孤島の拳(未完)
月狂 四郎
第1話
時刻は午前三時を過ぎた。早春の池袋は不気味な静寂さに包まれている。
昼間の喧騒は鳴りをひそめ、人通りは殆ど無い。
スーツ姿の客引きすら見えなくなった夜道を革ジャン姿の男が歩いて行く。その頭髪はこれでもかと後ろに撫でつけられ、鋭い目つきは虚空を威嚇しているようだった。男は黙々と歩いて行き、道中にあるラーメン屋前で立ち止まる。周囲を少しだけ確認すると、彼は店の中へ入って行った。
店内には筋骨隆々の店主がスープの味見をしていた。他に客は一人もいない。
「よう、大将」
「ああ、山中の旦那。試合ならもう始まっているよ」
店主は明るい声で男を歓迎した。だが、その目は決して笑っていなかった。この店主も山中と呼ばれた男と同じ、危険な臭気を放っていた。
山中は席の一つに腰掛け、水を飲みながら店主の包丁捌きを眺めている。注文を何にするか迷っているわけではなさそうだ。
ドンという大きな音と伴に、中華包丁で切り落とされた豚肉がまな板を転がっていく。店主は淡々と作業を続けながら口を開いた。
「最近お客さんも減っちゃってねえ。この副業が無かったらどうなっていたか分かったもんじゃないよ。まったく、ラーメン屋がラーメンだけで食っていけないなんて情けない」
山中は何も答えなかった。店内には沈黙が流れる。しばらくすると作業が終わったのか、店主は黒いバンダナを外して一息ついた。
「さてと、今日はもう店じまいだな」
店主は誰にともなく一人ごちると、カウンターから入り口に回り込んでシャッターを閉め、そのまま鍵をかけた。店主がカウンターの内側に戻りそのまま奥に進んでいくと、後方から山中が付いていく。この流れが初めてではないようで、そこには阿吽の呼吸というものが感じられる。
冷蔵室の手前にあるゴム製のカーペットを引っ剥がすと、そこにはハッチがあった。店主が無言で金具を掴み、ハッチを開いていく。油に塗れたハッチの縁が床から離れていくにつれて、床下からはサイケデリックな音楽が流れてくる。有線放送ではなさそうだ。ハッチが完全に開ききると、そこには地下へと続く階段があった。
「お待たせ。本業そっちのけでこっちの商売の方が上手くいっちゃうんだから嫌になっちゃうよ。俺はラーメン一本でやっていきたいのに」
店主は現れた階段を見つめ、切ない顔で言った。
「お陰で助かってるよ。人目の集まる店だったらこの商売は無理だろうからな」
「それって褒めてないだろ」
店主を無視して山中は階段を降りて行った。薄暗い階段を下りていくと、音楽とともに下卑た歓声が聞こえてくる。
階段を降りた先には不気味な大部屋があった。安っぽい照明に照らされた室内には酔っ払いが大挙して押しかけ、部屋の中央付近にある金網を囲っていた。熱狂する彼らの視線を辿っていくと、立方体の金網で二人の男が闘っている。
男達の身なりは格闘技の中継でよく見るようなトランクス姿であったが、その拳にはバンテージが巻かれているだけであった。シューズを履いた選手がいる一方、もう一人の選手は裸足だった。
技術的には絶望的にまで拙いが、会場の熱気は凄まじい。一発一発のパンチが入るごとに、周囲からは狂気の歓声が上がり、金網越しに選手達の汗や血が飛んでくる。
はたして試合は予想通り大味で、片方の選手のパンチがアゴに入ると、相手の選手は大の字となった。レフリーもどきの男が試合を止めると、会場内は怒号や嬌声に包まれ、再び騒がしくなった。
倒された選手は仲間に肩を貸されて金網から出て行く。彼は息も絶え絶えで、その鼻はプレスされたように潰れ、顔面のいたるところから出血していた。グローブをはめていない拳で殴られたのだからそれもそうだろう。ひどい負傷をしただけ同情されるべき人間に見えるが、彼にはビールの缶やその他ゴミが容赦なく投げつけられた。反対に勝者は金網の周囲に集まった観客に取り囲まれ、どこか裏のありそうな賛辞に包まれていた。
騒動が収まると次の試合の段取りに入った。先ほど飛び交ったゴミはそのままで、部屋の中には悪臭が漂っている。先ほどの騒乱が日を追うごとに作り上げてきた匂いなのだろう。金網の上には先ほどまでレフリーをしていた男がマイクを握っていた。
「会場に集まったダメ人間ども! 準備はいいか? 次は今夜のメインイベントだ!」
会場からは野次と歓声が上がる。時刻的には早朝のような気もするが、それを突っ込む者は一人としていなかった。
「先に入場するのは池袋が産んだ悪夢、鎌瀬健太郎(かませ けんたろう)だ!」
