第7話

「おう、来たか」


 会場にやって来た十田を山中は軽いノリで迎えた。


「本当に金は出るんだろうな?」


 十田は挨拶も無しに言った。まだ電話で聞いた山中の言葉に現実感というものが持てていなかった。


「安心しな。今回はトーナメントだから早々に倒しても誰も文句は言わねえよ」


 十田は会場を見回した。相変わらず換気の出来てないこの部屋には人が集まり、熱気でぬるい空気が漂っていた。衛生的に良くないという事もあろうが、ならず者達が集団で発する空気は独特の臭気を放っていた。体臭やきつめの香水が混ざったような匂いは、人の本能に「ここは危険だ」と語りかけてくるようだった。


「とにかくだ」


 山中が話しだした。


「試合まで時間が無い。お前の試合は一回戦の最後、つまりは四試合目だ。どうせどの試合も早期決着だからさっさとアップでもしとけ。お前の身体能力で準備運動を抜くと、力が出すぎて怪我の元になる」


 そう言うと山中は早々にどこかへ行ってしまった。思えば、この男がマネージャーとして機能していた事は無いように思える。


 未だに試合が決まった経緯をまるで知らされていない十田はさっさと準備に入った。


「あっ」


 十田は小さく声を漏らした。慌てて会場に来たせいか、試合で着用する道具を一式忘れていたのだった。トランクスも、マウスピースも、バンテージも無い。トランクスは今着ている緑色の作業着を使えば良いとしても、バンテージを巻いていない拳で人を殴れば簡単に骨折する。作業着のポケットをまさぐると、指先に滑り止めの突起が付いた手袋が入っていた。日雇いのバイトで使ったものがそのまま入っていたのである。


「これでいいや」


 十田はバンテージの代わりに、土建作業に使うような手袋を選んだ。心もとないのは間違いないが、何も無いよりは遥かにマシである。これに加えてマウスピースも無いのだが、今までチンピラに毛の生えた程度の人間のパンチは十田に当たった試しが無い。十田はマウスピースは必要なしと判断した。むき出しの歯に拳が当たれば折れてしまう可能性もあるが、そもそもパンチが当たらないのだからマウスピースは必要無い。十田はそう判断した。


 十田は金網の脇に申し訳程度にある控えスペースで準備を始めた。控え室は両サイドで分けられており、選手同士が鉢合わせして場外乱闘に発展しないよう配慮がされている。控え室と会場の仕切りに使われているシミだらけのカーテンをめくると、中には歪な闘志と油の匂いが充満していた。後者は上のラーメン屋から来ていると思われるが、下水管を経由しているのか、とてもじゃないが食べ物の匂いとは思えない。


 十田は部屋のやや端の方で身体を温め始めた。屈伸や伸脚をしながらそれとなく周囲を見渡す。他の参加者達はどれも憤怒を眼球に閉じ込めたような目つきをしていて、一般社会の人間ならまず間違いなく係わり合いになりたくないだろう。


 彼らは威圧するような空気を全身から発しながらも、暗黙の了解で視線を合わせない。視線が合えば彼らのどこかにあるスイッチが入ってしまう事になりかねないし、強い相手なら自ずと後で対戦する事になるからだ。


「あーあ。ザコがカッコつけちゃって」


 十田は彼らの不文律に合意する気は無かった。彼らに聞こえるように、思った事をそのまま口に出した。十田にとって闘う場所はどこでも良かった。さっさとザコを倒して賞金をいただく程度にしか考えていないのかもしれない。


 ザコ呼ばわりされた者達は一瞬だけ視線を遣り、何事も無かったように自分の準備に取りかかる。その背中に揺らめく闘志は少しばかり歪んだように見えた。


 部屋全体の空気に歪みが生じたのも気にせず、十田はシャドウボクシングを始める。最初はストレート系のパンチを軽く出し、肩の筋肉を温める。次は足裏の力がより高い濃度で拳まで伝達されるようにバランスを矯正していく。ヒザを柔らかく使い、体幹から発せられる遠心力が最大限に発揮されるよう確認する。


