第3話

 十田はブツブツと何かを呟きながら街中を歩いていた。明らかに不審人物であるせいか、これから出勤するサラリーマン達は無言で彼をよけていく。


 十田は焦っていた。収入源の女もいなくなり、生活は自分で賄わなければいけなくなった。住んでいるボロアパートの家賃は何ヶ月も滞納しており、居留守を使い続けたら「今度家賃を滞納したら強制立ち退きをさせる」との張り紙がしてあった。一ヶ月分だけなら家賃を払えるとしても、その後の生活費はどうする? 仮に生活費も払えたとして、今後ずっとこんな生活苦が続くのか? 考えれば考えるほど、彼の頭はこんがらがってきていた。


 十田は一緒に悪さをしていた仲間から金網格闘技の存在を教えられ、そのつてで山中と知り合う事となった。その男の話によれば、地下格闘技はもっと儲かりそうな話だった。最初の試合では確かにそれなりの金額を稼ぐ事が出来たが、初戦では地下格闘技界において全く無名だった十田も、その一夜を境に日陰者の中では一気に有名人となった。いや、有名人になってしまったという言い方の方が正しいかもしれない。


 いくら格闘技とはいえ、そこは所詮ゴロツキの集まりであったので、競技全体のレベルは低かった。そこに彗星の如く現れた十田は、一躍脚光を浴び、そして一気に不人気の選手に堕ちていった。


 十田の実力は確かすぎるほど本物であったが、あまりにも強すぎて賭けが賭けとして成立しなかったのである。それでも一攫千金を狙い十田の対抗選手に賭ける者もいたが、その夢は大体一分以内に水泡に消えるのがオチであった。加えて十田が試合ごとに取る尊大な態度が観客の癪に障り、不人気具合に拍車をかけていた。


 優秀な選手の定義付けとは難しいもので、すくなくとも十田が主戦場としている場所では選手の強さと優秀さは必ずしも比例しない。あの場所には何らかの理由で一攫千金を目論む者が集まって来る場で、強さを競う競技を観戦しに来ているのではないのだ。今回の鎌瀬こそ十田を倒すかもしれぬと、二人の試合はメインイベントになっていたが、そのわずかばかりの希望さえも、十田にあっさりと粉砕されてしまった。まるで、小さな子供が砂の城を壊して遊ぶように。


 次第に十田が出場する試合において、観客達の興味はどちらが勝つかよりも、誰があの生意気な坊主頭を叩きのめすかという方向に移行していった。試合の際に動く金額も日ごとに減少していったので、胴元もなかなか試合を組んでくれなくなった。


 とにかく、今は試合そのものが無い。つまり、収入源が無いという事だ。ここからどうやって金を稼ぐか。恐喝? 当たり屋? どれも犯罪絡みの内容しか浮かんでこない。


 気付けば十田は二度と行くまいと決めていたパチンコ屋の前にいた。店の前には既に開店前の行列が出来ている。


「いや、待て。散々ひどい目に合って、本当に止めるって決めただろう?」


 十田はもう一人の自分と対話する。自分の足をそこへ向かわせた人格を刺激しないよう、宥めるように、慎重に扱う。自分の生活を破壊したものはこういった一切のギャンブルなのだ。これさえ無ければ大切な人に愛想を尽かされる事も無かったし、自分自身がここまで堕落する事など無かったのだ。あれほど艱難辛苦を味わっておいて、自らの手で再びそれを引き寄せる事もあるまい。そう自分に言い聞かせた。言い聞かせたはずなのだが。


 気付けば十田はパチンコ屋の行列に並んでいた。無意識的な行為に一瞬だけ周囲を見回すも、誰かの催眠術にかかった気配は無い。結局「まあいいや」と開き直り、行列から外れる事はなかった。どうせ試合も無いし、日雇いの仕事でも問題を起こしてクビになるのは目に見えている。そう自分に言い聞かせながら。



 昼前頃になり、十田は東京芸術劇場前にあるベンチに座っていた。この日はどんよりと雲っていて、太陽はその姿をすっぽりと隠されていた。


「終わった、何もかも…」


 虚空を見つめた十田は一人呟いた。予想通り、わずかばかりの生活費を倍増させようという目論みは失敗に終わった。


 なぜこうなる事が予想出来なかったのだろう? なぜもっと堅実に金を稼ぐ方法を思いつかなかったのだろう? そう自分に問うてみても、答えは出なかった。彼自身が自分がなぜそうしたのか分からないのだ。


 自分が選んだ台が悪かったのだろうか? それとも違う店にしておくべきだったか? いや、問題はそんな事ではない。そもそも大切な生活費をギャンブルに使うべきではなかったのだ。