突如流れ出したパンクロックとともに、部屋の奥から選手が入場して来た。ニワトリのトサカを思い起こすモヒカンに、タスキのように描かれた鯉のタトゥーに身を包んだ男は自信満々でリングインし、その場でシャドウボクシングを始めた。金網のすぐ近くでは彼の取り巻きらしき人間達が騒いでいた。周囲の反応から察するに、なかなか人気の選手らしい。
「お次は自称死の天使、
紹介とともに会場からは激しいブーイングが起こる。この選手はよほど嫌われているようだ。
会場にはけたたましいヘヴィメタルが流れ出した。ニックネームにあやかったのか、かかっている曲はスレイヤーのエンジェル・オブ・デスだった。急峻なギターリフと怖ろしいスピードのツーバスドラムは時を経た今でも聴く者を圧倒する。
会場の奥からは色黒の坊主頭が現れた。その身体は小さなヘラクレスを思わせるしなやかさと暴力的な筋肉を持ち、獲物を見据える両目は鷹のような鋭さがあった。口角は邪悪に上がり、その男の放つ眼光は「お前を殺す」というメッセージを虚空に描いていた。
十田は尊大な表情を保ったまま、その場でステップを踏んでいる。試合がしたくて仕方が無いというよりは、獲物を殺戮するのが待ちきれないという感じであった。
ひとしきりステップを踏み終わると、十田は殺意むき出しで金網へと歩いて行った。先ほどまでブーイングをしていた者達も、本人が目の前にやって来ると急激に大人しくなった。十田はそんな観客達をバカにするような目つきで見て、踊るようなシャドウボクシングをしながら金網の門をくぐった。
金網の鍵が外側から掛けられる。途端にさきほどのブーイングは息を吹き返した。
レフリーは選手達のボディーチェックをするでもなく、再びマイクのスイッチを入れた。
「クズ人間ども、待たせたな! 今夜の試合はこれで見納めだ! この大一番で勝った奴は天国、負けた奴は逃走経路を確保しておけ」
観客達は笑っていなかった。最後の冗談らしき言葉は会場を緊張感で一杯にした。
金網にいる二人の戦士はレフリー越しに互いを睨みつけていた。鎌瀬は身体を揺らしながら真剣な顔つきで、十田はステップを踏みながら邪悪に歪んだ笑顔を浮かべていた。
「準備はいいか?」
レフリーが二人を交互に見ながら言った。乱闘の可能性があるからか、格闘技でよく見る、リング中央に両選手を集めるという光景は臨めないらしい。会場には気違いじみた歓声が上がり出す。
「ぶっ殺せ、鎌瀬!」
「首をくくって頑張れ、あ、腹か」
「十田、お前に全額賭けたぞ!」
「殺せ、殺せ、ぶっ殺せ!」
「お前が負けたら俺は身を投げるしかないんだ!」
周囲から自分勝手な野次が聞こえてくる。こんな光景など慣れているのか、二人は相手だけを見据えていた。
「ファイト!」
レフリーの掛け声とともに鎌瀬が走り出した。先手必勝というか、十田に考える隙を与えないつもりらしい。金網の中には鎌瀬の足音がやかましく響いた。
十田はなおも人を小ばかにしたような笑いながら、ゆったりと構えて様子を見ている。ザコが何をいきがってやがる、そう言いたいかのように。十田の構えでは右手と右脚が前に出ていた。どうやら彼はサウスポーのようである。
鎌瀬は走りながら利き腕の右ストレートを放った。ジャブの突き合いなどやる気はないようだ。確かにバンテージだけの拳で殴るなら、先に大きなパンチを当てた方が勝率は高いのかもしれない。
鎌瀬は一発で仕留めるつもりで渾身の一撃を放った。しかし、今日は相手が悪かった。
十田は身体を少し左に傾けると楽々と右ストレートをかわし、そのまま鎌瀬のみぞおちに左アッパーを突き刺した。会場には衝撃音が響き、鎌瀬は腹をかかえながら後ずさりする。十田はそれを邪悪に笑いながら見ていた。
「何やってんだ、早く倒せ!」
観客の一人が叫んだ。その場でうずくまる寸前の鎌瀬を、十田はなおも嘲笑いながら見ていた。
「わざと倒さなかったんだ…」
他の観客が慄然としながら独白した。彼の独り言は多分間違いではないのだろう。右ストレートをかわした時、そのまま戻る勢いで左ストレートを放てば試合が終わっていた可能性が高い。あえてそうせずにボディーブローを選択したのは鎌瀬をズタズタに引き裂いて遊んでやろうと思ったのではないか。観客の多くはそう思っていた。
上は天国下は地獄というように、ボディーブローを喰らうと気絶出来ずに、地獄の苦しみに耐えなければいけない。果たして鎌瀬がそういった状況で、彼は今にもその場で嘔吐しかねない状態であった。
金網をヒタヒタと歩き、十田が鎌瀬に近付いていく。その姿は無慈悲な猛獣が獲物に向かっていくようで、全く迷いというものが無い。
鎌瀬は腹を抱えながら背を向け、そのまま走り出した。こうなったら恥も外聞も無い。ここで勇敢に立ち向かえばたちどころに十田の餌食となる。そうなるぐらいなら、敵に背中を向けてでも逃げ回って回復の時間を稼いだ方が良い、そう判断したのだろう。