「勝つよ勝つよ勝ちますよ。ザコをボコボコ拳の生贄…」


 十田は謎の呪文を唱えながら士気を高めていく。本人は真面目にやっているつもりらしいが、周囲の人間からすると喧嘩を売られているようにしか感じられない。


 空気を切り裂くパンチの音は、次第にその鋭利さを増していく。早く誰かを殴りたい。拳がそう語っているように。


 十田が身体を温めていると、カーテンの向こう側が騒がしくなった。どうやら試合開始直前らしい。カーテンの近くに待機していた一試合目の選手が雄叫びを上げる。


「やれやれ、弱い犬ほどよく吠える」


 十田は殺意の充満した背中に言い放った。控え室の空気が張り詰める。十田自身が先ほどから周囲を挑発する発言を繰り返しているのだが、彼にとって自分の独り言は特別らしい。吠えた選手は斜め下に視線を遣り、床を睨みつけてから出て行った。


 十田はゆるりとしたペースでシャドウボクシングを続ける。試合が長引いた場合に身体が冷えてしまわないように。


 十分もするとカーテンの向こう側では歓声が沸きあがり、試合が終わったらしい事実を匂わせてきた。スタッフにあたる人間が控え室に入り、次の選手に準備をするよう伝えた。


 あと二つ。


 十田は自分の試合が早く来ないかとジリジリしていた。彼は元々待たされるのが大嫌いで、興行でメインの試合が決まっても、第一試合に出たがるようなタイプだった。早く人を殴りたい。早く身の程知らずに自分の前でヒザを折らせたい。そんな願望と試合の度にいつも感じていた。よくボクサーが「人を殴って金がもらえるなら儲けもの」という冗談を口にするが、十田の場合はそんなレベルですらない。彼は人を殴らなければ気が済まないのだ。人を傷つけてズタズタにするような生き方しか出来ない人間だったのだ。


 十田は自分が浴びる返り血の味を思い浮かべて口角を上げる。人間の発する鉄分の味は、彼に生きる目標を与えてくれる。


 残忍さや酷薄さはリングの上でも存分に発揮され、気付けば十田は死の天使と呼ばれ、怖れられる存在になった。彼が舞うリングはいつでも最後に血の雨が降り注いだ。


 ボクサーに限らず、格闘技選手にとって闘争本能というものは不可欠である。どれほど優位に試合を進めていても、ほんの一瞬生じた弱気が選手を地獄の深淵に叩き込む例は枚挙に暇がない。


 ただ、時々いるのだ。闘争心が溢れ、過剰になってしまう者が。


 十田はまさにそんな選手であった。彼の試合では惨劇に等しい暴力が爆発し、観客が目を覆いたくなるような場面が繰り広げられた。


 倒れた相手を殴る。レフリーが試合を止めても追撃をやめない。判定勝ちに納得いかずリング上で延長戦を要求する――彼の試合は常に非常識がセットだった。返り血を浴びながら邪悪に微笑む悪魔は後楽園ホールを戦慄させた。もう二度と公式のリングに上がらないとはいえ、十田の試合を見て彼を忘れる者などいないだろう。


 十田は手袋で防護されているナックルを手の平でパンパンと打ち、その感触を確かめる。拳の凹凸を感じながら、左腕が生け贄を渇望しているのを感じた。早くエサを与えてやらないといけない。


