第4話
十田は池袋のアパートへと帰ってきた。廃墟を改装したようなビンテージ物のモルタル造りは、壁がところどころ剥げ落ちていた。築何年かも不詳であるこの建物が東日本大震災を生き延びたのは奇跡としか言いようが無い。
十田は夕日に染まったボロ家の階段を上がっていく。一歩一歩踏みしめるたびにギシギシと鳴る階段は期せずして防犯効果を備える事となった。もっとも、この家屋を狙う天然記念物級の空き巣がいればの話だが。
十田が階段を昇っていくと、やけにこじんまりとした人影が見えた。夕日で視界は利かないが、誰が待ち構えているかは一目で分かった。それは大家の老婆であった。
「やれやれ、やっと帰ってきたわね」
腕を組んだ老婆はしゃがれて割れた声で言った。十田はにわかに発生した嫌な予感を知覚しないようにしながら聞いた。
「十田さん、あんた随分長い間家賃を滞納してるけど、今日はいくら払えるのかえ?」
大家は前置きも無しに言った。払えなければ即刻追い出す気満々らしい。十田もその雰囲気は察知したようで、素直に返事をする事にした。
「今日は、三千円。いや、四千円なら払える」
「四千円? ハッ、笑わせるんじゃないよ。あんたが今滞納している額は六ヶ月分の三十万だよ。これ以上いくら借金を重ねようっていうんだい、この泥棒!」
泥棒という言葉に十田の頭は沸点に達しかけたが、すぐに自分を律した。十九世紀に生きていればこの銭ゲバを斧で殺していたかもしれないが、現代では耐える事を知らねばならない。十田は大家を言わせるままにした。
「今度という今度は出て行ってもらうよ。何とかして十五万でも明日に払えないなら、ここを立ち退いてもらいますからね!」
大家は強い語気で言い放った。今まで家賃を滞納し続けた恨みが積もり積もったか、一刻の猶予も許さないといった態度だった。
「十五万? そんな金額が一日で用意出来るはず…」
「嫌なら他に行きな。あんたみたいなゴロツキ、どこに行ったって住ましてもらえないと思うけどね」
大家は立場上は顧客の十田にも容赦無かった。ゴロツキには間違いないだろうが、顧客を蔑称で罵る大家も珍しいだろう。
「とにかく、十五万よ。十五万明日に用意出来なかったらここを出て行くんだね。さもなきゃ警察を呼びますから」
捨て台詞を吐いて老婆は自室へと引き返して行った。ボロボロの廊下には途方に暮れる坊主頭が夕日を浴びながら立ちすくしていた。
「十五万って…」
十田は誰かに問いかけるように虚空へ話しかけた。当然答えは返って来ない。
泣きっ面に蜂というのはこういう事を言うのか。せっかく得たファイトマネーもあっさりと使い果たし、日雇いのバイトで疲弊した身体を休ませる場所は明日にも無くなる。十田はいつの間にかダンボールハウスで生きるにはどうすれば良いのか考え始めている事に気が付き、慌ててそれを振り払う。
ともかくピンチだ。明らかにピンチだ。ねぐらを無くしたら試合どころではない。住所不定ではあらゆる契約関係に支障を来たす。電話会社の人間だってどこに請求書を送れば良いか分からない人間と契約を続けたいとは思わないだろう。
焦った十田は金策に走る事にした。既に夕方で身体も汗だくだが悠長に構えている暇は無い。家に入ると知り合いに片っ端から電話をかけまくり、当面の金を貸してほしいという旨を伝えた。こうなったら恥じも外聞もあったもんじゃない。
プライドを一切捨てて頼み続けたものの、十田の願いはことごとく退けられた。これも身からでた錆びなのか、日頃の行いから彼は他者からまるで信頼されていなかった。知り合いの殆どは十田のヒモ活やDVについて知っていたし、十田自身も酒の席でそれを武勇伝のごとく大っぴらに話していた。自業自得だが、その武勇伝は人から人へ伝わるごとに、その尾ひれの大きさを増していった。雪ダルマ式に大きくなった黒い噂は、十田のイメージをすっかり極悪人にしてしまった。
借金の申込みは軒並み断られた上に、「今後は交際を断たせてもらう」等、辛辣な言葉がセットで返ってきた。一人ぐらいはこの状況を助けてくれる篤志家がいるかもしれないと高をくくっていたが、実際には一人として現れなかった。
