第8話

「ホラ、余った在庫だ」


 山中は真新しいバンテージを十田へ放り投げた。やはり手袋で闘うのは無理があったか、十田は先ほどの闘いで拳を軽く痛めていた。ダメもとでバンテージが余っていないか聞いてみたが、山中の用意の良さには感心する。


 返り血を拭いて真っ赤になったタオルを投げ捨てると、十田は礼も言わずにバンテージを拳に巻きつけていく。運搬作業用の手袋も無いよりはマシであったが、人を殴る事に特化したバンテージの方がやはり拳を防護するには適している。


 リッパーとの試合の経験から、バンテージの中に武器を仕込んでも大したペナルティーが無い事はよく分かった。そうと分かれば遠慮する理由など何も無い。十田は巻いたバンテージの上からテーピングを何重にもガチガチに巻き、ギブスのような強度に仕上げていく。この硬さになると、もはや拳は凶器の域に達する。


 次第に堅くなっていく拳を見て、十田の顔がほころんでいく。この拳で殴られた相手はまずタダでは済むまい。ジャブをもらっただけで相手の顔は恐怖に歪む事となるだろう。そう思うと十田は自然と沸き上がる笑いを、肩を揺らしながら堪えていた。その顔は嗜虐性に富むというよりは、自分の思いついたイタズラに笑いが止まらない子供のようだった。


「次の相手は?」


 十田は一転して鋭い視線で山中に聞いた。


「次の相手はなかなか強いぞ」


 山中はなぜか楽しそうだった。十田の闘いを一番楽しみにしているのは案外この男なのかもしれない。


「次の相手は比久尊雷也ひくそん らいやといって、ストリートファイトで百戦無敗の男だ」


「おいおい、百戦無敗っつったって自己申告だろ? そんな奴が百戦錬磨なら俺だって世界挑戦者だ」


「それがどうも嘘でも無いらしい。ここ以外の地下格闘技を荒らしまわってるらしく、誰も闘いたがらないからここに来たそうだ」


「フン、こけおどしを。事情は俺と似てるが、それだったらプロに行きゃいいじゃねえか」


「警察に追われててデビューどころじゃないそうだ」


「なるほどね。今までのクソみたいな相手と違って楽しめそうだ」


 そう言うと、十田は邪悪に微笑んだ。実際十田の実力に肉薄するような選手は、今まで現れたためしがなく、それが十田の試合枯れにも繋がっていた。何しろ誰をぶつけても瞬殺の連続で勝負にならないのだ。


 十田は相手の前評判を聞いて嬉しそうだった。自己の中から沸き上がる黒い情熱は、十田の破壊願望の炎を少しずつ大きくしていった。


 ――早く人間を殴りたい。それも、強い相手を。


 誰もが納得するような相手を完膚無きにまで叩きのめし、自分とは格が違う事を見せつけたい。そんな渇望が十田の血管に大量のアドレナリンを流し込んだ。


 一回戦が終わり選手の数が半減していたので、二試合目の順番は思ったよりも早く回ってきた。十田は鼻息荒く自信満々のシャドウをして、金網へと向かっていった。


 二回戦は十田の方が後に入場した。奥の金網の中では次の対戦相手がステップを踏んで動き回っている。対戦相手の比久尊はドレッドヘアーと筋肉質な身体が特徴で、背中には弁慶のタトゥーが彫られていた。その動きは滑らかで、時折ナジーム・ハメドを思わせるオーラを発していた。


『残念だったな。お前の無敗記録も今日を持ってジ・エンドだ』


 比久尊の背中にいる弁慶を見て、十田は心中毒づいた。十田はニヤニヤしながら金網の方まで歩いて行く。


 今まで一度も負けた事の無い相手に、これまで経験した事の無いような屈辱を味あわせる。それは一種の強姦に似た嗜虐的快楽があった。格闘技の世界ではたった一度の敗北で階段を転げ落ちるように勝てなくなる者が数え切れないほどいる。


