第5話
シャワーを浴びてTシャツと作業着の下を身に着けた十田は、自室をウロウロしながら銀行の審査結果を待っていた。その姿は分娩室前でうろつく父親に見えなくもなかった。
ニーチェが自著で「人を悪くしたければ彼を長く待たせる事だ」と言っていたが、それは全く正しいのかもしれない。十田の頭には様々な邪推や被害妄想、悪意がひしめいていた。
俺を待たせるだけ待たせて楽しんでいるだけじゃないのか?
端からこんなゴロツキなんか相手にする気はなかったんじゃないか?
俺をこんな状況に追い込んだパチンコ屋は燃やしてしまうべきではないのか?
そもそも試合報酬が少なすぎるんだ。あの観客達め、ボコボコにして俺が貰うべきファイトマネーを回収してやる。
徐々に脳内を危険な思想が満たしてくる。切羽詰った状況は十田の魂を黒く染め上げようとしていた。
その時、ふいに電話が鳴った。十田は一度自分を落ち着かせ、生唾を飲み込んでから電話を取った。
「もしもし」
「夜分遅くに申し訳ございません。こちらは十田様のお電話でよろしいでしょうか?」
「そうです」
見知らぬ電話番号の相手は期待通りM銀行のオペレーターだった。
胸中には期待と不安が目まぐるしく交錯する。この電話が人生の分かれ目を告げる事になるからだ。自分は生き延びるのか、それとも今後惨めな人生を生きていくのか。全てはこの電話に懸かっている。
「本日はM銀行カードローンにお申し込みいただき、まことにありがとうございました」
オペレーターは紋切り型の文句を謳い上げる。幾日も同じ言葉を言い続けてきたのだろう。受話器の向こう側から聞こえてくる声は滑らかで美しい響きであった。
十田は心なしか査定が通った気がした。審査を通らない男にこれほど明るく優しい声をかけられるはずがない。彼の心には希望が湧いてきた。
「十田様、審査の結果ですが…」
早くその先を言ってくれ。俺の安らかな未来を祝福してくれ。十田の胸中にはそんな思いが駆け巡っていた。そこには無垢な少年が抱くような、自身の成功を全く疑わない無邪気さがあった。
「まことに申し訳ございませんが、お客様とカードローンのご契約を結ぶのをこの度見送らせていただく事になりました」
十田はしばらく凍りつき、動けなかった。
まことに申し訳ございませんが、お客様とカードローンのご契約を結ぶのをこの度見送らせていただく事になりました。 まことに申し訳ございませんが、お客様とカードローンのご契約を結ぶのをこの度見送らせていただく事になりました。 まことに申し訳ございませんが、お客様とカードローンのご契約を結ぶのをこの度見送らせていただく事になりました。
契約を結べないだと? あれだけ思わせぶりな声で俺を喜ばせておいて、お見送りさせていただきますだと? 十田の視界に映る世界にはヒビが入り、それはガラスのように割れていく。
「あの、十田様?」
半ば死の宣告に呆けていた十田はハッとした。それは試合で気を失いながら闘っている事に気付いた時と似ていた。怒りが腹の底から沸きあがってくるのが間に合わず、慌てて「はい」と返事をする。
「まことに申し訳ございません。またご縁がありましたら、是非ともよろしくお願いします」
オペレーターは何かを汲み取ったのか、遺憾極まりないという声で言った。これまで絶望の深淵に叩き落された人間達を何人も見てきたのかもしれない。
「ああ、だい、大丈夫です。大丈夫ですよ」
状況は全然大丈夫ではないのだが、ダウンを取られたボクサーがレフリーにそうするように十田は虚勢を張った。なぜそうしたのかは自分でも分からない。
人間は本当に危機的な状況に追い込まれてしまうと、他者の気遣いや援助を受け取る余裕すら無くしてしまう事がある。今の十田はまさにそんな状況であった。
一連のやり取りを終えると、電話のディスプレイに映る通話終了の文字を眺める。眺めれば眺めるほど、通話以外に色々なものが終焉を迎えた気分が増してくる。
――終わった、何もかも。どこかからそんな声が聞こえてきた。
十田は携帯を握り締めたまま、どこかのボクサーのように真っ白な灰と化していた。
全てを諦めたのか、それとも開き直ったのか。十田は大の字になって眠りについた。思えばこの日はまるで休んでいない。試合直後にちょっとした過ちを犯し、それが悪夢の連鎖、連鎖、連鎖になった。
この先俺はどうなるのだろう? 考えるのも嫌になる。薄れゆく意識の中で、十田は目覚めた時に全てが夢であったというオチを強く願った。
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