「さて、どうしよう」


 十田は試合の時とは別人のような弱々しい声で独白した。わずかばかりの金も使い果たし、借家に住んでいる以外はホームレスと大差無い。


「山中だ。山中に頼むしかない」


 十田にとって現実的な案はそれしか浮かばなかった。十二時間ほど前に試合をしたばかりだが、今はそんな事も言ってられない。今は生きるために金を稼がなければならない。


 十田は携帯を操作し、山中の番号を呼び出した。一回目では出なかったので、チケットでも予約するように何度も掛け直す。五回目の呼び出しで山中は電話に出た。


「おう、どうした」


 電話に出た山中は心なしか面倒くさそうだった。


「金が必要になった。試合を組んでくれ」


「金が必要になった? 今日の金以上にか?」


「全額スッた」


「お前なあ、いくら何でももうちょっと考えて…」


「説教はいい。俺はいつでも大丈夫だから今夜試合を組んでくれ」


 十田は必死さは無いものの、強い語気で山中の説教を遮断した。十田はなおも続ける。


「俺は強すぎて賭けにならないんだろ? 観客だって今日俺が試合をした事ぐらい知っているんだから、丁度いいハンデになるぜ」


「ああ、お困りのところ申し訳無いんだが…。近々の試合は本当に未定なんだ。怪我人だって出てくるし、お前が片っ端から病院送りにした事もあるしな。お気の毒だが、俺らは慈善事業をやっているわけじゃない」


 電話の向こうにいる山中は、説明の最後で笑いを堪えたような気がした。慈善事業という言葉が自分の口から出た事が滑稽に感じたのかもしれない。


「だからいいか? 試合は必ず組んでやるが、今はダメだ。こっちにも準備ってもんがある。冷たい事を言うようだが、今は何とかしろ」


 十田はなおも抗ったが、試合が無いのではどうしようもない。散々悪あがきをして山中の手を焼かせた後、十田はようやく引き下がった。携帯のディスプレイに映る通話終了の文字が、この日はやたらと残酷に見えた。


 リストラされたサラリーマンはこんな気持ちなのだろうか? 十田に見える世界は灰色になった。多分、曇り空のせいではない。


 とにかくこのままでは文字通りジリ貧で、ただ飢え死にするのを待つしかない。試合が決まったら栄養失調でしたではシャレにならない。十田は大嫌いな日雇いのバイトに出る事にした。仲介業者に連絡を取ると、翌日の朝からさっそく仕事が決まった。


 日雇いのバイトは殆どが肉体労働で、楽な仕事など無い。分かりきった事だが、当事者としては少しでも楽な仕事をやりたいというのが本音で、十田は今までと違うバイトを選択した。今までは港湾系の積み下ろしをやっていたが、配属される場所によって怖ろしく重労働になるため、今回は建築系の現場配送を選択した。


 現場配送とは言っても現地まで大型トラックを運転する必要は無く、運転手の助手席に座って移動し、現場で建材を指定の場所まで運べばいいだけである。港湾の積み下ろしではやたらと重い冷凍食品を運んでいたので、これなら楽勝だと十田は高をくくっていた。


 しかし、現実はやはりそう甘くはなかった。


 十田が主に運んだのは石膏ボードという仕切り材で、日本にある家ではこの建材がほぼ間違いなく使われている。防火性を持ったこの板は三尺×六尺(910ミリ×1820ミリ)のサイズが一般的で、一番よく使われる厚みのボードは一枚につき十三キロほどの重さがある。家一軒につき石膏ボードを何枚使用するかは家屋自体のサイズやデザインによってまちまちだが、おおよその現場で百枚ほどは使用されている。十田はトラックの運転手と一緒にその石膏ボードを運んで回るわけだが、当然一枚一枚運んでいたのでは日が暮れてしまう。だから一度に二枚か、ベテランなら四枚を一度に運ぶのだが、初心者にとってこの労働はなかなかの過酷さを持っている。


 ベテランの運転手は石膏ボードの下端を両手で持ち、残りの部分は身体に預けて運んでいくのだが、初心者の十田にそれが出来るはずもない。素人に綺麗なフォームでパンチを打てと要求しているようなものである。十田は片手ずつでボードの上下を持ち、落とさないようにして運んでいく。支える手が半分なので疲労が溜まるのが異常に早いが、商品を落として割ってしまうよりはマシである。十田は前腕の筋肉が苦痛に呻くのを感じながら作業を続けた。作業中に素人臭い運び方を見たとび職の男にからかわれたが、この日は我慢する事が出来た。ここで問題を起こしたら今度こそシャレにならないからである。


 全ての現場配送が終わり、缶コーヒーを持ち上げる手は震えていた。いくら格闘技で鍛えたとはいえ、使う筋肉の部位がまるで違う。慣れない仕事に腕が悲鳴を上げるのは無理の無い事だった。


 夕日を横切るカラスのシルエットを見て、十田は今度こそ心を入れ替えようと思った。地下格闘技だっていつまで身体が持つか分からない。自分の身勝手さで多くの人達を傷つけた。日陰者に世間は厳しいだろうが、生きていけないわけではない。そう思うと、眼前の光景は澄み切ってきたような気がする。


 方々の現場では怒鳴られた事もあったし、理不尽な要求もたくさんあった。しかし、これらは全て乗り越えられるものなのだ。自分は社会に参加する事が出来るのだ。


『明日も仕事を入れよう』


 十田は一人決意した。自分の人生は自分で切り開くしかない。それを学ぶためにあの五万円は必要な対価だったのかもしれない。それだったら安いものだ。


 十田は日給の五千円を懐に仕舞い込み、今までに無い高揚感に包まれながら帰路についた。

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