とうとう最後の一人にも申し出を断られたが、十田に絶望している暇は無かった。悲しい事だが、日頃の行いから考えれば十分に考えられる状況だったからだ。
十田は次に池袋の雑踏を駆け抜けた。この時間ならまだカードローンの申込みが出来る。来月からは返済が始まるが、それでも一度に十五万円支払うよりは遥かにマシである。
何とか間に合った十田は駅前にある二つのM銀行の内、「審査が緩い」と聞いていた方の店舗へと入って行った。審査には三十分以上かかるそうなので、どちらかで審査を始めたらもう片方に行く前には店自体が閉まってしまう。
店内に入ると、こんな時に限って契約機前には一人の先客がいた。閉店までいくらもないので、先客の審査が終わったら銀行は容赦なく閉店してしまうだろう。もしかしたら十田の審査が終わるまで待ってもらえるかもしれないが、切羽詰ったこの状況で誰かの温情に期待するのは賢くない。なにしろ先ほど人の温情からは全く見放されたのだから。
審査機内の客が手続きを終えて出て来た。すかさず十田はズイズイと肩を揺らしながら歩き、先客をビビらせて先に割り込もうとした。今まで自身のナリに損ばかりしてきたが、こういう時だけは便利である。十田の期待通り先客は殺気に気圧され、後ずさりし始めた。十田は刺すような眼光を流し、契約機へと入って行く。少々手間取ったが、何とか予定通りになった。
「ちょっとお客さん、このお客様が先に待ってますから」
十田の肩を掴んで引き戻したのは銀行の警備員だった。初老に見えるこの男は生真面目そうで、きっと脅しにも屈しないタイプなのだろう。
今の危機的状況を考えると殴り倒してしまいたかったが、そんな事をすればカードローンの審査どころではない。ボロ屋から追い出され、刑務所が新居となる。
十田はどう対応するものかその場で立ったまま考え込んだ。その隙に先客はスルスルと契約機に入ってしまった。立ちすくす十田に警備員は「順番はお守り下さい」と捨て台詞を吐いて去って行った。
もう間に合わない。おう思った十田は審査が厳しいと言われている方の銀行へ走った。このまま時間切れになるよりは幾分マシだと判断したからだ。
赤いロゴマークの銀行内では、幸い無人契約機は使われていなかった。十田は誰も並んでいない契約機に滑り込む。
少々頭は混乱しているが、手続きの仕方は無人機が指示してくれる。手続きを進めていくとオペレーターが画面に映った。オペレーターは軽い挨拶の後、とても丁寧な言葉遣いで話すのだが、普段ゴロツキとしか付き合わない十田からすると半分ほど宇宙語に聞こえる。軽い頭痛を堪えながら、なんとかオペレーターの質問に答えていく。
「それではお客様、失礼ながらカードローンのご使用用途をお聞かせいただいても構いませんでしょうか?」
「アパートの大家から明日までに滞納家賃十五万を用意しろと言われた。それが無ければ追い出すと」
十田は正直に答えた。オペレーターは一瞬だけ動きが鈍くなったが、次の質問に入る。
「それでは十田様、また失礼ですが年収の方はいくらほどでございましょうか?」
「年収は不定だ。でも日雇いのバイトなら日給五千円ぐらい入る」
さすがに地下格闘技を収入源としては言わないまでも、十田は事実を全く隠さずに言った。下手な嘘は見破られると思ったからだ。
一連の質問が終わり、審査の結果を今日中に電話で知らせる旨を伝えられた。頭を下げたまま、オペレーターの姿はモニターから消えた。
銀行の外に出ると夜になっていた。街にはサラリーマンや夜の住人が入り混じっていて、人ごみはその規模をさらに増している。十田は『いつ見てもここは変な街だ』と思っていた。
とりあえずやる事はやった。後は電話が鳴るまで待つしかない。十田は牛丼屋で腹ごしらえをして帰った。仕事が終わった後、風呂にも入らずに街中を疾走したせいか、隣の客が顔を歪めていた。発生源には分からないが、よほど臭うのだろう。見知らぬ人間があからさまに鼻をつまんでも、今はどうでもよかった。まともな食事にありつけるのがこれで最後かもしれないからだ。
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