻撃は、見た目ほどは威力が無いのだ。殆どレフリーストップが無いこの格闘技では、連打をしたら倒し切るしかない。
ドラッグで動きが鈍重になってるとはいえ、鬼塚の打たれ強さは尋常ではない。現に今倒れていない鬼塚を、復活する前に倒せるかは大きな問題だ。散々連打してスタミナが無くなったところで反撃されたら、奇跡の大逆転も十分あり得る。
早く倒れろ、早く倒れろ、早く倒れろ。
そう思っている内に焦りが出たか、シフトウェイトが甘くなり、パンチがやや手打ち気味になってきた。ガードの奥で鬼塚の眼光が揺らめく。
十田があっと思った時には鬼塚の身体が目の前にあった。十田はものの見事に吹っ飛ばされる。それは車に撥ねられたような衝撃であった。
十田を吹っ飛ばしたのはパンチではなく、まさかのタックルだった。十田は空中で体勢を立て直し、着いた左手を軸に回転して立ち上がる。
『バケモノめ』
十田の左手首にはジンジンと痛みが走っていた。先ほどの連打と着地のせいでさらに痛めたらしい。
興奮状態の鬼塚は追撃を加えるために猛進して来る。走りながら、振りかぶるように右フックを放ってくる。十田はとっさにサイドステップして右フックをかわす。鬼塚の右拳はまたも金網を揺らした。
鬼塚がバランスを崩したところに十田は右フックのカウンターを入れようとしたが、鬼塚は身体を回転させてフックをかわし、そのまま裏拳を放ってきた。ボクシングにない無茶苦茶な動きに対応出来ず、十田はこれを被弾した。
歪む視界の中、鬼塚の姿は一気に目の前に近づいてくる。狂気の連打が十田を拳の雨に曝していく。十田の脚には力が入らず、自身の身体を金網に預けている。
ガードを固めた十田に無慈悲な連打が叩き込まれていく。右ストレート、左フック、右フック、左ボディー、右オーバーハンド…。試合序盤とは別人の俊敏さで鬼塚は連打を放っていく。
連打はガードに阻まれていたが、それらはガード越しでも十分に威力があった。十田の意識は朦朧としていく。
『クソ、このバケモノが』
心中毒づく十田であったが、その目からは光が消えていく。力任せに放たれる連打は、十田の心すら折りかけていた。
――俺はここで負けるのか。
十田はそう思っていた。負ける事を誰よりも嫌悪し、誰にも屈服しないと誓った彼でさえ、今の状況には無気力へと追い込まれそうだった。
思えば現役時代もそうだった。技術的な側面で見れば明らかに十田の方が上なのに、負ける時はいつでも精神的な穴を突かれて敗れ去った。十田の脳裏に今までの悪夢がよぎりだした。
また俺は同じ負け方をするのか。地下格闘技ですら無冠の帝王と呼ばれ続けるのか。
十田を絶望感が支配しだしていく。
俺はどこでも頂点に立つ事は出来ないのか? 俺はいつまでも脇役のまま人生を終えていくのか?
「鬼塚、そのクソ野郎をさっさとやっちまえ!」
十田の猜疑心を寸断するように、観客の一人が叫んだ。連打に曝され続ける十田の耳にも、その声ははっきりと聞き取る事が出来た。
『そのクソ野郎をやっちまえだと?』
十田の胸には黒い憤怒が滲み出していた。先ほどまでの自己否定や猜疑心はどこへやら、彼の中では何かのスイッチが入った。
『この俺はクソ野郎だと?』
十田の意識はみるみる明敏になっていく。尋常ではない負けず嫌いは、彼を意識の底から救い上げた。
目の前には凄まじい表情をした、血ダルマの鬼塚がいる。だが、今は気圧されるというほどでもない。十田にはパンチの軌道が見えてきていた。
『俺がこんな薬中のクズに負けるわけねえだろ!』
十田の反論とともに放たれた右フックは、死角からのカウンターとなって鬼塚のアゴをとらえた。このタイミングでの反撃は予想外だったようで、鬼塚は腰砕けになって後ろにバランスを崩していく。
『死にやがれ。今までのお礼をたっぷりしてやる』
十田は獲物を猛追した。その殺意にためらいは無い。
金網に背中を打ちつけた鬼塚に、今度は十田の連打が土砂降りとなって降り注ぐ。自尊心を傷つけられたこともあってか、十田は左手首を痛みを忘れているようだった。
暴風雨のように叩きつけられる左右のストレートは鬼塚の顔面を破壊していった。血は飛び歯は飛び、その光景の凄惨さは秒単位で増していった。金網の内部は徐々に鮮血で染まっていく。
「おい、あれ死んじゃうんじゃないか?」
観客の一人が言った。彼の言う通り、鬼塚は金網にもたれかかって意識を失っているようにも見えた。
「おい、レフリー! 止めないと死んじまうぞ!」
観客の声が上がると同時に、会場は戦慄に包まれた。鬼塚の健康を気遣っての発言ではない。死者が出ればこの場所が明るみに出かねない。そうなれば自分はどうすれば良いのだと、多くの者が気付きだしたのである。
十田はなおも打ち続ける。勝負は終わりを告げられるまで終わりではない。この男の息の根を止めるしか、試合を終わらせる方法はないのだ。レフリーには十田がそう言っているように感じられた。しかし死者を出すわけにはいかない。この場所をみすみす失えば、組織の人間からどんな報復を受けるか分かったものではないのだ。
レフリーは身をていして、保身のために二人の間へ割りこんだ。左手で力なくうなだれた鬼塚を支えると、右手を振って試合終了を告げる。
返り血を浴びて真っ赤になった顔で、十田は勝利の咆哮を上げた。人類史上で原初期の闘いのように、そこには勝者の生存と敗者の死が象徴されているようだった。
会場には沈黙が流れ、そこにはただ戦慄しかなかった。
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