第2話
西池袋を徘徊する十田は明らかに不機嫌だった。改めて袋を取り出し、中に入っている金を数えてみる。
「やっぱり五万円か。クソっ!」
十田は納得がいかなかった。健康保険はとっくに支払いをやめており、試合で怪我をすれば自費で無慈悲な治療費を払わなければならない。場合によっては命を落としかねない闘いに身を賭しているのに、なぜこれだけしか見返りが無いのか。俺が命を賭けても五万円の価値しかないというのか。そんな思いが十田の脳内を駆け巡っていた。
しかしこれほどの低賃金でもやはり無いよりは遥かにマシだ。十田は普通の仕事には就けなくなっていた。
――いつだろうか、最後の上司を殴って会社をクビになったのをきっかけに、彼の生活はすさんでいった。最初は仲の良かったキャバ嬢のもとに転がり込み、いわゆるヒモとして暮らしてきた。なんとか生計を立てる目処はついたものの、せっかく手に入れた平穏も長続きしなかった。
仕事が無くなり、起きて食べて寝るだけの生活に飽きた十田はパチンコに麻雀通いが日課となった。朝起きると大抵女は仕事に出ていて、テーブルの上には生活費として二万円が置かれていた。十田はその金を元手にして、日夜ギャンブルで大金を掴もうと人生の時間を浪費していた。
半ば予想通りだが、彼はギャンブルに負け続け、自身の貯金をまるまる使い果たしてしまった。最初は同棲していた女も笑って許してくれたが、同じ事が繰り返される度に二人の間には溝ができ出した。半年も経つと、テーブルにいつも置かれている生活費はその意味合いを変えていった。「金はやるから余計な事をするな」そういったオーラを二枚の一万円札は纏うようになっていった。
しかし、それでも十田は根本的には変わらなかった。次第に女の装飾品類を質に入れだし、自分に渡す生活費を増額するよう要求しだした。それが断られると、十田は女を殴った。毎日繰り返される暴力と顔の傷が原因で女は店に出勤出来なくなり、生活はさらに困窮を極めるようになっていった。
さすがにまずいと思ったのか、十田は自分で働き口を探しだした。延命的な措置だが、彼は肉体労働系のバイトに行った。港で積荷を移動するだけだが、一日中それを行うとなるとかなりの重労働になる。元々筋力トレーニングに励むタイプの選手ではなかったので、十田にとってこの仕事は苦痛そのものだった。だが、今回は珍しく現場監督にどなられながらも仕事をやり抜いた。
自分で稼いだ金というのはそうでないものとは全く意味合いが違う。日当五千円を受け取った時、十田は働いて金を稼ぐ事の過酷さを思い出した。これからは心を入れ替えて生きていこう。この金はいままで苦労をかけた人間に全額渡そう。そう思いながら帰路についた。
帰ってきた十田を待っていたのは、もぬけの殻と化した部屋だった。家具類は全て引き払われ、人が残っている気配は無かった。
床には一枚の紙切れが落ちており、拾って読み上げると、そこには女の怨み節がこれでもかと列挙されていた。内容をまとめれば、つまるところ「あなたを信じ続けたのに、その度に裏切ったあなたを許す事は出来ない。さようなら」というものであった。
心を入れ替えて生きて行こうと決めた矢先に、今まで傍にいた人はいなくなってしまった。なぜもう一日だけでも耐えてみようと思ってくれなかったのか。それが十田の思った事だった。彼の心には憎悪や喪失感、虚無感が入り混じり、複雑な波を心中に作り出していた。
翌日十田は出ると言った仕事をすっぽかし、そのまま二度と戻って来る事は無かった。
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