8 お料理の秘密
楽しい時間というものは、あっという間に過ぎてしまう。
ジーナはそれを痛感していた。
街を歩いて、お店を覗いて、カフェに寄って。気が付いたら、夕暮れ時となっていた。
皆の足は学校の方へと向かっている。もうこの夢のような時間はお終いだ。
途方もない寂寥感を抱えて、ジーナの足取りは重くなる。まだ帰りたくないな……、と、視線を横に逸らした時だった。
建物の狭間に、その姿を捉えた。
「え? ベルヴァ……」
一瞬だが、ジーナは確かに見ていた。寮室にいるはずの黒犬を。
その姿は奥へと消えていく。
「どうしたの? ジーナ」
「今、ベルヴァがいたの」
不思議な胸騒ぎを覚えて、ジーナは路地へと足を踏み入れた。今、確かにベルヴァと目が合った。彼の赤い瞳は何かを訴えているような光を湛えていた。
狭い路地の奥は、開けた空間となっている。閑散としていて薄暗い。ベルヴァの姿はなかった。
どこに行ったのだろう、とジーナは視線を漂わせる。
と、その直後。
上から何かが降ってきた。
「え……? きゃっ」
白銀色の影が2つ。ジーナに跳びついた。影に押し倒される形で、ジーナは転んでいた。四足歩行の獣だ。視界に凶暴な形相が飛びこむ。咄嗟に目をつぶった。恐怖に支配され、体が動かなくなる。
しかし、それ以上のことは何も起こらない。
その影はまた跳び上がり、ジーナと距離をとった。
「ジーナ、大丈夫か!?」
「シスト様……。は、はい」
駆けつけてきたシストがジーナの肩を抱く。ジーナは呆然と答えた。転んだ時に、脚と掌に擦り傷ができていた。それ以上に怪我はない。引っかかれたり、噛み付かれたりはしていなかった。
思った以上に軽傷だったことに、ジーナはホッと息を吐く。しかし、シストはジーナの姿を見て、眉を潜めた。その瞳に激情をたぎらせて、獣たちを射抜く。
ジーナも目線を上げて、その姿を捉えた。
獣――いや、それよりも大きい。こんな姿の動物は今まで見たことがない。
「『ガルム』……!? こんな街中に!?」
後ろからヴィートが声を上げる。それでジーナは理解した。目の前の獣が、魔物であることを。
ガルムたちは口に何かをくわえている。見覚えのある包装にジーナはハッとする。今日、シストやクレリアのために焼いて来た菓子だった。
ガルムはそれを一心不乱に食べている。
「ジーナ、大丈夫!?」
「聖女、ジーナの怪我を見てもらえるか」
クレリアにジーナの身を預け、シストは立ち上がる。
ジーナは呆然とガルムたちを眺めていた。クレリアも息を呑んでいる。
2人の少女の前に、ヴィートとシストが立つ。
「殿下。お下がりください。俺が相手をします」
「待て……様子がおかしい」
シストが告げた直後。
変化は起こった。
ガルムが唸り声を上げる。苦しそうに首を振った。その直後、魔物の体が淡い光をまとう。体が巨大化していく。頭からは鋭い角が生えた。姿がより凶悪なものと変化していく。
「これは……」
「進化した……?」
ガルムの上位魔物――『ハイ・ガルム』だ。
ヴィートが顔色を変える。
鋭い声で叫んだ。
「殿下、危険です! 彼女たちを連れて、お逃げください!」
緊迫感のある口調だった。それほどまずい状況なのだとジーナは悟る。
ヴィートは皆を守るように立ちはだかる。そして、迷わず魔物へと飛び出していった。跳躍しながら詠唱。彼の手の中に光が生まれる。それは細長く変化し、一振りの剣を作り出した。
『土』属性の魔法――『武器錬成』。魔物や魔族に有効となる、魔法金属製の武器を作り出す技だ。彼は流麗な動作で魔物へと斬りかかる。
刃が魔物の肉体を斬り裂いた――かに見えた。だが、その傷は浅い。ハイ・ガルムの肉体は鉱石のように固く、それ以上に刃が入らないのだ。ヴィートが目を見張る。直後、ハイ・ガルムが彼に突進した。
ヴィートの体が吹き飛ぶ。石畳に勢いよく叩きつけられた。
ジーナとクレリアは、青ざめた顔で叫ぶ。
「ランディ様……!」
「無茶です……! 『ハイ・ガルム』は王宮魔道士でも苦戦するほどの上位種……ランディ様、おひとりでは……!」
遅れて、恐怖がジーナの体に染み渡る。
(どうしよう……。あの魔物……私のお菓子を食べて……)
ガルムはジーナの料理を食べた。そして、理由はわからないが、突然、巨大化した。つまり、自分のせいだ。自分があんな物を持っていたから……もし、そのせいでヴィートの身に何かあったら。
体が震える。怖くて、逃げ出したくてたまらないのに、自責の念がジーナを縛り付ける。