 十田は吹きこぼれそうな闘争心をなだめつかせ、自分の試合まで集中力を高める事にした。瞳を閉じると、会場の歓声や怒声に似たリアクションがよく聞こえる。


 目の前に広がる闇の中で、対戦相手の顔面に左ストレートを叩き込む映像を思い描く。理想の殴り方は人差し指と中指のナックル部分が対戦相手のアゴを直撃する感触だ。


 サウスポースタイルは十田の性格にピッタリだった。右構え同士の闘いだと、大抵はジャブの突き合いから試合を組み立てる事になる。左を制する者は世界を制すと言われるように、いきなり利き腕である右ストレートを放っても、訓練を積んだボクサーにはそうそう簡単に当たらない。それは単純に利き腕が左腕よりも後ろにあるからで、相手は右が来るまでに様々なディフェンステクニックを駆使し、ストレートを回避する事が出来るのである。


 しかしオーソドックスとサウスポーが闘った場合、オーソドックス同士の闘いのようにはいかない。接近すればお互い前の手が邪魔になるので、それがジャブを当てる際に障害となる。こうなるとガードの低い方がより攻めやすくなる。換言すれば、ストレートを当てる方がより合理的となるのである。


 そこで、特にサウスポーの選手はいきなりのストレートをアウトサイドから打つ戦法を取る傾向がある。この左ストレートは右構えの選手には当てやすい。サウスポーのボクサーはオーソドックスの選手に比べ数が少ないので、右構えの選手は一般的に左構えの選手に慣れていない事が多いからだ。サウスポーに慣れていない選手は、前の手でガードを崩し合ったり、崩し合いの直後に放たれるストレートを捌く経験が不足しているのである。


 結果としてサウスポースタイルの選手は、いきなりの左ストレートを得意とする者が多くなる。前置きも無しに利き腕をフルスイング出来るこのスタイルは、十田の性格にはこれ以上無いくらい合っていた。


 目を開けると、前の試合で負傷した選手が仲間に肩を貸されて戻ってきた。その鼻は三角定規を貼り付けたように変形し、流れ落ちる血液は彼の歩みを床面に記録していた。


 あと一つ。


 十田の目尻が釣り上がる。闘う心構えはとうに出来ているのだ。早く人間を殴りたい。今日の絶望や屈辱を全て敵にぶつけたい。そんな思いでカーテンの向こう側を見つめる。試合を待ちきれない身体は疼き、その熱がこもらないよう、再びシャドウボクシングを始める。拳が空気を切り裂き、相手の幻影をズタズタにする。


 五分もすると、カーテンの向こう側から騒がしい声が聞こえてきた。一つ前の試合も終わったらしい。十田は闘争心を最大限に高め、入り口の手前でステップを踏み続ける。あとは控え室から檻へと解き放たれるだけだ。


 控え室まで選手が戻ってきた。十田は対戦するかもしれない相手に一瞥もくれず、カーテンの向こう側にある檻を睨みつける。


 向こう側でMCのアナウンスが始まった。カーテンを開いたスタッフは十田の殺気に圧倒され、慄然としていた。


 自分の入場曲であるエンジェル・オブ・デスが流れると、十田は血走った目でギラついた笑みを浮かべ、虚空にパンチを放ちながら出て行った。その姿はまさに人殺しであった。


 ならず者の人垣からは口汚い野次や罵倒が飛んで来る。だが、そんなものは彼の心には届かない。遅かれ早かれ、対戦相手を容赦無く叩き潰せば黙らせる事が出来る。それまでは好きなだけ吠えさせてやろう。


 十田が金網に入ると、間もなく対戦相手が呼ばれた。十田と同様にヘヴィメタルの曲とともに登場した相手は、意外にも大人しそうな人間だった。どちらかと言うと細身の体型で、のっぺりとした青白い顔は病人や秋葉原の住人を思わせた。バンテージはやたら長い物を使っているようで、それはヒジのすぐ下辺りまで巻かれていた。