 確かに負けを知っている選手は強い。だが、その強さは自身の敗北を克服出来た者だけに与えられる特権なのだ。たった一度の敗北を克服出来なかったために、昨日まで頂点にいた選手は堕ちて堕ちて、そして堕ちていく。


 十田と闘ったボクサーは軒並み不振に陥り、そのキャリアに終止符を打っていった。それは十田があまりにも強烈な黒星を相手に擦りつけてきたからだ。十田の暴力性に曝された者達は、漏れなく立ち上がる事が出来なかったのである。死の天使は、相手のキャリアそのものに終焉を与える死神としても畏れられたのだった。


 金網に近付いて行くごとに、観客の歓声は大きくなる。十田の方ではなく、相手の方に。観客の期待は今度こそ十田が負ける姿を拝む事だった。なんとしてでもこの尊大な男が地面に這いつくばる姿を見たい。それが観客達の主な関心だった。野次はいつにも増してどぎつくなり、聞くのも憚るような言葉が地下室を錯綜する。


 比久尊は金網に入った十田をチラリと一瞥しただけで、自分のウォームアップに集中している。ストリートファイト出身らしいが、闘い以外に神経を使わないという術は心得ているらしい。


 喚声と罵倒が飛び交う中、十田は相手の身体を舐め回すように眺めた。筋肉に覆われた身体には無数の傷跡がある。それなりの修羅場はくぐって来たようだ。上を見ると鼻のブリッジ部分には一文字の傷があった。


 レフリーが二人の間に入り、試合開始の合図を待つだけとなった。十田はその場で軽くステップを踏み、急激な運動がいつでも出来る準備を整えている。


 比久尊は低いガードの構えで十田を睨みつけていた。今まで何度も闘いに身を置いていただけあり、その迫力は凄まじいものがあった。


「ファイト!」


 レフリーの合図とともに十田は相手に飛び込もうとしたが、それよりも早く比久尊が踏み込んで来た。スプリント系の競技でもやっていたのか、その踏み込みの速さは尋常ではない。低く構えた右の拳が空手の正拳突きのような軌道で十田の顔面に襲いかかる。


 十田は予想外の攻撃に面食らったが、身体を半身よりさらによじってかわす。顔面の脇を通り過ぎる拳には強烈な殺気がこもっていた。


 右をかわしたら今度は返しの左フックを警戒しなければならない。サウスポーの相手を得意とする選手は、右ストレートをおとりにして、相手が入って来たところに左フックを合わせるという技術を持っている事が多い。十田は右目の視界の端に映る左拳に注意力を注いだ。


 その刹那、比久尊は右腕を驚異的な速さで引き、もう一発右を放った。ボクシングには無い動きに対応が遅れ、十田の額に浅く当たった。


 軽くプライドを傷つけられた十田は右フックを振るも、比久尊はマトリックスを思わせる無茶苦茶なバランスでそれをかわした。金網の周囲からは驚きの声と十田を罵る声が聞こえてくる。


『この野郎』


 十田はいらだっていた。真っ当な駆け引きで十田に攻撃を当てた素人はおそらく比久尊が初めてだろう。プロではない相手にパンチを当てられたという事実は十田のプライドをいたく傷つけた。もうこの男がタダでは済まされない事が十田の脳内で確定した。十田は重心を少し後ろに落とし、カウンターを打ちやすい体勢で構える。


 攻撃を当てた比久尊は尊大な笑みを浮かべるでもなく、身体をゆすって奇妙なフェイントをかけていた。プロらしい動きとは程遠いが、科学的ではない身体の使い方が逆に十田からすると読みにくい。比久尊の上体はカクカクした動きで、下半身は比較的滑らかな使い方をしている。そのコントラストが余計攻撃を見えにくくしているのだろう。武器を使う相手とも闘ってきたせいか、度胸も据わっている。