(私のせい……それなのに、私が逃げるわけにはいかない……)
どうにかしなくては。
何とかして、ヴィートを助けなくちゃ。ジーナはスカートの裾を握りしめ、眼前の光景から目を逸らさずにいた。
その時、ジーナの肩に誰かが優しく手を置いた。
「――お前のせいじゃない」
「シスト様……」
「あの魔物は必ず食い止める。だから、気に病むな」
言下にシストは飛び出した。倒れたヴィートの前に立つ。
「シスト様……! ダメです!」
恐怖にかられ、ジーナは叫んでいた。
『ハイ・ガルム』2体が、シストに視線を向ける。そして、一斉に襲いかかった。
シストは堂々と彼らと対峙する。そして、魔法を解き放った。
風属性――上級魔法『竜巻』。
風がうねる。次の瞬間、風が空へと突き上がった。ハイ・ガルムの体はその渦に巻きこまれる。上空へと回転しながら、吹き飛んだ。ぴり……周囲の空気がひりついたような音を立てる。かすかな雷光が周囲へと飛び散った。
きゃううん、と悲鳴を上げて、ハイ・ガルムの体は地面へと叩きつけられる。
彼らは起き上がり、すかさず身構える。しかし、次の瞬間――シストと目を交え、魔物は耳を垂らした。怯えるように後ずさる。
ハイ・ガルムたちは跳躍して建物の屋上へと。そのまま姿を消してしまうのだった。
+
ヴィートは地面に手をついた姿勢で、一部始終を見守っていた。突風が止む。途端に穏やかな風へと変化し、ヴィートの頬を生温かく撫でていった。
彼は唖然として、シストの姿を見上げる。
その時、ヴィートはかすかな違和感を覚えていた。今の上級魔法は――通常の魔法とは何かがちがっていた。だが、ヴィートの属性は土だ。風属性には詳しくないので、その差が何であるのかわからなかった。
(それに……今の……見間違いだろうか……)
困惑して、ヴィートはシストの顔を見る。
(今……シスト殿下の目が一瞬、赤く……?)
だが、もう一度確認してみれば、シストの目はいつもの碧眼へと戻っているのである。
――気のせいだろうか、とヴィートは首をひねる。
+
彼らの姿を、ベルヴァは高所から見下ろしていた。
牙を剥き出して、唸り声を上げる。
ハイ・ガルムたちが跳躍して、屋上へと戻ってくる。先ほどまでの凶暴さは鳴りを潜め、尻尾を丸めている。きゅーん……と、彼らは鳴いた。まるで『うわーん、怖かったよう!』と言わんばかりの声だった。
「おい、コラ、鳴くな! でかい図体で情けねえな!」
と、前足を床に叩きつけて、怒鳴りつける。
ベルヴァは忌々しそうに顔を逸らす。視線を、眼下へと向けた。
ハイ・ガルム2体もいれば、騎士の男を確実に殺せると踏んでいた。実際、その読みは間違っていなかった。
誤算はただ1つ。
シストの存在である。
もちろん、ベルヴァは彼の戦闘能力についても計算に入れていた。その上で、『彼は戦力にはならない』と踏んでいたのだ。
だが、その予想は大いに外れた。
ベルヴァは確信していた。
(…………魔法決闘の時に見えた、あいつの魔力。あれはやはり見間違いじゃなかったということか)
フィンセントとシストの魔法決闘の時。
ベルヴァは彼の魔力を覗いたのだ。そして、信じられない光景を見た。
矮小な魔力量に偽装された、膨大な魔力。
――封印魔法がかけられている。結果、彼が自分の意志で引き出せる魔力は、ほんのわずかしかなかった。
シストの中に眠る『謎の力』。
それが何であるのかまでは、ベルヴァでも図り知ることはできなかった。
(誰が、何のために小僧に封印をかけた……?)
ベルヴァは目を細める。
+
「ジーナ。怪我は大丈夫か」
シストに声をかけられ、ジーナは我に返る。
「はい。ありがとうございます……。シスト様の方こそ、お怪我はありませんか」
「俺は平気だ」
ヴィートが目を見張って、声を上げる。
「すごいじゃないですか、殿下……。まさかここまで殿下がお強くなられているとは」
シストは複雑そうな表情で、目を逸らす。そして、ぽつりと呟いた。
「……上級魔法。初めて使った」
「はい……!?」
「やはり魔力が増えている」
「それって、やっぱり……。そして、さっきの魔物、食べてから強くなりましたよね」
「ああ」
2人の視線がジーナに固定される。
「ジーナの料理には、不思議な力があるのかもしれない」
厳かに告げられた言葉に、ジーナは目を丸くした。
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