『やれやれ、初戦の相手は賞金に目のくらんだ童貞ヅラのガキかよ』


 十田は遠目から相手を見て勝ちを確信した。この虫も殺せなそうな男が金網の中でどんな悲鳴を上げるのか。それだけが十田の関心事だった。


「お前達待たせたな! これから第一回戦の最終試合だ!」


 いつの間にかケージに入っていたMCが声を張り上げた。会場にはいつもの如く歪な熱狂が渦巻く。


「まずは皆大嫌い、そして俺も大嫌い。賭けを台無しにする男、死の天使十田三郎だ!」


 会場の大ブーイングの中、十田は両腕を広げ、金網越しに舌を出して観客達を挑発した。仮に観客が本当に十田を嫌っていたとしても、彼の実力が優勝候補の筆頭にあるのは間違いない。


「お次は切り裂きジャックの異名を持つ、リッパー王袁おう えんだ!」


 あまり知られた選手ではないのか、周囲から起こる歓声は少なめだった。まず本名ではないのだろうが、名前からして中国武術か何かの達人なのかもしれない。


 MCがレフリーのモードに切り替わると、金網の扉には鍵が掛けられた。


「準備はいいか?」


 レフリーは両脇の二人を制止するように両手を広げている。十田は既に金網の半分近くまで出て来ていた。ステップを小刻みに踏む十田を見て、リッパーは薄笑いを浮かべていた。


『気色悪い野郎だ。あれじゃ童貞でい続けたのも納得できる』


 十田は心の中で毒づいた。この笑顔が悲痛に歪むのを半ば楽しみにしながら。


「ファイト!」


 レフリーが試合を開始すると同時に、十田は飛び込んで挨拶代わりの左ストレートから右フックを返した。切れ味抜群の左ストレートはガードの上を打ち、右フックはスウェーバックでかわされた。


『やるな童貞』


 十田はすぐにステップを踏み、リズミカルにリッパーの周囲を回っていく。サークリングという動きで、相手に的を絞らせないようにしながら、自分の優位なポジションを探っていく。


 十田はこの試合で、バンテージではなく運搬作業用の手袋を装着している。手を防護する物が薄いので、殴る箇所は慎重に選ばないと思わぬ怪我のもととなる。いつもの左ストレートを使って速攻で倒す作戦は一時封印だ。リッパーはゆったりとした構えで十田の攻撃を待ち構えていた。


 十田の踏み込みが一瞬素早くなると同時に、リッパーの顔面が跳ね上がった。十田のフリッカージャブが直撃したからだ。腕をしならせ、ムチの要領で打ち込む拳は軌道が見えにくい。多くの犠牲者を出してきたそのパンチは、今日も目の前の獲物に容赦無かった。


 フリッカーでのけぞったリッパーを、十田はさらに同じパンチの連打で追い詰めていく。絶妙な力の入れ具合でコントロールされた拳は、終着点がプログラミングされたようにリッパーを打ち据えていく。


『弱え。やっぱりザコはザコだな』


 十田は笑いながらフリッカーの手を緩めない。ストレートを打ち込めば倒せる気もするが、相手をいたぶって楽しむ事に決めたらしい。内から外方向へ弓なりに放たれたパンチがリッパーの顔面を弾き、戻り際にもう一撃を加える。連打される拳は全てが同じ軌道で放たれるので、打たれる側は何が来るのか予測出来ない。リッパーの顔面がみるみる腫れ上がってくる。


 しかしリッパーもタフだった。並みの選手ならとっくに倒れていてもおかしくない状況だが、彼はガードを固めて隙を窺っているようだ。この男は何かを狙っているのか、反撃もせずに身体を振って十田の動きを観察している。


 全身にまとわりつくような視線が気に入らず、十田はこの男をさっさと倒そうという気になってきた。ジャブをガードの隙間に打ち込み、同じ軌道で右フックを放つ。二つともガードに阻まれたが、後続のフックのフェイント後に打たれた右ボディーがリッパーの脇腹を襲う。これは予想出来ていなかった模様で、リッパーの身体が沈みかけた。