 比久尊は身体をカクカク揺すりながらプレッシャーをかけていく。十田はガードを下げながらも相手をよく観察している。


 比久尊が唐突に右ストレートで飛び込む。ノーモーションとはいかないが、襲い掛かるタイミングは非凡なものを感じる。十田は右にサイドステップしてこれをかわすと、すかさず左ストレートを放つ。リターンとなった左拳は比久尊の側頭部を打ち抜いた。地下室には衝撃音が響き渡る。


『やった』


 十田は比久尊が倒れる事を確信していた。あのタイミングで凶器にほど近い拳を喰らったらタダで済むはずがない。


 比久尊は少しだけフラつくと、すぐに反撃の左フックで飛び込んできた。虚を突かれた十田は慌ててこれをスウェーバックで外した。


『マジか』


 十田は比久尊の耐久力に驚いていた。今までの経験から考えて、あのタイミングで左ストレートを喰らって立ってきた者は一人もいない。大抵は夢の国に送られ、そうならないものでもスリップダウンまでには陥った。


 十田の身体が反り気味になったところに、比久尊はさらに右ストレートで踏み込んだ。十田はまた右に回りこみ、今度は右フックからの左ストレートを強打した。パンチは二発とも直撃したが、比久尊は倒れない。先ほどよりも歪んだ顔で距離を詰めてくる。


 十田は最初の一撃で比久尊の打たれ強さを知ったので、まっすぐ突っ込んでくる比久尊に左ストレートを連発する。すべてヒットするものの、比久尊は顔面を跳ね上げるばかりで直進を止めない。


 半分血ダルマの比久尊は十田の身体を金網に押し込んだ。十田もサイドに回ろうとするが、比久尊のフィジカルが想像以上に強く、横に動く事が出来ない。


 仕方なしに十田は接近戦を引き受けた。右ボディーを打ち込み、開いたガードの間に右アッパーをねじ込む。重心は後ろ気味だが、力強いパンチが比久尊の頭を跳ね上げる。比久尊の口を半分出かかったマウスピースの隙間からは血しぶきが飛んで来た。


 すでにダメージが深くなった比久尊を十田はさっさと倒してしまおうと思っていた。リッパーの試合の事もあり、ここの連中は追い詰められたら次に何を仕掛けてくるか分かったものではない。


 今度は左ボディーフックを外側から叩きつけ、続いて右ボディーアッパーを比久尊のミゾオチに突き刺した。比久尊が「ウウッ!」と小さく呻いたのを見て、十田はトドメの左オーバーハンドフックを放った。


 その時、十田の頭が跳ね上がった。比久尊のヘッドバッドがカウンターのタイミングで入ったからである。バランスを崩した十田を掴むと、比久尊はヒジ打ちを連発した。混乱して体勢を立て直そうとする十田に容赦なくヒジが降り注ぐ。


 十田は顔の周りを手で覆って防御するも、ヒジの衝撃はガード越しに伝わってくる。十田の視界には赤黒いものが伝ってきた。目尻の当たりを切ったようだ。血は視界を遮り、ヒジはその外側から飛んでくる。


『この野郎!』


 比久尊を強引に突き飛ばし、力任せに左ストレートを強振した。拳は相手をとらえたが、当たった場所は前頭部の硬い部分だ。一瞬の違和感の後、十田の手首には痛みが走った。


 ――拳を痛めた。十田にはそれがはっきりと分かった。


 どれぐらいの症状かは分からないが、手首には激痛が走っている。距離感も掴めていない状態で放ったパンチなので、力の入れどころが分からなかったのだろう。十田の拳は急激な衝撃に耐える事が出来なかった。