十田は走りもせずに鎌瀬が逃げた方向へゆっくりと歩いて行く。そんな延命行為は無駄だと言いたげに、構えもしないで余裕たっぷりに追い詰めていく。
逃げ回って先ほどのダメージが回復したのか、鎌瀬は再びファイティングポーズを取った。闘志をつくろった目には、必死さと恐怖が同居していた。
「うおおおお!」
鎌瀬は雄叫びを上げながら十田の方へ走って行った。恐怖を振り切り、特攻隊を思わせる捨て身の攻撃を断行した。鎌瀬は走りながら、今度はオーバーハンドの右フックを放った。クロールと同じ軌道で放たれたパンチは、逆転の一太刀を浴びせるため、十田の顔面へと接近していく。
その時、鎌瀬の視界は真っ暗になった。右フックよりも前に、十田の左ストレートが鎌瀬のアゴを打ち抜いていた。
一瞬だけフリーズした鎌瀬に、追い討ちの右フックが返される。典型的なサウスポースタイルの攻撃方法だが、その二発は鎌瀬の意識を断つのには十分だった。
ナックルがアゴにめり込み、金網の中には鎌瀬の血と歯が飛び散る。鎌瀬の身体はドサリと音を立ててキャンバスに打ちつけられ、そのまま動かなくなった。
会場には歓声とも悲鳴ともつかない声があちこちから響き渡る。先ほどまで薄笑いを浮かべていた十田は物寂しい顔で動かなくなった鎌瀬に背を向けた。歓喜や阿鼻叫喚の坩堝で、レフリーは十田の腕を上げた。
「勝者、十田三郎!」
会場には再び肉声の波が巻き起こる。何も知らない人間が見れば、なぜ観客達がこれほど熱狂しているのか想像もつかないだろう。
――ここで行われているのは非合法の地下格闘技だった。この格闘技は池袋界隈で会場を転々としながら、密かにその歴史を紡いできた。二人の男が古代のボクシングに倣いバンテージだけを拳に巻いて闘う競技で、その勝敗に付随した金銭的な賭け事も行われてきた。古代ギリシアではこれと同じ形式で、奴隷同士が生命を賭けて闘ったが、西ローマ帝国が滅びるとともに競技は歴史からその姿を消していた。彼らは千五百年以上も後に同じ競技が行われている事を予期出来たのだろうか。
闘っている選手や観客達はいずれも「訳アリ」の人間で、借金が返せなくて逃げて来た者や暴力団と揉め事を起こした者、凶悪犯罪者など、会場は日陰者の坩堝となっていた。たまに警察に発見され、その度に参加者達が芋づる式に逮捕されるのだが、現在に至るまで首謀者は逮捕されておらず、また誰がそれなのかを知る者はいないとされている。
十田三郎もその日陰者の内にいる一人であった。元々前途有望なプロボクサーであった彼は、多くの同類がそうなるように自身の才能とキャリアを棒に振った。犯罪に走りがちな十田に、初めの頃は関係者も大目に見ていたが、日を追うごとに彼の粗暴ぶりは増していった。
気付けば十田の周囲に見方などいなく、孤立した彼は失意すら感じずにボクシング界から去っていったのであった。それでもファイターの性なのか、十田は地下格闘技を生業として生きている。元々どこかで正社員など務まるはずもなく、やっと仕事を得ても初日に上司を殴っては解雇の繰り返しであった。
ある日地下格闘技に身を置き、そこの居心地が良いとは言えないまでも、まだ飢え死にするよりはマシだ。なんだかんだで十田はこの場所に留まり続ける事になっていた。
試合が一段落し、十田は山中と控え室にいた。山中は十田のマネージャーの役割を受け持っていた。
「ご苦労さん、これが今日のファイトマネーだ」
山中は十田に金が入った封筒を手渡した。十田はそれを見て小さく舌打ちをする。
「こっちは命懸けで闘ってるっていうのにシケた金だな」
「仕方ない。お前が試合をあっさり決めすぎるんだから賭けが成立してねえんだよ。稼ぎたかったらもっと危ない場面でも創り出す事だな。それがプロってもんよ」
山中は悪びれずに言った。
「やかましい、八百長なんぞはどこかの三兄弟だけにやらせとけ」
「なあ、ここは強ければいい世界じゃないんだ。このままじゃお前の仕事はなくなるぞ」
「あんなクソ弱い相手にどうやったら苦戦出来るんだよ。ウサギの方がまだ善戦するわ」
十田は金を懐に仕舞い込むと、さっさと身を翻して去って行った。錆びついたドアは乱暴に閉めらて鈍い音を立てた。
「それと」
十田はすぐにドアを開いて言った。
「もうちょっと大きな大会みたいなのは無いのか? 出場選手に金が入ってくるような、でかいのだ」
「残念ながら無いね、今は家でぐらついた演技の練習でもするんだね」
山中が肩をすくめて言った。十田は無言でドアを強く閉めた。
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