『死ね』


 後続の左ストレートが無慈悲に襲い掛かる。ボディーブローに気を取られかけていたリッパーは防御が間に合わず、拳は顔面に直撃した。


 吹っ飛ばされたリッパーは金網に背中を叩きつけた。金網の弾力で戻ってきたリッパーにトドメを刺すため、十田は走りながらもう一発の左ストレートをぶっ放す。


 リッパーは苦し紛れに顔を捻り、当てずっぽうで右のカウンターパンチを放った。執念が実ったのか、それともただ運が良かっただけなのか分からないが、左ストレートはリッパーの顔面をかすめ、リッパーの右拳は十田の頬に浅く入った。


 十田はすぐにバックステップで距離を作る。左頬を撫で、自分が感じた違和感の正体を確かめる。


 十田の手には血が付いていた。軽く触れた程度のパンチは十田の顔面を切り裂いていたのだった。


『野郎!』


 十田はリッパーのナックル部分がやたらと尖っているのに気が付いた。この男は明らかにバンテージの中に刃物を仕込んでいた。リッパーの二つ名は伊達ではない。この男は文字通り切り裂き魔だったのだ。リッパーは十田の血を見て再び薄笑いを浮かべる。


 十田は先ほどよりも長めに距離を取り、リッパーの周囲をサークリングしていく。レフリーに相手の不正を訴えるという手もあるが、殆ど無法地帯のここでは意味を成さないだろう。自分の身は自分で守るしかない。


 十田は隙を窺いながら、傍目にも明らかに怒っていた。憤怒を秘めた瞳は、お前をタダでは殺さないと物語っていた。怒りの残像を残しながら、十田はリッパーの周囲を回っていく。


 リッパーは先ほどの一撃ですっかり自信を取り戻したようで、十田が距離を詰めようとした瞬間ごとに拳を前に突き出している。突っ込めばこの刃物が突き刺さるだけだよ。そう十田に警告するように。


 お互いが試合を決める一撃を狙っているため、試合はやや膠着状態となる。相手の不用意な攻撃を誘い込むため、当てる気のないジャブが空中を飛び交うだけだ。


「おい、つまんねえぞ! いつ倒す気だ!」


 業を煮やした観客の一言を皮切りに、会場には罵声が飛び交う。金網で闘っている二人がこの状況を作り出しているのだが、観客に日頃から嫌われている十田が彼らの攻撃対象となった。


「ビビってんじゃねえよ!」


    「さっきまでの勢いはどうしたあ?」


   「弱い奴にはあんなに強気なのになあ!」


 罵倒は主に十田へと浴びせられる。金網から出られないと分かっているので観客も強気だ。


『殺すぞ!』


 十田の頭では殺意が渦巻いていた。誰から血祭りに上げるのか選べないほどだ。今自分を罵倒した人間を覚えておき、退場時に殴ってやると思っていた。


 十田の集中力が途切れたその刹那、リッパーはジャブをフェイントにして右ボディーストレートを打ってきた。意外にスピードが乗っていたそれは、十田の腹部をえぐった。十田は一瞬息が詰まり、バックステップで距離を取る。腹部からは血がしたたっているが、致命傷ではなさそうだ。幸い息が詰まったのはボディーが少し効いただけのようだった。


 十田は野次に気を取られた事を少しだけ反省した。正面に立っているリッパーはまだ薄笑いを浮かべている。


 こんな男に負けるわけにはいかない。十田は殺意の温度を下げる事にした。冷徹に距離やペースメイクをして、そして最後には殺す。


 十田は先ほどよりも柔らかいヒザの使い方でサークリングをし、伸びのあるジャブを放っていった。冷静さを取り戻した十田のパンチは速く、一発一発がリッパーの顔面を跳ね上げていく。


 いつの間にか薄笑いが消えていたリッパーは慌て気味に十田の打ち終わりを狙うも、反撃は全て十田の残像を揺らしただけだった。


 ――モノが違う。


 リッパーの思考を恐怖が支配しはじめる。目の前にいる男は自分とは明らかに戦闘力が違う、本物のファイターだ。この男は刃物をチラつかせて勝てるような相手ではない。そう思うと、彼の胃には恐怖がせり上がってきた。一撃を加えてリッパーは十田を侮辱するような態度を取った。この男が自分をタダで済ませる気が無いのは明らかだ。