 現状左を打つ事は出来ないが、負傷している事を悟られてはいけない。十田は脚を使って動きだした。比久尊が突っ込んで来るのをかわし、ジャブやフックで捌いていく。


  「つまんねえぞ、コラ!」


「いつもの勢いはどうした!」


 十田らしくない動きに、金網の外から辛辣な野次が飛んでくる。外野の野次にいらつきながらも、十田はサイドに動いていく。


 比久尊の動きは基本的に直線なので、次に何が来るかは読みやすい。だが、相手も多くの修羅場を潜ってきたせいか、その身から溢れる迫力がカウンターのタイミングをかすかにずらす。根性も並大抵ではなく、百戦錬磨も伊達ではなさそうだ。


 激しく脚を使っている内に十田の体力も削がれてきた。ボクサー時代にロードワークをせず、現役を退いた今は走るはずなどない。慣れないアウトボクシングで十田の体力は消耗していた。呼吸は荒くなり、ガードもおざなりになってくる。


 比久尊はそんな十田の異変に気付いたのか、カクカクしたマイク・タイソンのように身体を振りながら前進してくる。


 十田は右フックを引っ掛け、比久尊をのけ反らした。こんな素人を調子に乗らせてはいけない。そう自戒するように。


 すかさずボディーに左ストレートを放つが、これはヒジで防御されてしまった。手首に痛みが走り、十田の顔が苦痛に歪む。


「十田は左手を痛めたぞ!」


 比久尊サイドの誰かが叫んだ。うまく騙そうとし続けたが、そう簡単にはいかないらしい。


 陣営の声を聞いた比久尊は一気に間合いを詰めてきた。左ストレートのカウンターが来ないと分かっていれば、警戒すべきは右フックぐらいしかない。左ガードを上げながら直進してくる。


 比久尊が走りながら右ストレートを放った直後、地下室に衝撃音が響きわたった。骨と骨がぶつかる凄まじい音だ。誰もが比久尊の右が当たったのだと思った。しかし、攻撃を当てたはずの比久尊はゆっくりと崩れ落ちる最中だった。


 一瞬の隙を突いて攻撃を当てたのは十田の方だった。右フックしか警戒せずに突っ込んだ比久尊の死角から、十田の左ヒジが放たれていた。十田がボクサーである事から、比久尊はヒジ打ち想定に入れていなかった。比久尊が突っ込む勢いをそのまま利用したヒジ打ちは、見事に彼の頭蓋骨を陥没させた。


 勝負は終わった。会場にいた誰もがそう思った。ただ、一人を除いてだが。


 白目を剥いたまま倒れ込もうとする比久尊の身体を、十田は右アッパーで吹っ飛ばした。立ったまま気絶した比久尊に無慈悲な追撃を加えながら走り行く。反則技を散々喰らった事もあってか、十田は怒り狂っていた。


「おい、ヤバいんじゃねえか?」


 観客の一人がレフリーに訴える。レフリーも試合を止めなければいけない事は分かっていたが、十田の放つ殺気に押されて動けない。凶獣に打たれ続ける比久尊はフラフラしながら背中を金網に打ちつけた。


 金網にもたれかかる形となった比久尊は無意識のまま、十田の右連打を喰らい続ける。レフリーや比久尊陣営が強引に二人の間へ入り、公開処刑を寸断させる。金網内は混沌状態となった。会場には怒号のような、判別不能の嬌声が上がる。そこで殺人が起こったかのように、周囲は騒然としていた。金網内では比久尊陣営が人間のバリケードを造った。これ以上十田に追撃させないためだ。


 陣営の人垣で守られながら、比久尊の身体は金網を伝ってゆっくりとずり落ちていった。それは糸の切れた人形を思わせた。


 関係者に取り押さえられ、返り血で真っ赤になった十田は狂人そのものだった。意識の無い比久尊に中指を立てながら何かを叫んでいる。先ほどまで十田を罵倒していた者達も、返り血を見て真っ赤になった狂人を見て言葉を失っていた。


 血染めの狂人は山中に引きずられるようにして、控え室へと引き返して行った。

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