 反撃も逃げ腰になり、ただ下がるばかりのリッパーを十田はフリッカーで追い詰める。気付けば試合開始直後と同じような光景が繰り返され、リッパーは十田のフリッカーで全身を切り刻まれていた。


 リッパーの背中に金網が当たる。これ以上下がる事も出来ない。磔になった生贄を十田は容赦なく打ちまくる。


 フリッカーが打ち込まれるごとに血が飛び、時に歯が舞う。血を浴びながら相手を打ち据える十田は笑っていた。おぞましい微笑を浮かべながらリッパーが血まみれにされる光景は観客にとって戦慄以外の何物でもなかった。先ほどまで飛び交っていた野次も知らぬ間に消えている。


 右のフック、アッパーが角度を変えながらリッパーの顔を変形させていく。その一発は確実に彼の生命力を削っていった。リッパーの意識は混濁しかけ、脚からは力が抜けていく。


 もう一撃に賭けるしかない。リッパーは自ずと結論に行き着いた。元来持っている戦闘力があまりにも違いすぎるので、相打ち覚悟の一発を叩き込む以外に勝つ方法などないのだ。格闘技は野球やサッカーとは違い、最後の最後で誰が勝者か分からない。リッパーは歪む視界の中で奇跡を起こそうと決意した。


 ガードの上に凄まじい衝撃が走る。十田は確実に自分を殺すつもりだ。リッパーはさらにガードをしめ、一瞬の隙を待つ。ジャブや右フック、右アッパーがガードの上から叩きつけられるが、そんなものに気を取られてはいけない。目の前の暴君が隙を見せる時、それは左ストレートを強振してくる時だ。その時を逃さぬため、右のパンチに惑わされてはいけない。全て十田の戦略だ。


 右ブローはなおも角度を変えながらリッパーを打ち続ける。ガードする腕も感覚が無くなりかけてくる。歯は何本か折れ、息をすると奇妙な風を口中に感じる。それでも我慢しなければいけない。この男が左ストレートを打つその時を待たなければならない。


 十田の右アッパーがガードを割り、リッパーの頭が跳ね上がった。リッパーの目の前には自分の血しぶきが見える。直後に、トドメの左ストレートが迫って来ていた。


『今だ!』


 リッパーは首を捻って左拳をかわし、渾身の力で右ストレートを打った。このカウンターで十田は串刺しだ。


 拳が十田の顔面へ到達する前に、リッパーの視界が真っ暗になった。リッパーの右ストレートが当たる前に、十田の右フックがアゴに直撃していたのだった。


 十田はかわされる事も織り込み済みで左ストレートを放っていた。強引に左ストレートをかわしたリッパーは身体の軸が崩れており、素早く動く事が出来なかった。散々殴られて消耗していた事が動きの遅さに拍車をかけていた。十田がそんな瀕死の獲物を仕留め損ねるなど有り得ない。身体の遠心力を利用して放たれた返しの右フックはリッパーのアゴを容赦なく打ち砕いた。


 リッパーの身体は金網にバウンドし、頭から前のめりに打ちつけられた。血に塗れた床に横たわるそれは他殺体を思わせた。


 レフリーが試合をストップすると、リッパーの取り巻きが金網の中に駆け込んできた。倒れたままのリッパーに話しかけ、彼がまだこの世にいるのか確認している。


 十田はフンと鼻を鳴らし、金網を出て行った。観客は静まりかえり、返り血で紅く染まった十田を見送った。


 今日も血の雨が降った。それも、あと二回同じ光景が繰り返されるのだ。


 ダイバーの目の前をサメが横切ったように、観客の一人一人は動けなくなっていた。

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